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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

心に残ることば

   ご遺族のことば
横田滋
  6月5日、横田滋さんが亡くなられました。
 めぐみさんが拉致されてから43年間にわたる救出活動、途半ばにしてのご逝去は、無念いかばかりだったことでしょう。

  翌日のご遺族の記者会見、滋さんの人となりやご家族の皆様の絆の深さは、以前読んだご著書や講演会や映画などでもよく知っていましたが、改めて、語られる一言一言に深い感銘を受けました。
  情愛に満ちた、そして芯の通った確かな品格をご家族の皆様から感じましたし、記者質問も、そのエピソードやご家族の思い、歩まれてきた軌跡についてが中心だったように思います。
 
 滋さんがいかに秀逸な方だったかを導き出すような質問に対して、弟拓也さんがお答えになった言葉が心に残りました。

 「そうではなく、自分たちはごく普通の家族であり、父もまたそうだったのではと思います。」「娘が理不尽にも連れ去られた人の親であれば、誰だって同じことを思い、同じことをしていたのではないでしょうか」「これは横田家の問題なのではなく、日本の家族の誰しもがこうなったかもしれないという、自分の子供が、親が、兄弟が、同じ状況に遭遇したらどうなのか、誰でも同じ可能性があったことを思い、国全体が自分の事として、この大きな人権蹂躙について考えて頂きたいと思うのです」

 マスメディアも大局を見据える巨視的な観点から揺るぎなく問題を取り上げ伝え続けてほしいという強い要請を率直に述べていらっしゃいました

 国家を論じる一大事も、芸能人のゴシップネタも同じ溯上で話題性だけを追うようなワイドショー感覚に、マスコミも乗りがちになっている昨今への警鐘でもあるように感じました。

 滋さんの43年間はまさに、そのような大きな問題への尽きぬ挑戦でもあったのでしょう。思いを受け継いでいく覚悟に満ちたご家族の言葉が心に残ります。


   詩のことば
 石垣りんさんの『時の記念日に』という詩。
 以前から知っていましたが、今回心惹かれるものを感じ、改めて読み直してみました。

  私たちが一日のうちに 一番たくさん問いかけること
石垣りん  いま 何時?
  自分に向かって 周囲の人に向かって。
  それはたやすく答えられる
  時計さえあれば
  ちいさな子供でも答えられる。
  単純明快な時刻というもの
  自分も他人も信じて疑わないもの
  これほどかたちのない 
  これほど正確なものが存在するだろうか。
  しかもなお 限りなく尋ね続ける
  生きている命の この一瞬
  いま、何時?

 先の横田さんのお話もそうですし、コロナの脅威の中での昨今、「いま 何時?」と、生きていることを問われている気がします。

   店長のことば
 コンサートの時に着用するステージドレスを探すのはなかなか大変で、折に触れ、いくつかのお店を見て回ったりしています。
 そんな中のお気に入りの一つに「イソリ」があります。
 今はこんなご時世ですから、コンサートライブは軒並み見合わせ、ドレスショップも休業中のお店が多いのですが、先日、イソリのネットを見ていましたら、こんな記述がありました。
 
 店舗での接客は不可能と結論いたしました。
 日々ご来店される人々と商品の安全を、どのように確保できるのか検討した結論です。
 マスクや換気、動線で安全確保できる部分もあります。
     ・・・・・
 一番の課題は試着後のドレスを次の試着までに安全なものにすることの難しさです。
 直接に素肌が触れる商品にもかかわらず、試着の度に一着ずつ消毒液を吹きかけや洗濯はできません。
 それが連日続き1週間で相当数になります。
 昨日試着されたドレスを今日着ていただく訳にはまいりません。
 ドレスショップ毎の考え方だと思いますが数を販売できればいいということではないのです。
 
 音楽はかけがえのないもの、ドレスは素敵なステージの成功の一助を担うもの、こういう時だからこそ、コンサートを側面から応援せねばというオーナーの気概が溢れていて、仕事への矜持とはかくあるべしと、とても感銘を受けたのでした。
 当面はネットで動画を配信し、品物を詳細に紹介することによって、お店に来られたと同様の感覚で販売していくとのことです。
 早くコンサートを再開できますように。


   社長のことば
 新聞で読んだ話。
 私も昔使っていた新潟の大手暖房機器メーカー「コロナ」の社長が、社名に心を痛めている社員の子供に向けて、送るという手紙。

 もし、かぞくが、コロナではたらいているということで、キミにつらいことがあったり、なにかいやなおもいをしていたりしたら、ほんとうにごめんなさい。 かぞくも、キミも、なんにもわるくないから。
 わたしたちは、コロナというなまえに、じぶんたちのしごとに、ほこりをもっています。キミのじまんのかぞくは、コロナのじまんのしゃいんです。


 社員や家族を勇気づけるために、2300名の全社員にこのひらがなの手紙を送ることにしたそうです。石油コンロの青い炎と太陽の周囲に現れるコロナのイメージをあわせた「コロナ」がここにありました。


   友人のことば
 平凡であること、普通であることに徹するのは至難なところだが、ふつうの「日常」にこそ「生の充実」がある。

 友人がポツリと口にしたことば、しっかりかみしめたいと思います。




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ラパン・アジルの思い出

 久しぶりに散歩に出ました。
寂しい錦市場

 昼間の錦市場、店のシャッターの多くは閉まり、行き交う人もまばらで、別世界の様です。



そして、鴨川べりへ。
 犬を散歩させる人が、マスク姿で、離れて歩いています。
閑散とした鴨川 鴨
 鴨たちは、変わらぬのどかな様子で、眩しい日差しを楽しんでいました。

