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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

バーモントからの便り

   お地蔵様とマリア様
 京都の自宅のすぐ近く、ビルとビルとのすき間にお地蔵様が祭られていて、早朝散歩に出かける頃、近隣の方がたいていお水やお花を取り替え、手を合わせているのに遭遇します。
お地蔵様
 お地蔵様のほうがずっと前からあり、そこにたまたまビルが建ったのでしょう。ビルの窪みにはまり込む様に、そっと残したのだと思われます。

 近くの錦市場の商店の方たちもこの前を通るとき、一様に手を合わせていて、時としては小さな花挿しに溢れるくらいたくさんお花が飾られていたりします。
 道端の小さな信仰はこのような時代でも変わらず生き続けていて、きっとご来光を仰いだり、お天道様を見上げたりするのと同様の自然で柔らかい想いなのだと感じます。

 今朝、お地蔵様の前を通った時、なぜか突然、ニューハンプシャーの道端にマリア像があったことを思い出しました。
 大きな教会に安置されているのではなく、お地蔵様のように何気なく路傍にあって道行く人を見守っている像。
マリア像
 以前米国ボストンで暮らしていた頃、友人を訪ねて、バーモントへのドライブする道すがらのことでした。

 当時の写真が残っていました。
 メープルの並木が一斉に黄葉してとても美しい景色、何気なく目に飛び込んできたマリア像が印象的でした。
 お花がたくさん供えられて、日本のお地蔵様、道祖神と同じなのだなと感動したのを思い出します。

 難しいことを祈祷するのではなく、日々の無事に感謝してただ手を合わせるだけ、それが似合う気がしました。

   バーモントからの便り
 以心伝心だったのでしょうか?
 そんなことをふと思っていたら、そのバーモントの友人Kさんから長いメールが届きました。

 彼女はあれからずっとアメリカで教鞭を執っていて、今はバーモントにあるミドルベリー大学で素晴らしいキャリアを重ねています。

 コロナ禍の中にあってアメリカは感染者数も格段に多いですし、どうしているか、いつも心配でなりませんでした。

 昨年の6月の清水寺でのコンサートにはご主人、ご主人のお兄様ご夫妻と共に、わざわざアメリカから駆けつけてくれました。
 お兄様たちもご主人も日本語があまりわからないのに、満席の中に身を寄せ合って、じっと熱心に耳を傾け聴いて下さっていました。
 その後、皆で和気あいあいと食事をしたことが、遥か昔の夢のような気がします。
 ああいう日がまた戻ってくるのでしょうか。考えると胸が痛くなります。

 現在、Kさんの大学も休校で、かなり前からオンライン授業になっているようですし、厳しい自粛生活を余儀なくされている様子が手に取るようにわかります。
 毎年、お嬢様と共に、ご実家に帰省されて、そのタイミングで私も年に一度、七夕様みたいに浮き浮きとお会いしていたのですが、それも今年は叶わなくなりました。
 地球の向う側で、皆それぞれ頑張っていることへのエールを込めて、ここに抜粋しながらご紹介したいと思います。

 ご連絡ありがとうございます。ご無沙汰しております。
 夏帰省のための日本への切符、ぎりぎりまで待っていましたが、泣く泣くキャンセルしなければいけませんでした。

 私も去年の京都旅行の写真を見ながら、懐かしく思っていました。大変お世話になり、ありがとうございました。今このような状態にいると、あの時の一つ一つの思い出がいとおしい奇跡のように思われます。

 三月のボストンでの学会は中止になり、大学は春休みを一週間早めて学生をキャンパスから出させて、普段より一週間長い二週間の春休みの後、オンライン授業に切り替わりました。西海岸やアジアに帰った学生もいたので、授業時間も増えたり変更になったりと、テクノロジーの面でも慣れないことばかりで六週間の授業とその後の試験期間を無我夢中で駆け抜けた感じです。その後も秋の準備のための会議とワークショップがZoomで続いています。

      ・・・・・・・・・

 バーモントは人口も少ないこともあり、比較的恵まれたほうだと思います。それでも、スーパーへは週に一度、なるべく人の少ない時にと、店が開く午前7時ごろマスクをして、それでもドキドキしながら行っています。天気がいい日は、ガーデニングをしたり、近くを散歩、ハイキング、自転車などと、あまり人に会わずに外に出られるのはありがたいです。

 大学は(恐らく経営面から考えて)学生達をキャンパスに迎え入れることを決めたのですが、秋の授業形態は先生方一人一人選べることになりました。私は、春学期後半の大変さを思い出すと迷う部分もあるのですが、安全面を考慮して今のところ、8月までの時間を使って準備を進めて、なるべく遠隔でやりたいと考えています。
   ・・・・・

 この後、一人娘のYちゃんの近況が綴られていました。
 Kさんとはボストンで短い間でしたがルームシェアしていたこともあり、ご主人との出会いも知っていますし、お二人の結婚式にも立ち会いました。
 現在まで変わらない親しいお付き合いの中で、Yちゃんは生まれた時からずっと見てきましたので、なんだか自分の血を分けた肉親、娘のような気持ちがします。

 幼いころから聡明な女の子で、現在はハーバードの大学院で公衆衛生学を習得し、世界に貢献しようと新たな旅立ちの時に立っています。
卒業式
 奇しくも、私とKさんが出会ったのもハーバード、いつの間にか長い年月が経ったのだなと思います。
 この6月がYちゃんの大学院の卒業式でしたが、コロナで通常の卒業式ができず、オンライン卒業式となったそうです。このお便りの最後に載せてあったYouTubeを早速見ましたが、卒業生一人一人の名前が呼ばれ、それぞれの写真が公開されています。
 赤ちゃんの頃から見てきたYちゃんの凛々しく成長した、でもいつもの可愛らしい笑顔がモニター一杯に映し出され感無量でした。
最後に卒業生たちが旅立ちの歌をオンラインでそれぞれ合唱し、それが美しい一つのハーモニーとなって流れました。

 Yちゃんに、そして卒業生の皆さんに、こんな状況だからこそ、更に幸多い出発となってほしいと心から祈ります。

   おまけのお話
 自粛生活の中で頑張っている彼女に陣中お見舞いと思い、京都の美味しいもの便を色々詰め合わせて、勢い込んで郵便局に持っていきました。
 早くて確実なEMS便でいつも送っているのですが、窓口で「アメリカ便をお願いします」と出したところ、受付の女性は「ちょっとお待ちください」と奥に引っ込んで何やら調べもの。戻って来られると「現在アメリカ宛ての航空便はすべて受け付けていません。船便でよろしければ。でもこの時期ですので、船便も3~4か月??・・・何か月かかるかは保障の限りではありませんが」と言われてしまいました。
 しばらくこのままにして、航空便解禁の日を待とうと思いますが、うかつにも、この事態は想定していませんでしたので、本当にびっくりです。
 皆様も外国便を発送する場合には、事前情報を収集なさってくださいね。

 いつもなら何気なく行っていることも、こんな風に滞ってしまうのですね。
 コロナが世界を包んでいることを改めて実感します。

 早く落ち着きますように。




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ドール ドール

 昨日は節分、そして今日は立春、旧暦の新年ですね。
 京都の節分と言えば、まずは吉田神社、前に紹介記事「鬼の行方」を書いたことがありました。今年は所用があり、参拝は叶いませんでしたが、でも家で豆まきはしっかりと!
 我が実家では、昔から何故か豆まきは欠くべからざる大事な年中行事となっていました。三つ子の魂で、年を経ても、私も弟も今もその習慣だけはきっちりと守っています。
 立春は、清々しい気分で。
 一年の安寧と健康を祈りたいと思います。

