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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

日日是好日

   『日々是好日(にちにちこれこうじつ)』
 2018年に公開された日本映画ですが、先日BSで放映されていました。
 エッセイストの森下典子さんの著書が原作となっていて、ほぼ著者の実体験がベースになった作品であると聞きました。
 二十歳になった典子(黒木華)が主人公で、彼女が同じ年のいとこ(多部未華子)と共に、老齢の茶道師範武田先生(樹木希林)の元でお茶を習い始めるところから物語は始まります。
 お茶のお稽古を通してのその後の歳月が、まるで小津安二郎監督の世界を見るように、緩やかで清廉な日常を映し出していきます。
日々是好日
 毎回同じことの繰り返しであるはずのお稽古の中で、季節ごとに入れ替わる掛け軸や器、美しい和菓子、お茶を通して、自分の心と向き合い、自然の光や音、風に気づきながら、所作を学んでいきます。

四季折々の映像が瑞々しくて、光とか音とかが、風物そのものから鮮烈に香り立ってくる気がしました。
 特に水の音。

 柄杓から垂らす水音と、お湯の音との違いを主人公がある日はっきりと聴き分ける場面があるのですが、心地よい説得力があって、これまでお茶には全く縁がなかった私ですけれど、今すぐにでも茶道の門を叩いて、この音の違いを聴いてみたいという衝動にかられてしまいました。

 登場人物たちの何気なく発する言葉、特に、樹木希林扮する武田先生の品格と、当たり前のように呟き諭す、そのいくつかの言葉がくっきりと心に刻まれています。

 「一期一会、今日という日は二度とない。同じことの繰り返しだけれど同じ人、同じお茶は二度とない。この瞬間をこの出会いを大切に。」
 先生の部屋の掛け軸の「日日是好日」の意味がお茶を通しての歳月の果てに主人公にもしみじみと理解されてくる、そんな締めくくりが美しいと感じました。

 「世の中には、「すぐわかるもの」と「すぐわからないもの」の二種類がある。すぐわからないものは、長い時間をかけて少しずつわかればよい」
紅葉1
 「意味が分からなくていいの。お茶はまず形から。先に形を作っておいて、その入れ物にあとから「心」が入るものなのよ」

 「雨の日は雨の音を聴く。雪の日は雪を見て、夏には夏の暑さを、冬には身の切れるような寒さと、五感を使って全身でその瞬間を味わう」


 立ち止まって日常を見つめる、日常を豊かに生きる、今の状況下にあって、心洗われる美しい作品と感じました。


   「どんな水から」
 コロナが沈静化されたと思われたひと月ほど前、久しぶりに友人と会い、食事をしました。
 長い間ほとんど誰とも会わない生活が続いていたためか、やはり人と顔を合わせながら、話すというのはリモートとは全然違う心地よさがあると実感したのですが、その折の友人の言葉が今も心に残っています。

 外資系の会社のお仕事で活躍中の女性なのですが、彼女、お酒が滅法強くて、しかもとても楽しいお酒なのです。
 私はというと、いつの頃からか全くアルコールを受けつけなくなってしまい、彼女と酌み交わせないのが本当に残念だったのですが、でもノンアル片手の語らいに充分気持ちよく酩酊することができました。
 この日はもう一人の友人と三人の宴、二人とも大のお酒好きですので、利き酒のできる居酒屋さんに集合、日本酒談義にひとしきり花が咲いていました。
紅葉3
 彼女曰く。
 「あ、このお酒、清流のようで、癖がなくて呑みやすいですね。美味しいお水を飲むようにいくらでも呑めてしまいそう。」
「洋酒も日本酒もそれぞれの良さがあって全部大好きですけれど、日本酒は何といっても風情がある気がします。」
 「日本酒の味は一本一本全部違っていて、私はその作られた土地の水がどんななのか、想いを馳せながら呑むのが好きなんです。
 どんな水が流れている土地なのか、どんな山に囲まれているのか、その山間をどんな川が流れていて、水はどんな味がするのだろう。そこではきっとこんな生活が営まれているのだろう。こんな杜氏がこのお酒を守り仕込むのだろう。・・・そんなことを考えていると目の前にその情景が浮かんできて、お酒が益々美味しくてありがたく思えてくる・・・私のお酒はそんななんです。」

 もう一人の友人もお酒に詳しい方でしたから、彼女の言葉が良く理解できるらしく、深く頷きながら楽しそうに杯を傾けていました。

 お酒を呑みながら水の音を聴き水の流れを見ている・・・・先ほどの「日々是好日」につながる素敵な佇まいだと感銘を受けてしまいました。
 下戸の私にはお酒は無理ですが、五感すべてに触れてくるものへ、同様な感性と想像力とを持っていたいものと思います。

MDからのたびだち
 話は変わり。
 MDってもう知らない方も多いみたいですね。
 今はもうレコーダーもディスクも生産中止になって、市場で見ることもなくなりましたが、実は私はまだつい最近までMD(ミニデスク)愛好者だったのです。
 
 最初はカセットテープに録音をしていたのですが、それがある時突然どこからか時代遅れと言われ、これからは小さくて便利なMDの時代になるのだと宣告を受けました。
で、仕方なく移行するにあたり、それまで録りためた莫大な量のカセットテープを苦労してすべてMDに移し替えてようやく今日に至ったのでした。

 なのに、もう数年前から、MDすらも時代の遺物のようになってしまい、それでも私が使っていると、珍しいものを見るような目で一瞥され、のみならず、まだそんなの使っている人がいるのねと憐みの言葉を浴びせる人までいる始末。
 だったら私はこれで通そうと、ずっと使い続けるつもりだったのですが、ついに予備に買っておいたMDレコーダーまで壊れてしまい、修理不能!もはやここまでとなってしまいました。
コンポ1
 で、今、我が家で唯一MDが使えるコンポにUSBメモリーをつないですべてのデータを移すという保管作業に夢中になっています。
 けれど、高速ダビングの機能がなくて、一枚移すのに一枚分の時間(80分)を要するのですが、これでも当時はUSBメモリーの接続口がついている最先端の機種で、今になってこれが役立っているのです。
 実は、もう半年以上、暇さえあればこの作業をしています。
廃棄MD
 すでに何千曲、何百枚ものデータを移し終え、後残すところMD3枚となりました。
 この写真は、すでに移し替えて行き場を失ったMDの山、これは作業を終えた中のごくごく一部分にすぎません。

 MDと別れを告げて、これからはICレコーダーでの録音となり、専らPCに頼ることになりますが、どこか理不尽でもあり、名残り惜しくもあり、また、再び引っ越しをすることはないでしょうねえ??・・・・と懐疑的にもなっています。

 延々と続いてきた作業にさすがに疲れましたが、でも作業中聴き直していましたら、一枚一枚が貴重な自分自身の歴史でもあり、それぞれに録音されている曲と出会った頃の感激が蘇ってきて、とても新鮮でもありました。
 この中からまた新たに訳詞してみたい曲も発掘できましたし、私にはとても意義のある時間となりました。

 甚だ私的なお話で恐縮ですが、MDからたびだつ心境を聞いて頂きました。



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本の顔つき

 いつの間にか11月、確実に季節は廻っています。
 落ち葉
 浅間山麓に暮らす友人からの便りが一葉の写真と共に届きました。

 「今朝の室温は4℃、枯葉を踏む音を楽しみながら、日課の早朝散歩をしています。朝の光が木々の黄葉を眩しく照らし、思わず見とれてしまいました」
 日々刻々、移ろう季節の息づかいが、心地よく心身に染み入ってくる風景、落ち葉の匂いと秋の陽のぬくもりがこの写真を包んでいるように思われました。