   距離を置く
 GWが始まろうとしています。
 様々な注意勧告の中、沖縄便の予約は6万人、営業を継続するパチンコ屋に並ぶ列も減ることはなく、連休中に感染者数もまた増大するのではと、嫌な緊張感が走ります。

 医療を初めとして、私たちの日々の生活と安全を守るべく、身を挺して働いて下さっている多くの現場の方々、そしてそれに報いたいと、それぞれの立場で、感謝や応援や協力や、心温まるたくさんの支えも届けられています。

 こういう時こそ、どうあるべきなのか、全体としても個人としてもその姿が真に問われますし、まさに品格を持って踏ん張る正念場なのだと思います。

 でも一方で、これまで恵まれ過ぎてきた生活環境や平和の中で、逆境に耐える心が脆弱になっていることも事実なのでしょう。
 「快」でないことのストレスに耐えられず、自分だけはと逃げ道を探すことも、いたずらに恐れて鬱々と囚われてしまうことも、正しいことではありません。

 自分一人の災難ではないのだから、もう仕方がない。
 覚悟を決めるしかありませんよね。

 先日の読売新聞の「編集手帳」に、「「よそよそしい」、「よそ様」などというときの「よそ」は「余所」と書く」という記事が載っていました。
 「所を余す」は「距離を置く」の意味で、普通は、「よそよそしい」という否定的なニュアンスを感じるのだが、・・・・という書き出しから、昨今の状況へと続いてゆきます。
 筆者は、スーパーのレジや、電車のホームに、自然と距離を置きながら待っている人々の姿を見て、今、「困難に立ち向かおうと大勢の人が呼吸を合わせていることは確かだろう。」と述べています。
 そして「<距離を置く>とは、ひととき、みなが力を合わせ、災難を乗り切る意があった・・・と後の世の辞書に載せよう。」と結んでいます。
 切なる想いが伝わってきて、心に染みました。

 「密接」は、親しさを図る尺度ではありますが、翻ってみると、卑近距離であることに盲目的に寄りかかってきた甘えの構造を、裏面に隠し持っていたのかもしれません。
 「快」に依存しすぎないで、適度な間合いを心に保つという、難しいですが、誰にとっても、そういう、心身に「距離を置く」鍛錬をする時なのかもしれないと思います。

   ラパン・アジルの思い出 
モンマルトルの丘
 前回のブログ記事『巴里野郎』閉店で、モンマルトルにあるシャンソニエ「ラパン・アジル」のことを載せたのですが、ラパン・アジルでの思い出が、懐かしく蘇ってきましたので、少しご紹介してみようかと思います。

 シャンソンの殿堂として、長い歴史を持ち、現在に至っているラパン・アジルですが、これまでに何回か訪れたことがあります。


 オ・ラパン・アジル (Au Lapin Agile)
 1795年に宿屋として設立されたのが最初で、19世紀中頃からキャバレーとして知られるようになった。 
ラパン・アジル
 1875~1880年に風刺画家アンドレ・ジルが描いた看板から「ラパン・アジル」と呼ばれ、何度か取り壊しの危機を免れ、多くの歌手、音楽家を輩出し現在に至っている。
 ジルが描いた、酒瓶を持って鍋から飛び出したウサギの絵が「ジルのウサギ (ラパン・ア・ジル; lapin à Gill)」として人気を博し、以後、店そのものが「ラパン・アジル」(Lapin Agile; 足の速いウサギ) と呼ばれるようになった 
 (ウキペディア参照)

 初めて訪れた時だったかと思います。
 21時開店、狭い入り口から中に通されます。
 店内には、赤いランプシェードのかかった薄暗いサロンが広がり、一瞬得体のしれない世界に迷い込んでしまったような心細さに襲われるのですが、赤い光に目が慣れてくると、ここは歳月を経たノスタルジックな別世界なのだと了解されてきます。
ラパン・アジル歌手
 サロンの中央に年季の入った大きなテーブル。
 壁一面には、ラパン・アジルの歴史を語るように、巨匠たちの絵画が無造作に掲げられ、お客さんは四隅を囲む椅子に自由に座ります。
 やがて、小さなグラスに甘いシェリー酒が運ばれて一息ついていると、歌手たちがぞろぞろと登場、中央のテーブルの周りに着席し、突然合唱が始まるのです。
 これが、ラパン・アジルの定番スタイル。

 歌手たち、と言ってもデニムにTシャツ、洗いざらしの仕事着で、女性はアクセサリー一つつけず、化粧もしていない
 あまりにも普通で、着飾ってライトに照らされる、日本のシャンソニエのイメージとは全く違います。
ラパン・アジルピアニスト
 いつものピアノ弾きのお爺さんが、撫でるように柔らかく奏で始めると、ライブの始まりです。
 マイクもなく、一人が歌い終わると、一人が立ちあがり歌う
 友人の家で呑むうちに、じゃあ歌でも、という雰囲気です。

 この日のお客さんは、そのほとんどが年配者で、ご近所の常連のように見えました。観光客も混ざっていたのでしょうが、日本人は他にはいませんでした。

 ピアノ弾きのお爺さんは、この店の責任者だったのかもしれません。
 細やかな気配りがさりげなくて、居心地の良い時間が生まれていました。

 それぞれの歌手が、それぞれの声で、切なく、あるいは朗々と歌い、もはや、上手なのかどうか、よく分からなくなってきます。
 でも、それが、心地よい味わい。

 歌うシャンソンは、完全に懐メロで、100年も前から同じように歌ってきたのではと思われるほど、よく知られた往年の名曲ばかりでした。
 フランス人ならだれでもが口ずさめるのでしょう。
 「さあ、みんなで!」と歌手が促すと、観客も声をそろえて気持ちよさそうに唱和する、日本の歌声喫茶も、こんな感じだったのではないでしょうか?