   人形作家との出会い ~ 『こもれびの詩』
 米山京子さんをご存知でしょうか。
 人形作家として大変ご活躍なさっておいでの方なのですが、そのお人形を見れば、「ああ!!」と多くの方が思われるのではないでしょうか。
 いつか見たことのある優しく愛らしい表情、それぞれのお人形にそれぞれを包むメルヘンが漂っていて、心和む世界に引き込まれます。

 私はずっと前から米山京子さんのお人形が大好きで、こういう世界を生み出される方はどんな方なのかしらと、憧れを持って感じていました。

 ところが、思いがけぬご縁。
 知人の紹介で、昨年一月の市ヶ谷での「雨の日の物語」コンサートに京子さんとお嬢様のマリさん、お二人でいらして下さったのが最初の出会いだったのです。
 終演後、満面の笑みで優しくご挨拶して下さったご様子が、はっきりと浮かんできます。
 お母様とお嬢様、お顔立ち・しぐさまでどこか似ていらして、お二人ともあどけない童女のような第一印象がありました。

 その後、ご自身のお仕事や日常について綴られたエッセイの中で、この日のコンサートのことをこんな風に記して下さいました。

 雨の多い季節になり、雨傘を開くたびに、今年の初めにうかがわせていただいた松峰綾音さんのコンサートを思い出します。
 シャンソンと朗読で綴る「雨の日の物語」、松峰さん訳の歌詞からも、名作の一場面からも、情景や登場人物の様子が、まるで映画のワンシーンでも見るように浮かんできます。
 客席も一緒に大合唱で終わったコンサートは感動的で、年明けから貴重な経験をさせて頂きました。   ・・・中略・・・
 松峰さんのコンサートでいただいた感動がまた明日へのエネジーになりました。

 
そして昨夏に一度、三人でご一緒にティータイムを過ごす機会を得、初めてとは思えないほど打ち解けて、楽しくお話をさせて頂いたのでした。

 京子さんとマリさん、そして私、思わぬ共通項がいくつもあって、例えば無類の猫好きであること、おっちょこちょいな失敗が結構多いこと、他愛なく和やかな日々の話、その中で、お人形という有形なものを生み出す衝動やその工夫や喜びなど、創り手としての矜持、気概も、共感できる話題でした。

 京子さんがイマジネーションを駆使して紡いでゆく物語が鮮明であればあるほど、その中で、主人公であるお人形は生き生きとその命を生きるのだと思いました。
 創造とはそういう事なのでしょうね。
 私の場合は言葉が対象となっているわけですが、同様の感覚の中にいると感じられます。
こもれびの詩
京子さんは『こもれびの詩』という<人形絵本>を出版されているのですが、私はこの本が大好きです。
 美しく撮影された人形たちの写真が、生きているように瑞々しくそれぞれの表情を捉えています。
 夏のティータイムを包んでいたのも、眩しい木々の木漏れ日でした。

 人のご縁というものは本当に不思議なもの。
 20年も前から一方的にファンだった方と・・・。

 お嬢様のマリさんはお母様と同じ道を進まれて、お二人は良きパートナーとして、お互いの独自の世界を深め合っていらっしゃいます。マリさんはお人形作りに、イギリスで本格的に修得なさった刺繍の技術と手法を加えて、素敵な作品を沢山作っておいでです。
 とても仲の良い母娘であると共に、肝胆相照らす相棒でもあるのですね。

   情念とメルヘン
 昨年暮れ、お二人からお人形をプレゼントして頂きました。
 お人形に寄り添っているのは可愛い子猫。
こまりちゃん
「是非名付けて下さい」とのメッセージに応えて、女の子は「こまりちゃん」、子猫を「毬太郎クン」と命名しました。
 可愛くて見惚れていたら、自然に子供の即興でたらめ歌みたいなメロディーと詩が浮かんできて、それがどうしても心から離れなくなり、ついに『こまりちゃんのティータイム』『おはよう毬太郎』という歌を作ってしまいました。
 怪しげですが結構お気に入りで、気がつくと声に出して歌っています。勿論、門外不出ですが・・。

 「同じお人形は決して作りません」
 「どれもみな、世界に一体だけのお人形」というお言葉に感動します。
 どんなに心を込めて、時間をかけて、作り上げていらっしゃるのでしょう。

 日本人形でも西洋人形でも、「人形には魂が宿っている」とよく言われます。
 リアルな人の形に、人の情も投影させているのでしょうね。
 そういえば、市松人形やお雛様なども、歳月が経ったものほど、何か秘めたような奥深い表情が感じられる気がします。
 西洋人形でも同様で、極端な場合には、「死んだ子供の生まれ変わりのよう」などという神秘的なお話に繋がってきたりもします。

 仏師が最後に仏像に全身全霊をかけて命を吹きこむように、人形作家も、作品にかける思い、自らの情念のようなものまでも人形に込めようとする、そんな精神世界があるのかもしれません。
 こういう一体一体の持つ圧倒的な個性、凄味は人形ならではの魅力、醍醐味と言えるのでしょう。

 でも一方で、その対極に、できるだけ無色のまま、作り手から委ねられて受け手が自由にイメージを膨らませてゆくということもあるのではという気がするのです。 
メルヘンの本質はそこにもまたあるのではと、・・・・我が家の「こまりちゃん」と「毬太郎クン」を見ながら、そんな人形私論に心を巡らせてみたのでした。
ドールドール

 「おはよう毬太郎」を心地よく歌うことを許してくれる京子さんのお人形の愉しさを満喫しています。


 「ドール ドール」というのは、米山京子さんのWEBサイトのタイトルです。



 追記
ケーキの人形
 数日前、こんな美味しそうなケーキのお人形をプレゼントして下さいました。
 イチゴタルトとチョコレートケーキ、そしてそれを見ている可憐な女の子です。
 ケーキを乗せている美しい刺繍のマットはマリさんの作品です。
 見た途端、或るアイディアが閃きました。
 実現したら、すぐにご報告致しますね。


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「勝手にファン倶楽部」

 9月に入りました。

 ブログを書いている今、まさに大型の台風21号が暴風雨を伴って通過しています。
 そして、地を叩きつけるように激しく降る雨音、いつもなら勢いのある雨は小気味良くて嫌いではないのですが、台風となると話は別、・・・どうか、各地に深刻な被害をもたらしませんように。
 皆様、充分お気をつけになってくださいね。

 戸締りをしっかりとして、懐中電灯とキャンドルを脇に並べながら緊張していますが、でもこんな日だから、楽しいご報告をしたくなりました。

   「松峰綾音さんの練習風景」
 前回の記事『夏の軽井沢 落葉松の中で』で、軽井沢の音楽仲間のことをご紹介致しました。
 実際に顔を合わせるのは7~8月の間の数日だけなのですが、職業も年齢も異なる方たちと、自然に集まり語らう時間を持ってから、いつの間にかもう数年になるかと思います。

