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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

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ライヴ・コンサートのお知らせ

松峰綾音 ライヴ・コンサートのお知らせ
                     (2021 .12. 08 現在)
                                                               (通常のブログはこの下の記事から始まります)

 
あのときの味修正チラシブログ              
  <2021年11月>
 松峰綾音 月の庭
   『 あのときの味 』
    シャンソンと朗読のひととき  Vol.9

  
  コンサートは無事、終了することができました。ご来場いただいた皆様には、コロナ感染対策のご協力有難うございました。
 来年もよろしくお願いいたします。

     

     <2022年1月>     

ひだまりの猫たちパンフレット表
松峰綾音 月の庭 
  シャンソンと朗読のひととき vol.10
  『ひだまりの猫たち』

 訳詞 歌 朗読 松峰綾音   
 ピアノ     坂下文野


         日時 2022年1月8日(土) 16:30開場 17:00開演
   会場 京都 文化博物館別館ホール 

   日時 2022年1月29日(土) 13:30開場 14:00開演
   会場 横浜 山手ゲーテ座ホール


京都と横浜のコンサートツアー。
明治期に設計された威風堂々とした歴史の香り漂う両ホールでの再演です。

『「詞歌抄」クロと読むChanson』の出版記念コンサートでもあります。
猫を描いた文学作品の朗読と猫が出てくるシャンソンを主にした構成、そして、本の中で取り上げた曲をご紹介しながら、翻訳、出版秘話なども盛りだくさんに。

 
コロナ 感染対策のため、席数を減らしての開催です。お越しいただける方は、お早めにお申し込みいただけると幸いです。
   お問合わせは、いずれも管理者のメール(ブログ左下)、または WEB のコンタクトからお願い致します。  

 詳細は、順次ブログにてお知らせして参ります。 
 


  『あのときの味』開催します   2021.10.20
  「ひだまりの猫たち」開催いたします 2021.11.17
  「あのときの味」コンサートのご報告 2021.12.8

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宴の名残

 暑中お見舞い申し上げます。
 連日の猛暑、降ると豪雨だったりと、気象異変が加速していますね。
 コロナ第7波もいよいよ広がりを見せていますし、国際情勢も平和から遠のいてゆくばかり。不快な出来事や事件は頻出して、諸々、心痛む昨今ですが、でも、そんな中でも季節は廻り、眩しい太陽は真夏の華やぎと力を注いでいるかのようです。

 不機嫌な時代の中で、その根源を正確に受け止めつつも、いかに吞み込まれることなく上機嫌を保つかということが、難しいけれど、私たちに示された最大の課題であり、それこそが人としての真の品格・智慧なのだと言えるのかもしれません。

 パソコンの不具合が続いて、悪戦苦闘しているうちに前回の記事から一か月が経ってしまいました。・・・・という言い訳をしながら、今日は、いくつかの宴の後を辿ってみたいと思います。

   Amical AYANE発足会のご報告
 「Amical AYANE(綾音 友の会)」は今から3年前に発足しました。
 ちょうどコロナがはやり始めた頃だったのですが、「音楽活動が大きく制限される時だからこそ、負けずに歩みを止めないで」と、有志の皆様から温かい後押しを頂いて、この素敵な会が誕生したのでした。
 発足式は、コロナの拡大で毎年延期となり、ようやくこの度実現となったのです。
 遡ること、7月3日。
 会場は事務局の置かれている東福寺塔頭。
 前日前々日の京都は40℃に届こうという脅威的な暑さと湿度で、万が一にもどなたかが熱中症になられたりしたらととても心配でした。
 ところが、折からの低気圧と台風の接近で、当日は30℃を切る涼しさへと急変。
 超晴れ女の私としては、これまでのコンサートやイベントで一度も雨が降ったことがないというギネス記録がついに途切れることになりましたが、でも、嬉しい誤算です。
会が始まる頃は雨も小やみとなっていました。
 「晴れ女」から「お天気を自在に操る女」に昇格ですねと、口々に言って頂き、すっかりその気に。
 
 20名の皆様が東福寺塔頭 即宗院にご参集くださいました。
即宗院 丹精された清廉な庭園にまず心を奪われました。木々、花々、苔の緑が雨に洗われて一層瑞々しく輝いていて、別世界に誘われるよう。いらした皆様も席に腰かけるのも忘れて一面の硝子戸の外を見入っていらっしゃいます。森林浴とは、こういう自然がもたらす解放感と酩酊感を言うのでしょう。

 第一部「発会式」が正午にスタートしました。
 事務局長の軽妙で心に響くご挨拶に続いて、Amical AYANEと名付けて下さった恩師から命名の由来などをお話しいただきました。

 そして、私から。
 心からの謝意を皆様に述べた後、ミニコンサートとして一編の朗読とシャンソンを三曲ご披露しました。

 最初の曲は『雨だれ』
 ショパンのピアノ曲ですが、美しいメロディーですので、言葉を付けて歌ってみたいと思い、以前に自分で作詞した曲です。実は全編20分ほどの長い詞になったのですが、時間の関係で、触りの部分だけの短いご披露となりました。
 縁先越しに見える雨に濡れた深緑が、歌の想いと重なりました。
 仏様に見守られる静謐な本堂に響く生の声を、いつもとはまた一味違う一体感・臨場感として受け止めていただけたようでした。

 第二部は離れでの「親睦会」。
 親睦会に先立ってのご挨拶は東京からのお客様。秋に関東支部発足会を開催することも決まっています。関西と関東を結ぶ輪が少しずつ広がってゆくようでとても嬉しかったです。
 鉄鉢料理
 鉄鉢料理と称せられる精進料理をご用意して下さいました。たくさんの大小の漆塗りの鉢に美しく盛り付けられたお料理はとても美味しくて、僧侶が托鉢の時に携えていた食器を形どっているのだそうです。さらに、いただき終わると、まるでロシアのお人形のマトリョーシカのように全部重ねて一鉢に収まるようになっています。
 お食事に舌つづみを打ちながら、ご参加の皆様それぞれの自己紹介。和やかで、いつの間にか同席した者同士が自然に旧知の仲になったような親密感が生まれました。

 20日余りが過ぎましたが、遠い日のような、つい昨日のような、・・・時間は、まばたきのように流れてゆき、だからこそ、その時間に刻まれた「一期一会」はかけがえのない美しいものなのでしょう。
 懐かしい時間を思い返すときの余韻は、まさに「宴の名残」のしっとりとした陶酔と覚醒を伴うものと感じます。
 