 知っている曲ばかりでしたので、私も大きな声で歌っていました。
 「日本から来たのだ」と言うと、とても歓迎してくれ、質問攻め、最後には「何か歌って」ということに。

 ジャック・ブレルの『Quand on n'a que l'amour(愛しかないとき)』の前奏が流れてきました。
 これならフランス語で歌える
 ちょっと勇気を出して、フルコーラス歌ってしまいました。
 ブラボーの声
 ダンディーなピアニストのお爺さんに、強くハグされて、すっかりご機嫌の夜でした。

 このコロナ騒ぎで、ラパン・アジルは今、休業しているのでしょうね。
 あのピアニストのお爺さんはまだお元気なのでしょうか。


 お互いの呼吸と音の響きを感じ合える「密接」が、何でもなかった幸せな感覚が蘇ります。
 何の屈託もなく、肩を寄せ合い、音楽を楽しめる日が、早くまた訪れますように。



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「パパラギにはひまがない」

   「切り開くのはきみたちだ。」
 一昨日、2月28日の読売新聞の「編集手帳」に、『パパラギ』を取り上げた文章が載っていて、とても懐かしく感じました。
 『パパラギ』は1920年、今から100年前に出版されて以来、重版を重ね続けている世界的ベストセラーですので、今や古典と言えるのかもしれません。

 学生の頃の愛読書、本棚から取り出して、今日、久しぶりに再読してみました。

 「編集手帳」の記事は含蓄に富んだ心に残る文章でしたので、まずは、ここに紹介してみます。(要約しながら一部を引用します。)

  今から100年以上前の話である。
  南太平洋の島の一つ、サモアの族長がヨーロッパを旅したあと、島民に向かって演説したという。
 「私たちは小さな丸い時間機械を打ち壊し、日の出から日の入りまで、一人の人間には使いきれないほどたくさんの時間があることを西洋の人々に教えてやらねばならない」(『パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』立風書房)
  時計のことを「小さな丸い時間機械」と呼んでいる。この表現が好きで、たまに本を読み返したりしてきたが、使い切れないほどの時間など多くの現代人には夢物語だろう。
 と、きのうまでは思っていた。

 という書き出しで、この前日の夕方、政府の発表で、3月1日から学校が一斉休校になる見通しが強まったことへの驚きに話が繋がってゆきます。

 「編集手帳」の筆者は更に次のように続けます。

 3月に勉強するはずだったものは?
 生活のリズムが崩れてしまわないか・・・・。
 心配すればキリはないけれど、ここは開き直って、使い切れないほどの時間を人生のために有意義に使ってもらいたい。
 周りの大人の誰も経験したことのない1か月を過ごすことになる。
 切り開くのは、きみたちだ。


 この非常時だからこそ、大人たるもの、慌てないで悠然と、こういうメッセージを子供に向けて発信したいものだと大きく頷いてしまいました。
 
 テレビをつけると、一か月間休校になった時の学業の遅れの深刻な問題、どうやって待機中の子供たちに時間を過ごさせるべきか、遅れを補わせるべきか等々の議論が紛糾していました。
 私も教育現場に長く従事していましたから、この学年末に、突然すべてがストップした時の、現実の混乱や支障については充分理解できます。
 それであっても、これまで経験してこなかった事態に遭遇し戸惑っている子供たち、時間が不意にどっさり降って涌いた子供たちに、「切り開くのはきみたち」との力強い示唆を与えることは何より大切ですし、社会全体の持つ懐の深さのようなものが問われる時でもあると、この記事を読んで思ったのでした。

   「パパラギにはひまがない」
 さて、その『パパラギ』ですが、少しご紹介してみたいと思います。
パパラギ(ドイツ語版)
 
ウィキペディアの説明によると、

 1920年にドイツで画家兼作家のエーリッヒ・ショイルマンによって出版された書籍である。ヨーロッパを訪問したサモアの酋長ツイアビが、帰国後、島民たちに西洋文明について語って聞かせた演説をまとめたものとしているが、実際はショイルマンの手によるフィクションである。



 日本では、1981年に『パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』(著:ツイアビ、訳:岡崎照男)として立風書房から出版されて以後、重版を重ねています。
パパラギ
 「パパラギ」というのは、このサモアの酋長ツイアビの言葉で「白い人」「外国人」という意味、彼が初めて出会った「西洋人」のことを指しています。
 西洋の文明社会は、自然の中でおおらかに暮らすツイアビの目にどう映ったのか、それが曇りない明晰な感性で鋭く捉えられていて、良質の文明論として、現代でも大きな意味を持つ書なのではと思います。

 ショイルマンが直接ツイアビに取材して、その言葉をまとめた書なのか、ウィキペディアの説明のように、すべて著者ショイルマンの手によるフィクションであるのかは、未だはっきりとはしていないようです。
ツイアビ写真

