FC2ブログ

新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

二幕への序章

 コロナと熱中症のリスクの中で息をひそめるように過ごす夏となってしまいました。まだまだ辛抱が必要ですが、何はともあれ、めげることなく健やかに過ごしたいですね。

 家籠りの日々は、まず「家を旅する」ことから始めようとの友人の名言ですが、歌の活動がぴたりと止まっている現況の中で、ゆっくりと今、「我がシャンソンを旅する」のも良いのではという気がしています。

 シャンソンを初めて人前で歌った日のことを思い出し、前々回の記事『夕焼けのトラック』に綴ってみましたが、今日は、また別の、シャンソンの節目を旅してみようかと思います。

   「最初にして最後のコンサート」を決意する
 シャンソンは成行きで始めた趣味だったのですが、だんだん面白くなって4年間ほどレッスンを継続し、いわゆる有名な曲をかなりたくさん習得しました。
 当時教職にあり、多忙を極めていました。
 そのつかの間の気分転換に歌は何より心地よかったですし、生まれて初めて習った歌の世界が新鮮で、素直に心に染み入ってきた気がします。

 けれど、習い始めて4年目に公私ともに大きな転機が訪れました。
 鎌倉から京都に転居することとなり、それまで骨を埋めるほどの覚悟で愛着を持って従事していた教職を辞し、長年勤めた学校を離れることになったのです。
 
 学校での生活は、一日・一週間・一か月・一年のすべてのタイムスケジュールがしっかりと作り上げられていて、狂いなくそれに従って任務を遂行してゆくことがプロとしての使命でもありました。
 特にそういうことについては超真面目な私、それが長期間にわたって刻まれ続けたので、体内時計ではありませんが、それこそ身に刷り込まれていて、例えば昼食は12時15分から20分間・・・50分間の授業の後10分の休憩がありそれが一日7時間続き・・・というように全て規則正しく動いてゆくのです。
 朝は5時15分に起床して、お弁当作りまで含んで6時20分に家を出発するという毎日でした。

 それなのに、3月末日に退職した翌日からは毎日が休日となり、しばらくはどうしてよいかわからず、企業戦士のバーンアウトのような状態に陥りました。
 今、一時間目が始まった・・・とか、今日は月曜日、4時から職員会議がある・・・とか、果ては仕事に遅れる悪夢まで見る始末で、これから先どうやって生きていったらよいかという茫然自失のうつ症状のような日々だったように思います。

 そうは言っても、京都に転居する11月までの間に、これまでの後処理と今後の生活の準備など山のようにすべき仕事はあり、毎日飛び回っていたのですが。
 子供の頃から慣れ親しんだ鎌倉での生活、親戚縁者、多くの友人知人、そのすべてと離れて、新たな気持ちで新天地での生活に清々しく出発するために、目に見えるけじめを刻んで、気持ちを切り替えたいと、いつの間にか考えるようになっていました。

 その結果、思いついたのは唐突ながら「ランチタイムコンサート」

 お世話になった方たちや、大事な友人たち、親戚、そして同じ志を持って働いてきた職場の同僚、教え子たち、歌の仲間。
主だった方たちをご招待してこれまでのご縁に感謝を表わすささやかな会を催したいというアイディアが突然胸の奥を突き上げました。

 これまでのお礼の気持ちを伝えたい・・・・ゆっくりお食事を召し上がっていただこう・・・でも単なる食事会ではなくて、自分が最大限努力して今できる最高のおもてなしを添えたい・・・・趣味は今のところ歌しかないので、ではいっそ「シャンソンコンサート」を開催してみるのはどうだろうか・・・
 という突飛な発想で、80人ほどご招待のランチコンサートを行うことを即決しました。心によぎってから、会場を決定し、宣言するまで数日、しかも短い準備期間の中で、今思えば何という無謀な思い付きだったかと思います。

 一年に一回発表会はありましたが、でもそれは先生がすべて段取りして下さったものでしたし、それ以外に人前で歌うなど夢にも思っていませんでした。
 清水の舞台から飛び降りるつもりで立てたこの計画は、おそらく次の自分の人生へのステップを自分に課すような気負いだったのかもしれません。
 「一生に一回最初で最後のソロコンサート」、これを終えたらシャンソンも止めようかと考えていました。

   海の見えるホテルで
 今にして思えば,全力投球で心尽くしのコンサートだったように思います。
002 七里ガ浜の海を大きく臨むリゾートホテルの披露宴会場で、丸テーブルに席札付き、ホテル側も初めての試みということで、かなり肩入れをして下さったのですが、どこか勘違いで、まさにすべては披露宴そのものの設えでした。
004

 ランチコースの後、1時間半のコンサートで、ピアノとチェロの演奏に乗せて全17曲・・・初心者の私がよくも挑戦したものだと冷や汗です。

 集まった方たちには、教師一辺倒だった私がステージで歌を歌っているということ自体が信じがたい光景で、上手いとか下手とかいう以前の、不思議な状況にただ茫然としていたのではないでしょうか。
001
 でも、ともかくも和気藹々とした温かい雰囲気の中で無事終えることができたのは、私の思いに共感してくれた友人や教え子の皆さんの全面的な協力のおかげに他なりません。
 一度だけだからという思いがあったからこそ、火事場の力が発揮できたのでしょうし、周囲も許して受け入れてくれたのだと思います。
003
 シャンソンを習い、既成の訳詞で歌うことは、これが本当に最後となりました。その意味で、「我がシャンソン第一幕」はこの時下りた気がします。
 でもこの向こう見ずな挑戦で得たことも大きく、今もどこかで気持ちの後押しをしてくれているのかもしれません。
 その後、今度は自分で訳詞をした曲を歌うという活動を始めることとなり、今もって、相変わらずこれに関わっているのですからわからないものですよね。
 あのコンサートは「シャンソン第二幕への序章」でもあったのでしょう。

 人は、何かに決着をつけるとまた新たに違う道が開けてくる、という不思議なめぐりあわせを誰でも何回かは持っていて、そういう岐路、節目に今立っていると感じられる時があるのではと思うのです。

 人生は舞台で、最期の幕引きの時は誰にでも平等に訪れるのだとよく言います。
 ふいにあっけなく終幕を迎える人もいれば、美しい幕引きが用意されている幸福な人もいるのでしょう。
 自らの意志では動かしがたいことは別として、そして自分のステージが第何幕まであるのかも別として、最後の時がくるまで、引かれた幕を次のより良い幕への力に変えて行けたらといつも思います。



このページのトップへ

We will meet again

 コロナ禍の中、4月5日にエリザベス女王が、イギリス国民に向けてビデオメッセージを発表されたその内容が国内外に感動を生んだことはまだ記憶に新しいですが、私もこのスピーチにとても感銘を受けました。
 特に反響の大きかった「we will meet again」という言葉。
 この言葉を今日は考えてみようかと思います。