 Amical AYANEへのご入会は随時受け付けています。とても温かく自由な会ですし、各種特典も満載しています。ご興味を持って下さる方はAA会事務局(aa.tomonokai@gmail.com)または松峰までご連絡下さい。

   引っ越し完了
 リフォームが完成し、仮住まいをしていた奈良から京都に再び戻ってきました。
 「あまり頑張らないで、涼しい秋になったらゆっくりと一箱ずつ荷ほどきをした方がよいですよ。」「言っても無駄かもしれないけど、体壊したら元も子もないんだから!」と友人達からの断定的かつ有難いアドバイスが沢山。

 本当にその通りなのです。
 でも。
 あまりにも高く家中に積み上げられたパンダの箱。
 埋もれたままでは、探し物三昧の日々になってしまうではないか・・・山があると一気に挑むという生来の悪癖がむらむらと沸き起こってきて。
 それに加えて、整理整頓、片付けは特技の域ですから、結局走り出してしまいました。
 今日でちょうど二週間ですが、寝食を忘れて没頭した結果、最後のパンダもめでたく解包し、今や我ながらスカッと整理された新居になっています。

 楽しい宴。
 施工の業者さんや設計士さんたちと綿密に検討した結果、住み心地よく生まれ変わった家をしみじみと眺めて悦に入っています。
 そしてもう一つの宴の名残は、覚悟の筋肉痛と腰痛の兆しですが、自業自得、黙って耐えるしかありません。

   京都 祇園祭
 京都に戻ってきた日は、ちょうど祇園祭の宵宵宵山。
 三年ぶりの祇園祭再開という事で、これまで以上に街は活気に満ちていて、観光客の数も大変なものでした。
 我が家は、長刀鉾(なぎなたぼこ)の卑近距離にあり、祇園祭フリークにはおそらく垂涎の立地なのでしょうけれど、一歩外に出ると、人込みに巻かれて歩くこともままならないほどなのです。
 夕方になる前に大急ぎで引っ越しの荷下ろしを終了して、外のお囃子や解説の声なども耳を澄ませば聴こえてくるというのに、テレビでの鑑賞。

 今年の祇園祭は後祭りも含めて無事終わりましたが、今年こそはと満を持して準備に臨まれた各方面の皆様にとって、宴の名残はいかばかりでしょうか。

 テレビを見ながら今年特別心に入ってきたのは、山鉾巡行の日の「剛力(ごうりき)さん」と「稚児介添え役さん」の表情でした。
 「剛力さん」は、重い衣装に身を包んだお稚児さんを片方の肩に乗せ抱きかかえ、高い鉾に掛けられた梯子を一段一段上り、途中で一回転して観衆に向かって挨拶し、やがて鉾で迎える介添え役に引き継ぎます。
 「介添え役」は身を乗り出してしめ縄を切る稚児を後ろでしっかりと支えて所作をさりげなく導きます。両者とも、儀式を滞りなく成功させる影の立役者、まさに祭りのクロコさんなのです。
 直接見物している時は、人込みの中ですので、稚児の動きがかろうじて確認できるだけなのですが、テレビの映像ですので、「剛力さん」「介添えさん」の、神経を張り詰めて稚児を全身で守るすべての表情を詳細に観ることができました。
無事役割と儀式を終えたのを見極めた瞬間のお二人それぞれの何とも感慨深く喜びに満ちた眼差しがとても感激的でした。

 この日の宴の名残は、美酒と共に、どんなにか美しいものだったのではと思うのです。


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石刻の歳月 ~当尾と當麻(二)

   當麻(たいま) 二上山と中将姫(ちゅうじょうひめ)の伝説
 前回の記事石刻の歳月 ~当尾と當麻(一)の続きで、今日は當麻をご紹介しようと思います。
二上山
 當麻(たいま)は万葉の昔から神聖化されてきた二上山(ふたがみやま)の山麓の里です。

中将姫が織り上げたという曼荼羅図を本尊とする當麻寺(推古天皇20年(612)建立)と、同じく中将姫ゆかりの石光寺(白鳳時代の弥勒石仏が発掘されたことでも話題になった)を訪ねてみました。
中将姫
 藤原豊成(藤原不比等の孫)の姫君であると伝えられている中将姫ですが、その存在については今も謎に包まれています。
 その生い立ちや半生が詳細に語り伝えられているというものの、そもそも彼女は本当に実在したのか、これに似た境遇の人物がいて、その女性を中将姫として昇華し伝説化したのか、あるいは信仰の理想の姿として古人が作り上げた全くのフィクションだったのか、諸説入り乱れる中で、実際には存在しなかった「伝説上の姫君」だったのではというのが現在の定説のようです。

 容姿端麗、頭脳明晰で人格も崇高、誰からも敬愛される類まれな女性であったがゆえに継母から疎まれ、命まで脅かされる憂き目にあって、それでも慈愛深く、やがて尼として仏門に入り信仰を極めてゆく、そんな劇的な物語が、能、歌舞伎、浄瑠璃などにも脚色され、中将姫の名は時代を超え人々に広く知られ愛されてきました。日本人の判官びいきの資質が、義経伝説を作り上げたように、悲劇の姫君の出自は、理想の女性像・信仰の形を生み出していったのかもしれません。

 當麻の地では、あたかも実在した人物であるかのように、そこここに現在でも生きていることを感じました。
 「ここが、中将姫様が曼荼羅を織り上げる糸を染め上げた井戸」、「これがその糸を乾かした糸掛けの桜の木」というように・・・懐かしい人を偲ぶように語られていて、いにしえの平城京の風土、時間の向こうに呼び戻されるような一種の陶酔感を覚えた気がします。

 そして當麻の里を穏やかに囲む二上山は、皇位継承の争いに巻き込まれ若くして非業の死を遂げた大津皇子(おおつのみこ)が埋葬された地でもあり、姉の大来皇女(おおくのひめみこ)がその死を悼んで詠んだ、
 うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を 弟世(いろせ)とわが見む(『万葉集』巻2-165)
 の歌もよく知られています。

 當麻を訪れたいと思ったのは、実は久しぶりに釋超空(しゃくちょうくう)の小説『死者の書』(1939年)を手に取ったためでした。
 釋超空は民俗学の権威折口信夫(おりくちしのぶ)が、詩歌や小説などを執筆する時のペンネームなのですが、この小説の舞台となるのが當麻なのです。
 當麻の地と、當麻寺に伝わる當麻曼荼羅縁起や中将姫伝説に想を得て、死者である大津皇子が蘇り、姫に曼荼羅図を編ませ、それによっていにしえの魂の再生をみるという内容で、「幻想小説」などとも呼ばれている作品です。

