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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

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ライヴ・コンサートのお知らせ

松峰綾音 ライヴ・コンサート・イベントのお知らせ
                     (2020. 4. 8 現在)
                                                               (通常のブログはこの下の記事から始まります)

  <コンサート延期のお知らせ>
 月の庭 vol.8 『月光微韻』
 無念ではありますが、この非常事態にあって、6月5日、 7月5日、両公演の開催を延期することと致しました。
 京都、横浜の同会場にて別途日程を調整中です。
 決まりましたら、お知らせ致しますので、どうぞお楽しみにお待ちください。
 すべてが収束して、穏やかで平和な日常が一日も早く戻ってきますように。
 どうぞくれぐれもご自愛なさってお過ごしください。

              
  
   松峰綾音 月の庭
     『 月 光 微 韻 』
         シャンソンと朗読のひととき  Vol.8

    
<2020年 6 月>  開催延期 日程未定

   
 旧日本銀行京都支店、辰野金吾氏設計の重要文化財で、威風堂々とした趣の近代建築、「京都文化博物館別館ホール」でのコンサートです


     訳詞 歌 朗読 松峰綾音   ピアノ  坂下文野
     日時  2020年6月5日 (金) 開場17:30 開演18:00                  
     会場  京都文化博物館別館ホール             

京博1 京博2

  <2020年 7 月> 開催延期 日程未定

   コンサートツアー、初の横浜公演です。

      
訳詞 歌 朗読 松峰綾音     ピアノ  三浦高広
        日時  2020
7月5日(日)  開場13:30  開演14:00 
        会場  岩崎博物館 山手ゲーテ座ホール

     

岩崎博物館2

   お問合わせは、いずれも管理者のメール(ブログ左下)、または WEB のコンタクトからお願い致します。  

 詳細は、順次ブログにてお知らせして参ります。
 

 

 コンサート 2019年そして2020年へ(2019.12.19)
  『月光微韻』 横浜公演 (2020.2.9)
      

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夕焼けのトラック

 自分で訳詞を作り始めてからもう15年になりますが、出発当初、かなり気負って、これからは自作のシャンソン訳詞だけを歌おうと心に決めていました。
 かたくなな矜持でしたが、でも、これまでその決意はまだ破られていなくて、コンサートやいくつかのイベントでシャンソンを歌う時には、今も自作の曲に徹しています。

 もちろん、シャンソンを習い始めた頃は、先生から勧められる色々な曲を習い歌っていました。
 当時、シャンソンの名曲と言われるものを一生懸命練習しましたが、15年間、一度も歌っていないので、もう忘れてしまった曲もあり、ちょっと残念な気もします。

 昔の懐かしい譜面を整理していたら、シャンソンの初めての発表会のことを思い出しました。
 今日はそんな思い出をお話したいと思います。

   カルーゾを歌った日
 11月の夕暮れ、海岸沿いのレストランの窓に、空と海が朱に染まっていくのが映っていました。

 バイパスの渋滞で、車が速度を緩めます。
 ヘッドライトと夕焼けが混ざり合って、時折眩しく窓に射すのを見つめながら、ステージに立っていました。
 湘南バイパス沿い、七里ガ浜の海に面した全面ガラス張りのレストランで、初めて人前でシャンソンを歌った日のことでした。
湘南海岸夕日
 往年の名テナー、ナポリ出身のオペラ歌手エンリコ・カルーゾ( Enrico Caruso )、彼の愛と死を歌った「カルーゾ(Caruso)」というドラマチックな大曲があるのですが、これに向う見ずにも挑戦した初舞台でした。

 カルーゾが死にゆく時、愛する女性に最期の思いを語る曲です。
 日本でも人気の高い名曲ですが、イタリアのシンガーソングライター、ルチオ・ダルラが歌い、また、パヴァロッティの名唱でもよく知られています。

 カルーゾは公演先のアメリカから病気のため故郷ナポリに戻り、48歳の若さで亡くなりましたが、最期の時をナポリ湾に面するソレント半島のホテルで過ごしたということです。

 カルーゾが窓に映る夜の海を見つめながら、最愛の人に永遠の愛を歌い上げるその名場面、

   お前を愛した 死ぬほどに愛した
   この固い絆は 誰にも断ち切れない


 初舞台の緊張感も忘れ、主人公に感情移入をして、うっとりと夢み心地だったことを覚えています。
 レストランの窓から見える夕暮れの海はしっくりと歌にはまり、もうすっかりナポリにいる気分でした。

目を遠くの海に移したその瞬間、真正面の窓に、信号で停まった大型トラックのドライバーと目がしっかりと合ってしまいました。
 運転席の座席が、私の立つステージとちょうど同じ高さだったのでしょう。
カルーゾ
 真っ赤なドレスを着てスポットに照らされて熱唱する私と、それを囲む華やいだ客席の様子は、何だ?何だ??という感じだったのに違いありません。
 物珍しそうにじっとのぞき込む目とぴたりと合って、今でもその表情まで覚えています。
 いかにもトラック野郎という感じの精悍で、でも優しそうな方でした。

 海の色が刻々と夕闇に溶け込んでいました。
 波の向こうに遠く、薄く白い三日月が上り始めていたのも目に入りました。
 トラックのドライバーさんは、「頑張ってるね!」って言っているような笑顔を浮かべてこちらに手を振ってくれました。
 私も目で答えて、我ながら自分のこの初舞台は、なんてかっこいいのだろうなどと自画自賛。
 出来はというと、実はカルーゾを歌うこと自体が無鉄砲だったに違いないのですが、でも、この時の思い出は今でも忘れがたいのです。

 ここから私のシャンソンはスタートしました。

   訳詞以前
 当時、高校で教鞭を執っていて、寝食を忘れるような仕事三昧の生活をしていました。
 やりがいがありましたが、それにしても、少しは気分転換も大切かと思い始めていた矢先、シャンソンに夢中だった叔母に誘われて、半ば強引に引き込まれたのが始まりでした。

 何か知っているシャンソンを歌ってみて、と初めてのレッスンで言われたのですが、レパートリーは何もなく、聴いたことのあるのは『愛の賛歌』くらいでした。

 先生は「それはスタートとしては却って良いことです」「声が綺麗でシャンソンに向いている」とおっしゃって下さり、なんだか嬉しくなっているうちに一度だけの体験入学のつもりがいつの間にか習うことに決まっていました。
 今もって続いているシャンソンとの縁の始まりだったのです。