 今年は『落葉松』の動画制作をして下さったのですが、実はそれを撮影しつつ、密かなるサプライズが更に二つ用意してあったのでした。

 一昨日、突然一本の動画と説明メールとが届き、本当にびっくりしてしまいました。

 皆さん時々挙動不審で、何だか怪しい??とは感じていたのですが、まさか、こんなメイキングビデオを編集していらしたとは驚きです。
練習風景2
 普段過ぎる顔を人前に出してはいけないのではと、とても戸惑ったのですが、「もう完全に出来上がったので、OKと言えばすぐUPするから」「飾らない顔を見せるのは大事だから」「傑作だから是非載せよう」等々、半ば強引に押し切られてしまいました。
練習風景3
そして、私のWEBの動画集に加えたのは「松峰綾音さんの練習風景」
と題されたこの動画です。
 私的過ぎてごめんなさい。
 でも何度も見ているうちに、今は、自然な自分がそのまま現れているのも素敵なことかもしれないと感じてきましたし、この夏の幸せな時間が蘇って、何より、皆さんで関わって下さった時のワクワクする楽しさをお伝えできたらと思っています。

 「勝手に松峰綾音ファン倶楽部」
 この動画の最後に「勝手に松峰綾音ファン倶楽部の面々」とキャプションがついていますが、これが二つ目の嬉しいサプライズだったのです。

 筆頭にある「動画好きの隣のオジサン」はこの動画を企画し作成して下さったいわば仕掛け人。
 皆様、様々な分野で活躍していらっしゃる方たちばかりなのですが、「アッシらは名乗るほどの者ではござんせん」(ちょっと紋次郎気取りでした)と各々が勝手に考案したWEBネームでご登場です。
 
 「松峰さんには関わりなく、すべて自分たちで勝手に思いついて行動し、蔭ながら応援するファン倶楽部をねつ造」との告知もありました。

 「勝手に松峰綾音ファン倶楽部」の発足は2018年8月21日なのだそうです。
 「落葉松」の動画を作って下さった、そしてカレー定食を皆で食べたあの私の誕生日です。

 冗談が大好きな明るい方たちばかりなのですが、その個性に圧倒されて既にボチボチと会員が増え始めている気配です。
会則もできているそうなのですが、私には何も教えて下さいません。
 
 「ファン倶楽部」などと言って頂き、畏れ多く恐縮するばかりなのですが、人とのつながりの中で様々な出会いがあり、こんな風に温かく応援していただけるのは、本当に幸せなことだと心から感謝しています。

 そして先日、「動画好きの隣のオジサン」が、「「某FM放送局の某ディレクター」を「勝手にファン倶楽部」会員にお誘いしたいので、まずはご紹介から」とランチタイムを設定してくださいました。
Tさんと
 三人でのお食事風景。
 FM軽井沢のT氏です。
 ご了承を得ましたので、ツーショットを載せさせて頂きます。
 
 ラジオの魅力について思いを込めて語ってくださり、放送界におけるご自身の役割や仕事に対して、誠実で真っすぐな矜持を持っていらしてとても清々しく素敵な方でした。

 あっという間に時間が過ぎ、「続きはまた今度!」
 こういう、さらりとして温かい邂逅って得難いですよね。

 そして、WEBネーム「ミキサーこと動画編集人」さんからも、こんなコメントを頂きましたので、ご紹介致します。
 「ハリウッドが常用している動画アプリを僕も使っていますが感性がなかなかついていけず、目下、必死で動画編集に取り組んでおります。今後も磨きをかけますので、来夏も是非ご期待ください。」


 夏も終わり、気が付けば9月23日の東福寺採薪亭演奏会が近づいてきました。

 残暑の京都ですが、しっかりベストを尽くしていきたいです。
 

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正伝寺 月見の宴

   月見えぬ夜の楽しき宴
 先日の日曜日は、正伝寺での恒例の十三夜の会でした。(正伝寺でのお月見の会については以前の記事でご紹介しましたので、こちらもご参照ください。→ 「観月の宴 ~正伝寺の十三夜~」

 今年もお招きを頂いて、伺おうと思っていた矢先、台風の到来予報で逡巡していたのですが、主催者のYさんから、「明日雨の様ですが、お月見実行します。雨のお月見楽しみましょう。風流ですよ。」とのメールを頂きました。
 あるがままを自然に受け止めて、動じない、そしてその中で、全てを慈しんで楽しむことのできるYさんの柔和な笑顔が、短い文章からも伝わってきて、引き寄せられるように正伝寺に向かったのでした。

 18号の直撃を受けるのではと懸念され、午後も激しい雨が降っていましたが、夕刻には降り止んで、正伝寺は静寂の中にありました。

 雨に洗われた参道。
正伝寺への参道  秋草の庭
 秋草がそっと咲く寺社の庭。

 早く着いたので、まだ境内はがらんとしています。
雲海にかすむ比叡

 静かな縁先の枯山水の庭園に、借景となる比叡の山が水墨画のように薄墨色で稜線を描いています。
 
 低い雲に覆われた空の奥には、うっすらとした光すら感じられて・・・、これなら今にも月が姿を現しそうです。

宴の前
 宴席は、例年通りに、本堂の長い縁側に、テーブルを合わせてしつらえてあります。

 お弁当、飲み物など並べているうちに、やがて、三々五々皆様が集まり、25名の参加申し込みに対して、1名の病欠があっただけという優秀な出席率で、これもひとえにYさんの人徳に寄るところなのでしょう。

 一年に一度集う、月を見るための仲間。
 
 盃を酌み交わしながら秋の冷気に包まれて、月が上ってくるのを無心に待つ仲間。
 
 それでも顔を合せていると不思議な懐かしさを感じる仲間。

 一期一会の人の世の、束の間共有する優しい時間が流れて行きます。

 年齢も職業も・・・・建築、まちづくり、美術、音楽、様々な関係の方々がいらっしゃって、この1年間のできごとを混じえた自己紹介も、それぞれがご自分の世界を楽しげにお話されて、言葉の中にその方がこれまで培っていらした時間の重みが感じられます。

 私も自己紹介を。
 「では一曲是非ご披露を」との皆様のお声に、あまり固辞するのも折角の宴の中で、という気もして、アカペラで、『街』を歌ったのでした。
 今度の『街の素描』コンサートでも取り上げることになっている曲なのです。
 でも、お寺の縁側で、暗い夜空に向かって歌った『街』は、これまでとはまた違った格別な感慨がありました。
 自分の歌う声が、しみじみと夜気に溶け込んでゆく気がして、声が遠いところに響き渡ってゆくようなちょっと不思議な哀切感とでも言うのでしょうか。
 今度のコンサートのステージで、きっとこの『街』を思い出すような気がします。

 そして、これも恒例の歌会。
 それぞれが一首を詠み、その歌を読み手が名前を伏せたまま次々に披露してゆくという趣向です。

   荒れ狂う 火山の猛威 逝(ゆ)きし人を 悼(いた)みて 今宵 雨空眺む

 拙歌で恥ずかしいですが、不思議なくらい静まった濃紫色の空を眺めていたら、自然にこんな言葉が浮かんできました。

 ついに、月は出てこなかった夜、でも、コンサートで忙殺されていた日々の中で、夢のように心穏やかなひとときとなりました。

 
 昨日今日は、台風一過の秋空ですね。
 でもまた、今週末は、19号が。
 災害に見舞われ、心痛むことの多い今年ですが、再び大きな被害など出ないようにと、祈るばかりです。

 そして18日、コンサート本番は10日後と迫ってきましたが、穏やかで過ごしやすい一日であって欲しいと心から願います。

 「雨もまた良し。あるがままを味わう。」という境地からは、甚だ偏狭な願いかも知れませんが、でも、今から、てるてる坊主を作ってしまいそうです。

 
   京都公演も始動しています
 まずは今、目前にある内幸町ホールでのコンサートに全力を注ぎ、集中してゆく時期になっています。

 そのような中、京都公演のフライヤーが出来上がってきました。
京都公演フライヤー

 12月13日(土) 14時30分開場 15時開演です。
 ピアノは坂下文野さん。そして、ヴォーカルの石川歩さんも共演して下さることになりました。
 フライヤーは、コンサートイメージにこだわって、東京と同様のワンピース姿の写真で。少し夏っぽいですけれど。