 まずは「當麻寺」へと向かいました。
當麻寺1

 二上山を背にして東西2基の三重塔が立ち並ぶ伽藍配置が現存し、天平・白鳳様式をそのまま残しています。



當麻寺の僧坊「當麻寺 中の坊」に向かいました。
中の坊 誓いの石
 中将姫の一心に仏道を志す強い信念により、不思議にも石に足跡がついたとされる「中将姫誓いの石」

「中将姫さまが當麻曼荼羅に描いたほとけさまを描き写して頂きます」という写仏道場。
 そしてその天井には近現代の画家たちによる150枚にも及ぶ天井画が飾られていました。どれも色彩が優しく、極楽浄土の写し絵のようでした。
天井画 剃髪 
 中将姫剃髪堂も残されています。

 よく整えられた回遊式庭園。
中の坊庭園1 中の坊庭園4 中の坊庭園2

石塀に倒れかけた紅葉の木陰だけが苔むして美しく、静寂な時間が流れています。
塀の苔1 塀の苔2

釋
 帰り際、庭の一隅に釋超空の詠んだ和歌の碑を見つけました。中学生の頃、一年間、彼はこの當麻寺に寄宿していたとのこと、二十年前のその頃を懐かしく想うという歌ですが、『死者の書』の想も、この頃の思い出と繋がって生まれたのかもしれません。

石光寺

そしてすぐ近くの「石光寺(せっこうじ)」にも立ち寄りました。天智天皇の勅願で創建されたと伝わる古寺名刹です。




「糸掛け桜」「染の井」。
丁寧に保存されていて、やはり歴史の中で守り続けてきた中将姫への敬愛が感じられます。
中将姫3 中将姫2

石光寺の石仏の静かな佇まい。
地蔵様1 お地蔵様2

牡丹の庭
 「ぼたん寺」とも言われるほどの一面の牡丹が大木に育っていて、今は若葉が艶やかで見事でした。2000株という牡丹が一斉に花開く頃はどんなに華やかなことでしょう。
 中将姫を包みながら、平城京と牡丹の花々はとてもよく似合うと思いました。

   おまけのお話
 當麻寺 中の坊は、「陀羅尼助丸(だらにすけがん)」の発祥の地なのだそうです。
陀羅尼助丸というのは奈良で古くから伝わる皆が常備している漢方の胃腸薬。
ちょうど正露丸のような漢方独特の匂いがし、真っ黒ですが、正露丸よりずっと小さいけしの実状の粒で通常1回に30粒服用とありました。
陀羅尼助釜 陀羅尼助
 中の坊には役の行者が秘薬「陀羅尼助」を精製した際、水を清めて用いた井戸「役の行者加持水の井戸」や、薬草を煮詰めた「大釜」も残されていました。

陀羅尼助2   陀羅尼助
 私も祈祷済みの「陀羅尼助丸」を購入し、ちょっと食欲不振だったときに早速服用しました。
 とても効くような気がします。




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石刻の歳月 ~当尾と當麻(一)

 奈良に仮住まいしていつの間にか二か月が経とうとしています。
 あと半月・・・奈良での日々を惜しみつつボチボチまた出かけています。
 奈良というと古墳や陵墓のイメージが私には強いのですが、散策していると石畳、石塀、石仏・・・長い時の流れに磨かれてきた様々な石の情景を至る所で目にし、石の持つ静謐で柔和な表情を感じます。訪れてから少し日は経ってしまいましたが今日はそんな石たちを紹介したいと思います。

   当尾(とうの) ~石仏の笑い
 浄瑠璃寺に近いのに、前回立ち寄れなかった岩船寺を訪れました。
 浄瑠璃寺も岩船寺も、京都府と奈良県の境にある当尾(とうの)と呼ばれる地域にあります。
 平安遷都までは「山背国(やましろのくに)」と称されていた。南都仏教の影響を強く受け、平城京の外郭浄土として興福寺や東大寺にいた高僧や修行僧の隠棲の地となり、真の仏教信仰にそそがれた地域であった。
「当尾(とうの)」の地名は、この地に多くの寺院が建立され三重塔・十三重石塔・五輪石塔などの舎利塔が尾根をなしていたことから「塔尾」と呼ばれたことによる。


 岩船寺は、天平元年(729年)に聖武天皇が阿弥陀堂を建立させた時から始まると伝えられていますので、その歴史は半端ではありません。
笑い仏 見過ごしてしまいそうに密やかに道端に点在する摩崖仏を眺めながら石仏の道と呼ばれる岩船寺への参道を辿ります。阿弥陀三尊磨崖仏 (笑い仏)。よくよく眺めると確かに三体とも晴れやかに笑っていて、心和みます。なぜかこの地の石仏たちは微笑んでいるものが多く、この仏たちを昔年の石工はどんな思いで彫り削ったのでしょうか。
遠い昔に呼び戻される心地よさでいつまでも眺めていたい気がしました。

見上げると山門。
山門 山門2
そして、石段を登って山門にたどり着きました。
若葉と花々の向こうに朱塗り鮮やかな三重の塔がくっきりと。
本堂 池
阿字池と呼ばれる美しい池を挟んで本堂が凛として風景に溶け込んでいます。
岩風呂
修行僧が身を清めたという石風呂。

不動明王





 池を巡る小径の片隅に重文指定の石室不動明王立像。
 石に刻まれた不動明王の表情が歳月の中で神々しい優しさを生んでいると感じました。


これも重文の五輪塔。同じく十三重石塔。
  五輪塔   十三塔

庭のところどころに置かれた苔むした灯籠も、石仏同様に過ぎゆく歴史を見つめてきた風格に溢れています。
石塔  石仏2
 石を刻むという行為自体、とても原初的な作業であると思われますし、石を素材にすることで表現できるものもまた限られた素朴なものなのでしょう。 
 でもそれだからこそ伝わってくる力や想いがあり、それはもしかしたら祈りの本質なのではないか、とても唐突なのですが、そんなことを思いました。
 「大和はまほろば」という言葉が胸に入ってきます。

三重塔2 三重塔3 雪の下
岩船寺は「花の寺」、また別名「あじさい寺」と呼ばれており、四季折々様々な花咲き乱れ、あじさいは3000本に及ぶそうです。
私が訪れた時はまだ3分咲きでしたが、今はまさに満開でどんなにか美しい彩りを見せていることでしょう。
紫陽花