   『蓬莱曲』
 日本近代文学館が昭和52年に特選名著復刻全集を刊行したのですが、その中の一冊、北村透谷の『蓬莱曲』を知人がプレゼントしてくれました。
 明治24年(1891年)、130年も前に出版された透谷の長編詩『蓬莱曲』。
 近代文学の幕開けともいえる新体詩の先駆けとして発表されたこの長編詩は瑞々しい青春のエネルギーが漲っていますが、でもその分、若さの気負いも強く檄文調で、詩としても難解なので読み解くこと自体かなり骨が折れるのです。
蓬莱曲 
 そういう大変さはあるにしろ、私は何より、本の装丁や意匠に強く心惹かれました。
「本としての品格のある本」「本としての香りのある本」・・・本というもの自体が私は大好きですので、当時のまま忠実に復元されたこの復刻版全集には、以前から全巻買いそろえたいほどの思いを持っていたのです。
 例えば、この『蓬莱曲』にしても、今とは違う出版事情と出版技術の中で、おそらくは一冊の本を世に出すことはどんなにか大変なことだったでしょうし、二十歳そこそこの名もない文学青年であった透谷が、自費出版で、どれほどの愛着と使命感とを持って作り上げたであろうかと、その思いがしのばれます。
蓬莱曲裏表紙 
 力強い表紙のタイトルの書体と、裏表紙のヨーロッパ的な繊細なペン書きの意匠。
 二重に織り込まれた透明で弾力のある和紙の見返し紙。
 本文のレイアウト,字体の選び方。
 本文の和紙の紙質の手触りのよさ。
 そして、厚紙で丁寧に作られたブックケースの素朴な存在感。

 本はまず手触りで楽しむもの、本の表情、顔つきから味わうもの、・・・「本」を手に取ることから始まる読書の醍醐味を思い出させてくれた気がして、久しぶりに胸が躍りました。

   『明治・大正詩集の装幀』
 工藤早弓さんの著書、平成9年に京都書院から出版された文庫サイズのこの本も、私の蔵書の一冊です。
詩集の装填
 タイトルの通り、明治・大正期の近代詩集の造本についてまとめた本で、数多くの貴重な初版詩集の装幀の写真とその説明から成っています。
 本書の「はじめに」に次のような文章が記せられています。

 古い本・・・それもオリジナルの初版を手にしたときに思うことは多い。
 とりわけ詩集の初刷りは詩人自らが目を通しているのが普通だと思われる。
 活字の大きさ、組み具合、行間の空間、挿絵、表紙のクロス、紙の質、製本等、装幀にも思い入れを込めて心配りをしているだろう。
 だからそんな本を手に取った時は、それが単にその奥付けの時期に出版されたもの、というだけでなく、その本をまっさらの時に読んだ人々、さらにその後の年月に手にした人々のその時の感情・・・・心の揺れやふるえをも手にしていることなのだと思う。
  ・・・・・・
 詩という内容を生かすための入れ物としての詩集は美しい。
  ・・・・・・

 明治黎明期の詩集の代表は何といっても島崎藤村の『若菜集』と、与謝野晶子の『みだれ髪』といえるでしょうか。
若菜集

共によく知られている表紙デザイン。
みだれ髪

 蝶をかたどった若菜集の表紙絵には『初恋』の詩が薫ってくるようですし、心臓を射抜いて滴る血潮のように描かれた『みだれ髪』の赤い文字には晶子の恋の炎が激しく燃えているように感じられます。
猫町

萩原朔太郎の『猫町』の装幀も洒脱で大好きなデザイン。


堀口大学の『月下の一群』の背表紙は金箔でエンボス加工がなされた精密な図柄が押印され、欧米文化に精通した一級の知識人であった彼の面目躍如という気がします。
月下の一群
 「本の顔つき」とはこういうことなのではと思うのです。
 懐古主義になるわけではありませんが、昔の本にそういう固有の顔が多く見られたのに比して、最近はなかなかそのような本に出合うのが難しくなってきているかもしれません。
 趣味も多様化され、紙媒体自体も危うくなり始めた時代ではありますが、でも、だからこそ、私は本屋さんに出向いて、ゆっくり書架を眺め、パラパラとページを繰ってみるのが大好きです。
 そうしていると読みたい本、自分を呼んでいるような本と出会えることも多い気がします。

  
   私家本へのあこがれ
 実はもう10年以上前から、ひそかに自分で出版してみたいと思い続けてきたテーマがあって、それでも、腰が重く、なかなか着手するに至らなかったのですが、このコロナ禍の中、思い切って、少しずつ原稿をまとめ始めました。
 専門的な技術が備わっていれば、本文のレイアウト、挿絵、表紙のクロス貼り、紙選び、製本等、すべての装幀も、100%手作りの本にしたいところなのですが、残念ながらそこまでは到底及びそうもないので、・・・でもできる限り工夫できたならどんなに楽しいでしょう。

 考えている本の中の一冊は、ひそやかで温かいエッセイ。
 全体に白のイメージで静謐な雰囲気の本に仕上げたいです。

 表明してしまいましたが、果たしてどこまで辿り着けるでしょうか。
 ともあれ、チャレンジすることは楽しいこと。
 良いお知らせができるように頑張ってみようと思っています。



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『たたかう植物 - 仁義なき生存戦略』

   ちょっと良い話
 このコロナ禍の中、トヨタ自動車の健闘ぶりが話題になっていますが、社員に向けて呼びかけた社長豊田章男氏の言葉が心に強く残りました。

 目の前のやるべきことに集中しよう!
 「先が見えない不安」に対し、真剣に取り組み、進めていけることを、全力で進めていきたい

 ネガティブの連鎖は、物事を悪くするばかり。
 深刻にならずに、真剣に。
 みんなで助け合って、感謝し合おう。
 こんな時だから、無理にでも笑顔になって乗り越えてゆこう。

 私も、一旦、ネガティブのるつぼにはまると、意欲が萎えて、目前の難問に向き合う勇気がなくなり、その言い訳のように、「深刻を装う」ことがある気がします。それは、逃れようとする自分へのストレス、怠惰のうしろめたさなのかもしれません。
 現実から目をそらさず真剣に取り組む勇気をいつも持っていたいです。
 そして、いつでも自然な笑顔でいられることは究極の聡明さなのだと刻んでいたいです。

   『たたかう植物 -仁義なき生存戦略』
 先ごろ読んだ、稲垣栄洋氏の著書(ちくま新書2015年刊)がとても興味深かったので、ご紹介したいと思います。
たたかう植物 植物についての専門書を読むことはこれまで殆どありませんでしたし、ただ漠然と、「植物は癒される」「動物と比べれば、植物は争いのない世界に生きる平和の象徴のようだ」と思ってきましたが、この書には、実はそんなことはなくて、「弱肉強食、適者生存の法則は植物の世界であっても何一つ変わらないのだ」と指摘されています。
 植物は熾烈な生き残りをかけて闘っている、地下における過酷な「バトルフィールド」が繰り広げられているという、「植物vs植物」から始まり、更にそれは、vs環境、vs病原菌、vs昆虫、vs動物、vs人間へと言及されてゆきます。

 6章に分かれたそれぞれに、具体的な植物の生態と「生存戦略」が様々に紹介されていてとても興味深く読みました。
 その全てをご紹介することはできませんが、たとえば、ドングリ。
 