 その真偽はともあれ、酋長ツイアビは言います。

 パパラギはいつも時間のないことに不安を持ち、不平を言い、時間をつかもうと焦り続けている。でも、それが却って、自分で時間を遠ざけることになっている。

 パパラギはいつも、伸ばした手で時間のあとを追っかけて行き、時間に日なたぼっこのひまさえ与えない。

 だが、時間は静かで平和を好み、安息を愛し、むしろの上にのびのびと横になるのが好きだ。
 パパラギは時間がどういうものかを知らず、理解もしていない。
 それゆえ彼らの野蛮な風習によって、時間を虐待している。

 おお、愛する兄弟よ。
 私たちはまだ一度も時間について不平を言ったことはなく、時の来るままに、時を愛してきた。
 時間を折り畳もうとも、分解してばらばらにしようとしたこともない。
 時間が苦しみになったこともなければ、悩みになったこともない。

 私たちはだれもが、たくさんの時間を持っている。
 だれも時間に不満をもったことなどない。

 一刻も早くコロナウイルスの脅威が収束して、普通の生活が戻ってくることを心から願わずにはいられません。
 けれど、「災い転じて・・・」ではありませんが、いつもとは違った不自由な生活の中で、ツイアビ酋長の言うように、これまで私たちを包んできた時間を改めて見つめ直し、より豊かに過ごすことの意味や、日々の幸せを考える契機にしてゆかれればと思っています。

 3月はどんな月になるのでしょう。
 健康に留意してお過ごしくださいね。



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お正月の雑感

   少年老い易く
 どんど焼きが済むと、子供たちの頭から完全に正月というものはなくなって行った。
 正月はもう過ぎ去った一つの事件であるに過ぎない。
 正月はもう終わってしまったのである。
 この頃から伊豆の天城山麓の村々は本格的な寒さに見舞われた。


 井上靖の自伝的長編小説『しろばんば』の一節ですが、この時期になるといつも鮮明に浮かびがってくる文章です。

 大正初期の伊豆の鄙びた山村で育った耕作少年の成長の物語。
 自然に包まれ、季節の流れに身を置きながら、その中で穏やかに営まれてゆく路傍の人々の質実な生活ぶりと心模様が細やかに描かれています。
井上靖書斎
 どんど焼きの日に、子供たちは皆、一斉に自分の書いた書初めを火にくべるのですが、その時、耕作は同級生あき子の書初めの
「少年老い易く 学成り難し  一寸の光陰 軽んずべからず」とある、大きく力強い文字を見てしまいます。
 彼はその瞬間、今すぐ土蔵へ帰り勉強をしたいような身の引きしまる気持ちにかられます。

 私が『しろばんば』を初めて読んだのは小学校の高学年の頃だったかと記憶しています。このどんど焼きの場面は特に印象的で、耕作のこの思いにとても共感を覚えました。

 「少年老い易く、学成り難し」、今や「少年」は遥か遠く、「学成り難し」も嫌というほど実感しているのですが、でも、お正月を過ぎたちょうど今頃の季節になると、「一寸の光陰軽んずべからず」の言葉が、胸の奥から一種の哀感を持って湧き出してくる気がするのです。

   『しろばんば』の授業
 中学一年の国語の教科書には、以前はどの出版社にも『しろばんば』の一部分が掲載されていました。最近はどうなのでしょうか?急速に教科書事情も変わってきて、定かではありませんが。(大抵は、このどんど焼きの次に登場する「ひよどりのわな」事件の場面が載っていました。)
しろばんば
 私は嘗て、中・高一貫のカトリック系の女子校で教鞭を執っていましたが、中学一年の授業を受け持つときには、この『しろばんば』を、一冊丸ごと3か月近くをかけて精読するという試みを行っていました。
 新潮文庫で528ページもある長編小説を全員に購入してもらい、これを教科書代わりに読み進めるという非常に冒険的な授業だったといえます。

 中学に入ったばかりの若葉が芽吹くようなこの時期に、これまで手に取ったこともない細かい文字の詰まった厚い文庫本を一冊、初めから最後まで授業の中で丁寧に読破するという経験が、読書をすることへの自信と興味、本を読むということがどんなことなのかという実感を体得させる契機になったのではと、その後の生徒たちの成長ぶりから、自負しています。
 その後もずっと中学一年で『しろばんば』一冊という伝統は、学校の中で定着し、幸いユニークな国語教育としての評価も得ることができました。
 蛇足ですが、この時期になると鎌倉、藤沢の書店から『しろばんば』が一斉に消えて、買い難くなるという伝説が生まれ、後には学校で一括購入をすることになりました。

   「年賀状これにて終了」について
 私は普段から手紙を書くのが大好きですし、お正月は「年賀状は必須」という古いタイプであるようです。
 教え子や友人に宛て、驚くほどの枚数になっています。
 一年間の年月を思い、言葉を添える、年賀状は年の瀬の大忙しの一大行事。
 確かに、これがなくなれば随分楽になることには間違いないのですが。

 そんな中で、「これにて年賀状を終えたいと思います」、「これからはメールかラインで」の通知が今年も何枚かありました。
 人それぞれの考え方で、これも大いにありかもしれませんね。
 「虚礼廃止」、もっと便利な通信方法はたくさんあり、手紙をやり取りする習慣も激減している昨今であり、また、終活の一つとして心身ともに「身軽に」ということもよく理解できます。

 私の高齢の両親は病身ですが、年賀状は続けており、とても丹念に文章も書き添えています。
 「友人が亡くなっていき年賀状も減っていく」と寂しそうに呟いていました。
 それでも、来年はどんな図案にしようかと、もう話していて、我が親ながら、あっぱれ!・・・・血筋なので、私もきっと、ずっと続けてゆくことになりそうです・・・・。