 先生の教え方は、まずお手本に歌うご自身の歌を録音してくださり、それをひたすら覚えこむ様にという和事の口伝のようで、下手に楽譜を見てはならないとも言われていました。
 当時は、忠実に丸ごと真似する習得の仕方をしていました。
 先生はハスキーな低音で声そのものにシャンソンらしい哀愁がありました。
 私はその対極で、しかも今よりもかなり細い高音域で歌っていたので、実は、いくら真似をしても全く違う歌に仕上がってしまうのです。
 でもだから工夫もしたので、結果的にはよかったのかもしれません。

 入門して10か月目に初めての発表会があり、それがこの「夕日の中のトラック」との遭遇だったわけです。

 それぞれの曲に、色々な思い出と時間が込められていて、ふと蘇ってくる情景があることをあらためて感じます。

 警戒宣言が解除されたとはいえ、都会ではまた患者数が増加して、思うように歌うことが叶いません。家にいる時間に、昔の楽譜やアルバムを整理していたら、シャンソンを習い始めた頃の思い出がよみがえってきて、今日のブログを書いてみましたが、改めて振り返ってみると、なんて気負っていたのだろうと少し気恥しくなりました。

 また安心して聴いて頂ける日が来ることを願いながらできる準備をしていきたいと思っています。


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バーモントからの便り

   お地蔵様とマリア様
 京都の自宅のすぐ近く、ビルとビルとのすき間にお地蔵様が祭られていて、早朝散歩に出かける頃、近隣の方がたいていお水やお花を取り替え、手を合わせているのに遭遇します。
お地蔵様
 お地蔵様のほうがずっと前からあり、そこにたまたまビルが建ったのでしょう。ビルの窪みにはまり込む様に、そっと残したのだと思われます。

 近くの錦市場の商店の方たちもこの前を通るとき、一様に手を合わせていて、時としては小さな花挿しに溢れるくらいたくさんお花が飾られていたりします。
 道端の小さな信仰はこのような時代でも変わらず生き続けていて、きっとご来光を仰いだり、お天道様を見上げたりするのと同様の自然で柔らかい想いなのだと感じます。

 今朝、お地蔵様の前を通った時、なぜか突然、ニューハンプシャーの道端にマリア像があったことを思い出しました。
 大きな教会に安置されているのではなく、お地蔵様のように何気なく路傍にあって道行く人を見守っている像。
マリア像
 以前米国ボストンで暮らしていた頃、友人を訪ねて、バーモントへのドライブする道すがらのことでした。

 当時の写真が残っていました。
 メープルの並木が一斉に黄葉してとても美しい景色、何気なく目に飛び込んできたマリア像が印象的でした。
 お花がたくさん供えられて、日本のお地蔵様、道祖神と同じなのだなと感動したのを思い出します。

 難しいことを祈祷するのではなく、日々の無事に感謝してただ手を合わせるだけ、それが似合う気がしました。

   バーモントからの便り
 以心伝心だったのでしょうか?
 そんなことをふと思っていたら、そのバーモントの友人Kさんから長いメールが届きました。

 彼女はあれからずっとアメリカで教鞭を執っていて、今はバーモントにあるミドルベリー大学で素晴らしいキャリアを重ねています。

 コロナ禍の中にあってアメリカは感染者数も格段に多いですし、どうしているか、いつも心配でなりませんでした。

 昨年の6月の清水寺でのコンサートにはご主人、ご主人のお兄様ご夫妻と共に、わざわざアメリカから駆けつけてくれました。
 お兄様たちもご主人も日本語があまりわからないのに、満席の中に身を寄せ合って、じっと熱心に耳を傾け聴いて下さっていました。
 その後、皆で和気あいあいと食事をしたことが、遥か昔の夢のような気がします。
 ああいう日がまた戻ってくるのでしょうか。考えると胸が痛くなります。

 現在、Kさんの大学も休校で、かなり前からオンライン授業になっているようですし、厳しい自粛生活を余儀なくされている様子が手に取るようにわかります。
 毎年、お嬢様と共に、ご実家に帰省されて、そのタイミングで私も年に一度、七夕様みたいに浮き浮きとお会いしていたのですが、それも今年は叶わなくなりました。
 地球の向う側で、皆それぞれ頑張っていることへのエールを込めて、ここに抜粋しながらご紹介したいと思います。

 ご連絡ありがとうございます。ご無沙汰しております。
 夏帰省のための日本への切符、ぎりぎりまで待っていましたが、泣く泣くキャンセルしなければいけませんでした。

 私も去年の京都旅行の写真を見ながら、懐かしく思っていました。大変お世話になり、ありがとうございました。今このような状態にいると、あの時の一つ一つの思い出がいとおしい奇跡のように思われます。

 三月のボストンでの学会は中止になり、大学は春休みを一週間早めて学生をキャンパスから出させて、普段より一週間長い二週間の春休みの後、オンライン授業に切り替わりました。西海岸やアジアに帰った学生もいたので、授業時間も増えたり変更になったりと、テクノロジーの面でも慣れないことばかりで六週間の授業とその後の試験期間を無我夢中で駆け抜けた感じです。その後も秋の準備のための会議とワークショップがZoomで続いています。

      ・・・・・・・・・

 バーモントは人口も少ないこともあり、比較的恵まれたほうだと思います。それでも、スーパーへは週に一度、なるべく人の少ない時にと、店が開く午前7時ごろマスクをして、それでもドキドキしながら行っています。天気がいい日は、ガーデニングをしたり、近くを散歩、ハイキング、自転車などと、あまり人に会わずに外に出られるのはありがたいです。

 大学は(恐らく経営面から考えて)学生達をキャンパスに迎え入れることを決めたのですが、秋の授業形態は先生方一人一人選べることになりました。私は、春学期後半の大変さを思い出すと迷う部分もあるのですが、安全面を考慮して今のところ、8月までの時間を使って準備を進めて、なるべく遠隔でやりたいと考えています。
   ・・・・・

 この後、一人娘のYちゃんの近況が綴られていました。
 Kさんとはボストンで短い間でしたがルームシェアしていたこともあり、ご主人との出会いも知っていますし、お二人の結婚式にも立ち会いました。
 現在まで変わらない親しいお付き合いの中で、Yちゃんは生まれた時からずっと見てきましたので、なんだか自分の血を分けた肉親、娘のような気持ちがします。