 ドングリは「種子を散布するために種子そのものを動物に食べさせて利用するという荒業を行う植物」。
 秋になるとリスやネズミが冬の間のエサにするためドングリを集めにきます。
りす
 ドングリはクヌギやコナラなどの種子で、リスやネズミに食べられてしまいますが、運ばれて食べ残されたり、隠し場所を忘れられた一部が春になると芽を出すのです。
 ただし、小動物たちがお腹一杯になって食べ残すようにと、たくさんのドングリを作ればエサが豊富になり過ぎ、リスやネズミそのものの数を増やしてしまうことになります。
 そうなると、ドングリは食べ尽くされてしまうわけで、そこで、ドングリの戦略は、実をたくさん作る「生り年」と少しだけ作る「裏年」を設けたというわけです。庭にあった柿の木や梅の木を、お年寄りたちが「今年は裏年で実が少ない」と話していたことは、子供の頃によく耳にしましたたが、天候や肥料のためだけではなく、実はこのような巧みな自然界の調整だったとは全く知りませんでした。

 もう一つ。
 雑草の「生存戦略」についての文章も面白く読みました。
 雑草は強靭だと思っていましたが、筆者は、さにあらず、他の植物との競争に負けたすこぶる弱い植物なのだと指摘します。
スミレ そのため強い植物が侵入してこないような条件の悪い場所・・・乾燥地や肥料の少ない道端だったり、踏まれるあぜ道や草取りされる畑だったり・・・の逆境にあえて生存しようとしたのだそうです。
タンポポ 雑草はいざというときに備えて、地中に無数の種を準備しており、草取りされたり踏まれたりすると土がひっくり返り、地中にあった種が表面に出て光が当たる、それをチャンスととらえて我れ先にと芽を出すのです。他の植物が土の中で水分がないと発芽しないのとは逆に、「光発芽性」ということで、雑草にとっては逆境こそが順境ということになるのでしょう。

 これに加えて、筆者は、日本人だけが、「雑草」にある種の愛着を持ち、「雑草のように逞しく」、「雑草魂」に感嘆して、あっ晴れと拍手を送る稀有な民族だと指摘しています。
 アメリカの雑草学会は、雑草は「人類の活動と幸福・繁栄に対して、これに逆らったり、妨害したりするすべての植物」と定義していますし、自然は、人と相対するもの、征服すべきものという感覚を持っているとはよく言われることですが、日本においては、これとは異なり、自然への恩恵と畏敬、そしてその対極にある畏怖・脅威の念とを併せ持ち、共に受け入れ、共存していく、そのような感覚を持っているからでしょうか。

 あとがきに筆者は「植物は、生存戦略として、本来みずからの敵である生物と、双方に利益のある「共存関係」にたどり着いたのではないか」と述べています。
 それに比して、「人類は、世界中の生物を、地球環境を、征服し尽くそうとしている」、「太古の植物が、炭酸ガスを吸収して酸素を産生し、さらにオゾン層が生命体を生かすための砦となった。そうして作られた現在の地球、地球環境の生態系を人類が壊滅させようとする方向へと進んでいるのではないか」という警鐘を鳴らして、この書は締めくくられています。

 ダイナミックな植物のドラマ、物語を読んでいるような気がしてきました。

 植物の進化と生存の在り方を解明しながら、独自な見解から人類の叡智の在り方を示唆していて、とても興味深かったです。
 よろしかったら手に取ってお読みになってみてください。


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二幕への序章

 コロナと熱中症のリスクの中で息をひそめるように過ごす夏となってしまいました。まだまだ辛抱が必要ですが、何はともあれ、めげることなく健やかに過ごしたいですね。

 家籠りの日々は、まず「家を旅する」ことから始めようとの友人の名言ですが、歌の活動がぴたりと止まっている現況の中で、ゆっくりと今、「我がシャンソンを旅する」のも良いのではという気がしています。

 シャンソンを初めて人前で歌った日のことを思い出し、前々回の記事『夕焼けのトラック』に綴ってみましたが、今日は、また別の、シャンソンの節目を旅してみようかと思います。

   「最初にして最後のコンサート」を決意する
 シャンソンは成行きで始めた趣味だったのですが、だんだん面白くなって4年間ほどレッスンを継続し、いわゆる有名な曲をかなりたくさん習得しました。
 当時教職にあり、多忙を極めていました。
 そのつかの間の気分転換に歌は何より心地よかったですし、生まれて初めて習った歌の世界が新鮮で、素直に心に染み入ってきた気がします。

 けれど、習い始めて4年目に公私ともに大きな転機が訪れました。
 鎌倉から京都に転居することとなり、それまで骨を埋めるほどの覚悟で愛着を持って従事していた教職を辞し、長年勤めた学校を離れることになったのです。
 
 学校での生活は、一日・一週間・一か月・一年のすべてのタイムスケジュールがしっかりと作り上げられていて、狂いなくそれに従って任務を遂行してゆくことがプロとしての使命でもありました。
 特にそういうことについては超真面目な私、それが長期間にわたって刻まれ続けたので、体内時計ではありませんが、それこそ身に刷り込まれていて、例えば昼食は12時15分から20分間・・・50分間の授業の後10分の休憩がありそれが一日7時間続き・・・というように全て規則正しく動いてゆくのです。
 朝は5時15分に起床して、お弁当作りまで含んで6時20分に家を出発するという毎日でした。

 それなのに、3月末日に退職した翌日からは毎日が休日となり、しばらくはどうしてよいかわからず、企業戦士のバーンアウトのような状態に陥りました。
 今、一時間目が始まった・・・とか、今日は月曜日、4時から職員会議がある・・・とか、果ては仕事に遅れる悪夢まで見る始末で、これから先どうやって生きていったらよいかという茫然自失のうつ症状のような日々だったように思います。

 そうは言っても、京都に転居する11月までの間に、これまでの後処理と今後の生活の準備など山のようにすべき仕事はあり、毎日飛び回っていたのですが。
 子供の頃から慣れ親しんだ鎌倉での生活、親戚縁者、多くの友人知人、そのすべてと離れて、新たな気持ちで新天地での生活に清々しく出発するために、目に見えるけじめを刻んで、気持ちを切り替えたいと、いつの間にか考えるようになっていました。

 その結果、思いついたのは唐突ながら「ランチタイムコンサート」

 お世話になった方たちや、大事な友人たち、親戚、そして同じ志を持って働いてきた職場の同僚、教え子たち、歌の仲間。
主だった方たちをご招待してこれまでのご縁に感謝を表わすささやかな会を催したいというアイディアが突然胸の奥を突き上げました。

 これまでのお礼の気持ちを伝えたい・・・・ゆっくりお食事を召し上がっていただこう・・・でも単なる食事会ではなくて、自分が最大限努力して今できる最高のおもてなしを添えたい・・・・趣味は今のところ歌しかないので、ではいっそ「シャンソンコンサート」を開催してみるのはどうだろうか・・・
 という突飛な発想で、80人ほどご招待のランチコンサートを行うことを即決しました。心によぎってから、会場を決定し、宣言するまで数日、しかも短い準備期間の中で、今思えば何という無謀な思い付きだったかと思います。

 一年に一回発表会はありましたが、でもそれは先生がすべて段取りして下さったものでしたし、それ以外に人前で歌うなど夢にも思っていませんでした。
 清水の舞台から飛び降りるつもりで立てたこの計画は、おそらく次の自分の人生へのステップを自分に課すような気負いだったのかもしれません。
 「一生に一回最初で最後のソロコンサート」、これを終えたらシャンソンも止めようかと考えていました。