   ウズベキスタンからの年賀状
 海外にも友人、知人が何人もいて、年賀状は私にとって、そのやり取りができる楽しいきっかけでもあります。

 教え子の一人Hさんからこんなお便りが届きました。
ウズベキスタン
 「青の都」としてしか知らなかったウズベキスタンが、私にとっても、急に身近で大事な国になりました。
Hさんは聡明で暖かく誠実な方、ウズベキスタンでたくさんの豊かな経験を重ねて健やかにお嬢様たちを育ててゆかれることでしょう。
心からのエールを込めて、彼女からの素敵なお便りを、途中割愛しながらご紹介いたしますね。

実は、私たち家族は、今は主人の仕事の都合でウズベキスタンにて暮らしております。あと2,3年はこちらで生活する予定です。
  
  長女が小学5年の後半から、本格的に中学受験に向けて母娘ともに頑張っていましたが、受験日数日前に、まさかの駐在の話を聞かされました
 家族一緒に海外生活を送る最後のチャンスだと思い、そこから急遽、高校から戻れる一貫校へと受験校を変えて受験。そしてウズベキスタンへ移住という、ドタバタの2019年でした。
 2020年は、少し落ち着いた年になればと、思っております。

 ウズベキスタンは意外なほど住みやすく、治安も日本より良いくらいです。人も優しく、綺麗な世界遺産も沢山あり、文化的にもとても興味深い国です。が、日本人がほとんど居ないのと、世界に二つしかない二重内陸国の一つなので、魚が食べられないのと、英語も全く通じないのが不便です(^^;;
 日本人学校が無いので娘たちはインタースクールです。次女はアルファベットもままならないゼロからの英語生活ですが、私に似て超がつくほど楽天的姉妹なので、長女も次女もそれなりに楽しく学校生活を送っています。

 2020年の始まり、皆様にとって良い一年となりますように。



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令和二年 今年も良い年でありますように

 新年、明けましておめでとうございます。
 今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
 皆様にとりまして素敵な一年でありますように。

 猫好きの私、令和初の年賀状もやはり猫。
 でも仲良くネズミと並んでみんな優しい表情をしている、ちょっとクラシックなこんなデザインで2020年の幕開けです。
    2020年年賀状

 昨年から始動した「松峰綾音 月の庭 シャンソンと朗読のひととき」
 自作の訳詞で歌うシャンソンに、詩・小説・エッセイなどの朗読を融合した、皆様に喜んで頂ける興味深いライブを今年も追求して参ります。

  6月5日(金)18:00~京都文化博物館別館ホールにて
  7月上旬(日時調整中)横浜岩崎博物館 山手ゲーテ座ホールにて
 コンサートを開催いたします
 皆様、是非ご来場下さいませ

  
 12月のクリスマスライブが終わって、あっという間に年の瀬、そして新年。
 今年もまた、こんな風に時間が駆け抜けてゆくのでしょうか。
 でも流れてゆく時間の中にも、やはり様々なことが起こります。
 他人の目からはほんのささやかな出来事でも、自分にとっては泣いたり笑ったり、結構深刻だったり、舞い上ったり、・・・・自分だけの時間の一つ一つに、人は精一杯格闘して過ごすのですよね。
 でも、それだからこそ、意味があるとも言えるのではないでしょうか。
 
 マイナスも含めて、心の深いところに色々な襞が刻まれ、積み重なっていくのが生きる醍醐味なのかなって思います。
 皆様にも私にも、この一年どんな出来事が起こり、どんな出会いと別れとがあるのでしょう。
 
 どうぞ、健康で充実した一年でありますように。
 そして世界が少しでも落ち着いて、平和でありますように。
 心から祈念致します。

 私の今年の抱負。
 年賀状に記したように、まずは次のコンサートに全力を傾けたいと思います。
 京都では、6月5日に文化博物館別館ホールでのコンサートが決まっていますし、7月には横浜でも開催する予定です。

 ・・・とびきりのコンサートテーマが突然、天の啓示のように降ってくると良いな、きっと閃くにちがいないと、かなり楽観的に太平楽に、現在、構えております。
 それにしても、目前のことだけに心奪われず、いつも自分が辿り着きたい場所や大事にしたいことを、揺らぎなく遠く見つめていることが大切ですよね。
 そして何でも楽しめること。心穏やかに。
 心引き締まる元旦の早朝です。
 
 これからいつものように八坂神社への初詣を済まし、その足で実家の逗子に向かいます。
    
 皆様もどうぞ佳い新年をお過ごしくださいますように。




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小鳥三題

   うぐいす
 先日、友人からこんなメールと二枚の写真が届きました。
鶯
 ウグイス色っぽいので、ウグイスでしょうか。
 砂利道に転がっており、掌の上でククッと全身を震わせて息が絶えました。

 昨日はとりあえず枯れ枝をかけてきましたが、土に戻そうと今朝改めて見に行くと、深く埋めなかったので、カラスにでも食べられてしまったようです。
羽




 食物連鎖・・・・
 掌のウグイスを思い出し、撮りました。


 砂利道に転がっていたウグイス、人の掌に掬い上げられ、優しい温もりを感じながら命尽きたのだと、・・・・小さな命の最期をしっかり見取ってあげた友 人の慈しみ深い眼差しを感じました。
 包み込んでくれるものの中で命を終えることが出来るのは本当に幸せなこと。そして、命の灯が消える時は小鳥であろうとも密やかで厳粛な瞬間であることを思わせる写真です。