   三遊亭金馬さんのオンライン落語
 先日NHKの「おはよう日本」で、「落語家・三遊亭金馬・91歳・戦争も新型コロナも乗り越えて」という特集を放映していました。
 今年91歳になられる三遊亭金馬さん。
 芸歴79年の現役落語家最長老ですが、2年前に脳梗塞で倒れて復帰が絶望的と思われていたそうです。けれど懸命なリハビリを続けられて、今は高座に復帰できるまでに回復なさいました。
 このコロナの時期、寄席も次々中止となる中、今回、江戸東京博物館でのオンライン落語「えどはく寄席」に初挑戦なさるという話題でした。
金馬
 ニコニコと終始微笑みを絶やさない金馬さん、江戸っ子の活舌で飄々と語る言葉が印象的でしたが、その中で「自分は長生きをしたおかげで、戦争も、闘病生活も、そして今度は未曾有のコロナまで経験させてもらうことができた。そういう中で考え感じてきた実感を落語に生かし、すべて笑いに変えてゆきたい」という強靭でしなやかなチャレンジ精神が本当に魅力的でした。

 コロナの時代もこれまで経験したことのない貴重な気づきととらえ、笑いと共感のネタにしてゆく、渦中での人間の心模様をじっと見つめ受け入れることによって、それを乗り越える力を得、笑いに変えるエネルギーにしてゆく、品格のある生き方とはこういうものなのだと、強く感銘を受けた次第です。
 誰もいない会場でただカメラに向かって落語を語り続ける金馬さんのその胸中には、きっと「we will meet again」と同様の思いが燃えていたに違いありません。

   エリザベス女王のスピーチ
 エリザベス女王のビデオメッセージは、新型コロナウイルスとの戦いに疲弊し混乱をきたしているイギリス国民に大きな勇気を与えたことでしょう。
 女王が特別な事態に際して国民に語りかけるのは、即位68年の間でこれが5度目なのだそうです。
エリザベス女王
 「私たちが、一丸となって団結し、強い意志を持ち続ければ、必ず病いは克服できる」
 「自律と不屈の心こそが大事で、将来「この困難に自分がどう対応したのか振り返ったとき、誇らしく思えるようになる」ことを願っている」

そして、
 「これからもまだ、色々耐えるべきことは多いが、必ず穏やかな日々が戻ってくる。それを支えにしてほしい。
  友だちにきっとまた会える。
  家族にもまた会える。
  私たちも 再び会いましょう」


 と結んでいました。
 「私たちはまた会いましょう」=「We will meet again」という結びの言葉は、第2次世界大戦中にイギリスで応援歌として愛唱されたヴェラ・リンの曲、「We will meet again」を踏まえた言葉なのだと聞きました。
 戦時下に愛する家族や恋人や友人と引き裂かれて、いつ再会できるとも知れないそんな不安なときの力強い応援歌だったのでしょう。

 世界中の人々が今置かれているこのコロナの状況は、本来あるべき人と人との絆や生活が根柢から覆された出来事と言えます。
 三密を避けて暮らさなければならない不自由な状態、リモートの距離感は、仕方がないとは言うものの、人が出会って、触れ合う本来の形とは言い難いのではないでしょうか。
 人にとって最も自然で心地よい幸せがきっと再び訪れる、それが「We will meet again」、今、国境を越えて大きく共感できる言葉だと思うのです。

 
   『スマホを捨てたい子どもたち』
 京都大学総長、山極寿一氏の6月発刊の著書を読みました。
山際
 山極さんは、小学生から高校生までの多くの若い層に、「スマホを捨てたいと思う人は?」と尋ねたところ、多くの子どもたちが手を挙げたという経験から、若い世代も、実はスマホを持て余しつつあるのではないか、と感じたというのです。

コロナ禍の時代を見据えながらこのような提言をしておられます。

 今、ぼくたちを取りまく環境はものすごいスピードで変化しています。人類はこれまで、農耕牧畜を始めた約1万2000年前の農業革命、18世紀の産業革命、そして現代の情報革命と、大きな文明の転換点を経験してきました。そして、その間隔はどんどん短くなっています。その中心にあるのがICT(Information and Communication Technology/情報通信技術)です。インターネットでつながるようになった人間の数は、狩猟採集民だった時代からは想像もできないくらい膨大になりました。
 一方で、人間の脳は大きくなっていません。つまり、インターネットを通じてつながれる人数は劇的に増えたのに、人間が安定的な信頼関係を保てる集団のサイズ、信頼できる仲間の数は150人規模のままだということです。
 テクノロジーが発達して、見知らぬ大勢の人たちとつながれるようになった人間は、そのことに気づかず、AIを駆使すればどんどん集団規模は拡大できるという幻想に取り憑かれている。こうした誤解や幻想が、意識のギャップや不安を生んでいるのではないか。 ぼくはそう考えています。そして、子どもたちの漠とした不安も、このギャップからきているのではないでしょうか。

 山極総長の語られるこれらの言葉にもまた、「we will meet again」が重なりました。もちろん論点は別ですが、人と人との真のつながりという共通した問題を提起されているのだと思うのです。

 また、「視覚と聴覚を使って他者と会話をすると、脳で、繋がったと錯覚するが、それだけでは、実は本当の信頼関係を築くことはできず、人とは、嗅覚、味覚、触角等の五感のすべてを使って人を信頼するようになる生き物だ」とも述べておられました。

 AIが成し得ないものがあるとすればそれは五感を通しての実感、信頼そのもので、「スマホを捨てたい子どもたち」はそういう漠然とした渇望を感じていると言えるのかもしれません。
 「we will meet again」の言葉がここでも切実な響きを持ってくるのでないでしょうか。


   「早くお会いできるようになると良いですね」
 友人・知人との電話の最後に、「早く穏やかな日々が戻って、またゆっくりお会いしてたくさんおしゃべりしたいですね」というのが最近の決まり文句になりました。
 相手からも私からも自然に素直に口をついで出てくる言葉です。
 早くそういう日が来ますように。


このページのトップへ

夕焼けのトラック

 自分で訳詞を作り始めてからもう15年になりますが、出発当初、かなり気負って、これからは自作のシャンソン訳詞だけを歌おうと心に決めていました。
 かたくなな矜持でしたが、でも、これまでその決意はまだ破られていなくて、コンサートやいくつかのイベントでシャンソンを歌う時には、今も自作の曲に徹しています。

 もちろん、シャンソンを習い始めた頃は、先生から勧められる色々な曲を習い歌っていました。
 当時、シャンソンの名曲と言われるものを一生懸命練習しましたが、15年間、一度も歌っていないので、もう忘れてしまった曲もあり、ちょっと残念な気もします。

 昔の懐かしい譜面を整理していたら、シャンソンの初めての発表会のことを思い出しました。
 今日はそんな思い出をお話したいと思います。

   カルーゾを歌った日
 11月の夕暮れ、海岸沿いのレストランの窓に、空と海が朱に染まっていくのが映っていました。

 バイパスの渋滞で、車が速度を緩めます。
 ヘッドライトと夕焼けが混ざり合って、時折眩しく窓に射すのを見つめながら、ステージに立っていました。
 湘南バイパス沿い、七里ガ浜の海に面した全面ガラス張りのレストランで、初めて人前でシャンソンを歌った日のことでした。
湘南海岸夕日
 往年の名テナー、ナポリ出身のオペラ歌手エンリコ・カルーゾ( Enrico Caruso )、彼の愛と死を歌った「カルーゾ(Caruso)」というドラマチックな大曲があるのですが、これに向う見ずにも挑戦した初舞台でした。