 コンサートツアーといっても、演奏者も編成も異なりますので、これからアレンジやステージの構成を検討し直すことになります。
 東京公演が終わったら、本格的にスタートです。
 
 
 
 今日、健康チェックをしに、クリニックに行ってきました。
 お世話になっているF先生、笑顔がチャーミングな素敵な女医先生で、温かいお人柄の、とても信頼できる方なのです。
 いつもコンサートにいらして下さり、「楽しみにしています。これからもずっと続けてね。」との温かいお言葉、今回も、チケットの一枚目をF先生にお渡しして、京都公演の準備が幕開けとなりました。

 京都公演の詳細については、また改めてお知らせしたいと思っています。


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写真の中の夏(2) ~浅間高原にて~

 相変わらずの天候不順で、各地に豪雨による被害も頻発しています。
デング熱やエボラ出血熱などの、少し前までは考えもしなかったような病まで、身近なものとして警戒せねばならぬ昨今、「それもこれも温暖化の影響で、急激に自然環境が変わってきているためなのでは」と、日常の挨拶代わりに皆がそんなことを口にするようになってきました。
 けれど、そんな日々の中でも、涼やかな秋風は吹き、季節は確実に巡っていることを感じます。

 コンサートの準備にいよいよ加速度がついて、目下、疾走中なのですが、つい先程、プログラムの草稿を書きあげて、今、心地よい解放感に浸っています。
 明日は、バンドのメンバーが一堂に会しての音合わせがあり、それを考えると気合が入りますが、だからこそ、<忙中閑有り>の、こういう時間は、ほっとします。
 ひと休みしながら、前回の「写真の中の夏(1)~横浜にて~」の続編を記してみることに致します

   晩夏 浅間高原にて ~語らいの時~
 前回の記事の中で、カメラマンの沢木さんと夏の初めに、横浜へ撮影に行ったことをお話しました。
 彼女のシャッターを切る時の生き生きとした集中力や、写真について何気なく話して下さる言葉に、とても興味を惹かれたのですが、今回は、この夏のもう一つの写真のお話をしようかと思います。

 以前ご紹介した記事「ライムソーダの夏」に繋がるのですが。
 偶然のご縁で、或る写真家の方、Aさんと懇意になったことは、既にお話した通りです。

 そのAさんから、「面白い友人を、是非ご紹介したいから、良かったら皆でお茶でも一緒に如何ですか」というお招きを頂きました。

 Aさんの夏のお住まいは、「山男」さんのご自宅に近い浅間高原の一角にありました。
 高台に建てられた、しっとりと落ち着いた山の家、眼下に沢が流れて、間断なく聴こえてくる柔らかい水音と、木々の間を行き交う小鳥の声とが、心地よく混ざり合い、こういう音を聴いているだけで、うっとりと心が解放されます。
 夏木立の緑と、抜けるように広がる青空がリビング一面に開けて素敵でした。

 ご紹介して下さったお友達は、Aさんのご著書の編集をずっと手掛けていらっしゃるという編集者の方でした。美術関係の出版だけでなく、幅広いジャンルに関わって、ご自身で執筆もなさるとのこと、穏やかな物腰と、言葉を選びながら、でも率直に気さくに話されるご様子に、すっかり打ち解けてしまいました。
窓辺の語らい
 訪れた二人で、しばし、Aさん宅のリビングからの眺望に見入っています。
 撮影はもちろんAさん。
 写真の中から、「川の音が聴こえますねえ」「俗世を忘れて気持ち良いですねえ」という会話が聴こえてきそうです。

 私の歌を是非!というAさんのリクエストで、コンサートの時のCDをお持ちしたのですが、お二人の静かに耳を傾けて下さる様子に、何とも言えず温かい気持ちになりました。
 編集者の方、Oさんは、歌詞の内容や言葉についても、「この表現はとても面白い」とか、「フランス語の原詩でもこういう言い回しをしているのですか?」とか、感想や質問を熱心に伝えて下さいました。
 どこがどう面白いかまで、的確に語って下さる方にはそうそう出会えません。しかもそれが的を得ているので、訳詞家松峰としては大満足、すっかり意気投合してしまいました。
 一度歌を聴いただけでは、なかなかそこまで味わい切れないのが普通ですが、やはり言葉と関わり、言葉を相手にお仕事をなさっていらっしゃる方は違うのかしらと思います。

 大学時代、国文学科の級友たちと共に、喫茶店で文学論を戦わせ時を忘れた、そんな頃を彷彿とさせるような懐かしさ、居心地の良さを感じました。
 Aさんの撮影秘話や、ライフワークのお話。
 Oさんの出版、編集関係のお仕事のこと。
 私のシャンソンと訳詞に関わるよもやま話。
 真面目に、時にユーモラスに語り合い、楽しいひと時でした。
インタビューアー?
 Oさんと、話が弾んでいる様子をカメラが見事に捉えています。
 アップで写っていて恥ずかしいですが、でも、とても楽しそう、インタビュアーみたいな表情をしていますね。

 Aさんの傍らには、いつもカメラが置かれて、まるでAさんの一部であるかのように、ちょこんと端座しています。
 それで、カメラを構えていることを全く感じさせず、いつの間にかシャッターが切られます。その一連の動きそのものが、もう既に美しく、感じ入ってしまいました。

   美味しい写真 三葉
 「雨上がりで、もみじが鮮やかで綺麗ですね」そうおっしゃりながら、何気なくこの一枚。

    雨上がりのもみじ

 先程までの雨も降り止んで、一すじ射してきた陽射しも、風にはじけて飛びそうな水滴も、皆、喜んで躍動しているように写っています。

 「ライムを切ってくれますか。」
 「はーい」
ライム
 ただ、切っているだけの写真なのですが、写真を見ていると、いっぱしの料理人になった気がしてきます。
 ライム色は、私のこの夏のシンボルカラーとなりました。
 酸っぱい香りが写真一杯に香ってくる美味しそうな一枚です。

 そして、この一枚。
美味しそうに盛られたおつまみ
 既におつまみ状になって売っているチーズをただお皿に並べただけなのですが、何だか、素晴らしくて感激です。
 コロコロと転がってきたようなライムが向こうに写っているのも憎い。

 沢木さんの「お皿だけでなく傍らのものを一緒に写すと美味しそうです」の言葉が思わずよぎりました。

 <素敵な写真を撮る秘訣は?>との私の質問に、Aさんの言葉。
   「写真は、静止したものを撮るのではつまらない。
   人でも物でも、対象の動き、間断のない動きの一部を切り取って、その一枚から、更にどこまでも続いてゆく躍動が伝わることが大切。」

 奥が深いですね。
 一葉の写真から、声や音が聴こえてきたり、光や影の動きが見えたり、限りなく続く人の躍動感を捉えたり、・・歌も、歌い終えた後に、想像の世界や余韻が限りなく広がってゆくものでありたい・・・どこか重なる所があるのを感じました。

 そんな素敵な出会いのあった今年の夏の終わりでした。
 


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写真の中の夏(1) ~横浜にて~

 9月になりました。
 残暑の中にも、どこか秋めいた朝夕の風を感じます。
 「稲の穂先が黄色く色づき始めて、やはり秋なのだなと・・・」と書かれた友人の便りにはっとさせられました。季節は確実に移っているのですね。