   海の見えるホテルで
 今にして思えば,全力投球で心尽くしのコンサートだったように思います。
002 七里ガ浜の海を大きく臨むリゾートホテルの披露宴会場で、丸テーブルに席札付き、ホテル側も初めての試みということで、かなり肩入れをして下さったのですが、どこか勘違いで、まさにすべては披露宴そのものの設えでした。
004

 ランチコースの後、1時間半のコンサートで、ピアノとチェロの演奏に乗せて全17曲・・・初心者の私がよくも挑戦したものだと冷や汗です。

 集まった方たちには、教師一辺倒だった私がステージで歌を歌っているということ自体が信じがたい光景で、上手いとか下手とかいう以前の、不思議な状況にただ茫然としていたのではないでしょうか。
001
 でも、ともかくも和気藹々とした温かい雰囲気の中で無事終えることができたのは、私の思いに共感してくれた友人や教え子の皆さんの全面的な協力のおかげに他なりません。
 一度だけだからという思いがあったからこそ、火事場の力が発揮できたのでしょうし、周囲も許して受け入れてくれたのだと思います。
003
 シャンソンを習い、既成の訳詞で歌うことは、これが本当に最後となりました。その意味で、「我がシャンソン第一幕」はこの時下りた気がします。
 でもこの向こう見ずな挑戦で得たことも大きく、今もどこかで気持ちの後押しをしてくれているのかもしれません。
 その後、今度は自分で訳詞をした曲を歌うという活動を始めることとなり、今もって、相変わらずこれに関わっているのですからわからないものですよね。
 あのコンサートは「シャンソン第二幕への序章」でもあったのでしょう。

 人は、何かに決着をつけるとまた新たに違う道が開けてくる、という不思議なめぐりあわせを誰でも何回かは持っていて、そういう岐路、節目に今立っていると感じられる時があるのではと思うのです。

 人生は舞台で、最期の幕引きの時は誰にでも平等に訪れるのだとよく言います。
 ふいにあっけなく終幕を迎える人もいれば、美しい幕引きが用意されている幸福な人もいるのでしょう。
 自らの意志では動かしがたいことは別として、そして自分のステージが第何幕まであるのかも別として、最後の時がくるまで、引かれた幕を次のより良い幕への力に変えて行けたらといつも思います。



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We will meet again

 コロナ禍の中、4月5日にエリザベス女王が、イギリス国民に向けてビデオメッセージを発表されたその内容が国内外に感動を生んだことはまだ記憶に新しいですが、私もこのスピーチにとても感銘を受けました。
 特に反響の大きかった「we will meet again」という言葉。
 この言葉を今日は考えてみようかと思います。

   三遊亭金馬さんのオンライン落語
 先日NHKの「おはよう日本」で、「落語家・三遊亭金馬・91歳・戦争も新型コロナも乗り越えて」という特集を放映していました。
 今年91歳になられる三遊亭金馬さん。
 芸歴79年の現役落語家最長老ですが、2年前に脳梗塞で倒れて復帰が絶望的と思われていたそうです。けれど懸命なリハビリを続けられて、今は高座に復帰できるまでに回復なさいました。
 このコロナの時期、寄席も次々中止となる中、今回、江戸東京博物館でのオンライン落語「えどはく寄席」に初挑戦なさるという話題でした。
金馬
 ニコニコと終始微笑みを絶やさない金馬さん、江戸っ子の活舌で飄々と語る言葉が印象的でしたが、その中で「自分は長生きをしたおかげで、戦争も、闘病生活も、そして今度は未曾有のコロナまで経験させてもらうことができた。そういう中で考え感じてきた実感を落語に生かし、すべて笑いに変えてゆきたい」という強靭でしなやかなチャレンジ精神が本当に魅力的でした。

 コロナの時代もこれまで経験したことのない貴重な気づきととらえ、笑いと共感のネタにしてゆく、渦中での人間の心模様をじっと見つめ受け入れることによって、それを乗り越える力を得、笑いに変えるエネルギーにしてゆく、品格のある生き方とはこういうものなのだと、強く感銘を受けた次第です。
 誰もいない会場でただカメラに向かって落語を語り続ける金馬さんのその胸中には、きっと「we will meet again」と同様の思いが燃えていたに違いありません。

   エリザベス女王のスピーチ
 エリザベス女王のビデオメッセージは、新型コロナウイルスとの戦いに疲弊し混乱をきたしているイギリス国民に大きな勇気を与えたことでしょう。
 女王が特別な事態に際して国民に語りかけるのは、即位68年の間でこれが5度目なのだそうです。
エリザベス女王
 「私たちが、一丸となって団結し、強い意志を持ち続ければ、必ず病いは克服できる」
 「自律と不屈の心こそが大事で、将来「この困難に自分がどう対応したのか振り返ったとき、誇らしく思えるようになる」ことを願っている」

そして、
 「これからもまだ、色々耐えるべきことは多いが、必ず穏やかな日々が戻ってくる。それを支えにしてほしい。
  友だちにきっとまた会える。
  家族にもまた会える。
  私たちも 再び会いましょう」


 と結んでいました。
 「私たちはまた会いましょう」=「We will meet again」という結びの言葉は、第2次世界大戦中にイギリスで応援歌として愛唱されたヴェラ・リンの曲、「We will meet again」を踏まえた言葉なのだと聞きました。
 戦時下に愛する家族や恋人や友人と引き裂かれて、いつ再会できるとも知れないそんな不安なときの力強い応援歌だったのでしょう。

 世界中の人々が今置かれているこのコロナの状況は、本来あるべき人と人との絆や生活が根柢から覆された出来事と言えます。
 三密を避けて暮らさなければならない不自由な状態、リモートの距離感は、仕方がないとは言うものの、人が出会って、触れ合う本来の形とは言い難いのではないでしょうか。
 人にとって最も自然で心地よい幸せがきっと再び訪れる、それが「We will meet again」、今、国境を越えて大きく共感できる言葉だと思うのです。

 
   『スマホを捨てたい子どもたち』
 京都大学総長、山極寿一氏の6月発刊の著書を読みました。
山際
 山極さんは、小学生から高校生までの多くの若い層に、「スマホを捨てたいと思う人は?」と尋ねたところ、多くの子どもたちが手を挙げたという経験から、若い世代も、実はスマホを持て余しつつあるのではないか、と感じたというのです。

コロナ禍の時代を見据えながらこのような提言をしておられます。

 今、ぼくたちを取りまく環境はものすごいスピードで変化しています。人類はこれまで、農耕牧畜を始めた約1万2000年前の農業革命、18世紀の産業革命、そして現代の情報革命と、大きな文明の転換点を経験してきました。そして、その間隔はどんどん短くなっています。その中心にあるのがICT(Information and Communication Technology/情報通信技術)です。インターネットでつながるようになった人間の数は、狩猟採集民だった時代からは想像もできないくらい膨大になりました。
 一方で、人間の脳は大きくなっていません。つまり、インターネットを通じてつながれる人数は劇的に増えたのに、人間が安定的な信頼関係を保てる集団のサイズ、信頼できる仲間の数は150人規模のままだということです。
 テクノロジーが発達して、見知らぬ大勢の人たちとつながれるようになった人間は、そのことに気づかず、AIを駆使すればどんどん集団規模は拡大できるという幻想に取り憑かれている。こうした誤解や幻想が、意識のギャップや不安を生んでいるのではないか。 ぼくはそう考えています。そして、子どもたちの漠とした不安も、このギャップからきているのではないでしょうか。

 山極総長の語られるこれらの言葉にもまた、「we will meet again」が重なりました。もちろん論点は別ですが、人と人との真のつながりという共通した問題を提起されているのだと思うのです。