 カルーゾが死にゆく時、愛する女性に最期の思いを語る曲です。
 日本でも人気の高い名曲ですが、イタリアのシンガーソングライター、ルチオ・ダルラが歌い、また、パヴァロッティの名唱でもよく知られています。

 カルーゾは公演先のアメリカから病気のため故郷ナポリに戻り、48歳の若さで亡くなりましたが、最期の時をナポリ湾に面するソレント半島のホテルで過ごしたということです。

 カルーゾが窓に映る夜の海を見つめながら、最愛の人に永遠の愛を歌い上げるその名場面、

   お前を愛した 死ぬほどに愛した
   この固い絆は 誰にも断ち切れない


 初舞台の緊張感も忘れ、主人公に感情移入をして、うっとりと夢み心地だったことを覚えています。
 レストランの窓から見える夕暮れの海はしっくりと歌にはまり、もうすっかりナポリにいる気分でした。

目を遠くの海に移したその瞬間、真正面の窓に、信号で停まった大型トラックのドライバーと目がしっかりと合ってしまいました。
 運転席の座席が、私の立つステージとちょうど同じ高さだったのでしょう。
カルーゾ
 真っ赤なドレスを着てスポットに照らされて熱唱する私と、それを囲む華やいだ客席の様子は、何だ?何だ??という感じだったのに違いありません。
 物珍しそうにじっとのぞき込む目とぴたりと合って、今でもその表情まで覚えています。
 いかにもトラック野郎という感じの精悍で、でも優しそうな方でした。

 海の色が刻々と夕闇に溶け込んでいました。
 波の向こうに遠く、薄く白い三日月が上り始めていたのも目に入りました。
 トラックのドライバーさんは、「頑張ってるね!」って言っているような笑顔を浮かべてこちらに手を振ってくれました。
 私も目で答えて、我ながら自分のこの初舞台は、なんてかっこいいのだろうなどと自画自賛。
 出来はというと、実はカルーゾを歌うこと自体が無鉄砲だったに違いないのですが、でも、この時の思い出は今でも忘れがたいのです。

 ここから私のシャンソンはスタートしました。

   訳詞以前
 当時、高校で教鞭を執っていて、寝食を忘れるような仕事三昧の生活をしていました。
 やりがいがありましたが、それにしても、少しは気分転換も大切かと思い始めていた矢先、シャンソンに夢中だった叔母に誘われて、半ば強引に引き込まれたのが始まりでした。

 何か知っているシャンソンを歌ってみて、と初めてのレッスンで言われたのですが、レパートリーは何もなく、聴いたことのあるのは『愛の賛歌』くらいでした。

 先生は「それはスタートとしては却って良いことです」「声が綺麗でシャンソンに向いている」とおっしゃって下さり、なんだか嬉しくなっているうちに一度だけの体験入学のつもりがいつの間にか習うことに決まっていました。
 今もって続いているシャンソンとの縁の始まりだったのです。

 先生の教え方は、まずお手本に歌うご自身の歌を録音してくださり、それをひたすら覚えこむ様にという和事の口伝のようで、下手に楽譜を見てはならないとも言われていました。
 当時は、忠実に丸ごと真似する習得の仕方をしていました。
 先生はハスキーな低音で声そのものにシャンソンらしい哀愁がありました。
 私はその対極で、しかも今よりもかなり細い高音域で歌っていたので、実は、いくら真似をしても全く違う歌に仕上がってしまうのです。
 でもだから工夫もしたので、結果的にはよかったのかもしれません。

 入門して10か月目に初めての発表会があり、それがこの「夕日の中のトラック」との遭遇だったわけです。

 それぞれの曲に、色々な思い出と時間が込められていて、ふと蘇ってくる情景があることをあらためて感じます。

 警戒宣言が解除されたとはいえ、都会ではまた患者数が増加して、思うように歌うことが叶いません。家にいる時間に、昔の楽譜やアルバムを整理していたら、シャンソンを習い始めた頃の思い出がよみがえってきて、今日のブログを書いてみましたが、改めて振り返ってみると、なんて気負っていたのだろうと少し気恥しくなりました。

 また安心して聴いて頂ける日が来ることを願いながらできる準備をしていきたいと思っています。


このページのトップへ

心に残ることば

   ご遺族のことば
横田滋
  6月5日、横田滋さんが亡くなられました。
 めぐみさんが拉致されてから43年間にわたる救出活動、途半ばにしてのご逝去は、無念いかばかりだったことでしょう。

  翌日のご遺族の記者会見、滋さんの人となりやご家族の皆様の絆の深さは、以前読んだご著書や講演会や映画などでもよく知っていましたが、改めて、語られる一言一言に深い感銘を受けました。
  情愛に満ちた、そして芯の通った確かな品格をご家族の皆様から感じましたし、記者質問も、そのエピソードやご家族の思い、歩まれてきた軌跡についてが中心だったように思います。
 
 滋さんがいかに秀逸な方だったかを導き出すような質問に対して、弟拓也さんがお答えになった言葉が心に残りました。

 「そうではなく、自分たちはごく普通の家族であり、父もまたそうだったのではと思います。」「娘が理不尽にも連れ去られた人の親であれば、誰だって同じことを思い、同じことをしていたのではないでしょうか」「これは横田家の問題なのではなく、日本の家族の誰しもがこうなったかもしれないという、自分の子供が、親が、兄弟が、同じ状況に遭遇したらどうなのか、誰でも同じ可能性があったことを思い、国全体が自分の事として、この大きな人権蹂躙について考えて頂きたいと思うのです」

 マスメディアも大局を見据える巨視的な観点から揺るぎなく問題を取り上げ伝え続けてほしいという強い要請を率直に述べていらっしゃいました

 国家を論じる一大事も、芸能人のゴシップネタも同じ溯上で話題性だけを追うようなワイドショー感覚に、マスコミも乗りがちになっている昨今への警鐘でもあるように感じました。

 滋さんの43年間はまさに、そのような大きな問題への尽きぬ挑戦でもあったのでしょう。思いを受け継いでいく覚悟に満ちたご家族の言葉が心に残ります。


   詩のことば
 石垣りんさんの『時の記念日に』という詩。
 以前から知っていましたが、今回心惹かれるものを感じ、改めて読み直してみました。

  私たちが一日のうちに 一番たくさん問いかけること
石垣りん  いま 何時?
  自分に向かって 周囲の人に向かって。
  それはたやすく答えられる
  時計さえあれば
  ちいさな子供でも答えられる。
  単純明快な時刻というもの
  自分も他人も信じて疑わないもの
  これほどかたちのない 
  これほど正確なものが存在するだろうか。
  しかもなお 限りなく尋ね続ける
  生きている命の この一瞬
  いま、何時?