 最近、なかなか記事を更新できず、申し訳ありません。
 今年は夏バテもせず、体調は万全なのですが、コンサート関係の諸事が今一度に動き出して、かなり時間に追われている状態です。

 ご案内状やチケット発送などのお手紙三昧の日々、そして、コンサートの構成・演出の検討、事務的な諸事、プログラム冊子の原稿執筆、何よりも曲を完成させてゆく時期でもあり、コンサートをするからには、当たり前なのですが、多岐に渡る事柄のどれもが必要で、こういうプロセスを楽しみながら平常心で乗り切る力がいつも自分に試されている気がします。

 9月はそんな種々の課題と向き合いつつ、何よりも自らに挑戦してゆく時。
 健康でそういうことに邁進できる恩恵に感謝しつつ、ベストを尽くしたいと思います。

   初夏 横浜にて ~フライヤーの写真~
 さて、この写真、今度のコンサート『街の素描』のフライヤーに使用したものですが、実は、結構、反響=質問がきているのです。
街のそぞろ歩き
  一般的に、コンサートポスターには、歌い手の顔写真をメインに据えるものが多いかと思うのですが、私の場合、何となくそれが憚かられて、これまでは、小さく顔を載せるに留めていましたので、今回は異例中の異例、勇気ある決断でした。
 
 『街の素描』というコンサートタイトルから、<素顔のまま、自然に歌の世界をデッサンしてみたい>というような思いもあり、それなら、普通に街を歩く姿を、と思い立ったのでした。
 着慣れた白いワンピース。
 さすがに何となく恥ずかしくて、この夏は、クローゼットにしまい込んでいます。

 質問<その一>
 「いつもの服でいつもの顔で、どういう心境の変化?」という鋭いご指摘へのお答えでした。

 質問<その二>
 「パリ?それとも日本?」。
 <パリにも見えて、大成功!>と密かに大喜びしているのですが、以前ご説明しましたように、撮影場所は横浜なのです。
 「後ろの何人かが何となく日本人ぽく見える」とか、「ランドマークタワーに似たビルが後ろに写っているのでは?」とか、  「うっすらとした道路標識が日本語のような気がする」とか、皆様、それぞれ鋭い観察力で感服です。
 凝り性の私ですので、必要ならパリまででもの勢いはあるのですが、でもごく普通の街で素敵な雰囲気が出せれば、それは却ってお洒落でもあるわけで、そういう意味でも、とても気に入っている写真なのです。
窓辺からの街

 『街の素描』ポスターにどちらを使おうか迷ったもう一枚の写真をご紹介します。

 窓辺で街をじっと眺めている、そんな写真です。

 質問<その三>
 「どのように撮影したの?」。
 初夏の早朝、横浜、少し小雨の降る中、カメラマンの沢木瑠璃さんと撮影助手を引き受けてくださったMさんと私の三人で、いくつかの写真スポットを巡りました。
 フライヤーの写真は、山下公園通り周辺での撮影です。
 朝で人通りはまばらだとはいうものの、人が途切れる時を見計らって、何度か同じ道を行ったり来たり・・・。
 プロのモデルではありませんから、照れくさくて妙に居心地が悪く、何ともぎこちない動きとこわばった表情になってしまいます。

 でも慣れは恐ろしいもので、繰り返しているうちに、程なく少しずつ平気になってくるものなのですね。沢木さんの自然なリードと、Mさんの的確な心配りのお陰で、写真を撮られているという意識も次第に消え、歌の主人公になったような楽しい気分での撮影でした。

   「あっ、素敵だなと思う時」
 私は昔から写真の観賞眼は結構あるのではと密かに自負しているのですが、撮影に関しては全くの素人ですから、常々機会があれば基本だけでも習いたいと思っていました。
 
 絵画のように、無から有を生み出す創作とは違って、写真の場合、対象は既に目の前にあるわけですが、レンズ越しにそれを如何に捉えるか、どう切り取って一葉の写真に焼き付けるのかという、カメラマンのセンスと感性にかかってくるのでしょう。
 対象の何に心を動かされるのか、どんな瞬間を撮りたいと思うか、そこには撮影者自身が投影されるのでしょうし、でももしかしたら、そういう撮影意図も忘れ、無心にシャッターを切る時、偶然に生み出される「この一枚」という僥倖もあるのかもしれません。
 勿論、その偶然自体も撮影者によって導き出される必然なのでしょうが。

 コンサート写真はこれまで沢木さんに撮って頂いていますので、彼女から、写真の魅力に触れる機会も多く頂いているわけです。
 彼女の写真の一番好きな処、それは「対象に対しての慈しみがある」ところかなと思います。
 「対象」は人であったり物であったり景色であったりするわけですが、いずれにしてもじっと心を澄まして、そのものの美しいところを繊細に捉えて、温めるようにシャッターを押していらっしゃるように思います。

 「写真はお料理と同じ。どの味が正解ということはないんです。
 それぞれの人がそれぞれにしか出せない味を出す。それを大切にして楽しんでゆくことが良いのではと思います。あっ、素敵だなって思う時を逃さずシャッターを押す。素敵さを一番生かすにはどうすればよいか、そこから工夫も生まれてくるのでは。」
との言葉が印象的でした。

   美味しい写真
 撮影も終わってほっとした後のお食事は、外人墓地近くの瀟洒なレストランでした。
 皆で盛り上がりながら、出てくるお料理を撮影。
 オードブル、そしてデザート。
   撮影終了後のひと時のレストランで    デザート
 彼女の写真です。
 一口アドバイスは、「そのお皿だけ取るのではなく傍らのフォーク、ナイフとか、カップも一緒に奥行きを出しながら写すと美味しそうです。」
 「そのお料理の中で何を一番撮りたいか、心が捉えるポイントにピントを合わせてみると良いです。」

 受け売りのワンポイントレッスンでした。
 試してみてくださいね。

 今年の夏は、こんな写真撮影からスタートしたのでした。
 次回は、もう一つの写真のお話をしたいと思っています。



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ライムソーダの夏

 数日前の京都の豪雨、想定外の雨量の為、管の中の空気が押し上げられ下水管が破裂するというアクシデントとも重なり、全国ニュースにも大きく取り上げられました。

 私の住まいもニュースに報じられた中京区ですので、色々な方からお見舞いメール等頂きました。
 ご心配をおかけ致しましたが、幸い被害に遭遇することなく無事でした。
 夢だったかのように、また残暑厳しい毎日が続いていますが、まだ水害の爪跡を抱えていらっしゃる皆様も多くいらっしゃることでしょう。
 心よりお見舞い申し上げます。早く普通の生活が戻ってきますように。

   軽井沢の休日
 軽井沢が大好きで、四季折々の風情を楽しみに出掛ける私、今年も束の間の休日を、今、楽しんでいます。
 実は、昨年も、全く同じ時期に、同じように時間を過ごしていたことに気がつきました。
 昨年、「三回目のバースディー」←というタイトルで書いた文章です。よろしかったらお読みになってみて下さい。

 書き出しはこのようです。

 8月21日。ブログを書かせて頂くようになってから、誕生日を迎えるのも三回目となりました。
 実は今、信州に来ています。
 昨年もそうだったのですが、両親の療養と避暑を兼ねて、8月初旬から共に過ごしていました。
 少し体調を取り戻した父母は、一昨日、無事実家へと戻ったので、後数日、今度は一人で過ごそうかなと思っているところです。
  