 また、「視覚と聴覚を使って他者と会話をすると、脳で、繋がったと錯覚するが、それだけでは、実は本当の信頼関係を築くことはできず、人とは、嗅覚、味覚、触角等の五感のすべてを使って人を信頼するようになる生き物だ」とも述べておられました。

 AIが成し得ないものがあるとすればそれは五感を通しての実感、信頼そのもので、「スマホを捨てたい子どもたち」はそういう漠然とした渇望を感じていると言えるのかもしれません。
 「we will meet again」の言葉がここでも切実な響きを持ってくるのでないでしょうか。


   「早くお会いできるようになると良いですね」
 友人・知人との電話の最後に、「早く穏やかな日々が戻って、またゆっくりお会いしてたくさんおしゃべりしたいですね」というのが最近の決まり文句になりました。
 相手からも私からも自然に素直に口をついで出てくる言葉です。
 早くそういう日が来ますように。


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夕焼けのトラック

 自分で訳詞を作り始めてからもう15年になりますが、出発当初、かなり気負って、これからは自作のシャンソン訳詞だけを歌おうと心に決めていました。
 かたくなな矜持でしたが、でも、これまでその決意はまだ破られていなくて、コンサートやいくつかのイベントでシャンソンを歌う時には、今も自作の曲に徹しています。

 もちろん、シャンソンを習い始めた頃は、先生から勧められる色々な曲を習い歌っていました。
 当時、シャンソンの名曲と言われるものを一生懸命練習しましたが、15年間、一度も歌っていないので、もう忘れてしまった曲もあり、ちょっと残念な気もします。

 昔の懐かしい譜面を整理していたら、シャンソンの初めての発表会のことを思い出しました。
 今日はそんな思い出をお話したいと思います。

   カルーゾを歌った日
 11月の夕暮れ、海岸沿いのレストランの窓に、空と海が朱に染まっていくのが映っていました。

 バイパスの渋滞で、車が速度を緩めます。
 ヘッドライトと夕焼けが混ざり合って、時折眩しく窓に射すのを見つめながら、ステージに立っていました。
 湘南バイパス沿い、七里ガ浜の海に面した全面ガラス張りのレストランで、初めて人前でシャンソンを歌った日のことでした。
湘南海岸夕日
 往年の名テナー、ナポリ出身のオペラ歌手エンリコ・カルーゾ( Enrico Caruso )、彼の愛と死を歌った「カルーゾ(Caruso)」というドラマチックな大曲があるのですが、これに向う見ずにも挑戦した初舞台でした。

 カルーゾが死にゆく時、愛する女性に最期の思いを語る曲です。
 日本でも人気の高い名曲ですが、イタリアのシンガーソングライター、ルチオ・ダルラが歌い、また、パヴァロッティの名唱でもよく知られています。

 カルーゾは公演先のアメリカから病気のため故郷ナポリに戻り、48歳の若さで亡くなりましたが、最期の時をナポリ湾に面するソレント半島のホテルで過ごしたということです。

 カルーゾが窓に映る夜の海を見つめながら、最愛の人に永遠の愛を歌い上げるその名場面、

   お前を愛した 死ぬほどに愛した
   この固い絆は 誰にも断ち切れない


 初舞台の緊張感も忘れ、主人公に感情移入をして、うっとりと夢み心地だったことを覚えています。
 レストランの窓から見える夕暮れの海はしっくりと歌にはまり、もうすっかりナポリにいる気分でした。

目を遠くの海に移したその瞬間、真正面の窓に、信号で停まった大型トラックのドライバーと目がしっかりと合ってしまいました。
 運転席の座席が、私の立つステージとちょうど同じ高さだったのでしょう。
カルーゾ
 真っ赤なドレスを着てスポットに照らされて熱唱する私と、それを囲む華やいだ客席の様子は、何だ?何だ??という感じだったのに違いありません。
 物珍しそうにじっとのぞき込む目とぴたりと合って、今でもその表情まで覚えています。
 いかにもトラック野郎という感じの精悍で、でも優しそうな方でした。

 海の色が刻々と夕闇に溶け込んでいました。
 波の向こうに遠く、薄く白い三日月が上り始めていたのも目に入りました。
 トラックのドライバーさんは、「頑張ってるね!」って言っているような笑顔を浮かべてこちらに手を振ってくれました。
 私も目で答えて、我ながら自分のこの初舞台は、なんてかっこいいのだろうなどと自画自賛。
 出来はというと、実はカルーゾを歌うこと自体が無鉄砲だったに違いないのですが、でも、この時の思い出は今でも忘れがたいのです。

 ここから私のシャンソンはスタートしました。

   訳詞以前
 当時、高校で教鞭を執っていて、寝食を忘れるような仕事三昧の生活をしていました。
 やりがいがありましたが、それにしても、少しは気分転換も大切かと思い始めていた矢先、シャンソンに夢中だった叔母に誘われて、半ば強引に引き込まれたのが始まりでした。

 何か知っているシャンソンを歌ってみて、と初めてのレッスンで言われたのですが、レパートリーは何もなく、聴いたことのあるのは『愛の賛歌』くらいでした。

 先生は「それはスタートとしては却って良いことです」「声が綺麗でシャンソンに向いている」とおっしゃって下さり、なんだか嬉しくなっているうちに一度だけの体験入学のつもりがいつの間にか習うことに決まっていました。
 今もって続いているシャンソンとの縁の始まりだったのです。

 先生の教え方は、まずお手本に歌うご自身の歌を録音してくださり、それをひたすら覚えこむ様にという和事の口伝のようで、下手に楽譜を見てはならないとも言われていました。
 当時は、忠実に丸ごと真似する習得の仕方をしていました。
 先生はハスキーな低音で声そのものにシャンソンらしい哀愁がありました。
 私はその対極で、しかも今よりもかなり細い高音域で歌っていたので、実は、いくら真似をしても全く違う歌に仕上がってしまうのです。
 でもだから工夫もしたので、結果的にはよかったのかもしれません。

 入門して10か月目に初めての発表会があり、それがこの「夕日の中のトラック」との遭遇だったわけです。

 それぞれの曲に、色々な思い出と時間が込められていて、ふと蘇ってくる情景があることをあらためて感じます。

 警戒宣言が解除されたとはいえ、都会ではまた患者数が増加して、思うように歌うことが叶いません。家にいる時間に、昔の楽譜やアルバムを整理していたら、シャンソンを習い始めた頃の思い出がよみがえってきて、今日のブログを書いてみましたが、改めて振り返ってみると、なんて気負っていたのだろうと少し気恥しくなりました。

 また安心して聴いて頂ける日が来ることを願いながらできる準備をしていきたいと思っています。


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心に残ることば

   ご遺族のことば
横田滋
  6月5日、横田滋さんが亡くなられました。
 めぐみさんが拉致されてから43年間にわたる救出活動、途半ばにしてのご逝去は、無念いかばかりだったことでしょう。

  翌日のご遺族の記者会見、滋さんの人となりやご家族の皆様の絆の深さは、以前読んだご著書や講演会や映画などでもよく知っていましたが、改めて、語られる一言一言に深い感銘を受けました。
  情愛に満ちた、そして芯の通った確かな品格をご家族の皆様から感じましたし、記者質問も、そのエピソードやご家族の思い、歩まれてきた軌跡についてが中心だったように思います。
 