 幼いころから聡明な女の子で、現在はハーバードの大学院で公衆衛生学を習得し、世界に貢献しようと新たな旅立ちの時に立っています。
卒業式
 奇しくも、私とKさんが出会ったのもハーバード、いつの間にか長い年月が経ったのだなと思います。
 この6月がYちゃんの大学院の卒業式でしたが、コロナで通常の卒業式ができず、オンライン卒業式となったそうです。このお便りの最後に載せてあったYouTubeを早速見ましたが、卒業生一人一人の名前が呼ばれ、それぞれの写真が公開されています。
 赤ちゃんの頃から見てきたYちゃんの凛々しく成長した、でもいつもの可愛らしい笑顔がモニター一杯に映し出され感無量でした。
最後に卒業生たちが旅立ちの歌をオンラインでそれぞれ合唱し、それが美しい一つのハーモニーとなって流れました。

 Yちゃんに、そして卒業生の皆さんに、こんな状況だからこそ、更に幸多い出発となってほしいと心から祈ります。

   おまけのお話
 自粛生活の中で頑張っている彼女に陣中お見舞いと思い、京都の美味しいもの便を色々詰め合わせて、勢い込んで郵便局に持っていきました。
 早くて確実なEMS便でいつも送っているのですが、窓口で「アメリカ便をお願いします」と出したところ、受付の女性は「ちょっとお待ちください」と奥に引っ込んで何やら調べもの。戻って来られると「現在アメリカ宛ての航空便はすべて受け付けていません。船便でよろしければ。でもこの時期ですので、船便も3~4か月??・・・何か月かかるかは保障の限りではありませんが」と言われてしまいました。
 しばらくこのままにして、航空便解禁の日を待とうと思いますが、うかつにも、この事態は想定していませんでしたので、本当にびっくりです。
 皆様も外国便を発送する場合には、事前情報を収集なさってくださいね。

 いつもなら何気なく行っていることも、こんな風に滞ってしまうのですね。
 コロナが世界を包んでいることを改めて実感します。

 早く落ち着きますように。




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心に残ることば

   ご遺族のことば
横田滋
  6月5日、横田滋さんが亡くなられました。
 めぐみさんが拉致されてから43年間にわたる救出活動、途半ばにしてのご逝去は、無念いかばかりだったことでしょう。

  翌日のご遺族の記者会見、滋さんの人となりやご家族の皆様の絆の深さは、以前読んだご著書や講演会や映画などでもよく知っていましたが、改めて、語られる一言一言に深い感銘を受けました。
  情愛に満ちた、そして芯の通った確かな品格をご家族の皆様から感じましたし、記者質問も、そのエピソードやご家族の思い、歩まれてきた軌跡についてが中心だったように思います。
 
 滋さんがいかに秀逸な方だったかを導き出すような質問に対して、弟拓也さんがお答えになった言葉が心に残りました。

 「そうではなく、自分たちはごく普通の家族であり、父もまたそうだったのではと思います。」「娘が理不尽にも連れ去られた人の親であれば、誰だって同じことを思い、同じことをしていたのではないでしょうか」「これは横田家の問題なのではなく、日本の家族の誰しもがこうなったかもしれないという、自分の子供が、親が、兄弟が、同じ状況に遭遇したらどうなのか、誰でも同じ可能性があったことを思い、国全体が自分の事として、この大きな人権蹂躙について考えて頂きたいと思うのです」

 マスメディアも大局を見据える巨視的な観点から揺るぎなく問題を取り上げ伝え続けてほしいという強い要請を率直に述べていらっしゃいました

 国家を論じる一大事も、芸能人のゴシップネタも同じ溯上で話題性だけを追うようなワイドショー感覚に、マスコミも乗りがちになっている昨今への警鐘でもあるように感じました。

 滋さんの43年間はまさに、そのような大きな問題への尽きぬ挑戦でもあったのでしょう。思いを受け継いでいく覚悟に満ちたご家族の言葉が心に残ります。


   詩のことば
 石垣りんさんの『時の記念日に』という詩。
 以前から知っていましたが、今回心惹かれるものを感じ、改めて読み直してみました。

  私たちが一日のうちに 一番たくさん問いかけること
石垣りん  いま 何時?
  自分に向かって 周囲の人に向かって。
  それはたやすく答えられる
  時計さえあれば
  ちいさな子供でも答えられる。
  単純明快な時刻というもの
  自分も他人も信じて疑わないもの
  これほどかたちのない 
  これほど正確なものが存在するだろうか。
  しかもなお 限りなく尋ね続ける
  生きている命の この一瞬
  いま、何時?

 先の横田さんのお話もそうですし、コロナの脅威の中での昨今、「いま 何時?」と、生きていることを問われている気がします。

   店長のことば
 コンサートの時に着用するステージドレスを探すのはなかなか大変で、折に触れ、いくつかのお店を見て回ったりしています。
 そんな中のお気に入りの一つに「イソリ」があります。
 今はこんなご時世ですから、コンサートライブは軒並み見合わせ、ドレスショップも休業中のお店が多いのですが、先日、イソリのネットを見ていましたら、こんな記述がありました。
 
 店舗での接客は不可能と結論いたしました。
 日々ご来店される人々と商品の安全を、どのように確保できるのか検討した結論です。
 マスクや換気、動線で安全確保できる部分もあります。
     ・・・・・
 一番の課題は試着後のドレスを次の試着までに安全なものにすることの難しさです。
 直接に素肌が触れる商品にもかかわらず、試着の度に一着ずつ消毒液を吹きかけや洗濯はできません。
 それが連日続き1週間で相当数になります。
 昨日試着されたドレスを今日着ていただく訳にはまいりません。
 ドレスショップ毎の考え方だと思いますが数を販売できればいいということではないのです。
 
 音楽はかけがえのないもの、ドレスは素敵なステージの成功の一助を担うもの、こういう時だからこそ、コンサートを側面から応援せねばというオーナーの気概が溢れていて、仕事への矜持とはかくあるべしと、とても感銘を受けたのでした。
 当面はネットで動画を配信し、品物を詳細に紹介することによって、お店に来られたと同様の感覚で販売していくとのことです。
 早くコンサートを再開できますように。


   社長のことば
 新聞で読んだ話。
 私も昔使っていた新潟の大手暖房機器メーカー「コロナ」の社長が、社名に心を痛めている社員の子供に向けて、送るという手紙。

 もし、かぞくが、コロナではたらいているということで、キミにつらいことがあったり、なにかいやなおもいをしていたりしたら、ほんとうにごめんなさい。 かぞくも、キミも、なんにもわるくないから。
 わたしたちは、コロナというなまえに、じぶんたちのしごとに、ほこりをもっています。キミのじまんのかぞくは、コロナのじまんのしゃいんです。


 社員や家族を勇気づけるために、2300名の全社員にこのひらがなの手紙を送ることにしたそうです。石油コンロの青い炎と太陽の周囲に現れるコロナのイメージをあわせた「コロナ」がここにありました。