 昨日、一番に頂いた「Bon anniversaire!」で始まるお祝いのメール。
 シャンソンに関わるようになって知り合った素敵な先輩なのですが、「よき一年でありますように」と温かい思いが伝わってくるお言葉を頂いてとても幸せでした。
 そして今朝も、仲良しの方たちから嬉しいメールが届きました。
 覚えていて下さり、「おめでとう!」と言って頂けること、本当に嬉しいです。有難うございます。
 普通に生活している時には特に意識しませんが、でも、恙無く日々を過ごし、人との絆をこんな風に結んで行かれることは、何にもましての恵みなのだと思います。


 明日8月21日は「4回目のバースディー」となるわけです。
 8月初めから両親と過ごしたのも昨年と同じですし、両親は健康状態も良好で、無事に実家に帰ったことも同様です。
 同じ夏がこうして繰り返されて行くのは不思議でもありますが、でも、高齢になってゆく両親も無事で、そういう生活が滞りなく継続できることの幸せを改めて思わずにはいられません。
 この日程で過ごしている数年、おのずと誕生日を独りで過ごす巡り合わせなのですが、静かに一年を振り返るきっかけにもなり、貴重な時間と感じます。

 そして、今日、やはりいくつかの「おめでとう」メールを頂き、・・・・覚えていて下さって毎年言葉をかけて下さる・・・・本当に有難いことと、心がしみじみとしています。

 更に昨年の記事の続きです。
 何だかずっと、「一期一会」の言葉の重さを痛感していた気がします。
 特に春以後、親しい友人、知人、親族、多くの方たちとの悲しい別れが重なったためかもしれません。

 今年は私には、特別なお盆、送りの夏となってしまいました。

 その一方で、久しぶりの懐かしい方たちとの再会も不思議な位多くあり、新たに出会った素敵な方たちも沢山いて、それが別れと裏腹に突然やってくる気がして、今、殊更に意味深いものに感じられます。
 人や出来事との邂逅も、皆何か大きなものの意思に委ねられて動いてゆく・・・・だからこそ、そういう「一期一会」を思いを込めて大切に受け止めてゆきたいものだと改めて思います。


 この思いも、また今、更に深まってきて、生きて行く時間を重ねることは、繰り返される「一期一会」を確認し、月日の中で自分の身に添わせて行くことなのではないかと改めて思われるのです。

    一枚の写真
 昨年暮れに他界された「山男さん」のこと、覚えていてくださるでしょうか?
 その「山男さん」の訃報の連絡を通して、先頃ある方と懇意になりました。
 共通の友人を偲ぶ感慨深いお話が限りなく続いて、またそこに新たな人間関係が結ばれてゆく、これもまた、ささやかな人生の中の不思議な「一期一会」というものなのかもしれません。
 ある方、Aさんは写真家でいらして、ヨーロッパやアジア、様々な国を駆け巡って素敵な写真を撮っていらっしゃる方、弾むお話の中で、「瞬きをするように」とおっしゃりながら、さりげなくシャッターを押されていました。
 そして、こんな一枚を下さいました。

 何だか自分ではないみたい。
ライムソーダの夏
 とても穏やかで楽しそうな表情をしている気がして、思い切ってご紹介してしまいます。
 <いつもこんな表情をしていたい>、そういう一瞬をとらえて下さったのですね。
 自分へのとびきりのバースディープレゼントになりました。

 ライムをグラスに入れてペリエを注いでいたところを一枚。
 コマーシャル写真みたいですよね。
 
 <険しい表情になった時の自戒、今年の努力目標にしよう>と決意しています。
 Aさん、素敵なプレゼントをありがとうございます。


 


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爽春の交遊録 <二> 

 今日は、葵祭(あおいまつり)でした。
 風雅な古都の春、今まさに爛漫です(写真:京都新聞より)。
葵祭り(京都新聞より)
 京都に住んでもうすぐ10年になるのですが、京都にいると、知人、友人、教え子、親族、色々な方たちが訪ねて下さる機会が多くあるのです。
 旅心を誘われる地であるためでしょう。観光の途上、旧交を温めて、ということに自然となるようで、そこから新たな絆が生れることも多く、私は居ながらにしてで、なかなか楽しく暮らしています。
 そのようなわけで、この連休もいくつかの楽しい再会や交流がありました。
 爽春の交遊録<一>に引き続き、今日は爽春の交遊録<二>を記してみたいと思います。

   ラジオが結ぶ素敵な時間
  少しだけ時間を遡り、GW前半の或る日のこと。
  ラジオ出演をさせて頂くことになって以来、何かとお世話になっている制作スタッフのCさんに、祇園でお会いしました。
  前にご紹介した、<京都の注文の多い音楽喫茶>のお話を覚えていてくださいますか。
 もう一度読んでも良いかなとお思いの方はこちらをどうぞ→『ラジオ放送間近です』
 あのユニークな喫茶店のことを教えて下さったCさん、穏やかで飾らないお人柄の素敵な女性で、いつもさりげない心配りでサポートして下さって、収録現場でも彼女を見るとほっと落ち着くのです。
 彼女のご実家が京都近郊にあって、GWは休暇で戻られるとのお話、ではランチでもということになり、祇園先斗町(ぽんとちょう)のフレンチにご一緒しました。

 少し肌寒いような春の雨が、しとしとと降る日。
 先斗町の路地を三条に向かって入ってゆきます。
 夜だと舞妓さんも歩いていて、京都の花街の粋な風情が残っているのですが、これは昼間の風景です。
    雨の中の先斗町   川床の準備
 夏に向かって、鴨川に張り出す川床の準備が各店で進んでいました。
 
 しばらく路地を進んで、お目当ての店に到着しました。
涼しげなオードブル
 京野菜を繊細に扱ったさっぱり系のフレンチで、一皿一皿に丹精が込められていて、お薦めの隠れ家レストランです。写真は涼しげなオードブルです。

 メディアとしてのラジオの特性、お仕事に掛ける強い思い、Cさんから興味深いお話をたくさん伺うことが出来、また、音楽の事、私の訳詞関連の話にも熱心に耳を傾けて下さって、あっという間に過ぎた楽しい時間でした。
  
 不思議なご縁で、京都の街で共に食事をし、心置きなく言葉を交し合う、さらりとした心地よいひと時が流れて、今も心に残ります。
  

   朋有り 遠方より来たる
 一昨日、懐かしい方と再会しました。
 以前、私はボストンの大学で日本語と日本文学を1年間、教えていたのですが、その頃とてもお世話になった大先輩です。
 熾烈な競争社会であるアメリカの大学のシステムの中にあって、長きに渡り学部の要となり、活躍なさってこられた日本人女性なのです。
 同じ大学で教授をなさっているアメリカ人のご主人の、京都での学会に同行なさり、帰国は十数年ぶりとおっしゃっていました。
 旅行の前にボストンからご連絡があり、今回お会いする運びとなったのでした。

 彼女は、当時ご一緒していた時から、才気煥発で、明朗、そして何よりも行動力がある方でしたが、全然変わっていない!!
 1週間の日本滞在期間も、東京、京都、広島と移動しながら、大学関係のお仕事、日本の友人知人たちとの再会、観光、周到なスケジュールで埋め尽くされ、それを長いフライトの直後であるにも関わらず疲れた様子も見せず、悠々とこなされているのです。
 しかも、「いつの間にか旅の道連れが増えてしまって!」と、ニコニコしながらご友人やご親戚を引き連れてのツアーコンダクターの役目まで軽々となさっているご様子に、もう圧倒されてしまいました。