 先の横田さんのお話もそうですし、コロナの脅威の中での昨今、「いま 何時?」と、生きていることを問われている気がします。

   店長のことば
 コンサートの時に着用するステージドレスを探すのはなかなか大変で、折に触れ、いくつかのお店を見て回ったりしています。
 そんな中のお気に入りの一つに「イソリ」があります。
 今はこんなご時世ですから、コンサートライブは軒並み見合わせ、ドレスショップも休業中のお店が多いのですが、先日、イソリのネットを見ていましたら、こんな記述がありました。
 
 店舗での接客は不可能と結論いたしました。
 日々ご来店される人々と商品の安全を、どのように確保できるのか検討した結論です。
 マスクや換気、動線で安全確保できる部分もあります。
     ・・・・・
 一番の課題は試着後のドレスを次の試着までに安全なものにすることの難しさです。
 直接に素肌が触れる商品にもかかわらず、試着の度に一着ずつ消毒液を吹きかけや洗濯はできません。
 それが連日続き1週間で相当数になります。
 昨日試着されたドレスを今日着ていただく訳にはまいりません。
 ドレスショップ毎の考え方だと思いますが数を販売できればいいということではないのです。
 
 音楽はかけがえのないもの、ドレスは素敵なステージの成功の一助を担うもの、こういう時だからこそ、コンサートを側面から応援せねばというオーナーの気概が溢れていて、仕事への矜持とはかくあるべしと、とても感銘を受けたのでした。
 当面はネットで動画を配信し、品物を詳細に紹介することによって、お店に来られたと同様の感覚で販売していくとのことです。
 早くコンサートを再開できますように。


   社長のことば
 新聞で読んだ話。
 私も昔使っていた新潟の大手暖房機器メーカー「コロナ」の社長が、社名に心を痛めている社員の子供に向けて、送るという手紙。

 もし、かぞくが、コロナではたらいているということで、キミにつらいことがあったり、なにかいやなおもいをしていたりしたら、ほんとうにごめんなさい。 かぞくも、キミも、なんにもわるくないから。
 わたしたちは、コロナというなまえに、じぶんたちのしごとに、ほこりをもっています。キミのじまんのかぞくは、コロナのじまんのしゃいんです。


 社員や家族を勇気づけるために、2300名の全社員にこのひらがなの手紙を送ることにしたそうです。石油コンロの青い炎と太陽の周囲に現れるコロナのイメージをあわせた「コロナ」がここにありました。


   友人のことば
 平凡であること、普通であることに徹するのは至難なところだが、ふつうの「日常」にこそ「生の充実」がある。

 友人がポツリと口にしたことば、しっかりかみしめたいと思います。




このページのトップへ

ラパン・アジルの思い出

 久しぶりに散歩に出ました。
寂しい錦市場

 昼間の錦市場、店のシャッターの多くは閉まり、行き交う人もまばらで、別世界の様です。



そして、鴨川べりへ。
 犬を散歩させる人が、マスク姿で、離れて歩いています。
閑散とした鴨川 鴨
 鴨たちは、変わらぬのどかな様子で、眩しい日差しを楽しんでいました。

   距離を置く
 GWが始まろうとしています。
 様々な注意勧告の中、沖縄便の予約は6万人、営業を継続するパチンコ屋に並ぶ列も減ることはなく、連休中に感染者数もまた増大するのではと、嫌な緊張感が走ります。

 医療を初めとして、私たちの日々の生活と安全を守るべく、身を挺して働いて下さっている多くの現場の方々、そしてそれに報いたいと、それぞれの立場で、感謝や応援や協力や、心温まるたくさんの支えも届けられています。

 こういう時こそ、どうあるべきなのか、全体としても個人としてもその姿が真に問われますし、まさに品格を持って踏ん張る正念場なのだと思います。

 でも一方で、これまで恵まれ過ぎてきた生活環境や平和の中で、逆境に耐える心が脆弱になっていることも事実なのでしょう。
 「快」でないことのストレスに耐えられず、自分だけはと逃げ道を探すことも、いたずらに恐れて鬱々と囚われてしまうことも、正しいことではありません。

 自分一人の災難ではないのだから、もう仕方がない。
 覚悟を決めるしかありませんよね。

 先日の読売新聞の「編集手帳」に、「「よそよそしい」、「よそ様」などというときの「よそ」は「余所」と書く」という記事が載っていました。
 「所を余す」は「距離を置く」の意味で、普通は、「よそよそしい」という否定的なニュアンスを感じるのだが、・・・・という書き出しから、昨今の状況へと続いてゆきます。
 筆者は、スーパーのレジや、電車のホームに、自然と距離を置きながら待っている人々の姿を見て、今、「困難に立ち向かおうと大勢の人が呼吸を合わせていることは確かだろう。」と述べています。
 そして「<距離を置く>とは、ひととき、みなが力を合わせ、災難を乗り切る意があった・・・と後の世の辞書に載せよう。」と結んでいます。
 切なる想いが伝わってきて、心に染みました。

 「密接」は、親しさを図る尺度ではありますが、翻ってみると、卑近距離であることに盲目的に寄りかかってきた甘えの構造を、裏面に隠し持っていたのかもしれません。
 「快」に依存しすぎないで、適度な間合いを心に保つという、難しいですが、誰にとっても、そういう、心身に「距離を置く」鍛錬をする時なのかもしれないと思います。

   ラパン・アジルの思い出 
モンマルトルの丘
 前回のブログ記事『巴里野郎』閉店で、モンマルトルにあるシャンソニエ「ラパン・アジル」のことを載せたのですが、ラパン・アジルでの思い出が、懐かしく蘇ってきましたので、少しご紹介してみようかと思います。

 シャンソンの殿堂として、長い歴史を持ち、現在に至っているラパン・アジルですが、これまでに何回か訪れたことがあります。


 オ・ラパン・アジル (Au Lapin Agile)
 1795年に宿屋として設立されたのが最初で、19世紀中頃からキャバレーとして知られるようになった。 
ラパン・アジル
 1875~1880年に風刺画家アンドレ・ジルが描いた看板から「ラパン・アジル」と呼ばれ、何度か取り壊しの危機を免れ、多くの歌手、音楽家を輩出し現在に至っている。
 ジルが描いた、酒瓶を持って鍋から飛び出したウサギの絵が「ジルのウサギ (ラパン・ア・ジル; lapin à Gill)」として人気を博し、以後、店そのものが「ラパン・アジル」(Lapin Agile; 足の速いウサギ) と呼ばれるようになった 
 (ウキペディア参照)