   友人のことば
 平凡であること、普通であることに徹するのは至難なところだが、ふつうの「日常」にこそ「生の充実」がある。

 友人がポツリと口にしたことば、しっかりかみしめたいと思います。




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『雨傘』

訳詞への思い
 今朝、額紫陽花が咲いていました。雨の季節がやってきますね。
アジサイ
 一昨年の『雨の日の物語』を思い出します。
 雨の歌、小説、詩をたくさん集めた、雨尽くしのコンサートでしたが、この時発表したZAZの『La pluie』を今日はご紹介してみます。

      『雨傘』
                        訳詞への思い<34>

   『La pluie』
 ZAZ・Ker-Eddine Soltani作詞、Vivian Roost作曲。
zaz
 ザーズ(ZAZ)の2009年のアルバム『Academ』に収録された曲である。

 原題の『La pluie』は「雨」という意味だが、私は『雨傘』と邦題をつけた。


 まずは、原詩とその対訳の全文を記してみたい。

  Le ciel est gris la pluie s'invite comme par surprise 
  elle est chez nous et comme un rite qui nous enlise 
雨の巴里  les parapluies s'ouvrent en cadence 
  comme une danse,
  les gouttes tombent en abondance
  sur douce France.

   空は灰色 雨が突然 降ってくる
   雨は私たちのところにやってくる 
  身動きできなくさせるように
   雨傘は調子を合わせて一斉に開く ダンスみたいに
   雨のしずくが豊かに落ちてくる  優しいフランスの上に

  Tombe tombe tombe la pluie 
  en ce jour de dimanche de décembre
  à l'ombre des parapluies
  les passants se pressent pressent sans attendre 

   降る 降る 降る 雨が
   12月の日曜日のこの日に
   雨傘の影に隠れて
   通行人たちは行き過ぎる 行き過ぎる 行き過ぎる 立ち止まることなく


  On l'aime parfois elle hausse la voix elle nous bouscule 
  elle ne donne plus de ses nouvelles en canicule 
  puis elle revient comme un besoin par affection 
  et elle nous chante sa grande chanson
  l'inondation 

   私たちは雨を愛し 雨は音を立てて勢いよく降ってくる
   雨は猛暑の時には何の便りもよこさないのに
   必要な時には戻って来て 私たちに大仰な歌を歌う
   洪水の歌を
  
                 (松峰 対訳)

 というのが原詩の全文で、あとは次のリフレインが何度も繰り返される。
   降る 降る 降る 雨が
   12月の日曜日のこの日に
   雨傘の影に隠れて
   通行人たちは行き過ぎる 行き過ぎる 行き過ぎる 立ち止まることなく

 勢いよく降る雨を、大地の恵みとし明るく享受する歌だ。
 一斉に傘が開き、足早に雨の中を急ぐ人々の様子が鮮やかで、色とりどりの傘の花がクルクルと街に広がってゆくのが見えてくる。

   『雨傘』
 リフレインの心地よいリズム感と、シンプルで大地の香りのする内容に惹かれて、この詩を『雨傘』と名付けて訳詞したのだが、花開く傘の中に小さな女の子がいても良いのではと思い、原詩にない赤い傘の女の子を登場させてみた。2番の詩である。
傘
 赤い傘 雨の中で 踊っている
 女の子 雨の中で 歌っている
 行き交う人 急ぎ足で 通り過ぎる
 力強く 勢いよく 大地を叩く

 tombe, tombe, tombe la pluie
 雨が降る 降り続いていく
 踊る 踊る 傘が踊る
 パリの街 優しく包む
 tombe, tombe, tombe la pluie
 恵みの雨 心を濡らす 
          (松峰 日本語詞)


 一つ一つの傘の中に、それぞれの物語があり、少女の楽し気な鼻歌には、真っ赤な傘が良く似合う。

 tombe, tombe, tombe la pluie =「トンブ トンブ トンブ ラ プリュイ」
 曲の肝はこの繰り返し。雨が降るのが見えてくる。

   「あめ あめ ふれふれ」~連想される雨の歌諸々~
 同時に、いくつかの雨の歌と、その情景が浮かんできた。

  「あめあめ ふれふれ かあさんが じゃのめで おむかえ うれしいな
  ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」

 北原白秋作詞、中山晋平作曲、『あめふり』(大正14年)という童謡である。
 まさに、「 tombe, tombe, tombe la pluie」なのであるが。
 この歌詞は、実は、5番まであって、歌詞の中の男の子は、雨に濡れて独り木の下で泣いている子を見つけて、自分の傘を差し出す。
 「ぼくならいいんだ かあさんの おおきなじゃのめに はいっていく
 ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」と締めくくられる。
 心優しい男の子の歌だが、斜に見れば、かあさんに甘えられる幸せを見せつけているとも取れないことはない。

 北原白秋は、これとは別に『雨』という童謡も書いて、これも良く知られている。こちらは少し物悲しい曲調で「雨がふります 雨がふる」と始まる。

  雨がふります 雨がふる  遊びにゆきたし 傘はなし
  紅緒(べにお)の木履(かっこ)も緒(お)が切れた
  雨がふります 雨がふる いやでもお家で 遊びましょう 
  千代紙 おりましょう たたみましょう
  雨がふります 雨がふる

 という調子でずっと続き、「昼もふるふる 夜もふる 雨がふります 雨がふる」と終わる。

 「いやでもお家で遊びましょう」という所はまるで今の家籠り生活みたいで思わず苦笑してしまうのだが、「tombe, tombe, tombe la pluie」が日本的メロディーにアレンジされて根底に流れている。
 ちなみに、「遊びにゆきたし 傘はなし」に、井上陽水の『傘がない』が思い出された。
  「行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ 君の町に行かなくちゃ 雨にぬれ
  つめたい雨が 今日は心に浸みる
  君の事以外は考えられなくなる それはいい事だろう?」

 「雨が降って、傘がない」のは、学生運動の挫折というこの時代の喪失感と虚脱感の象徴のようにも思われるが、白秋の「雨」は童謡でありながら、そういう薄暗がりのような雰囲気を予見しているようで興味深い。

 最後にもう一曲。
 矢代亜紀のヒット曲『雨の慕情』(昭和55年阿久 悠作詞)もやはり「tombe, tombe, tombe la pluie」の仲間。
  「雨々 ふれふれ もっとふれ 私のいい人 つれて来い」
 演歌風な味付けの中で供された曲と言えるかもしれない。


 様々に飛躍してしまったが、これからの季節、雨が降り続ける様子、雨音に、
 音楽と物語を聴き取る感性を磨いてゆけたら楽しいのではと感じている。 
                               Fin