 本堂の前の花手水が美しい季節を映し出していました。

  




 

 次に「當麻」へと続きますが、長くなりますので一旦これで終えることとします。追って続きをUP致しますので、お楽しみになさってください。









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豪商の足跡 ~奈良今井町

   重要伝統的建造物群保存地区ということ
 大和まほろばを辿りたくてガイドブックを眺めていたら、「江戸時代に栄えた豪商の町、今井町」が目に留まりました。
 『古事記』『日本書紀』にも記されている古社寺、古墳群に囲まれた日本最古の道「山の辺の道」の風情こそが、私にとっての奈良、大和の原風景そのもの。 
称念寺2 懐古的気分の中で、この神々の道を静かに歩くことが、これまでの自分の奈良の醍醐味だった気がします。
 「江戸時代の繁栄を伝える町・今井町」という言葉は、そのようなイメージからは随分かけ離れているのですが、それで反対に興味を惹かれたのかもしれません。

 近鉄奈良駅から電車で約40分、近鉄八木西口駅で下車、「蘇武橋」と記された赤い橋を渡ると今井町の街並みが目に前に広がりました。
 今井町の成立は、天文年間(1532〜1555)に寺内町(寺を中心とした町)が建設されたことにはじまります。町の周囲に濠をめぐらせ、要塞化して織田信長に抵抗。その後、信長から自治権を認められ、大阪や堺とも交流が盛んになり、商業都市として江戸時代まで栄えました。現在も多くの民家が江戸時代以来の伝統様式を保っており、平成5年に重要伝統的建造物群保存地区にも指定されています。
  全建物戸数約760戸のうち、約500件の伝統的建造物が存在しており、これは地区内の数としては日本一を誇ります。当時の地元の建材を用い、職人の緻密な技術を施して建てられた家々は、土地の風土や自然、歴史を色濃く反映しており、民家建築の貴重な財産だといえます。


 どのような歴史もやがては次の時代の中で自然淘汰され、新たな時の流れの中に埋没していくものなのでしょう。
 まして歴史的建造物等は、その時代の雰囲気・匂いをも愛おしみながら後世に伝え残すという強い思いを、その土地に生きる人々と行政とが一体となって、よほどしっかりと持たない限りは、たとえ保存されたとしても、ただ過去のモニュメントとして、取って付けたものになってしまう危険がある気がします。

 でも、実際にはとても難しい。
 どのような土地も、まぎれもなく現在を生きているのですから、保存される歴史的建造物・町並みに隣接して、コンビニやマンションがあったとしても仕方のないことです。究極的には「歴史を生き生きと感じ楽しみながら、豊かに共存する」文化を、その土地が、日本という国が、どう育んでいるかが問われるのかもしれません。
 少し大げさかもしれませんが、そんなことを想いながら、色々な町並みを再発見するのってとても素敵なことのように感じます。

   豪商の町並み
 まずは町の観光協会に向かいました。
観光センター 『今井まちなみ交流センター華甍(はないらか)』と名付けられたこの建物、今井町の歴史を詳細に伝える資料館として公開され、威風堂々とした佇まいを見せていました。1903年(明治36年)に教育博物館として建てられ、昭和4年から今井町役場として使用されてきたそうです。
 見た途端、奈良ホテル(1909年に創業された辰野金吾の設計による関西屈指のホテル)と似ていると思いました。
 受付の若い女性は物腰がとても柔らかくて、わかりやすく今井町の概要を教えて下さったのですが、町への誇りのようなものが溢れていて、第一印象は上々です。
 今井町が現在のように町ぐるみで保存に取り組んだのはそれほど古くはなく、平成4年頃からだという事です。普通の住居でも、老朽化が進み改築を余儀なくされる場合、外壁の仕様・色合い・高さ・等の制限、町並み全体が統一感を持って、昔ながらの意匠である大きなひさしを設けることなど、町全体で景観を作っていくという取り組みが現在に至るまで生きていると聞きました。
町並み1 
今井町の町並みです。
 昔にタイムスリップしたようなこのような街並みは、多くの場合、観光地として、お土産物屋さんや食べ物屋さんが立ち並んだりしてにぎわうものですが、そういうお店も見当たらず、そして観光客の姿もほとんどなく、かといってさびれた感じは全くなく、穏やかに清廉に町の人たちが日々の生活を営んでいることにまず感銘を受けました。
町並み2


 玄関先に打ち水、紫陽花の花、多くの家の前にこのように花々が飾られています。



 看板もなかなか。
床屋さん、本屋さん、薬屋さん・・・普通に営業しています。
看板2  看板1
 軒先のあちこちにこんな燕の巣も見られました。のどかな囀り。
看板3   つばめ


寺内町である今井町の中心は、重要文化財にも指定されている称念寺です。 室町末期に一向宗本願寺の僧侶、今井兵部が建てた布教道場が始まりで、今井町はこの寺の寺内町として発展したのだと聞きました。
称念寺1 称念寺4
 明治10年には明治天皇が投宿した折、西南の役の勃発をここ称念寺で知らされたと伝えられています。
 称念寺もまた、幾星霜を経て静謐な佇まいを見せていました。

 今井町は、福岡・博多や大阪・堺と同様に、住民である豪商や町民が自治権を握る自治都市として、江戸時代にかけて大いに栄えた町。豪商たちの屋敷も当時の面影をそのままに大切に保存されています。
酒屋
 河合家住宅。江戸初期から現在に至るまで変わらず酒造業を営んでいます。

軒先には杉玉が端然と吊るされ、歴史を負った造り酒屋の風格を誇っているようでした。

 旧米谷家住宅。金物や肥料を扱っていた豪商の家。広い土間には当時のままのかまどや煙返しが残っていました。
かまd  蔵前座敷
 裏庭の土蔵の前には蔵前座敷。錠前がいかめしくかかった蔵を守るべく目を光らせ座していたのでしょうか。 
かいずかいぶき
 豊田家住宅。材木商を営み、藩の蔵元も務めていた豪商です。
 向かい側の豊田記念館の庭には樹齢250年というカイズカイブキの大木が。豪商であっても商人の家には松を植えることは許されなかった時代に松に見立てて丹精した木が今やこのような大木に育って時代を証明していると、現当主が語って下さいました。代々の当主の書画・骨董・古美術など貴重なコレクションの数々も公開中です。