 中学生の頃、冬の朝、教室のベランダに小鳥が死んでいるのをよく目にしたことを思い出しました。
 透し硝子の大きな窓に、それと気づかず突進して、頭を打ちつける小鳥が何羽もいて、お腹を出した小鳥の死骸は無残でとても悲しかったのを覚えています。
 中にはただ気絶していただけで、やがて眼をさまし、ふらふらしながら飛んで行くのもありましたが。

 目を閉じ、足が内向きにくずおれたうぐいすは、昔、ベランダで見た小鳥の姿と重なりました。
 

  すずめ
 犬や猫はこれまで何度も飼ったことはありますが、鳥とはあまり縁のない生活をしてきました。
 それでも、子供の頃、一度だけ文鳥を飼ったことがあり、一緒に暮らしていると、侮るなかれ、かなり人の言葉も理解して人の生活と寄り添ってくるということに新鮮な感動を覚えたものでした。文鳥という鳥自体が人懐っこくその分利発でもあったのでしょう。

 その文鳥を飼っている頃の話なのですが。
 先ほどのウグイスに酷似する出来事。


 雀が庭に転がっていました。まだ息はあるのですが、大きな鳥にでもやられたのでしょうか?羽が片側折れて羽毛も食いちぎられ瀕死の状態でした。
 
 文鳥を育てている自信も手伝い、家で介抱することにしました。
 初めは震えていたのですが、そのうち観念したのか、或いは安心したのか、なされるがままに身を委ねるようになりました。
 奇跡的に回復してやがて元気になったのですが、鳥かごになど入れてないのに、何故か飛び立っていく気配もなく、何日もそうして、文鳥の友達のように家の中で共に過ごしていたのです。
 けれど、外に戻さねばと思い、・・・・・初めためらっていましたが、思い切るように飛んでいきました。

 掌の中の小さな雀の温もりをまだ覚えています。

 井伏鱒二に『屋根の上のサワン』という小編があります。
 孤独感に苛まれ、心に深い屈託を抱えた主人公が、或る日傷ついた雁を助けます。
 「サワン」と名付け、共に暮らしているうちに、ずっと傍に置きたいと思い、サワンの片羽を傷つけ飛べなくしてしまいます。
 サワンは彼に懐き、彼と穏やかな楽しい日々を過ごすのですが、でも最後は、仲間の雁たちと共に空高く飛び立って行くことを選ぶという物語です。

 小さな雀が空に帰って行ったとき、ふとこのサワンの物語を思い出しました。


   はと
 鳥に複雑な心があるとは思いませんが、でも一度だけとても不思議な体験をしたことがあります。

 逗子の家から勤め先まで車で通勤していた頃です。
 二台目の車は真っ赤なトヨタのスプリンターで、片道20キロ近くを毎日乗って、12年間で12万キロを越えていました。
 車は徹底的に乗り潰す主義で、しかもかなり気に入っていた愛車だったのですが、いよいよ寿命ということになり、廃車に引き取りに来て貰う日の朝のことでした。

 トランクに山鳩が止まってじっと動かないのです。
 初めは何とも思いませんでしたが、一時間も二時間もずっとそのまま居続けていましたので、一体どうしたのか突然気になり出しました。
 近づいてみましたが、全く逃げようとせず、ついには30センチほどの距離まで迫りました。肩にでも乗ってきそうな雰囲気です。
 野生の山鳩なのに、こんなことってあるのでしょうか。
 全く警戒せず、親しげにクウクウと鳴き声を上げるのです。
 そしてトランクからボンネットへクルクルと飛び回って、まるで愛おしそうに戯れているように見えました。
 
 ディーラーが車を引き取りに来る間の四時間余りずっとこんな感じで、私は段々不思議で感動的な気持ちになってきました。

 メルヘンチックに言うなら、長く乗った車の「精」・「魂」みたいなものが鳩に乗り移り、或いは鳩に姿を変え、別れを告げに来たような・・・。

 やがて車が引き取られ、車庫から姿を消したとき、山鳩はどこともなく飛び立っていきました。

 それを一緒に見ていた家族と共に、我が家ではその鳩を<スプリンター>と名付け、折に触れ不思議話として話題にしています。
 その時撮った写真があったはずで、探したのですが、残念ながら見つかりませんでした。出てきましたらまたご紹介しますね。

 猫を飼っていた日々の中で、充分痛感してはいるのですが、こんな小鳥との出来事を通してもまた、「生きとし生けるもの」には全て細やかな感情と思いがあるということを、私はどこかで強く信じているのです。





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小さな夏休み

八月の終わり、どことなく秋の気配が感じられます。

 療養中の両親と共に浅間山麓で過ごしているうちにあっという間に、私の八月は過ぎてゆきました。
 東京に仕事に出掛ける以外は、家事・介護に専心する日々、でも高原の新鮮な野菜を中心として、体に良い食材をふんだんに使った料理を作り、心なしか<血液サラサラ>状態で身も心も軽くなってきたような気がしています。

 少し体調を回復した両親を無事送り届け、後数日になった夏休み、小さな山の家にこもって、できるだけどこにも出掛けず、清々しい空気や、木漏れ日や、木々を渡る風音、樋をつたう雨の勢いなどに、静かに心を浸したいと思っています。

   「勝手に松峰綾音ファン倶楽部」一年ぶりの再会
 ・・・・と思っていたのですが、当地で昨年発足した「勝手に松峰綾音ファン倶楽部」の仲間たちと一年ぶりの賑やかな再会となりました。