 (注 訳詞、解説について、無断転載転用を固く禁止します。取り上げたいご希望、訳詞を歌われたいご希望がある場合は、事前のご相談をお願い致します。)

  ZAZの歌う原曲です。お楽しみください。



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『五月のパリが好き』

訳詞への思い 昔の写真、よく聴いた音楽、愛読書など、久しぶりに味わい直しています。
 写真の整理をしていると、映画みたいにその時の映像がフラッシュバックしてきますし、夢中になって読んだ本、昔々涙ぐみながら聴いていた音楽に、その時々の感情の渦みたいなものがそのまま、突然、時を超えて沸き起こってきたりします。
 この際だから、整理をと思っても、捨てるかどうかの判断は、まずは、埋もれていたものを呼び起こす作業から始まるのでしょう。
 新鮮な発見もありますし、片づけるつもりが、懐かしんでは結局そのまま仕舞い直すことの多い家籠り、時を辿りながら少し感傷的になっている私の五月です。

 7年前のパリ旅行の写真を見ていました。
 その時に作った訳詞、『五月のパリが好き』を、今日はご紹介します。


    『五月のパリが好き』

                        訳詞への思い<33>

   「さつきのきさきを」
 嘗て、カトリック系の女子校で教育を受けたこともあって、今でも聖歌(讃美歌)の数々がふと口をついて出てくることがある。
 特に、五月は「聖母マリアの月」、こんな歌を思い出す。
 (蛇足だが、当時の歌詞はすべて文語体だった。意味が分からないと良くないということで、途中から口語体に歌詞が変わったが、よくわからなくても文語のほうが格調高く、ありがたい気がしたように思う。)

  あおばわかばに 風かおりて
  せせらぎにきく 奇(く)しき調べ
  木陰に立てる とわのみはは
  御許(みもと)に行き われら憩わん


 そしてこんな曲も。

  五月(さつき)のきさきを あめつち歌う
  ひと年(とせ)めぐりて 百合咲く季節
  マリア祝しませ 祝せられませ

 
 白百合は、どの時代の《受胎告知》の絵画にも描かれているほど、ヨーロッパにおいて古くから聖母マリアと結びついた花、純潔無垢、気高さの象徴であり、そして希望に満ちた春という季節の到来を告げる花でもある。

 『千曲川旅情の歌』の「浅くのみ春は霞みて 麦の色微かに青し」ではないけれど、日本において、春の訪れは、まだ目には定かに見えていない浅春の淡い予感にこそあるのだろう。
 冷気の中に膨らむ木々の蕾であったり、残雪の中からそっと芽を出す野草であったりするけれど、フランスの春は、まさに5月、一斉に鮮やかに咲き乱れる薔薇や白百合の情景そのものである。

恋人たち
 『五月のパリが好き(J’aime Paris au mois de mai)』という曲は、アズナブールのこの曲を歌う時の佇まいと相まって、街行く女性に声をかけて歩く伊達者の曲のように思われている節があるが、実は、リラやスズランが運んでくる春の訪れ、花で溢れた美しいパリへの大らかな賛歌なのだと私は感じている。

   『J'aime Paris au mois de mai』 
 『J'aime Paris au mois de mai(五月のパリが好き)』は、シャルル・アズナヴール(Charles Aznavour)作詞、ピエール・ロッシュ( Pierre Roche)作曲、1956年にアズナブールによって歌われ大ヒットした曲である。

 日本でも「素敵なパリの街に スズランの花が揺れ リラが花咲けば」という山本雅臣氏の訳詞で良く知られていて、5月のシャンソンの代表曲といえよう。
 マロニエ
 5月の初旬から中旬にかけてのパリは、まさにマロニエの花真っ盛りだった。

 ふっくらとした白い花をつける、マロニエの並木の下に、はらはらと白い花びらが舞って、何とも言えない素敵な風情があったのを思い出す。

 その時の情景をデッサンするような心持ちで、日本語詞を作ってみた。

   J’aime この街の中 続く石畳
   どこまでも いつまでも 歩いていたいと 思う
   マロニエの木陰の道
   白い花びら 受けたら 生まれ変われる気がする
   J’aime 五月のパリは 良い  
                        (松峰 日本語詞)

  

 そして、3番の歌詞には、セーヌ川河畔の風景が描写されている。
ブックスタンド 春になると、一斉に河岸に古本の露店や水彩画家たちの姿が見られるようになる。春に誘われて、ブキニストと呼ばれる古本市が岸辺に立ち並ぶのも、この季節ならではのセーヌの風物詩でもある、
移動式露店で、いくつもの緑の大きな箱を固定し、そのふたを開くと古本屋に早変わりする仕組みになっていることを初めて知った。
16世紀の頃から変わらぬ情景が自然の風景と溶け合って、パリの春を作ってきたのだろう。そういう5月という季節のノスタルジーが描かれているのだと感じる。
セーヌ川の恋人 京都とパリは姉妹都市で、風景や街のあり方が似ているとよく言われるが、露天商こそないものの、ゆったりと流れる鴨川の河畔を散策する人たちや、腰を下ろして語らうカップルの姿など、セーヌ川岸辺の情景に重なって見える。
 河のある街は、河を抱えながら、河を中心に、息づいている。

   『五月のパリが好き』
 この旅行で出会った一人の男性がこの歌に登場してくる。
 これは原詩にはないので、勝手に私が書き加えた創作だ。
 訳詞は、本来、原詩通りに忠実に訳すべきであるが、原詩の心や風景がよりリアルに伝わるなら、あえて、イメージを自由に広げる場合があってもかまわないのではと、私は考えている。

 生き生きとしたパリの街の臨場感を伝えたかった。
一服
 早朝、街を散策していた時、お洒落な花屋の前に出くわした。
 中から色とりどりの薔薇の花束を抱えた店主らしき男性が出てきて、ウインドウに素敵にディスプレイを施し、そのあと石段に腰掛けて、大きく息を吐き、タバコに火をつけ、いかにも美味しそうに一本をふかした。
 その様子がとても爽やかで素敵で、思わず見とれてしまったのだが、どうしても留めたくて、遠巻きにシャッターを押してみた。
バラの飾りつけ
 彼は、ふっとこちらに気付いてにっこりと綺麗な笑顔で挨拶してくれた。

 その後、何気なくかわした幾つかの会話が楽しくて、頭の中で、彼を主人公にちょっと良い物語を作っていた。

 その彼が出てくる2番の歌詞は下記のようである。
                   
   J’aime Paris au mois de mai
   眩しい光の中 花屋の店先に 
   薔薇の香りが漂い 朝が目覚めて行く
   J’aime Paris au mois de mai
   腰下ろしタバコふかし カフェは賑やかに
   一日が また 始まる

   J’aime 人ごみの中 陽気な噂話
   このままで いつまでも 過ごしていたいと 思う
   街を行く 娘たちと
   微笑み交わす時 優しくなれる気がする
   J’aime 五月のパリは 良い

              (松峰 日本語詞)

  
コンコルド広場
 コロナ禍の今、パリはどんななのだろうか?
 あの男性は変わらずにいるのだろうか?