 初めて訪れた時だったかと思います。
 21時開店、狭い入り口から中に通されます。
 店内には、赤いランプシェードのかかった薄暗いサロンが広がり、一瞬得体のしれない世界に迷い込んでしまったような心細さに襲われるのですが、赤い光に目が慣れてくると、ここは歳月を経たノスタルジックな別世界なのだと了解されてきます。
ラパン・アジル歌手
 サロンの中央に年季の入った大きなテーブル。
 壁一面には、ラパン・アジルの歴史を語るように、巨匠たちの絵画が無造作に掲げられ、お客さんは四隅を囲む椅子に自由に座ります。
 やがて、小さなグラスに甘いシェリー酒が運ばれて一息ついていると、歌手たちがぞろぞろと登場、中央のテーブルの周りに着席し、突然合唱が始まるのです。
 これが、ラパン・アジルの定番スタイル。

 歌手たち、と言ってもデニムにTシャツ、洗いざらしの仕事着で、女性はアクセサリー一つつけず、化粧もしていない
 あまりにも普通で、着飾ってライトに照らされる、日本のシャンソニエのイメージとは全く違います。
ラパン・アジルピアニスト
 いつものピアノ弾きのお爺さんが、撫でるように柔らかく奏で始めると、ライブの始まりです。
 マイクもなく、一人が歌い終わると、一人が立ちあがり歌う
 友人の家で呑むうちに、じゃあ歌でも、という雰囲気です。

 この日のお客さんは、そのほとんどが年配者で、ご近所の常連のように見えました。観光客も混ざっていたのでしょうが、日本人は他にはいませんでした。

 ピアノ弾きのお爺さんは、この店の責任者だったのかもしれません。
 細やかな気配りがさりげなくて、居心地の良い時間が生まれていました。

 それぞれの歌手が、それぞれの声で、切なく、あるいは朗々と歌い、もはや、上手なのかどうか、よく分からなくなってきます。
 でも、それが、心地よい味わい。

 歌うシャンソンは、完全に懐メロで、100年も前から同じように歌ってきたのではと思われるほど、よく知られた往年の名曲ばかりでした。
 フランス人ならだれでもが口ずさめるのでしょう。
 「さあ、みんなで!」と歌手が促すと、観客も声をそろえて気持ちよさそうに唱和する、日本の歌声喫茶も、こんな感じだったのではないでしょうか?

 知っている曲ばかりでしたので、私も大きな声で歌っていました。
 「日本から来たのだ」と言うと、とても歓迎してくれ、質問攻め、最後には「何か歌って」ということに。

 ジャック・ブレルの『Quand on n'a que l'amour(愛しかないとき)』の前奏が流れてきました。
 これならフランス語で歌える
 ちょっと勇気を出して、フルコーラス歌ってしまいました。
 ブラボーの声
 ダンディーなピアニストのお爺さんに、強くハグされて、すっかりご機嫌の夜でした。

 このコロナ騒ぎで、ラパン・アジルは今、休業しているのでしょうね。
 あのピアニストのお爺さんはまだお元気なのでしょうか。


 お互いの呼吸と音の響きを感じ合える「密接」が、何でもなかった幸せな感覚が蘇ります。
 何の屈託もなく、肩を寄せ合い、音楽を楽しめる日が、早くまた訪れますように。



このページのトップへ

「パパラギにはひまがない」

   「切り開くのはきみたちだ。」
 一昨日、2月28日の読売新聞の「編集手帳」に、『パパラギ』を取り上げた文章が載っていて、とても懐かしく感じました。
 『パパラギ』は1920年、今から100年前に出版されて以来、重版を重ね続けている世界的ベストセラーですので、今や古典と言えるのかもしれません。

 学生の頃の愛読書、本棚から取り出して、今日、久しぶりに再読してみました。

 「編集手帳」の記事は含蓄に富んだ心に残る文章でしたので、まずは、ここに紹介してみます。(要約しながら一部を引用します。)

  今から100年以上前の話である。
  南太平洋の島の一つ、サモアの族長がヨーロッパを旅したあと、島民に向かって演説したという。
 「私たちは小さな丸い時間機械を打ち壊し、日の出から日の入りまで、一人の人間には使いきれないほどたくさんの時間があることを西洋の人々に教えてやらねばならない」(『パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』立風書房)
  時計のことを「小さな丸い時間機械」と呼んでいる。この表現が好きで、たまに本を読み返したりしてきたが、使い切れないほどの時間など多くの現代人には夢物語だろう。
 と、きのうまでは思っていた。

 という書き出しで、この前日の夕方、政府の発表で、3月1日から学校が一斉休校になる見通しが強まったことへの驚きに話が繋がってゆきます。

 「編集手帳」の筆者は更に次のように続けます。

 3月に勉強するはずだったものは?
 生活のリズムが崩れてしまわないか・・・・。
 心配すればキリはないけれど、ここは開き直って、使い切れないほどの時間を人生のために有意義に使ってもらいたい。
 周りの大人の誰も経験したことのない1か月を過ごすことになる。
 切り開くのは、きみたちだ。


 この非常時だからこそ、大人たるもの、慌てないで悠然と、こういうメッセージを子供に向けて発信したいものだと大きく頷いてしまいました。
 
 テレビをつけると、一か月間休校になった時の学業の遅れの深刻な問題、どうやって待機中の子供たちに時間を過ごさせるべきか、遅れを補わせるべきか等々の議論が紛糾していました。
 私も教育現場に長く従事していましたから、この学年末に、突然すべてがストップした時の、現実の混乱や支障については充分理解できます。
 それであっても、これまで経験してこなかった事態に遭遇し戸惑っている子供たち、時間が不意にどっさり降って涌いた子供たちに、「切り開くのはきみたち」との力強い示唆を与えることは何より大切ですし、社会全体の持つ懐の深さのようなものが問われる時でもあると、この記事を読んで思ったのでした。

   「パパラギにはひまがない」
 さて、その『パパラギ』ですが、少しご紹介してみたいと思います。
パパラギ(ドイツ語版)
 
ウィキペディアの説明によると、

 1920年にドイツで画家兼作家のエーリッヒ・ショイルマンによって出版された書籍である。ヨーロッパを訪問したサモアの酋長ツイアビが、帰国後、島民たちに西洋文明について語って聞かせた演説をまとめたものとしているが、実際はショイルマンの手によるフィクションである。



 日本では、1981年に『パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』(著:ツイアビ、訳:岡崎照男)として立風書房から出版されて以後、重版を重ねています。
パパラギ
 「パパラギ」というのは、このサモアの酋長ツイアビの言葉で「白い人」「外国人」という意味、彼が初めて出会った「西洋人」のことを指しています。
 西洋の文明社会は、自然の中でおおらかに暮らすツイアビの目にどう映ったのか、それが曇りない明晰な感性で鋭く捉えられていて、良質の文明論として、現代でも大きな意味を持つ書なのではと思います。

 ショイルマンが直接ツイアビに取材して、その言葉をまとめた書なのか、ウィキペディアの説明のように、すべて著者ショイルマンの手によるフィクションであるのかは、未だはっきりとはしていないようです。
ツイアビ写真