 そして、今西家住宅。予約していなかったため見学はできませんでしたが、惣年寄筆頭として町の自治権を担った名家。

 藤村の『夜明け前』ではありませんが、歴史の中の繁栄と衰退の渦にこの町も巻かれてきたのでしょう。
 今、令和の時代の中で、この風土と調和しながら歴史の記憶を大切に、穏やかな営みを続けている・・伝統の保存という事の意味を考えた小さな奈良探訪でした。


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浄瑠璃寺の春を行く

 前回の記事『5月の若草山』で馬酔木の事を書いていたら、急に浄瑠璃寺に行きたくなりました。
 浄瑠璃寺は、大学の頃から何度も訪れている大好きなお寺、京都府木津川市にありますので、奈良探訪の記からは離れてしまうのですが、奈良との県境に位置しています。
 中学生の時に堀辰雄の随筆『大和路・信濃路』を読み、瑞々しい感性で捉えられている大和路の静謐な叙情にすっかり心惹かれ、特に、この中に載っている『浄瑠璃寺の春』という文章が忘れられませんでした。
 以来、春になると、大和路のこの小さなお寺に可憐な花をつける馬酔木の花房を見に行きたくなります。

   『浄瑠璃寺の春』を辿る
 真言律宗の寺院、嘉承2年(1107)建立。山号を小田原山と称し、本尊は阿弥陀如来と薬師如来。本堂に9体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺(くたいじ)の通称がある。
 池を中心とした浄土式庭園を挟んで東に三重塔とそこに祀られている薬師仏。西に本堂と九体の阿弥陀仏、北に潅頂堂と三つの同塔が主要伽藍となり、平安朝寺院の雰囲気を今に伝える。
(浄瑠璃寺パンフレットより)

 この浄瑠璃寺を堀辰雄夫妻が訪ねたのは昭和18年のこと、この時の思い出が『大和路・信濃路』に随想集として綴られているのですが、この中に『浄瑠璃寺の春』はあります
 冒頭は次のように始まります。
 この春、僕は前から一種の憧れをもっていた馬酔木(あしび)の花を大和路のいたるところで見ることができた。
 そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へ着いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた蒲公英(たんぽぽ)や薺(なずな)のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、やっとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに、丁度いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった。
 
 開門9時と同時に参道に到着。眩しい青空と爽やかな風。ツツジが鮮やかな色で咲き誇っていました。
参道 参道1
 山門まで真っ直ぐに続く道を辿ります。
 道の両側の柔らかい馬酔木の青葉が目に優しく入ってきました。
 学生の頃訪れた時には、道はまだこのように整備されてはいなくて、もの寂びて朽ち果てそうな風情でしたが、今は光の中で、生気を取り戻したような明るい風景に変わっていました。
山門

 でも山門、両脇の小さなお地蔵様、馬酔木の灌木、変わらずに・・・。

『浄瑠璃寺の春』ではこんな記述になっています。

 その小さな門の中へ、石段を二つ三つ上がって、はいりかけながら、「ああ、こんなところに馬酔木が咲いている。」と僕はその門のかたわらに、丁度その門と殆ど同じくらいの高さに伸びた一本の灌木がいちめんに細かな白い花をふさふさと垂らしているのを認めると、自分のあとからくる妻のほうを向いて、得意そうにそれを指さして見せた。
馬酔木の花 「まあ、これがあなたの大好きな馬酔木の花?」妻もその灌木のそばに寄ってきながら、その細かな白い花を仔細に見ていたが、しまいには、なんということもなしに、そのふっさりと垂れた一と塊りを掌のうえに載せたりしてみていた。
 どこか犯しがたい気品がある、それでいて、どうにでもしてそれを手折って、ちょっと人に見せたいような、いじらしい風情をした花だ。云わば、この花のそんなところが、花というものが今よりかずっと意味ぶかかった万葉びとたちに、ただ綺麗なだけならもっと他にもあるのに、それらのどの花にも増して、いたく愛せられていたのだ。――そんなことを自分の傍でもってさっきからいかにも無心そうに妻のしだしている手まさぐりから僕はふいと、思い出していた。

山門をくぐると、池とその奥に阿弥陀堂が広がります。
境内 境内2

 白い雲と緑の木々を映す池に、黒々とした鯉の一群が悠然と泳いでいました。
池 空
見上げれば高い空。

本堂の九体の阿弥陀仏が心を圧倒する気がしました。それぞれの前にじっと座って手を合わせると、慈しみに溢れた阿弥陀様の眼差しを優しく感じ、いにしえびとの信仰の想いが理屈ではなく体に染み入ってくるようでした。
    九体仏
   (九体仏のこの写真は浄瑠璃寺のポストカードからのものです)
天女


年に三回だけ開扉される吉祥天女像に、幸運にも今回出会うことができました。

山門

 阿弥陀堂を出て振り返ると三重塔。

 回遊式の庭園を散策しながら三重塔に向かいました。
道端には道祖神、そして渡された柵は竹で設えられた粋な意匠で、何とも心にくいです。
   道祖神  竹垣

青紅葉の風。
三重塔3 舟
 池には朽ち果てた一層の小舟が沈んで舟頭だけを水面に見せていました。
 生み出された第二の自然。
三重塔4

 『浄瑠璃寺の春』のこんな文章が思い出されました。
 自然を超えんとして人間の意志したすべてのものが、長い歳月の間にほとんど廃亡に帰して、いまはそのわずかに残っているものも、そのもとの自然のうちに、そのものの一部に過ぎないかのように、融け込んでしまうようになる。そうして其処にその二つのものが一つになって――いわば、第二の自然が発生する。そういうところにすべての廃墟の云いしれぬ魅力があるのではないか? 
境内3
 堀辰雄は彼の見た浄瑠璃寺を「廃寺」と表現しているのですが、幾星霜を経て、今は廃寺から再生した美しい姿を見せています。
 でも、5月の連休にもかかわらず、ほとんど人気(ひとけ)のないこの静寂な風景には、自然と、人が作り上げたものとが、一つになって包み込まれているようで・・・堀辰雄の居た遠い時間と溶け合ってゆくような気がしました。

 帰路に。
猫
 浄瑠璃寺の境内にもこうした参道にも猫たちが沢山いて、どの猫も全く人を警戒せず、当たり前のように共存する、のどかな風景です。
 紫陽花が咲く頃も美しいのではと思います。皆様も一度そっと訪れてみてください。