 自粛中の我が家に、いつも大好きな薔薇の花を飾りながら、懐かしく思い出している。

                                    Fin

(注 訳詞、解説について、無断転載転用を固く禁止します。取り上げたいご希望、訳詞を歌われたいご希望がある場合は、事前のご相談をお願い致します。)

  
 シャルル・アズナブールの歌う原曲です。お楽しみください。



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『ウイスキーをヴィシーに』

訳詞への思い 自宅で自粛のGW
 ウイルスが収束して、自由に動けるようになったなら、出かけたいと思う所がたくさん出てきました。
 京都市街から比較的近い大山崎の、サントリー山崎蒸留所も、その一つ。

山崎蒸留所
 

サントリーウイスキーのCMソング、「ウイスキーはお好きでしょ」

   ウイスキーはお好きでしょ
   もう少し 話しましょ


 という歌い出しで、よく知られている曲ですが、石川さゆりさんが歌って大ヒットした後、様々な歌手によってカバーされています。

 シャンソンの中でもお酒を歌った曲は色々あるのですが、今日は、「訳詞への思い」、『ウイスキーをヴィシーに』を取り上げてみようかと思います。
 

     『ウイスキーをヴィシーに』

                           訳詞への思い<32>

   『Du whisky au vichy』
 作詞Claude Lemesle(クロード・ルメル)、作曲Alain Goraguer(アラン・ゴラゲール)、1977年にSerge Reggiani(セルジュ・レジアニ)によって歌われた曲である。
セルジュ・レジアーニ
 原題の『Du whisky au vichy』は「ウイスキーからヴィシー水へ」の意味だが、この曲は既に、『ウイスキーが水に』の邦題がつけられ、高野圭吾氏の訳詞で広く歌われている。

 ただ、『ウイスキーが水に』というこのタイトルには、ウイスキーが突然変異で水に変わってしまった、あるいは、いつの間にか氷が溶けて殆ど水になったというようなイメージが伴い、原題の本来の意味からすると、少し離れているという感じがしてしまう。

  De minuit à midi Du whisky au vichy
  (真夜中から正午まで ウイスキーからヴィシー水まで)

 曲中のサビとして何回も繰り返されているこのフレーズだが、「ウィスキーを呑んでいた夜の時間から、やがてヴィシー水に飲み代えた朝へと時間が移り」という意味なのだと思う。

  「ウイスキー」について。
 ウイスキーは、1494年、スコットランドで、“アクアヴィテ”が製造されたのが起源だという。
ウイスキー
 麦芽を原料にした蒸留酒を、ケルト語でウスケ・ボー「生命の水」と呼んだのが、ウイスキーの語源であるとのこと。
 友人曰く、「水割りでもロックでもなく、ゆっくりモルトを傾けるのが通」

 映画にでも出てきそうで、カッコ良いと思うけれど、私自身はアルコールが全くダメなので、その美味しさがわからないのが残念だ。

  「ヴィシー水」について。
 フランスで普通に愛飲されている「ヴィシーセレスタン」という天然微炭酸水を指している。
ヴィシー水
 ペリエとかエビアンのようなお洒落感のあるナチュラルミネラルウォーターで、オーヴェルニュ地方にあるヴィシーの街の産物である。

 「ウイスキー」や「ヴィシー水」は、詩中の印象的な小道具ではあるが、この曲の主眼は、グラスを透して見つめる「夜」そのものであり、やがて明けてくる「朝」の光の眩しさなのだと思う。

 欝々とした心を抱えて生きる自分にとって、夜はつかの間の安らぎの時。
 夜が自分を誘い込み、グラスを傾けさせ、酩酊感へと導く。
 「夜=nuit」は女性名詞なので、「彼女=elle」と言葉が置き変わりながら進んでいくのだが、いつの間にか、語り手にとって、elleはただの代名詞ではなく、特定な「或る女」の暗喩となってゆく。
 「彼女」を語る詩とも、とらえられるのではないだろうか。

   『ウイスキーをヴィシーに』
 まず、原詩の概要は次のようである。

  夜になると、うんざりとした日々の生活は消え去り、
  ネオンの明かりにすべては美しく輝いて見える

  夜は恋人のように私を誘い、酒を飲むことを勧める 
  僕が彼女を欺いても 夜という彼女は、決して僕を欺かない
  ずっと自分と寄り添って、一生 最後までいてくれる
  酒に酔いしれる自分を見ていてくれる
  夜は時には狂気であり 不思議な魔法であり 倦怠でもある

  身を守ることを全く知らないのに 
  いつでも処女性を取り戻す処女のようだ

  真夜中から正午まで ウイスキーからヴィシー水まで
  夜になるときまで 身を潜める

 「ヴィシー」は、ペットボトルの水をごくごくと飲み干す昼間の世界。
 仕事をこなし、社会人としての役割を営んでいく、その象徴なのだと思う。
 
 そして、彼は、その疲労感や充足感、時には倦怠感、挫折感などを、「ウイスキー」の酔いの中でつかの間、解放させようとしている。
 夜更けるまで呑んで、けれど朝は必ずやってくる。

 「ウイスキー」と「ヴィシー」は、そういう、人が生きる振り子のようなものかもしれない。

 我を忘れて酩酊することを、夜は穏やかに受け入れてくれる。
 いつもそっと傍にいて、優しく癒してくれるそんな女性が、「夜」のイメージに幻影のように重なってくる。

   C´est comme une vierge qui n´a
   Jamais vraiment su se garder
   Et qui retrouve toujours sa
   Virginité
 (身を守ることを全く知らないのに 
  いつでも処女性を取り戻す処女のようだ)


 この部分の訳詞は、解釈がなかなか難しいと思うのだが。

 高野氏は次のように訳されている。

  こうも言えるだろう 夜は娼婦と
  子供の目を持つ娼婦と あまりの純潔
  それゆえ どんなに汚れても 平気な娼婦と


 原語を咀嚼していく際のイメージには自由度があり、そこに、それぞれの独自な世界を創造してゆくのが訳詞なのだと改めて思う。

 このフレーズが含まれている3番の訳詞を、私は次のように訳してみた。

  夜は 狂気と 不思議な魔法の扉に 突然 いざなう 
  何も知らない少女のように 
  身をすくめたまま 立ち尽くす
  何でもわかっている倦怠の中で 
  夜は 新しく生まれ変わる
  眠りに就くまで 朝がやって来るまで
  ウイスキーをヴィシーに代えるまで