 その真偽はともあれ、酋長ツイアビは言います。

 パパラギはいつも時間のないことに不安を持ち、不平を言い、時間をつかもうと焦り続けている。でも、それが却って、自分で時間を遠ざけることになっている。

 パパラギはいつも、伸ばした手で時間のあとを追っかけて行き、時間に日なたぼっこのひまさえ与えない。

 だが、時間は静かで平和を好み、安息を愛し、むしろの上にのびのびと横になるのが好きだ。
 パパラギは時間がどういうものかを知らず、理解もしていない。
 それゆえ彼らの野蛮な風習によって、時間を虐待している。

 おお、愛する兄弟よ。
 私たちはまだ一度も時間について不平を言ったことはなく、時の来るままに、時を愛してきた。
 時間を折り畳もうとも、分解してばらばらにしようとしたこともない。
 時間が苦しみになったこともなければ、悩みになったこともない。

 私たちはだれもが、たくさんの時間を持っている。
 だれも時間に不満をもったことなどない。

 一刻も早くコロナウイルスの脅威が収束して、普通の生活が戻ってくることを心から願わずにはいられません。
 けれど、「災い転じて・・・」ではありませんが、いつもとは違った不自由な生活の中で、ツイアビ酋長の言うように、これまで私たちを包んできた時間を改めて見つめ直し、より豊かに過ごすことの意味や、日々の幸せを考える契機にしてゆかれればと思っています。

 3月はどんな月になるのでしょう。
 健康に留意してお過ごしくださいね。



このページのトップへ

お正月の雑感

   少年老い易く
 どんど焼きが済むと、子供たちの頭から完全に正月というものはなくなって行った。
 正月はもう過ぎ去った一つの事件であるに過ぎない。
 正月はもう終わってしまったのである。
 この頃から伊豆の天城山麓の村々は本格的な寒さに見舞われた。


 井上靖の自伝的長編小説『しろばんば』の一節ですが、この時期になるといつも鮮明に浮かびがってくる文章です。

 大正初期の伊豆の鄙びた山村で育った耕作少年の成長の物語。
 自然に包まれ、季節の流れに身を置きながら、その中で穏やかに営まれてゆく路傍の人々の質実な生活ぶりと心模様が細やかに描かれています。
井上靖書斎
 どんど焼きの日に、子供たちは皆、一斉に自分の書いた書初めを火にくべるのですが、その時、耕作は同級生あき子の書初めの
「少年老い易く 学成り難し  一寸の光陰 軽んずべからず」とある、大きく力強い文字を見てしまいます。
 彼はその瞬間、今すぐ土蔵へ帰り勉強をしたいような身の引きしまる気持ちにかられます。

 私が『しろばんば』を初めて読んだのは小学校の高学年の頃だったかと記憶しています。このどんど焼きの場面は特に印象的で、耕作のこの思いにとても共感を覚えました。

 「少年老い易く、学成り難し」、今や「少年」は遥か遠く、「学成り難し」も嫌というほど実感しているのですが、でも、お正月を過ぎたちょうど今頃の季節になると、「一寸の光陰軽んずべからず」の言葉が、胸の奥から一種の哀感を持って湧き出してくる気がするのです。

   『しろばんば』の授業
 中学一年の国語の教科書には、以前はどの出版社にも『しろばんば』の一部分が掲載されていました。最近はどうなのでしょうか?急速に教科書事情も変わってきて、定かではありませんが。(大抵は、このどんど焼きの次に登場する「ひよどりのわな」事件の場面が載っていました。)
しろばんば
 私は嘗て、中・高一貫のカトリック系の女子校で教鞭を執っていましたが、中学一年の授業を受け持つときには、この『しろばんば』を、一冊丸ごと3か月近くをかけて精読するという試みを行っていました。
 新潮文庫で528ページもある長編小説を全員に購入してもらい、これを教科書代わりに読み進めるという非常に冒険的な授業だったといえます。

 中学に入ったばかりの若葉が芽吹くようなこの時期に、これまで手に取ったこともない細かい文字の詰まった厚い文庫本を一冊、初めから最後まで授業の中で丁寧に読破するという経験が、読書をすることへの自信と興味、本を読むということがどんなことなのかという実感を体得させる契機になったのではと、その後の生徒たちの成長ぶりから、自負しています。
 その後もずっと中学一年で『しろばんば』一冊という伝統は、学校の中で定着し、幸いユニークな国語教育としての評価も得ることができました。
 蛇足ですが、この時期になると鎌倉、藤沢の書店から『しろばんば』が一斉に消えて、買い難くなるという伝説が生まれ、後には学校で一括購入をすることになりました。

   「年賀状これにて終了」について
 私は普段から手紙を書くのが大好きですし、お正月は「年賀状は必須」という古いタイプであるようです。
 教え子や友人に宛て、驚くほどの枚数になっています。
 一年間の年月を思い、言葉を添える、年賀状は年の瀬の大忙しの一大行事。
 確かに、これがなくなれば随分楽になることには間違いないのですが。

 そんな中で、「これにて年賀状を終えたいと思います」、「これからはメールかラインで」の通知が今年も何枚かありました。
 人それぞれの考え方で、これも大いにありかもしれませんね。
 「虚礼廃止」、もっと便利な通信方法はたくさんあり、手紙をやり取りする習慣も激減している昨今であり、また、終活の一つとして心身ともに「身軽に」ということもよく理解できます。

 私の高齢の両親は病身ですが、年賀状は続けており、とても丹念に文章も書き添えています。
 「友人が亡くなっていき年賀状も減っていく」と寂しそうに呟いていました。
 それでも、来年はどんな図案にしようかと、もう話していて、我が親ながら、あっぱれ!・・・・血筋なので、私もきっと、ずっと続けてゆくことになりそうです・・・・。

   ウズベキスタンからの年賀状
 海外にも友人、知人が何人もいて、年賀状は私にとって、そのやり取りができる楽しいきっかけでもあります。

 教え子の一人Hさんからこんなお便りが届きました。
ウズベキスタン
 「青の都」としてしか知らなかったウズベキスタンが、私にとっても、急に身近で大事な国になりました。
Hさんは聡明で暖かく誠実な方、ウズベキスタンでたくさんの豊かな経験を重ねて健やかにお嬢様たちを育ててゆかれることでしょう。
心からのエールを込めて、彼女からの素敵なお便りを、途中割愛しながらご紹介いたしますね。

実は、私たち家族は、今は主人の仕事の都合でウズベキスタンにて暮らしております。あと2,3年はこちらで生活する予定です。
  
  長女が小学5年の後半から、本格的に中学受験に向けて母娘ともに頑張っていましたが、受験日数日前に、まさかの駐在の話を聞かされました
 家族一緒に海外生活を送る最後のチャンスだと思い、そこから急遽、高校から戻れる一貫校へと受験校を変えて受験。そしてウズベキスタンへ移住という、ドタバタの2019年でした。
 2020年は、少し落ち着いた年になればと、思っております。