 夕方、一日の観光を終わって戻った宿泊先のホテルをお訪ねしました。
 「夜は日本の大学の方にご招待を受けているので・・・」という次の予定までの束の間の時間、一時間半くらいでしたが、二人で時を惜しむように機関銃のように喋りまくりました。
 学科のミーティングで、自由に意見を交わし合った日々、その率直で忌憚のない心地よさが、時間の隔たりを埋めて戻ってくるのを感じていました。
 長い月日の中で、別々の人生を歩んできて、けれど、それを素直に理解し喜び合える、そういう手応えって素敵だなと思います。

 彼女と話しながら、当時の色々なことが思い出されてきました。
 アメリカの学生たちが、学ぶということにおいてとても誠実で主体的であったこと、そして、彼らの知的好奇心の前で、私も毎日が屈託なく澄み切っていたこと。物事をシンプルに捉えて、一日、働くこと、教えることがこの上なく幸せだった・・・そんな感覚が懐かしく蘇ってきます。

 あの頃に比べて、今はどうだろう?
 何処か何かに逡巡(しゅんじゅん)するような曇りが出て来てはいないだろうか?
 <生きるエネルギー>、それは<本当に真っ直ぐなもの、聡明なもの、底抜けに明るいもの>、漠然とした言葉でしか、表現できないのですが、大事なことに、はっと気づかされる思いがしたのです。

 「大学での仕事に一区切りついたから・・・」と、彼女は次のヴィジョンを明るく楽しく語ってくれました。

 爽春の京都での心に残る時間でした。

   おまけの話 ~薔薇の美しさ
 わが家のリビングに飾った薔薇の花が、今こんなに満開です。
咲き切った大輪のバラ
 薔薇は、蕾がふっくらと開きかけている頃が一番美しいと、ずっと思っていましたが、薔薇の威信をかけるような艶やかな散り際の風情に、何だか感動してしまいます。
  じっと見ていたら、もう10年以上も前、懇意にしていた或る方を突然思い出しました。
 ファッションデザイナーでブティックのオーナーをしていらした方、エキゾチックな面差しで、言葉つき、立ち振る舞い、「貴婦人」という言葉がぴったりとする大人の女性だったのですが、彼女も薔薇が大好きで、「薔薇は大輪の花を咲かせる最期が一番薔薇らしいと思う。咲き切った時、一層薫り高くなり、色をくすませて微妙な陰影を増してくる・・・」そんな彼女の言葉を思い出しました。
 薔薇は薔薇として、凛と咲き切る・・・孤高の美というか、昔はあまりピンとこなかった、そういう凄さが、波乱万丈だったこの方の生き様とも重なって、何だかわかる気がしました。
 これも、もう一つの交遊録。

 流れて行く時間の中で、素敵な方たちとの絆が重なってゆくことに、温かい幸せを感じています。



 

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爽春の交遊録<一>

   浅間高原の春 ~良き人を偲んで
 皐月晴れの爽やかな休日を如何お過ごしですか。

 私は、GW前半、少し時間が取れたので、思い立って軽井沢に行ってきました。昨年の夏以来です。
 信州は大好きで、四季折々、その表情に心を浸したくなります。
 
 「世界の片隅に~お正月の便り」という記事を覚えていて下さるでしょうか。信州の旅の道すがら、いつも立ち寄って楽しくおしゃべりをする旧知の友が浅間高原に住んでいて、でも、その方が昨年の暮れに突然他界なさったというお話をしたかと思います。
 温和で気持ちが優しく、浅間高原の大自然の中にあって、謙虚に大らかにすべてをそのままに受け入れて、笑顔を絶やすことのないそんな素敵な方でした。
 私のことも、いつも励まして下さって、そしてこのブログのこともとても楽しんで愛読していらっしゃいました。
新しい記事を書くと、「山男」というハンドルネームで、季節の便りと共に温かいコメントを下さった方、・・・・でももう、お訪ねしてもいつもの場所にはいらっしゃらないのだという不在感が重くて、信州に行くことは、しばらく出来ないのではと感じていたのですが、反面、もう一度訪れて、ゆっくりと優しい人柄を偲びたいという気持ちも募っていました。
 浅春の浅間高原への、亡き人を訪れる旅となりました。

 雪をかぶった浅間山が青空にくっきりと映えて雄々しい姿で迎えてくれます。空はどこまでも青く高く、雲は綿のようにふっくらと白く、屈託の全てを払いのけてくれるような清々しさです。
残雪の浅間山 青空に伸びる落葉松
 空に向かって真直ぐに落葉松の幹が突き立っています。
 春はまだ遠く、木々は葉を落としたまま、芽吹きの気配すら全く見せていませんが、この黒々とした樹木の下には既に春のエネルギーを蓄えているのでしょう。
 眠りに着いている冬の樹木とは明らかに違う、ドクドクと脈打つような木々の覚醒を強く感じます。
 この季節の空っぽの落葉松も私は大好きです。

 そして、まずは「山男」さんのご自宅のある浅間高原に真っ直ぐに向かいました。
どこまでも伸びるハイウエイ

 地平線とぶつかり、両側の松林を割ってどこまでも伸びるハイウエイをひたすら走り続けます。

 やがて浅間高原に。
 この辺りは、夏になると一面のキャベツ畑です。
耕されたキャベツ畑

 今は春に備えて耕され、湿った黒土が露わになっています。
 向こうには浅間山。

 途中、車を止めて、浅間山に向かって大きく息を吸ってみました。

 道の傍らを彩って、可憐な花々が咲き始めています。遅い春の訪れ。
 ふきのとう。カタクリ。水仙。サクラソウ。
ふきのとう かたくりの花 水仙の花 サクラソウ

 久しぶりの「山男」さんのご自宅は、冬支度のまま固く閉ざされ、主を失って時を止めていました。
 夏にお会いした時には、当たり前に笑い合いながら、「2月のコンサートはきっと聴きに行くから」と言ってくれてたのに。
 これまで、ご高齢のお母様とお二人で住んでいらしたのですが、今は、お母様は、東京のご親族の元に身を寄せられ、病院に入られていると伺いました。  
 簡素で、でも本当に使いやすく歳月を重ねてきたこの家だけが取り残されて、この時期だったら、大きな煙突から薪を燃やす木の香りが辺りに漂っているのに、準備された薪の山が庭の片隅に端正に積み上げられたままで、・・・・そして、いつも木の実が沢山入っていた小鳥の餌台も、空っぽなままで、・・・・そんな一つ一つの情景が、突然胸に迫って、くっきりと思い出と共に焼き付いてきました。
木漏れ日の庭
 人の世の一期一会の、不思議さ、有難さ、儚さ、様々な思いを刻みながら、心からの挽歌を亡き人に手向けたいと思います。

 木漏れ日が木立のシルエットをくっきりと苔の庭に写して詩情を誘います。
水量豊かな小川


 近くの小川のせせらぎの音も聴こえます。今年は雪が多かったのでしょうか。
 豊かな水量で、勢い良く水音を立てています。
  


   米寿の贈り物
 絵本作家、児童文化研究家として、これまでに沢山の業績を残されて、今も精力的に活躍されている「かこさとし」氏のことは、このブログでも折に触れてご紹介してきました。
 昔からかこさんの作品を愛読していたことに加え、お嬢様のMさんと積年の友情を育んできたこともあり、(そのことを知らずにずっとお付き合いをしていて、だいぶ後になって判明し感激したことも既にお話しした通りです)その著作の多くを読破しているのですが、この度思いがけぬ贈り物を頂きましたので、ご紹介したいと思います。
矢村のヤ助(かこさとし)表紙