 滋さんがいかに秀逸な方だったかを導き出すような質問に対して、弟拓也さんがお答えになった言葉が心に残りました。

 「そうではなく、自分たちはごく普通の家族であり、父もまたそうだったのではと思います。」「娘が理不尽にも連れ去られた人の親であれば、誰だって同じことを思い、同じことをしていたのではないでしょうか」「これは横田家の問題なのではなく、日本の家族の誰しもがこうなったかもしれないという、自分の子供が、親が、兄弟が、同じ状況に遭遇したらどうなのか、誰でも同じ可能性があったことを思い、国全体が自分の事として、この大きな人権蹂躙について考えて頂きたいと思うのです」

 マスメディアも大局を見据える巨視的な観点から揺るぎなく問題を取り上げ伝え続けてほしいという強い要請を率直に述べていらっしゃいました

 国家を論じる一大事も、芸能人のゴシップネタも同じ溯上で話題性だけを追うようなワイドショー感覚に、マスコミも乗りがちになっている昨今への警鐘でもあるように感じました。

 滋さんの43年間はまさに、そのような大きな問題への尽きぬ挑戦でもあったのでしょう。思いを受け継いでいく覚悟に満ちたご家族の言葉が心に残ります。


   詩のことば
 石垣りんさんの『時の記念日に』という詩。
 以前から知っていましたが、今回心惹かれるものを感じ、改めて読み直してみました。

  私たちが一日のうちに 一番たくさん問いかけること
石垣りん  いま 何時?
  自分に向かって 周囲の人に向かって。
  それはたやすく答えられる
  時計さえあれば
  ちいさな子供でも答えられる。
  単純明快な時刻というもの
  自分も他人も信じて疑わないもの
  これほどかたちのない 
  これほど正確なものが存在するだろうか。
  しかもなお 限りなく尋ね続ける
  生きている命の この一瞬
  いま、何時?

 先の横田さんのお話もそうですし、コロナの脅威の中での昨今、「いま 何時?」と、生きていることを問われている気がします。

   店長のことば
 コンサートの時に着用するステージドレスを探すのはなかなか大変で、折に触れ、いくつかのお店を見て回ったりしています。
 そんな中のお気に入りの一つに「イソリ」があります。
 今はこんなご時世ですから、コンサートライブは軒並み見合わせ、ドレスショップも休業中のお店が多いのですが、先日、イソリのネットを見ていましたら、こんな記述がありました。
 
 店舗での接客は不可能と結論いたしました。
 日々ご来店される人々と商品の安全を、どのように確保できるのか検討した結論です。
 マスクや換気、動線で安全確保できる部分もあります。
     ・・・・・
 一番の課題は試着後のドレスを次の試着までに安全なものにすることの難しさです。
 直接に素肌が触れる商品にもかかわらず、試着の度に一着ずつ消毒液を吹きかけや洗濯はできません。
 それが連日続き1週間で相当数になります。
 昨日試着されたドレスを今日着ていただく訳にはまいりません。
 ドレスショップ毎の考え方だと思いますが数を販売できればいいということではないのです。
 
 音楽はかけがえのないもの、ドレスは素敵なステージの成功の一助を担うもの、こういう時だからこそ、コンサートを側面から応援せねばというオーナーの気概が溢れていて、仕事への矜持とはかくあるべしと、とても感銘を受けたのでした。
 当面はネットで動画を配信し、品物を詳細に紹介することによって、お店に来られたと同様の感覚で販売していくとのことです。
 早くコンサートを再開できますように。


   社長のことば
 新聞で読んだ話。
 私も昔使っていた新潟の大手暖房機器メーカー「コロナ」の社長が、社名に心を痛めている社員の子供に向けて、送るという手紙。

 もし、かぞくが、コロナではたらいているということで、キミにつらいことがあったり、なにかいやなおもいをしていたりしたら、ほんとうにごめんなさい。 かぞくも、キミも、なんにもわるくないから。
 わたしたちは、コロナというなまえに、じぶんたちのしごとに、ほこりをもっています。キミのじまんのかぞくは、コロナのじまんのしゃいんです。


 社員や家族を勇気づけるために、2300名の全社員にこのひらがなの手紙を送ることにしたそうです。石油コンロの青い炎と太陽の周囲に現れるコロナのイメージをあわせた「コロナ」がここにありました。


   友人のことば
 平凡であること、普通であることに徹するのは至難なところだが、ふつうの「日常」にこそ「生の充実」がある。

 友人がポツリと口にしたことば、しっかりかみしめたいと思います。




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ラパン・アジルの思い出

 久しぶりに散歩に出ました。
寂しい錦市場

 昼間の錦市場、店のシャッターの多くは閉まり、行き交う人もまばらで、別世界の様です。



そして、鴨川べりへ。
 犬を散歩させる人が、マスク姿で、離れて歩いています。
閑散とした鴨川 鴨
 鴨たちは、変わらぬのどかな様子で、眩しい日差しを楽しんでいました。

   距離を置く
 GWが始まろうとしています。
 様々な注意勧告の中、沖縄便の予約は6万人、営業を継続するパチンコ屋に並ぶ列も減ることはなく、連休中に感染者数もまた増大するのではと、嫌な緊張感が走ります。

 医療を初めとして、私たちの日々の生活と安全を守るべく、身を挺して働いて下さっている多くの現場の方々、そしてそれに報いたいと、それぞれの立場で、感謝や応援や協力や、心温まるたくさんの支えも届けられています。

 こういう時こそ、どうあるべきなのか、全体としても個人としてもその姿が真に問われますし、まさに品格を持って踏ん張る正念場なのだと思います。

 でも一方で、これまで恵まれ過ぎてきた生活環境や平和の中で、逆境に耐える心が脆弱になっていることも事実なのでしょう。
 「快」でないことのストレスに耐えられず、自分だけはと逃げ道を探すことも、いたずらに恐れて鬱々と囚われてしまうことも、正しいことではありません。

 自分一人の災難ではないのだから、もう仕方がない。
 覚悟を決めるしかありませんよね。

 先日の読売新聞の「編集手帳」に、「「よそよそしい」、「よそ様」などというときの「よそ」は「余所」と書く」という記事が載っていました。
 「所を余す」は「距離を置く」の意味で、普通は、「よそよそしい」という否定的なニュアンスを感じるのだが、・・・・という書き出しから、昨今の状況へと続いてゆきます。
 筆者は、スーパーのレジや、電車のホームに、自然と距離を置きながら待っている人々の姿を見て、今、「困難に立ち向かおうと大勢の人が呼吸を合わせていることは確かだろう。」と述べています。
 そして「<距離を置く>とは、ひととき、みなが力を合わせ、災難を乗り切る意があった・・・と後の世の辞書に載せよう。」と結んでいます。
 切なる想いが伝わってきて、心に染みました。

 「密接」は、親しさを図る尺度ではありますが、翻ってみると、卑近距離であることに盲目的に寄りかかってきた甘えの構造を、裏面に隠し持っていたのかもしれません。
 「快」に依存しすぎないで、適度な間合いを心に保つという、難しいですが、誰にとっても、そういう、心身に「距離を置く」鍛錬をする時なのかもしれないと思います。

   ラパン・アジルの思い出 
モンマルトルの丘
 前回のブログ記事『巴里野郎』閉店で、モンマルトルにあるシャンソニエ「ラパン・アジル」のことを載せたのですが、ラパン・アジルでの思い出が、懐かしく蘇ってきましたので、少しご紹介してみようかと思います。