 ウズベキスタンは意外なほど住みやすく、治安も日本より良いくらいです。人も優しく、綺麗な世界遺産も沢山あり、文化的にもとても興味深い国です。が、日本人がほとんど居ないのと、世界に二つしかない二重内陸国の一つなので、魚が食べられないのと、英語も全く通じないのが不便です(^^;;
 日本人学校が無いので娘たちはインタースクールです。次女はアルファベットもままならないゼロからの英語生活ですが、私に似て超がつくほど楽天的姉妹なので、長女も次女もそれなりに楽しく学校生活を送っています。

 2020年の始まり、皆様にとって良い一年となりますように。



このページのトップへ

令和二年 今年も良い年でありますように

 新年、明けましておめでとうございます。
 今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
 皆様にとりまして素敵な一年でありますように。

 猫好きの私、令和初の年賀状もやはり猫。
 でも仲良くネズミと並んでみんな優しい表情をしている、ちょっとクラシックなこんなデザインで2020年の幕開けです。
    2020年年賀状

 昨年から始動した「松峰綾音 月の庭 シャンソンと朗読のひととき」
 自作の訳詞で歌うシャンソンに、詩・小説・エッセイなどの朗読を融合した、皆様に喜んで頂ける興味深いライブを今年も追求して参ります。

  6月5日(金)18:00~京都文化博物館別館ホールにて
  7月上旬(日時調整中)横浜岩崎博物館 山手ゲーテ座ホールにて
 コンサートを開催いたします
 皆様、是非ご来場下さいませ

  
 12月のクリスマスライブが終わって、あっという間に年の瀬、そして新年。
 今年もまた、こんな風に時間が駆け抜けてゆくのでしょうか。
 でも流れてゆく時間の中にも、やはり様々なことが起こります。
 他人の目からはほんのささやかな出来事でも、自分にとっては泣いたり笑ったり、結構深刻だったり、舞い上ったり、・・・・自分だけの時間の一つ一つに、人は精一杯格闘して過ごすのですよね。
 でも、それだからこそ、意味があるとも言えるのではないでしょうか。
 
 マイナスも含めて、心の深いところに色々な襞が刻まれ、積み重なっていくのが生きる醍醐味なのかなって思います。
 皆様にも私にも、この一年どんな出来事が起こり、どんな出会いと別れとがあるのでしょう。
 
 どうぞ、健康で充実した一年でありますように。
 そして世界が少しでも落ち着いて、平和でありますように。
 心から祈念致します。

 私の今年の抱負。
 年賀状に記したように、まずは次のコンサートに全力を傾けたいと思います。
 京都では、6月5日に文化博物館別館ホールでのコンサートが決まっていますし、7月には横浜でも開催する予定です。

 ・・・とびきりのコンサートテーマが突然、天の啓示のように降ってくると良いな、きっと閃くにちがいないと、かなり楽観的に太平楽に、現在、構えております。
 それにしても、目前のことだけに心奪われず、いつも自分が辿り着きたい場所や大事にしたいことを、揺らぎなく遠く見つめていることが大切ですよね。
 そして何でも楽しめること。心穏やかに。
 心引き締まる元旦の早朝です。
 
 これからいつものように八坂神社への初詣を済まし、その足で実家の逗子に向かいます。
    
 皆様もどうぞ佳い新年をお過ごしくださいますように。




このページのトップへ

小鳥三題

   うぐいす
 先日、友人からこんなメールと二枚の写真が届きました。
鶯
 ウグイス色っぽいので、ウグイスでしょうか。
 砂利道に転がっており、掌の上でククッと全身を震わせて息が絶えました。

 昨日はとりあえず枯れ枝をかけてきましたが、土に戻そうと今朝改めて見に行くと、深く埋めなかったので、カラスにでも食べられてしまったようです。
羽




 食物連鎖・・・・
 掌のウグイスを思い出し、撮りました。


 砂利道に転がっていたウグイス、人の掌に掬い上げられ、優しい温もりを感じながら命尽きたのだと、・・・・小さな命の最期をしっかり見取ってあげた友 人の慈しみ深い眼差しを感じました。
 包み込んでくれるものの中で命を終えることが出来るのは本当に幸せなこと。そして、命の灯が消える時は小鳥であろうとも密やかで厳粛な瞬間であることを思わせる写真です。

 中学生の頃、冬の朝、教室のベランダに小鳥が死んでいるのをよく目にしたことを思い出しました。
 透し硝子の大きな窓に、それと気づかず突進して、頭を打ちつける小鳥が何羽もいて、お腹を出した小鳥の死骸は無残でとても悲しかったのを覚えています。
 中にはただ気絶していただけで、やがて眼をさまし、ふらふらしながら飛んで行くのもありましたが。

 目を閉じ、足が内向きにくずおれたうぐいすは、昔、ベランダで見た小鳥の姿と重なりました。
 

  すずめ
 犬や猫はこれまで何度も飼ったことはありますが、鳥とはあまり縁のない生活をしてきました。
 それでも、子供の頃、一度だけ文鳥を飼ったことがあり、一緒に暮らしていると、侮るなかれ、かなり人の言葉も理解して人の生活と寄り添ってくるということに新鮮な感動を覚えたものでした。文鳥という鳥自体が人懐っこくその分利発でもあったのでしょう。

 その文鳥を飼っている頃の話なのですが。
 先ほどのウグイスに酷似する出来事。


 雀が庭に転がっていました。まだ息はあるのですが、大きな鳥にでもやられたのでしょうか?羽が片側折れて羽毛も食いちぎられ瀕死の状態でした。
 
 文鳥を育てている自信も手伝い、家で介抱することにしました。
 初めは震えていたのですが、そのうち観念したのか、或いは安心したのか、なされるがままに身を委ねるようになりました。
 奇跡的に回復してやがて元気になったのですが、鳥かごになど入れてないのに、何故か飛び立っていく気配もなく、何日もそうして、文鳥の友達のように家の中で共に過ごしていたのです。
 けれど、外に戻さねばと思い、・・・・・初めためらっていましたが、思い切るように飛んでいきました。

 掌の中の小さな雀の温もりをまだ覚えています。

 井伏鱒二に『屋根の上のサワン』という小編があります。
 孤独感に苛まれ、心に深い屈託を抱えた主人公が、或る日傷ついた雁を助けます。
 「サワン」と名付け、共に暮らしているうちに、ずっと傍に置きたいと思い、サワンの片羽を傷つけ飛べなくしてしまいます。
 サワンは彼に懐き、彼と穏やかな楽しい日々を過ごすのですが、でも最後は、仲間の雁たちと共に空高く飛び立って行くことを選ぶという物語です。

 小さな雀が空に帰って行ったとき、ふとこのサワンの物語を思い出しました。


   はと
 鳥に複雑な心があるとは思いませんが、でも一度だけとても不思議な体験をしたことがあります。

 逗子の家から勤め先まで車で通勤していた頃です。
 二台目の車は真っ赤なトヨタのスプリンターで、片道20キロ近くを毎日乗って、12年間で12万キロを越えていました。
 車は徹底的に乗り潰す主義で、しかもかなり気に入っていた愛車だったのですが、いよいよ寿命ということになり、廃車に引き取りに来て貰う日の朝のことでした。