   おまけのお話
 丹羽文雄をご存じでしょうか。繊細なロマンチストである堀辰雄の作風とは真逆の位置にある、一時は風俗小説と批判された作品世界を持つ作家ですが、彼の作品に、浄瑠璃寺が描かれているのを見つけました。
 ある小説に出てくるフレーズ。
 「鎌倉前期につくられた吉祥天像や、九躰仏をみることは、つけ足しです。ぼくのねがいは、九百十何年前につくられた、淋しい山寺のなかに、あなたをおいてみたかった」
 何と言う口説き文句。何とも何ともなのです。



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奈良探訪の記 ~五月の若草山

   奈良に仮住まいを始めました
 さて、突然ですが、京都の家をリフォームすることとなり、10日ほど前、奈良に引っ越してきました。7月中旬まで、二か月半の仮住まいです。
 気が付くと身の回りの荷物って増えているものですね。この際と思い、かなり大胆に整理し処分したつもりですが、でもまだまだ・・一応落ち着いたとはいえ、パンダの段ボールが山積みの中で毎日暮らしています。
 リフォームが完成したら、元の家に戻るわけなので、荷物はできるだけそのままにし、最小限しか箱を開けない覚悟の耐久生活となりましたが、でも、食器も、衣類も、その他諸々も、とてもシンプルで潔い暮らしぶりになった気もしています。本当に必要なものは、そんなにたくさんあるわけではないのかもしれません。・・・
 窓の外は大きく広がる空、吹き抜ける風と眩しい光、心地よいGW。 

 嘗て、国語の教師だった私、京都も奈良も修学旅行の引率で毎年のように来ていましたし、大和三山を背に、現地での歴史・古典文学の解説を行っていました。でも、引率という立場ですから、常に緊張して生徒たちの動向に目を配らねばならず、自由に旅情を楽しむという気分とは程遠いものがありました。
 今回の二か月半、改めて奈良を楽しんでみようかなと思っています。
 奈良探訪記も時々お届けしたいです。

   若草山の春
 で、早速なのですが。
 まずは奈良を俯瞰するところから始めようと思い立ち、「若草山」へ。
 若草山は、奈良公園の東側に位置する標高約342mのなだらかな山で、三つの笠を重ねたように見えることから、別名「三笠山」とも呼ばれるようになったと聞きました。下から一重目・二重目・三重目と数えられ、「順に登るのがハイキングの醍醐味」とあったのですが、まずは今回はドライブで。

 奈良奥山ドライブウエイに入るとすぐに、東大寺の全景が眼下に見えてきます。
東大寺
 新緑が山全体に柔らかく伸びやかに広がります。

 道の両側の馬酔木(あせび・あしび)が殊の外美しく、さ緑色の葉を広げていました。
 関東では箱根の山などに美しく生息していますが、何と言っても奈良には馬酔木の木が多いのです。
馬酔木1 馬酔木2
 馬がその葉を食べると痺れて麻痺してしまうと言われる「馬が酔う」灌木。スズランのような可憐な白い花をつけ何とも優雅な風情を感じ、春の訪れを告げる花木の中でも私は特に大好きな木です。

 昔、よく聴いていたさだまさしの『まほろば』という曲をふと思い出しました。

 春日山から飛火野あたり ゆらゆらと影ばかり泥む夕暮れ
 馬酔木(あせび)の森の馬酔木(まよいぎ)に たずねたずねた帰り道

 遠い明日しか見えない僕と 足元のぬかるみを気に病む君と
 結ぶ手と手の虚ろさに 黙り黙った別れ道


 恋人同士の心のすれ違いと別れを歌った曲なのですが、『まほろば』というタイトルと、歌詞から浮かんでくる春日大社の参道を覆うように広がる馬酔木の森の霊気のようなものに非常に心惹かれて、よく口ずさんでいた歌でした。

 日は昇り 日は沈み振り向けば 何もかも移ろいさって
 青丹よし平城山(ならやま)の空に満月


 と締めくくられます。平城山の馬酔木を一度見たいとずっと思っていて、大学の時に初めて、一人で奈良を訪ねたことなど、思い出します。
馬酔木3
 さて、若草山の駐車場に車を置き、頂上に向かいます。大木の間に満開の馬酔木が続く道を少し行くと、突然視界がひらけ、鹿たちに出逢いました。



 若草山2
 奈良公園の鹿は、人間を見るとすぐ寄ってきて鹿せんべいをねだりますが、ここに生息する鹿は揺るがず悠然と自分たちの時間だけを生きています。
若草山5
 逃げもせずおもねりもせず。

 奈良の人々にとっては、鹿は神の使いであり、人間と共存する存在なのだと聞いたことがありますが、まさにその言葉通りの、美しく端然とした佇まいです。

若草山3
 三重目の頂上から奈良の街が一望でき、遠くには生駒、金剛の山々、大和三山が連なります。広大な奈良盆地、どこにも高層ビルはなく、変わることないいにしえの風情を保ち続けているようです。


ここまでの「新若草山コース」で戻ってしまう車が殆どなのですが、今回は更に「奈良奥山コース」へと進みました。ここは世界遺産の「春日山原始林」の中を貫く細い砂利道です。
春日山1 春日山2
深い森の中を探索すると、遠い日の万葉人に出逢うことがてきそうです。
春日山3
 原始林とはいえ、春日大社の神山ですから、朽ちた木は丁寧に伐採されて、管理が行き届いており、散在する石窟仏には散策道が作られていますので、上級者ハイキングにもってこいなのでしょうね。

 でも、ここは深入りせず・・・・。しばらく車を走らせると「高円山コース」に至りました。



 
高円山1
 高円山は万葉歌にも多く詠まれていて、二上山や大和三山が望めます。
 高円宮家のお名前はこの地から生まれたことを初めて知りました。
 故高円宮殿下のお手植えの柊の木と並んだ枝垂桜。
高円山2

その傍らに大伴家持の歌碑がありました。

高円の秋野のうへの朝霧に妻呼ぶ牡鹿出で立つらむか



高円山3



 麗らかな五月の日差しの中の奈良は全てがゆったりと流れて心が穏やかに溶けてゆくようでした。





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事件です!

 いつの間にか葉桜となり、日一日と季節が柔らかなさみどり色に移ろう頃。

  さて、突然ですが・・・・私、振り込め詐欺に遭遇しました。
  皆様もお気をつけになったほうが良いので、ご参考までに事件の顛末を告白致しますね。

   一本の電話
 数日来、忙しさが重なって、睡眠があまり取れておらず、それがようやく一段落して、ほっと一息ついた昼過ぎ、自宅電話が鳴りました。

  「京都市役所の介護保険課ですが、保険料の還付金の件でご連絡しました。
 申請書類が届いたかと思うのですが、まだこちらにご返送頂いていません。」

  (届いている?・・・手紙チェックはいつも入念にしているので見過ごすはずはないんだけれど・・・?)