 シャンソンの殿堂として、長い歴史を持ち、現在に至っているラパン・アジルですが、これまでに何回か訪れたことがあります。


 オ・ラパン・アジル (Au Lapin Agile)
 1795年に宿屋として設立されたのが最初で、19世紀中頃からキャバレーとして知られるようになった。 
ラパン・アジル
 1875~1880年に風刺画家アンドレ・ジルが描いた看板から「ラパン・アジル」と呼ばれ、何度か取り壊しの危機を免れ、多くの歌手、音楽家を輩出し現在に至っている。
 ジルが描いた、酒瓶を持って鍋から飛び出したウサギの絵が「ジルのウサギ (ラパン・ア・ジル; lapin à Gill)」として人気を博し、以後、店そのものが「ラパン・アジル」(Lapin Agile; 足の速いウサギ) と呼ばれるようになった 
 (ウキペディア参照)

 初めて訪れた時だったかと思います。
 21時開店、狭い入り口から中に通されます。
 店内には、赤いランプシェードのかかった薄暗いサロンが広がり、一瞬得体のしれない世界に迷い込んでしまったような心細さに襲われるのですが、赤い光に目が慣れてくると、ここは歳月を経たノスタルジックな別世界なのだと了解されてきます。
ラパン・アジル歌手
 サロンの中央に年季の入った大きなテーブル。
 壁一面には、ラパン・アジルの歴史を語るように、巨匠たちの絵画が無造作に掲げられ、お客さんは四隅を囲む椅子に自由に座ります。
 やがて、小さなグラスに甘いシェリー酒が運ばれて一息ついていると、歌手たちがぞろぞろと登場、中央のテーブルの周りに着席し、突然合唱が始まるのです。
 これが、ラパン・アジルの定番スタイル。

 歌手たち、と言ってもデニムにTシャツ、洗いざらしの仕事着で、女性はアクセサリー一つつけず、化粧もしていない
 あまりにも普通で、着飾ってライトに照らされる、日本のシャンソニエのイメージとは全く違います。
ラパン・アジルピアニスト
 いつものピアノ弾きのお爺さんが、撫でるように柔らかく奏で始めると、ライブの始まりです。
 マイクもなく、一人が歌い終わると、一人が立ちあがり歌う
 友人の家で呑むうちに、じゃあ歌でも、という雰囲気です。

 この日のお客さんは、そのほとんどが年配者で、ご近所の常連のように見えました。観光客も混ざっていたのでしょうが、日本人は他にはいませんでした。

 ピアノ弾きのお爺さんは、この店の責任者だったのかもしれません。
 細やかな気配りがさりげなくて、居心地の良い時間が生まれていました。

 それぞれの歌手が、それぞれの声で、切なく、あるいは朗々と歌い、もはや、上手なのかどうか、よく分からなくなってきます。
 でも、それが、心地よい味わい。

 歌うシャンソンは、完全に懐メロで、100年も前から同じように歌ってきたのではと思われるほど、よく知られた往年の名曲ばかりでした。
 フランス人ならだれでもが口ずさめるのでしょう。
 「さあ、みんなで!」と歌手が促すと、観客も声をそろえて気持ちよさそうに唱和する、日本の歌声喫茶も、こんな感じだったのではないでしょうか?

 知っている曲ばかりでしたので、私も大きな声で歌っていました。
 「日本から来たのだ」と言うと、とても歓迎してくれ、質問攻め、最後には「何か歌って」ということに。

 ジャック・ブレルの『Quand on n'a que l'amour(愛しかないとき)』の前奏が流れてきました。
 これならフランス語で歌える
 ちょっと勇気を出して、フルコーラス歌ってしまいました。
 ブラボーの声
 ダンディーなピアニストのお爺さんに、強くハグされて、すっかりご機嫌の夜でした。

 このコロナ騒ぎで、ラパン・アジルは今、休業しているのでしょうね。
 あのピアニストのお爺さんはまだお元気なのでしょうか。


 お互いの呼吸と音の響きを感じ合える「密接」が、何でもなかった幸せな感覚が蘇ります。
 何の屈託もなく、肩を寄せ合い、音楽を楽しめる日が、早くまた訪れますように。



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「パパラギにはひまがない」

   「切り開くのはきみたちだ。」
 一昨日、2月28日の読売新聞の「編集手帳」に、『パパラギ』を取り上げた文章が載っていて、とても懐かしく感じました。
 『パパラギ』は1920年、今から100年前に出版されて以来、重版を重ね続けている世界的ベストセラーですので、今や古典と言えるのかもしれません。

 学生の頃の愛読書、本棚から取り出して、今日、久しぶりに再読してみました。

 「編集手帳」の記事は含蓄に富んだ心に残る文章でしたので、まずは、ここに紹介してみます。(要約しながら一部を引用します。)

  今から100年以上前の話である。
  南太平洋の島の一つ、サモアの族長がヨーロッパを旅したあと、島民に向かって演説したという。
 「私たちは小さな丸い時間機械を打ち壊し、日の出から日の入りまで、一人の人間には使いきれないほどたくさんの時間があることを西洋の人々に教えてやらねばならない」(『パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』立風書房)
  時計のことを「小さな丸い時間機械」と呼んでいる。この表現が好きで、たまに本を読み返したりしてきたが、使い切れないほどの時間など多くの現代人には夢物語だろう。
 と、きのうまでは思っていた。

 という書き出しで、この前日の夕方、政府の発表で、3月1日から学校が一斉休校になる見通しが強まったことへの驚きに話が繋がってゆきます。

 「編集手帳」の筆者は更に次のように続けます。

 3月に勉強するはずだったものは?
 生活のリズムが崩れてしまわないか・・・・。
 心配すればキリはないけれど、ここは開き直って、使い切れないほどの時間を人生のために有意義に使ってもらいたい。
 周りの大人の誰も経験したことのない1か月を過ごすことになる。
 切り開くのは、きみたちだ。


 この非常時だからこそ、大人たるもの、慌てないで悠然と、こういうメッセージを子供に向けて発信したいものだと大きく頷いてしまいました。
 
 テレビをつけると、一か月間休校になった時の学業の遅れの深刻な問題、どうやって待機中の子供たちに時間を過ごさせるべきか、遅れを補わせるべきか等々の議論が紛糾していました。
 私も教育現場に長く従事していましたから、この学年末に、突然すべてがストップした時の、現実の混乱や支障については充分理解できます。
 それであっても、これまで経験してこなかった事態に遭遇し戸惑っている子供たち、時間が不意にどっさり降って涌いた子供たちに、「切り開くのはきみたち」との力強い示唆を与えることは何より大切ですし、社会全体の持つ懐の深さのようなものが問われる時でもあると、この記事を読んで思ったのでした。

   「パパラギにはひまがない」
 さて、その『パパラギ』ですが、少しご紹介してみたいと思います。
パパラギ(ドイツ語版)
 
ウィキペディアの説明によると、

 1920年にドイツで画家兼作家のエーリッヒ・ショイルマンによって出版された書籍である。ヨーロッパを訪問したサモアの酋長ツイアビが、帰国後、島民たちに西洋文明について語って聞かせた演説をまとめたものとしているが、実際はショイルマンの手によるフィクションである。



 日本では、1981年に『パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』(著:ツイアビ、訳:岡崎照男)として立風書房から出版されて以後、重版を重ねています。
パパラギ
 「パパラギ」というのは、このサモアの酋長ツイアビの言葉で「白い人」「外国人」という意味、彼が初めて出会った「西洋人」のことを指しています。
 西洋の文明社会は、自然の中でおおらかに暮らすツイアビの目にどう映ったのか、それが曇りない明晰な感性で鋭く捉えられていて、良質の文明論として、現代でも大きな意味を持つ書なのではと思います。

 ショイルマンが直接ツイアビに取材して、その言葉をまとめた書なのか、ウィキペディアの説明のように、すべて著者ショイルマンの手によるフィクションであるのかは、未だはっきりとはしていないようです。
ツイアビ写真