  夜が誘う ウイスキーが揺れる
  夜が薫る ウイスキーが揺れる   (松峰綾音 訳詞)


 いつか、グラス片手にこの曲をステージで歌えたらカッコ良いと思うのだが、なにしろ呑めないので、おそらく、ヴィシー水のボトルになるに違いない。


                            Fin

(注 訳詞、解説について、無断転載転用を固く禁止します。取り上げたいご希望、訳詞を歌われたいご希望がある場合は、事前のご相談をお願い致します。)

  
 セルジュ・レジアーニの歌う原曲です。お楽しみください。



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ラパン・アジルの思い出

 久しぶりに散歩に出ました。
寂しい錦市場

 昼間の錦市場、店のシャッターの多くは閉まり、行き交う人もまばらで、別世界の様です。



そして、鴨川べりへ。
 犬を散歩させる人が、マスク姿で、離れて歩いています。
閑散とした鴨川 鴨
 鴨たちは、変わらぬのどかな様子で、眩しい日差しを楽しんでいました。

   距離を置く
 GWが始まろうとしています。
 様々な注意勧告の中、沖縄便の予約は6万人、営業を継続するパチンコ屋に並ぶ列も減ることはなく、連休中に感染者数もまた増大するのではと、嫌な緊張感が走ります。

 医療を初めとして、私たちの日々の生活と安全を守るべく、身を挺して働いて下さっている多くの現場の方々、そしてそれに報いたいと、それぞれの立場で、感謝や応援や協力や、心温まるたくさんの支えも届けられています。

 こういう時こそ、どうあるべきなのか、全体としても個人としてもその姿が真に問われますし、まさに品格を持って踏ん張る正念場なのだと思います。

 でも一方で、これまで恵まれ過ぎてきた生活環境や平和の中で、逆境に耐える心が脆弱になっていることも事実なのでしょう。
 「快」でないことのストレスに耐えられず、自分だけはと逃げ道を探すことも、いたずらに恐れて鬱々と囚われてしまうことも、正しいことではありません。

 自分一人の災難ではないのだから、もう仕方がない。
 覚悟を決めるしかありませんよね。

 先日の読売新聞の「編集手帳」に、「「よそよそしい」、「よそ様」などというときの「よそ」は「余所」と書く」という記事が載っていました。
 「所を余す」は「距離を置く」の意味で、普通は、「よそよそしい」という否定的なニュアンスを感じるのだが、・・・・という書き出しから、昨今の状況へと続いてゆきます。
 筆者は、スーパーのレジや、電車のホームに、自然と距離を置きながら待っている人々の姿を見て、今、「困難に立ち向かおうと大勢の人が呼吸を合わせていることは確かだろう。」と述べています。
 そして「<距離を置く>とは、ひととき、みなが力を合わせ、災難を乗り切る意があった・・・と後の世の辞書に載せよう。」と結んでいます。
 切なる想いが伝わってきて、心に染みました。

 「密接」は、親しさを図る尺度ではありますが、翻ってみると、卑近距離であることに盲目的に寄りかかってきた甘えの構造を、裏面に隠し持っていたのかもしれません。
 「快」に依存しすぎないで、適度な間合いを心に保つという、難しいですが、誰にとっても、そういう、心身に「距離を置く」鍛錬をする時なのかもしれないと思います。

   ラパン・アジルの思い出 
モンマルトルの丘
 前回のブログ記事『巴里野郎』閉店で、モンマルトルにあるシャンソニエ「ラパン・アジル」のことを載せたのですが、ラパン・アジルでの思い出が、懐かしく蘇ってきましたので、少しご紹介してみようかと思います。

 シャンソンの殿堂として、長い歴史を持ち、現在に至っているラパン・アジルですが、これまでに何回か訪れたことがあります。


 オ・ラパン・アジル (Au Lapin Agile)
 1795年に宿屋として設立されたのが最初で、19世紀中頃からキャバレーとして知られるようになった。 
ラパン・アジル
 1875~1880年に風刺画家アンドレ・ジルが描いた看板から「ラパン・アジル」と呼ばれ、何度か取り壊しの危機を免れ、多くの歌手、音楽家を輩出し現在に至っている。
 ジルが描いた、酒瓶を持って鍋から飛び出したウサギの絵が「ジルのウサギ (ラパン・ア・ジル; lapin à Gill)」として人気を博し、以後、店そのものが「ラパン・アジル」(Lapin Agile; 足の速いウサギ) と呼ばれるようになった 
 (ウキペディア参照)

 初めて訪れた時だったかと思います。
 21時開店、狭い入り口から中に通されます。
 店内には、赤いランプシェードのかかった薄暗いサロンが広がり、一瞬得体のしれない世界に迷い込んでしまったような心細さに襲われるのですが、赤い光に目が慣れてくると、ここは歳月を経たノスタルジックな別世界なのだと了解されてきます。
ラパン・アジル歌手
 サロンの中央に年季の入った大きなテーブル。
 壁一面には、ラパン・アジルの歴史を語るように、巨匠たちの絵画が無造作に掲げられ、お客さんは四隅を囲む椅子に自由に座ります。
 やがて、小さなグラスに甘いシェリー酒が運ばれて一息ついていると、歌手たちがぞろぞろと登場、中央のテーブルの周りに着席し、突然合唱が始まるのです。
 これが、ラパン・アジルの定番スタイル。

 歌手たち、と言ってもデニムにTシャツ、洗いざらしの仕事着で、女性はアクセサリー一つつけず、化粧もしていない
 あまりにも普通で、着飾ってライトに照らされる、日本のシャンソニエのイメージとは全く違います。
ラパン・アジルピアニスト
 いつものピアノ弾きのお爺さんが、撫でるように柔らかく奏で始めると、ライブの始まりです。
 マイクもなく、一人が歌い終わると、一人が立ちあがり歌う
 友人の家で呑むうちに、じゃあ歌でも、という雰囲気です。

 この日のお客さんは、そのほとんどが年配者で、ご近所の常連のように見えました。観光客も混ざっていたのでしょうが、日本人は他にはいませんでした。

 ピアノ弾きのお爺さんは、この店の責任者だったのかもしれません。
 細やかな気配りがさりげなくて、居心地の良い時間が生まれていました。

 それぞれの歌手が、それぞれの声で、切なく、あるいは朗々と歌い、もはや、上手なのかどうか、よく分からなくなってきます。
 でも、それが、心地よい味わい。

 歌うシャンソンは、完全に懐メロで、100年も前から同じように歌ってきたのではと思われるほど、よく知られた往年の名曲ばかりでした。
 フランス人ならだれでもが口ずさめるのでしょう。
 「さあ、みんなで!」と歌手が促すと、観客も声をそろえて気持ちよさそうに唱和する、日本の歌声喫茶も、こんな感じだったのではないでしょうか?