 昨年はyoutubeの制作をしていただいたり、スタジオでミニコンサートを催したりと音楽関係のイベントが盛り沢山だったのですが、今年はそれは小休止。
 その代わり、皆様の発案で、これからの活動のためのパンフレットを作成することになりました。
 既に八割がた出来上がっているのですが、完成したら、改めてご報告したいと思います。
途中大幅変更もあり、何日も膝を突き合わせ、盛り上がり、時間を費やしたなかなかの力作で、お気に入りの出来栄えなのです。

 そのようなわけで、「勝手に松峰綾音ファン倶楽部 令和元年夏の集い」は専らインドアだったのですが、途中気分転換を兼ね、近場にちょっとだけ出かけようということになりました。

   北軽井沢 浅間牧場
 陽射しの眩しい日、「高原の休日」らしく、浅間牧場に行ってみることになりました。


   丘を越えて行こうよ
   真澄の空は 朗らかに晴れて
   楽しい心
   鳴るは胸の血潮よ
   讃えよ わが青春(はる)を
   いざゆけ 遙か希望の丘を越えて

 じっくりと味わってみると、清々しく明快で、格調の高い美しい日本語だと思います。
 昭和初期に藤山一郎さんが歌って大ヒットした往年の名曲『丘を越えて』の一節ですが、この浅間牧場を舞台として詞が作られたとのこと。

 そして、昭和26年制作の日本初総カラー映画、『カルメン故郷に帰る』のロケ地でもあるということで、当時は大変な人気だったようです。

 休憩所の一隅には、ノスタルジックな香り漂う映画のポスターや『丘を越えて』のレコードジャケットなどが掲げられていました。
 当時の大女優、高峰秀子さんが水玉のワンピースで美しく牧場の丘に佇んでいる写真など、大切に展示されていて、ほのぼのとした空気を漂わせています。

 牛たちは牛舎で午後のまどろみなのか、姿を見ることはありませんでしたが、信州の山々に囲まれた見渡す限りの牧草地が目に眩しかったです。

 聞くところによると、軽井沢をこよなく愛し生前何度も訪れていたというジョン・レノンが、この牧場を、どこにもないほどの絶景であるとして大絶賛したとか。
 浅間牧場
 皆でワイワイ言いながら丘の頂まで登り、記念写真。
 鮮やかな緑の中、和やかな牧場の昼下がりの雰囲気が伝わるでしょうか。

   45分間の遊園地
 浅間牧場からほど近いところに、「おもちゃ王国」という遊園地があります。
 子供たちに大人気のアミューズメントパークで、夏は連日賑わいを見せているのですが、「この遊園地のフリーパス券をこの間何枚も頂いたので、試しに皆で行ってみませんか」という仲間の突然の提案に一同即賛同。

 でも時計を見ると17時の閉館まであと45分しかありませんでした。
 人気のアトラクションは結構並んでいるし、<ご家族で一日楽しめます>という充実した施設、一瞬、「ビュッフェタイムは後45分しかありませんが本当にお入りになりますか」と入り口でウエイターさんに確認されたときみたいな気分になりました。

 ディズニーランドの対極にあるようなオーソドックスな正統派遊園地で、心が和みます。
木馬
 一番レトロな<回転木馬>と<観覧車>、そして<ゴーカートの電車版>みたいな乗り物に乗ってみました。
電車
 大人同士でこういう場所・・・と、当初少し憚られたのですが、カップルは勿論、女性グループ、男性グループなど、大人だけで来ている方たちも割と多くいて、すぐに溶けこんでしまいました。

 思えば私は子供の頃、遊園地にはあまり興味がなくて、ほとんど行ったことはありませんでした。
 家の中で本ばかりに夢中になっていた超本の虫、今になって遅ればせながら神様が帳尻を合わせてくれたのかしらと、なんだか可笑しかったです。

   小さなバースディー
 そして最大のハプニングは、このバースディーケーキ。
 嬬恋村の朝取り新鮮キャベツです。
キャベツのケーキ
 今年も8月21日を「勝手に松峰綾音ファン倶楽部」の皆様にお祝いしていただき、とても幸せでした。

 「ハッピーバースディー」の歌、飛び切りのウイットと優しいお心遣いに大感激。

 夏にこうして再会して、屈託なくおしゃべりし、近況を伝え合い、温かい心を通わす・・・・良い仲間に出会えた幸せをかみしめています。

 そんな8月も今日で終わりです。



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水無月 ~「守株」の雑感

 梅雨に入りましたね。

 6月はなぜ「水無月(みなづき)」と呼ばれるのか。
 元々は「水張月(みずはりづき)」で、雨でたっぷりと水がある時だから。
 あるいは反対に、暑さに向かい水不足になるから。
 諸説ありますが、夏を待つ雨に紫陽花が良く似合う季節です。

   FM京都の出演、無事終わりました
 5月27日(月)、FM京都「SUNNY SIDE BALCONY」に出演してきました。
 通称「αステーション」の名で親しまれているFM京都は、四条烏丸通りに面したCOCONというお洒落なビルの10階にあります。
FM京都
 早速、局の入り口に向かいます。

 放送局は、様々な資料が散乱し、いかにも情報番組・報道現場という雑然とした感じなのではという先入観がありますが、このαステーションは、資料室もスタジオも躍動感が一杯なのに整然と落ち着いて、優しい雰囲気があり、居心地の良い空気に包まれていました。