 トランクに山鳩が止まってじっと動かないのです。
 初めは何とも思いませんでしたが、一時間も二時間もずっとそのまま居続けていましたので、一体どうしたのか突然気になり出しました。
 近づいてみましたが、全く逃げようとせず、ついには30センチほどの距離まで迫りました。肩にでも乗ってきそうな雰囲気です。
 野生の山鳩なのに、こんなことってあるのでしょうか。
 全く警戒せず、親しげにクウクウと鳴き声を上げるのです。
 そしてトランクからボンネットへクルクルと飛び回って、まるで愛おしそうに戯れているように見えました。
 
 ディーラーが車を引き取りに来る間の四時間余りずっとこんな感じで、私は段々不思議で感動的な気持ちになってきました。

 メルヘンチックに言うなら、長く乗った車の「精」・「魂」みたいなものが鳩に乗り移り、或いは鳩に姿を変え、別れを告げに来たような・・・。

 やがて車が引き取られ、車庫から姿を消したとき、山鳩はどこともなく飛び立っていきました。

 それを一緒に見ていた家族と共に、我が家ではその鳩を<スプリンター>と名付け、折に触れ不思議話として話題にしています。
 その時撮った写真があったはずで、探したのですが、残念ながら見つかりませんでした。出てきましたらまたご紹介しますね。

 猫を飼っていた日々の中で、充分痛感してはいるのですが、こんな小鳥との出来事を通してもまた、「生きとし生けるもの」には全て細やかな感情と思いがあるということを、私はどこかで強く信じているのです。





このページのトップへ

小さな夏休み

八月の終わり、どことなく秋の気配が感じられます。

 療養中の両親と共に浅間山麓で過ごしているうちにあっという間に、私の八月は過ぎてゆきました。
 東京に仕事に出掛ける以外は、家事・介護に専心する日々、でも高原の新鮮な野菜を中心として、体に良い食材をふんだんに使った料理を作り、心なしか<血液サラサラ>状態で身も心も軽くなってきたような気がしています。

 少し体調を回復した両親を無事送り届け、後数日になった夏休み、小さな山の家にこもって、できるだけどこにも出掛けず、清々しい空気や、木漏れ日や、木々を渡る風音、樋をつたう雨の勢いなどに、静かに心を浸したいと思っています。

   「勝手に松峰綾音ファン倶楽部」一年ぶりの再会
 ・・・・と思っていたのですが、当地で昨年発足した「勝手に松峰綾音ファン倶楽部」の仲間たちと一年ぶりの賑やかな再会となりました。

 昨年はyoutubeの制作をしていただいたり、スタジオでミニコンサートを催したりと音楽関係のイベントが盛り沢山だったのですが、今年はそれは小休止。
 その代わり、皆様の発案で、これからの活動のためのパンフレットを作成することになりました。
 既に八割がた出来上がっているのですが、完成したら、改めてご報告したいと思います。
途中大幅変更もあり、何日も膝を突き合わせ、盛り上がり、時間を費やしたなかなかの力作で、お気に入りの出来栄えなのです。

 そのようなわけで、「勝手に松峰綾音ファン倶楽部 令和元年夏の集い」は専らインドアだったのですが、途中気分転換を兼ね、近場にちょっとだけ出かけようということになりました。

   北軽井沢 浅間牧場
 陽射しの眩しい日、「高原の休日」らしく、浅間牧場に行ってみることになりました。


   丘を越えて行こうよ
   真澄の空は 朗らかに晴れて
   楽しい心
   鳴るは胸の血潮よ
   讃えよ わが青春(はる)を
   いざゆけ 遙か希望の丘を越えて

 じっくりと味わってみると、清々しく明快で、格調の高い美しい日本語だと思います。
 昭和初期に藤山一郎さんが歌って大ヒットした往年の名曲『丘を越えて』の一節ですが、この浅間牧場を舞台として詞が作られたとのこと。

 そして、昭和26年制作の日本初総カラー映画、『カルメン故郷に帰る』のロケ地でもあるということで、当時は大変な人気だったようです。

 休憩所の一隅には、ノスタルジックな香り漂う映画のポスターや『丘を越えて』のレコードジャケットなどが掲げられていました。
 当時の大女優、高峰秀子さんが水玉のワンピースで美しく牧場の丘に佇んでいる写真など、大切に展示されていて、ほのぼのとした空気を漂わせています。

 牛たちは牛舎で午後のまどろみなのか、姿を見ることはありませんでしたが、信州の山々に囲まれた見渡す限りの牧草地が目に眩しかったです。

 聞くところによると、軽井沢をこよなく愛し生前何度も訪れていたというジョン・レノンが、この牧場を、どこにもないほどの絶景であるとして大絶賛したとか。
 浅間牧場
 皆でワイワイ言いながら丘の頂まで登り、記念写真。
 鮮やかな緑の中、和やかな牧場の昼下がりの雰囲気が伝わるでしょうか。

   45分間の遊園地
 浅間牧場からほど近いところに、「おもちゃ王国」という遊園地があります。
 子供たちに大人気のアミューズメントパークで、夏は連日賑わいを見せているのですが、「この遊園地のフリーパス券をこの間何枚も頂いたので、試しに皆で行ってみませんか」という仲間の突然の提案に一同即賛同。

 でも時計を見ると17時の閉館まであと45分しかありませんでした。
 人気のアトラクションは結構並んでいるし、<ご家族で一日楽しめます>という充実した施設、一瞬、「ビュッフェタイムは後45分しかありませんが本当にお入りになりますか」と入り口でウエイターさんに確認されたときみたいな気分になりました。

 ディズニーランドの対極にあるようなオーソドックスな正統派遊園地で、心が和みます。
木馬
 一番レトロな<回転木馬>と<観覧車>、そして<ゴーカートの電車版>みたいな乗り物に乗ってみました。
電車
 大人同士でこういう場所・・・と、当初少し憚られたのですが、カップルは勿論、女性グループ、男性グループなど、大人だけで来ている方たちも割と多くいて、すぐに溶けこんでしまいました。

 思えば私は子供の頃、遊園地にはあまり興味がなくて、ほとんど行ったことはありませんでした。
 家の中で本ばかりに夢中になっていた超本の虫、今になって遅ればせながら神様が帳尻を合わせてくれたのかしらと、なんだか可笑しかったです。

   小さなバースディー
 そして最大のハプニングは、このバースディーケーキ。
 嬬恋村の朝取り新鮮キャベツです。
キャベツのケーキ
 今年も8月21日を「勝手に松峰綾音ファン倶楽部」の皆様にお祝いしていただき、とても幸せでした。

 「ハッピーバースディー」の歌、飛び切りのウイットと優しいお心遣いに大感激。

 夏にこうして再会して、屈託なくおしゃべりし、近況を伝え合い、温かい心を通わす・・・・良い仲間に出会えた幸せをかみしめています。

 そんな8月も今日で終わりです。



このページのトップへ