 知っている曲ばかりでしたので、私も大きな声で歌っていました。
 「日本から来たのだ」と言うと、とても歓迎してくれ、質問攻め、最後には「何か歌って」ということに。

 ジャック・ブレルの『Quand on n'a que l'amour(愛しかないとき)』の前奏が流れてきました。
 これならフランス語で歌える
 ちょっと勇気を出して、フルコーラス歌ってしまいました。
 ブラボーの声
 ダンディーなピアニストのお爺さんに、強くハグされて、すっかりご機嫌の夜でした。

 このコロナ騒ぎで、ラパン・アジルは今、休業しているのでしょうね。
 あのピアニストのお爺さんはまだお元気なのでしょうか。


 お互いの呼吸と音の響きを感じ合える「密接」が、何でもなかった幸せな感覚が蘇ります。
 何の屈託もなく、肩を寄せ合い、音楽を楽しめる日が、早くまた訪れますように。



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「巴里野郎」閉店

 今日はとても残念なお知らせをしなければなりません。
 京都 四条河原町の老舗シャンソニエ「巴里野郎」が突然閉店することになりました。

 一昨日の夜、虫の知らせだったのでしょうか、何となく気になって巴里野郎のWEBを開いてみたら、お店閉店のお知らせが目に飛び込んできました。
 記事がUPされたのは、5分前の事、もしかしたら、WEBで知ったのは私が一番早かったのかもしれません。
 
   2013年の閉店から
 思えば、2013年の2月に「巴里野郎」の創設者、初代オーナーの宮本宰完氏から4月一杯で閉店のお知らせを受けたのが最初でした。

 シャンソンの殿堂ともいうべき老舗名門シャンソニエ『銀巴里』も閉店となり、次々とシャンソニエの灯が消えてゆく時代の流れの中でのことでした。
 
 巴里野郎とご縁ができたのは、その前年だったかと思います。
 その頃はもう宮本オーナーはお身体を崩されて、ご自宅で療養しておいでの頃でしたが、閉店のお知らせに強い喪失感を感じたことを思い出します。
パリ野郎で
 関西のシャンソンの草分けであった名店の終焉を惜しむ声、存続を願う声も、様々なところで湧き上がっていました。

 閉店前の1か月間は、巴里野郎30周年を兼ねた記念月間として、様々な方が別れを惜しんで歌われましたが、私もその中でコンサートを持たせていただきました。

 宮本オーナーの武勇伝はそれまでにも色々なところで耳にしていました。
 30年前に本場のシャンソニエを訪れた時の感動から、日本にも本格的なシャンソニエをという志のもと、ご自身の生年の1953年にレオ・フェレによって作られた曲『パリ・カナイユ(巴里野郎)』にちなんで『巴里野郎』をオープンさせたのだと伺っています。

 2013年4月末日に閉店したのですが、どうしてもこの灯を受け継いでいきたいと願う関係者の思いの中で、同年5月に、急遽、現オーナーの藤本氏がそのまま店を引き継ぐこととなって、紆余曲折を経て、その一年後、ピアニスト坂下文野さんに経営上の責任をバトンタッチされたという経緯があったのです。
 (宮本氏がご病気でお亡くなりになられたのもちょうどこの時期でした)

 それから、6年間、坂下さんが、全力をかけて、巴里野郎を大切に守り支えていらした日々を傍らでつぶさに拝見していました。

 私は奇しくも不思議なご縁の中で、巴里野郎の二度の閉店を身近に見ることになったわけです。

 坂下さんが、コロナウイルスの脅威の中で、どれだけ悩み、苦渋の選択をなさったのかと思うと言葉もありません。

 坂下さんの6年は、私にとっても、彼女と、巴里野郎と、共にあった6年でした。
 初代宮本オーナーの想いが現在まで引き継がれたように、ウイルス感染が収束したのち、また再び、どのような形でか、巴里野郎の魂が復活しますように。
 皆が肩を寄せ合いながら、共にシャンソンを心から楽しめる日が訪れることを今はただ願うばかりです。
巴里野郎のステージの立ち位置
 
 写真は、7年前に当時の宮本オーナーが写メで私に送ってくださった写真です。

 巴里野郎のステージの立ち位置なのですが、多くの歌手たちがここで歌って擦り切れてしまった床。

 「一番ライトが綺麗にあたる場所です これからのために・・・」との言葉が添えられてありました。

   閉店のご挨拶
 坂下さん、これまで6年間 本当にありがとうございました。
 そして共有させて頂いたたくさんの時間に 心から感謝いたします。
 しばし 心身を休めて力を蓄え 次なる飛躍に共に向かっていきましょう。
 
 巴里野郎のWEBに掲載された坂下さんの文章をそのままここに載せたいと思います。

 みなさま、お変わりございませんか。
 いつも、巴里野郎を支えてくださり、ありがとうございます。
パリ野郎入り口

 この春のコロナウィルスの蔓延、暖かくなったら落ち着くかと思っていましたが、四月に入っても状況はますますひどくなり、先が見えない状況です。

 どんな形でもお店を開けたい。三月まではそう思っていました。
 でも、それはお客様を、出演者を、スタッフを危険にさらしてしまう。

 いつになったら安全にお客様をお迎えできるのか。
 出演者の皆様に、安心してお声かけできるのか。
 堂々と公演の告知をすることができるのか。

 答えを探そうと、日々あふれるニュース、
 コロナウィルスとの戦いに関する さまざまな情報の中で 悩んでまいりました。

 その間にも 受け取る寂しい連絡、数々の貸切のご予約のキャンセル。
 この春はもちろん、秋10月のご予約さえ、キャンセルが出てしまいました。

 しかし、悩んでいる間も営業できずともお家賃、JASRAC、その他いろんなお支払いがあり、、大家さんとも相談の結果、今月末で巴里野郎の営業に終止符をうつこととなりました。

 今まで6年間、多大なお力添えをいただいた皆々様へ心より御礼申し上げます。

 関西にも緊急事態宣言の出ていることをふまえ、お別れのライブや集まりができないことをお許しください。

   坂下文野





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