 『矢村のヤ助』という一冊の絵本。
それに添えられたご挨拶状はこのように始まっていました。

 絵本送付についての御挨拶
 謹啓 春暖の候 益々御清栄の事と存じます。 

   (中略)
 ・・・・・若年の頃、戦災跡地の子どもたちに接する機会を得、以来 社会奉仕活動の同志、友人の刺激により、子供という「怪傑生物(?!)」に啓発され、更に出版・福祉等異分野の専門家の方々の御力と御教導により、いつしかこの三月で米寿に辿りついた次第です。・・・
   (後略)

 『矢村のヤ助』という絵本は、昔、子供会でこのお話を話されたのが始まりだったとか。米寿になられた今年の記念として、「報恩感謝」の思いを込め、この話を基底として絵本を作成し、全国三千余りの公共図書館に寄贈されたとのこと、関係者に贈られた中の一冊を、私も頂戴したのです。
 後付けには「かこさとし米寿記念出版(非売品)」と記されています。

 『矢村のヤ助』は「鶴女房譚」=『鶴の恩返し』をベースとしていて、これに、悲劇的・文学的ニュアンスが加わると木下順二の戯曲『夕鶴』のような形に昇華されて行くわけですが、かこさんは、鶴を山鳥に変え、「裏切りで別れる女性と金に目がくらんだ男の題材は子どもには不適」、「前向きに生きようとする男女の姿」を描く話として換骨奪胎し、子どもの世界に引き寄せています。
 子供達がどんな眼をしてこの本を手に取っているか、図書館に行って垣間見たい気がしますね。

 米寿を迎えられ、色々な形で周囲の方たちから長寿をお祝いされるケースは沢山あるに違いありませんが、これまでの道程を振り返って、周囲の方たちに謝意を、自らこのような形で示されることは類まれと思われます。
 「報恩感謝」は、子どもたちとの時間の中で、ご自身が作り上げていらした作品世界そのものに、今、<対峙する思い>でもあるという気がして、とても温かい気持ちになりました。

 今日は二つの交遊録をお伝えしてみました。
 GWの後半、良い時間をお過ごし下さいね。



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世界の片隅に ~お正月の便り~

   年賀状
 お正月休みも過ぎ、色々なことがすべて普通に動き出すと、身の引き締まるような新年の思いも少しずつ薄れるようで、そういう順応性ってちょっと嫌だなと我ながら思ってしまいます。
元旦の車窓からの富士山
 この連休、頂いた年賀状を、住所変更などチェックしながら、改めてしみじみと読み直しています。
一年間は早く過ぎますが、それでもそれぞれの方に色々な変化があってそれがお正月の便りの中から垣間見えてきます。

 私は手紙を書くことが元々大好きですし、妙に筆まめで、加えて、教え子たち始め、文通している方の数も半端ではないので、きっと聞いたらびっくりなさるほどの枚数の年賀状のやり取りをしています。虚礼廃止の対極にあるような私のお正月です。
 でも、葉書や手紙って、その手触りの中に血の通ったものが流れている気がします。
 私の一番若い教え子たちは、今は結婚ラッシュで、素敵なウエディングの写真入り葉書、一年位経つと今度は赤ちゃん誕生、可愛いベビーが私の年賀状の中には沢山いて、<少子化と言えどもまだまだ明るい将来がある>と確信できます。

   上海から
 前にもご紹介したことがありましたが、上海でテレビディレクターとして活躍しているNさんから、今年もお年賀状と、新春を寿ぐプレゼントが届きました。
上海からのお正月グッズ
 午年にちなんだプレゼント。
 馬の意匠は颯爽として、何となくおめでたい感じが良く伝わってきます。
 毎年、干支の飾りを置かせて頂くうちに、春節のお祝い飾りが我が家にすっかり似合うようになりました。

上海からの年賀状
 これがお年玉付き年賀状なのですね。
 裏には抽選番号の数字が記されていました。
 意外と一等当選葉書だったりしても、それを確かめるすべもなく、我が文箱にしまわれて、日の目を見ることもないのだろうなどと夢想したりしてちょっと楽しい気分です。
 
 大気汚染の深刻さや悪化する日中関係のことなど、現地で生活していると、頭の痛い問題が沢山あるようなのですが、でもいつも明るい微笑みを絶やさない彼女ですから、優しい笑顔でバリバリと仕事をこなし、困難を乗り切ってゆくのだと思います。
 Nさん、良い一年を!

   パリから
 アメリカの大学で教鞭を執っている、大切なお友達のKさんから、いつも頂くクリスマスプレゼントが、今年は少し遅れて届きました。
 その包みの中に、彼女のお嬢様のYちゃんからのパリのお土産も入っていました。
 Yちゃんがまだママのお腹にいる頃から、そして生まれてからも殆ど毎年、私がアメリカに行くか、或いはKさんが日本に帰国して、一度は会い、その成長ぶりを目の当たりにしてきました。赤ちゃんの頃、ちょこちょこと走り回っていた幼児の頃、はにかみ屋さんの少女時代、そして、ママの日本人の血とパパのアメリカ人の血の両方を受け継いで美しく、そして聡明に成長し、今、大学生になって、パリに留学しています。  
パリからの年賀状
 そのYちゃんが添えてくれた絵葉書には、短期間ですっかりマスターした、流暢なフランス語と、ママから習ったひらがな書きの日本語の両方で、メッセージが。
 「小さい時からいつも見守っていてくれてありがとう。パリの生活はとても楽しく、満喫しています。」と書かれた言葉に、胸が熱くなりました。
パリからのお土産 Yちゃんからのプレゼント。
 エッフェル塔の写真立て、フランスのバタークッキー、そしてCamargue(カマング)の「塩の花」。希少の岩塩ですね。
 シャンソンを作る時のために・・・と、いつも彼女が編集したお薦め曲CDや今流行っているポップス曲集など、毎年、心尽くしの贈り物を頂いて私の嬉しいコレクションもお正月と共にいつも数を増して行くのです。

   レクイエム
 お正月の楽しい便りの中に、実は一昨日、訃報が入りました。
 心優しい大切な友人の突然の知らせでした。

 私は信州が好きで、季節ごとによく出かけていることはご存じの通りですが、
 そのご縁で知り合った方。
 浅間高原にお住まいで、一年に一回はお訪ねして楽しくお話をしていました。
冬の浅間高原 このブログもいつも愛読して下さって「山男」さんのハンドルネームでいつもコメントを下さった方です。
 お年賀状が今年は届かず、気になっていたところでした。
 お体を悪くされて、年の暮れの突然のご逝去だったそうです。
 
 長く老齢のお母様の看護をされていて、昨年の夏の終わりにお会いした時、「なかなか東京に行けないけど、来年のコンサートは絶対聴きに行くから頑張って!」ととても楽しみにしていて下さいました。
 いつも励まして下さる優しい方でした。
 そこに行けば、当然会えるはずの方がいらっしゃらなくなる、今その寂しさで一杯になっています。

 コンサートで聴いて頂こうと思って、「山男」さんのイメージにぴったりの歌を一曲目に歌う準備をしていました。
 まだ悲しさが先に立っていますが、でも、今度はレクイエムとして、心を込めてお届けできたらと思い始めています。

 『世界の片隅に』という歌も時々コンサートで歌うのですが、その一節、
 
 この世界に小さな私とあなたがいる それだけでいい

 この世界の中では、出会いと別れが、突然に、交互に訪れます。
 一期一会の時を、大切にする一年でありたいと思います。
 


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