 その真偽はともあれ、酋長ツイアビは言います。

 パパラギはいつも時間のないことに不安を持ち、不平を言い、時間をつかもうと焦り続けている。でも、それが却って、自分で時間を遠ざけることになっている。

 パパラギはいつも、伸ばした手で時間のあとを追っかけて行き、時間に日なたぼっこのひまさえ与えない。

 だが、時間は静かで平和を好み、安息を愛し、むしろの上にのびのびと横になるのが好きだ。
 パパラギは時間がどういうものかを知らず、理解もしていない。
 それゆえ彼らの野蛮な風習によって、時間を虐待している。

 おお、愛する兄弟よ。
 私たちはまだ一度も時間について不平を言ったことはなく、時の来るままに、時を愛してきた。
 時間を折り畳もうとも、分解してばらばらにしようとしたこともない。
 時間が苦しみになったこともなければ、悩みになったこともない。

 私たちはだれもが、たくさんの時間を持っている。
 だれも時間に不満をもったことなどない。

 一刻も早くコロナウイルスの脅威が収束して、普通の生活が戻ってくることを心から願わずにはいられません。
 けれど、「災い転じて・・・」ではありませんが、いつもとは違った不自由な生活の中で、ツイアビ酋長の言うように、これまで私たちを包んできた時間を改めて見つめ直し、より豊かに過ごすことの意味や、日々の幸せを考える契機にしてゆかれればと思っています。

 3月はどんな月になるのでしょう。
 健康に留意してお過ごしくださいね。



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お正月の雑感

   少年老い易く
 どんど焼きが済むと、子供たちの頭から完全に正月というものはなくなって行った。
 正月はもう過ぎ去った一つの事件であるに過ぎない。
 正月はもう終わってしまったのである。
 この頃から伊豆の天城山麓の村々は本格的な寒さに見舞われた。


 井上靖の自伝的長編小説『しろばんば』の一節ですが、この時期になるといつも鮮明に浮かびがってくる文章です。

 大正初期の伊豆の鄙びた山村で育った耕作少年の成長の物語。
 自然に包まれ、季節の流れに身を置きながら、その中で穏やかに営まれてゆく路傍の人々の質実な生活ぶりと心模様が細やかに描かれています。
井上靖書斎
 どんど焼きの日に、子供たちは皆、一斉に自分の書いた書初めを火にくべるのですが、その時、耕作は同級生あき子の書初めの
「少年老い易く 学成り難し  一寸の光陰 軽んずべからず」とある、大きく力強い文字を見てしまいます。
 彼はその瞬間、今すぐ土蔵へ帰り勉強をしたいような身の引きしまる気持ちにかられます。

 私が『しろばんば』を初めて読んだのは小学校の高学年の頃だったかと記憶しています。このどんど焼きの場面は特に印象的で、耕作のこの思いにとても共感を覚えました。

 「少年老い易く、学成り難し」、今や「少年」は遥か遠く、「学成り難し」も嫌というほど実感しているのですが、でも、お正月を過ぎたちょうど今頃の季節になると、「一寸の光陰軽んずべからず」の言葉が、胸の奥から一種の哀感を持って湧き出してくる気がするのです。

   『しろばんば』の授業
 中学一年の国語の教科書には、以前はどの出版社にも『しろばんば』の一部分が掲載されていました。最近はどうなのでしょうか?急速に教科書事情も変わってきて、定かではありませんが。(大抵は、このどんど焼きの次に登場する「ひよどりのわな」事件の場面が載っていました。)
しろばんば
 私は嘗て、中・高一貫のカトリック系の女子校で教鞭を執っていましたが、中学一年の授業を受け持つときには、この『しろばんば』を、一冊丸ごと3か月近くをかけて精読するという試みを行っていました。
 新潮文庫で528ページもある長編小説を全員に購入してもらい、これを教科書代わりに読み進めるという非常に冒険的な授業だったといえます。

 中学に入ったばかりの若葉が芽吹くようなこの時期に、これまで手に取ったこともない細かい文字の詰まった厚い文庫本を一冊、初めから最後まで授業の中で丁寧に読破するという経験が、読書をすることへの自信と興味、本を読むということがどんなことなのかという実感を体得させる契機になったのではと、その後の生徒たちの成長ぶりから、自負しています。
 その後もずっと中学一年で『しろばんば』一冊という伝統は、学校の中で定着し、幸いユニークな国語教育としての評価も得ることができました。
 蛇足ですが、この時期になると鎌倉、藤沢の書店から『しろばんば』が一斉に消えて、買い難くなるという伝説が生まれ、後には学校で一括購入をすることになりました。

   「年賀状これにて終了」について
 私は普段から手紙を書くのが大好きですし、お正月は「年賀状は必須」という古いタイプであるようです。
 教え子や友人に宛て、驚くほどの枚数になっています。
 一年間の年月を思い、言葉を添える、年賀状は年の瀬の大忙しの一大行事。
 確かに、これがなくなれば随分楽になることには間違いないのですが。

 そんな中で、「これにて年賀状を終えたいと思います」、「これからはメールかラインで」の通知が今年も何枚かありました。
 人それぞれの考え方で、これも大いにありかもしれませんね。
 「虚礼廃止」、もっと便利な通信方法はたくさんあり、手紙をやり取りする習慣も激減している昨今であり、また、終活の一つとして心身ともに「身軽に」ということもよく理解できます。

 私の高齢の両親は病身ですが、年賀状は続けており、とても丹念に文章も書き添えています。
 「友人が亡くなっていき年賀状も減っていく」と寂しそうに呟いていました。
 それでも、来年はどんな図案にしようかと、もう話していて、我が親ながら、あっぱれ!・・・・血筋なので、私もきっと、ずっと続けてゆくことになりそうです・・・・。

   ウズベキスタンからの年賀状
 海外にも友人、知人が何人もいて、年賀状は私にとって、そのやり取りができる楽しいきっかけでもあります。

 教え子の一人Hさんからこんなお便りが届きました。
ウズベキスタン
 「青の都」としてしか知らなかったウズベキスタンが、私にとっても、急に身近で大事な国になりました。
Hさんは聡明で暖かく誠実な方、ウズベキスタンでたくさんの豊かな経験を重ねて健やかにお嬢様たちを育ててゆかれることでしょう。
心からのエールを込めて、彼女からの素敵なお便りを、途中割愛しながらご紹介いたしますね。

実は、私たち家族は、今は主人の仕事の都合でウズベキスタンにて暮らしております。あと2,3年はこちらで生活する予定です。
  
  長女が小学5年の後半から、本格的に中学受験に向けて母娘ともに頑張っていましたが、受験日数日前に、まさかの駐在の話を聞かされました
 家族一緒に海外生活を送る最後のチャンスだと思い、そこから急遽、高校から戻れる一貫校へと受験校を変えて受験。そしてウズベキスタンへ移住という、ドタバタの2019年でした。
 2020年は、少し落ち着いた年になればと、思っております。

 ウズベキスタンは意外なほど住みやすく、治安も日本より良いくらいです。人も優しく、綺麗な世界遺産も沢山あり、文化的にもとても興味深い国です。が、日本人がほとんど居ないのと、世界に二つしかない二重内陸国の一つなので、魚が食べられないのと、英語も全く通じないのが不便です(^^;;
 日本人学校が無いので娘たちはインタースクールです。次女はアルファベットもままならないゼロからの英語生活ですが、私に似て超がつくほど楽天的姉妹なので、長女も次女もそれなりに楽しく学校生活を送っています。

 2020年の始まり、皆様にとって良い一年となりますように。



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