 「大変申し訳ありませんが多く徴収しておりましたので、この度過去5年に遡り返金されることになりました。3月31日が書類申請の締め切りだったのですが・・・。」

 「では見過ごしたのかもしれません。参考までに返還される金額はどれくらいなのですか?」

 「32400円です。同じように締め切りに間に合わなかった方が多くいらっしゃるので、そのような皆さんにこうして至急のお電話差し上げています。もう書類を再交付する時間がありませんので、本日中に銀行に行って頂ければ返金の手続きができますが。」

 (今日・・・?銀行に・・・?今から・・?)

 「最寄りの銀行はどちらですか。こちらから事情を話してすぐに手続きできるように交渉します。銀行の了承が取れたら銀行から確認のお電話を入れて頂きます。20分ほどでご連絡があると思いますので、お電話がありましたら、すぐ銀行に入金手続きに行って下さい」

 「最寄りはゆうちょ銀行です」

 とりあえず一言だけそう言って電話を切りました。
 そもそもこういうことの扱いは市役所ではなく区役所なのでは・・・・?
 そしてゆうちょ銀行の支店名もわからずに、一体どうやって先方と連絡を取るつもりなのだろうか?
 電話で言ってくること自体大いに怪しい・・・でも返金があると言うし・・・・?この時点で疑いは90%でした。
 残りの10%はもしや私が、通知を見過ごしていたのではという懸念から・・・・、ともかくも、急いで、改めて市役所の代表番号に確認の電話を入れました。

 「振り込め詐欺なのではないかと思うのですが、大至急確認させてください」と口上を述べたら、市役所のほうでもすぐ担当部署に繋いでくれて、迅速に対応してくれました。
 結論は、「明らかなる振り込め詐欺」
 電話の向こうと熱い会話が続いたのですが、「知らせて下さってありがとうございます。こちらでもしかるべく注意喚起を促します。ともかく引っかからなくて本当に良かったですね」というお話。

 電話を切ったら、今度は「ゆうちょ銀行サービスセンター」と名乗る相手からまた電話があり、「市役所からご連絡があり、お客様の手続きを承ります。すぐに最寄りの支店にいらしてくだされば、還付金払い戻し手続きができます。
 銀行に到着なさったらその旨この番号に折り返しご連絡下さい。ご返金受け取りの方法をご説明致します。ただし、コロナ蔓延防止の意味から対面接客を致しておりませんので、ATMの機械での操作方法をお伝えします。」

 「わかりました。」

 もちろん、この後こちらから電話は一切しませんでしたが、なるほどこんな風にして人を騙すのですね。
 どうしたものか?
 ゆうちょ銀行にもこの事実を伝えた方が今後のためになるだろう。警察にも連絡しようか・・・などと思いながらまずは最寄りの郵便局に直行したのでした。

   警官の聴取 刑事の取り調べ
 郵便局でまずは窓口の受付の方に事の経緯を話したら「よくぞ知らせてくれた」「被害にあわずに済んで良かった」と市役所と異口同音。
 それで、警察に知らせるのが嫌でなければここに来てもらうので状況の報告をしてくれないかということになり、私もその方が今後の役に立つのではと思い、快諾しました。

 5分ほどしたらおまわりさんが二人駆けつけてきました。
 でもそれからが大変。郵便局の別室でと思いきや、人の行き来する窓口での聴取となりました。パーティションを隔てて向かい側におまわりさん二名と郵便局の支店長が同席し、まずは「お名前は?」から始まり、知らない人が見たら明らかに私が容疑者で尋問を受けているように見えたに違いありません。
 小一時間ほど微に入り細に入り説明を求められ、でも最後には通報した事に大いに感謝して頂きました。色々な人に褒められた変な一日でした。

 ようやく解放かと思った時に、刑事さんまで現れ、また最初から説明のやり直し。初めに「こういうものです」と警察手帳(写真入りの二つ折り)を両手で開けて見せた仕草が、刑事ドラマそっくりで、やけに感動してしまいました。そういえば人生の中で警察手帳を見たのも刑事さんと話したのも初めての事でした。
 返金するというので振り込め詐欺ではないと信用させ、電話でATMまで誘導し、操作を指示されて何がなんだかわからなくなったところで、最後に「送金ボタンを押して下さい」という事で、結果的に振り込ませる詐欺の手口だと、教えてくれました。
 なるほど!
 最後にアンケートにご協力をと言われ、いくつかの質問もありました。
 「自分だけは振り込め詐欺などにはかからない。無縁と考えていた」という項目には即頷いたのですが、それは危険だと延々とお説教されました。
 そして、「詐欺にご用心」というチラシを頂いたのですが、なんとその中に、○○市役所を名乗る還付金詐欺の例も載っていました。
 そんなにポピュラーな手口だったのですね。
 これまで知らないでいたことがとても恥ずかしくなりました。刑事さんの言うようにもっと関心を持って情報を集めておくことがとても大切なのでしょう。

 皆様もこんなことには遭遇しないで済むことが一番ですが、くれぐれもご注意ください。


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桜花爛漫 そして悉皆

   桜花爛漫 ざわめき昇る炎

  名残の桜。
桜1 柳
  いつもの散歩道、白川沿いは柳が早緑色に柔らかく揺れていました。

辰巳明神
  辰巳大明神の粋な風情。

桜2



そして季節を謳歌する花々。
咲き誇り絢爛と舞い散る木の下には、坂口安吾や梶井基次郎の言うところの物狂いの壮絶さや妖気さえもが宿る気がしてきます。
桜はやはり格別な花木であるとしみじみ思います。

 古い書類を整理していたら、桜について綴った文章や記事などをまとめたファイルが出てきました。
 聴
 読売新聞1997年3月30日の『絵は風景』のページ。
 20年以上前の新聞なので、紙面はすっかり黄ばんでいますが、近藤弘明氏の絵画『聴』を取りあげ、当時読売新聞の編集委員だった芥川喜好氏が「桜花爛漫 ざわめき昇る炎」と題して解説しています。

 薄紅色に染まる空間を吹きあれるものがある。
 桜花爛漫の枝が騒ぎ、幹がうねる。野から立つ炎がざわめき昇る。
 枝も幹も左回りに強く渦を巻いて幹の腹のあたりに真空を生み出している。
 吹きあれ花を散らすものの正体は何か。風、と答えればいいのか。
 だがどうもここは様子が違う。外から風の吹き込んでくる気配がない。
 この桜花満開の下は外気が遮られた別種の空間だ。そこに花の発する妖気のようなものが充満している。
 むしろ霊気といおう。そう呼ぶほかない強い放射能が、渦となりすべてを巻き込んで自律運動を続けている。そんな風景に見える。
     ・・・・中略・・・・
 宗教的といわれ、いま地上的な透明感を増しつつある彼の世界を貫く、一つの感覚がある。一羽の蝶の内に身をひそめ、絵から絵へ、浄土から現実へと飛び歩く往来自在の霊的な浮遊感だ。この『聴』では、舞い散る花弁の一枚に作者の意識はある。

 古い新聞に載っている色褪せたこの一枚の絵画に心を奪われる気がしました。
 芥川氏の卓見と美しい文章にも深く惹かれ頷くばかりなのですが、桜の広がりの真下に立って桜の内に入り桜の放つ妖気・霊気に  全身全霊を揺さぶられる・・・そんな酩酊感を感じました。
 近藤弘明氏の生家は天台宗の寺社で、自らも6歳で得度し仏門にあったことからも、独自の宗教的香りに包まれているように思います。
 昔読んだ本の中の彼のこんな言葉が不意に思い起こされました。

  実の花、空想の華、いずれにしても、存在感は同一である。 現実の花は現実以上に空想的であり、空想の華は空想以上に現実的でなければならない。

 含蓄がありますね。
 絵画に限らずあらゆる芸術・学問にあてはまる真理なのではないかと私には思われます。

   悉皆(しっかい)さんに連れられて
 「悉皆」は「しっかい」と読みます。
 「一つ残らずことごとく」という意味ですが、着物の世界では、着物に関する相談を全て受けてくれる、言ってみれば、着物総合プロデューサーの意味で使われています。
 京都の街を歩いていると、所々で、この「悉皆」という文字を目にすることがあり、「洗い張り・染替え・誂染・お仕立て直し、着物のご相談何でも承ります」というような添え書があって、大体イメージできていたのですが、先日、ご縁があって、京友禅の工房を悉皆さんのご案内で見学するという機会を得ることができました。
 私の友人に東京の銀座で呉服屋さんを営んでいる女性がいて、彼女は誰でもが思わず振り返ってしまうような着物美人なのですが、数日前お花見に京都来訪。
 着物をいつも素敵に着こなすもう一人の友人と共に、京友禅の卸問屋さんを訪ねました。で、そこで悉皆さんを紹介して頂き、京友禅について様々学ぶことになったのでした。
 
 私は着物の事には疎く、着る機会もほとんどないのですが、昔ながらの伝統の技を脈々と守り続けて、多くの職人さんたちがそれぞれの役割を担いながら、長い時間をかけて一枚の着物を作り上げてゆく、悉皆さんが熱く語る京友禅のその工程と情熱に圧倒されました。
 
 「悉皆業」とは、一般的には次のような役割を担うのがごく普通であるようです。
 「長い間着ていた着物がくたびれてきたので、洗いに出したい」、「若い頃着ていた着物が派手になったので染め替えたい」、「どうしてもしみが落ちないけれど、気に入った着物なのでどうにか着る方法はないものか」などという着る人の話に耳を傾け、どのような変化を望んでいるのかを聞き出すのも悉皆業の大切な仕事になります。

 卸問屋さんや呉服屋さんは自分のセンスやお店の嗜好とぴったりする、相性のよい悉皆さんとタッグを組んでいて、生涯相棒のように寄り添い、切磋琢磨し合ってこれぞという着物を生み出してゆくのだと話されていました。
 悉皆さんは、そういう発注者の希望を実現して一枚の着物を完成するために、様々な職人さんたちを手配し、それぞれに出来上がりのイメージを伝えていくプロデューサーの役割を持っているのだということが良くわかりました。

 たとえば発注者が孔雀の絵柄の着物を注文したとき、孔雀と一口に言ってもデザインは様々あるわけで、まず構想を練ってイメージを明らかにしてゆきます。
 その発注者のイメージを具体的につかみ、好みを尊重しつつ、更に出来上がった時、最も美しくしっくりと着てもらえるように、どのような色合いと図柄が一番しっくりくるのか、まずは下絵師さんに具体的に提案するところからスタートするのだそうです。

 下絵師さんの工房に連れて行って頂きました。
 まさに孔雀の発注を前にして白生地にデッサンをしていらしたところでした。
 足元に積み上げられた鳥類の図鑑・東西の画家たちの多数の画集・・・・動物園などに足を運び、孔雀を観察することはもちろん、陶器や洋食器などの絵付け、絵巻物などに至るまでかなり研究して独自の発想を得る手掛かりにすると語っておいででした。

 下絵を初めとして、京友禅の制作過程は標準的には19の工程を取るのだそうです。
 この日、何人かの職人さんの工房にお伺いし興味深いお話をゆっくりとお伺いすることができましたが、でも、すべての工程をお訪ねするにはかなりな日数を要しそうです。 
工房2
 工房では写真撮影が憚られて、ほとんどシャッターを切ることができなかったのですが、唯一撮らせていただいたこの写真は、印金加工と言われる金箔や金粉を描かれた絵に添って接着加工する金彩(きんさい)という作業をなさっているところです。

 この後刺繍を施す工程が待っているそうですが、刺繍の職人さんがどこに刺繍を入れてくるかを類推しながら、それを邪魔しないように生かすように金を配置しているとおっしゃっていました。


    工房1
 金彩は金彩、刺繍は刺繍、それぞれ別の職人さんが、ごく一部分を請け負っているのに、それぞれが一枚の着物という宇宙を見て生きている、そんな風に感じ、こうして培われてきた日本文化の奥深さ、伝統の力を心底実感したひとときでした。
 時間や労力やお金がかかる伝統が急速に廃れていく時代ではありますが、捨ててはいけないものがあることをしみじみと思います。

 冒頭でご紹介した近藤弘明氏の言葉

 実の花、空想の華、いずれにしても、存在感は同一である。 現実の花は現実以上に空想的であり、空想の華は空想以上に現実的でなければならない。
 
 この言葉の精神を友禅職人さんたちの中にも見た気がしています。




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