 スタッフの皆様の明るい声に迎えられ、一気に気持ちが高揚し・・・。

 この日のDJの慶元まさ美さんは、既に本番中でした。
 しばし、応接室でスタンバイして、やがてゲストコーナーの時間となり、スタジオに招き入れられました。
 慶元さんとの「初めまして」のご挨拶は、正真正銘「初めまして」。
 とてもチャーミングで聡明な感じの方で好印象、ぶっつけ本番のスタートです。

 「大体こんな質問を振ります」というメモ書きをディレクターの方から事前に頂いていたのですが、始まってみるとその通りには行かず・・・・。
 出だしの「日本のシャンソン訳詞の現状」辺りのお話で、既に慶元さんから細部に関わる質問が次々と投げかけられました。
 「そこを聞いてほしかった!」と思う的確な問いかけに、俄然、私も舌が滑らかになってゆきます。
FM京都スタジオ
 そうこうしているうちに、あっという間に時間が来て。
 気がつけば<長くて10分位で!>というタイムスケジュールのはずが、いつの間にか20分間も話していたのでした。
 でも、トーク番組ですから、自然に話が展開し盛り上がるのは、まずは成功ということですよね。

 素敵な機会を頂きましたこと、お世話になりました局の皆様に心からお礼申し上げます。
 リスナーの方々に、訳詞やシャンソン、言葉と音楽というものに、少しでも興味を持って頂き、何かが心に届いたなら、とても嬉しいです。

 ラジオはマイクの向こうの皆様のお顔が見えないので、一方的に声を飛ばすだけのような気がしてしまいますが、そんなことはなく、私の言葉・声を受け止めていて下さる方の存在が強く感じられます。
 そんな不思議な思いを身に沁みこませながら、楽しくお話しさせて頂いたのでした。

   「守株」その密やかな効用
 先頃、或る季刊誌からのご依頼を受けて、『「切り株」考 三つの物語』という随想を書きました。
切り株1
本当は丸ごとここでご紹介できればよいのですが、それも・・・・ですので、「守株」という言葉を取り上げた部分のみ転載してみようと思います。

 これを書いたときは、特別意識しなかったのですが、近づくコンサートを待つ今、そしてこれまでも、もしかしたら、まさに「守株」の心境をどこかで持ち続けてきたのではないかとも思われるのです。

  「守株」その密やかな効用

   宋人有耕田者。
   田中有株。兔走触株、折頸而死 。
   因釈其耒而守株、冀復得兔。
   兔不可復得、而身為宋国笑。(出典 韓非子)

 「株を守る」
 この中国の故事が、北原白秋作詞の童謡『待ちぼうけ』の原典であることはご存知でしょうか。
 ある日、目の前で兎が切り株に躓いて死んだのを見た農夫が、それからというもの、耕すこともせずに、次の兎がぶつかってくるのをひたすら切り株の前で待ち続けます。いつの間にか畑は荒れ果て、それでも「待ちぼうけ」する彼は国中の笑い者になったというお話です。
 「人はきっかけさえあれば、どこまでも怠惰になる」、「美味い話はないのだから、やはり地道に努力するのが一番」、「一発逆転のギャンブルの魔力に溺れるな」等々教訓は山ほど出てきます。


 では、自分は、切り株の前で待ってはいないだろうか?
 そうしたいと思う衝動はないのだろうか?
 もしかしたら誰もが、切り株の前で佇みたいような気持ちがどこかにはあって、それは愚かしいけれど、また、漠然とした一種の生きる救い、夢のようなもので、その効用も、人にはあるのでは、などとも密かに感じたのでした。


切り株2
 一度、幸運にも兎を手にした経験があるからこそ、そういう僥倖が再びあることを信じたいと思う気持ち、希望、確信のようなものに夢を繋ごうとするのでしょうか?

 二匹目の兎がまた飛び込んでくるかもしれないと思う虫の良いこんな夢も、人の生きる力の一部になってくれているかもしれず、あながち悪いものではないと感じられてきます。

 勿論、「守株」の訓話の中の男のように、株の前で何もせずぼんやり居眠りばかりをしているのは論外ではありますが・・・。

 日々ベストを尽くしつつ、でもその中で、万事うまくいくという太平楽な夢を根拠なく、ぼおっと見るというのもまた心地よいのでは。

 コンサート一週間前、こんな水無月の雑感です。



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「名付ける」ということ

   「平成」はあと二日です
 「平成」も後二日で終わり。
 年の瀬のような気分で、周囲を片づけてみたり、行く年を振り返ったり・・・。どことなく高揚感を感じています。
青葉京都2
 元号が変わるGW、皆様はどのような思いの中でお過ごしでしょうか。

 新元号が発表されてから、このひと月、新聞やテレビでも、「平成」を振り返る特集が多く組まれていますし、そんな映像を見たり、記事を読むにつけ、平成30年間の歩みが改めて思われます。

   元号発布のとき
 「平成」
 30年前、「平成」の元号が発表された時のことを覚えていらっしゃいますか。

 当時、私はボストンで暮らしていました。
ボストンの冬
 何気なくテレビを付けた時、JAPANの文字が突然大きく画面に現れ、昭和天皇崩御のニュースが流れました。
 昭和64年1月7日の事でした。

 それから、アメリカのテレビの海外報道の扱いとしては、類を見ないほどの長時間、昭和天皇の半生を伝えるドキュメンタリーが映し出されました。
 即位の時から戦争を挟んで現在までの軌跡を丹念に追って、キャスターたちも喪に服しながら、とてもしめやかに哀悼の意を伝えていました。
 きっと随分前から既に健康状態のことが伝わっていて、万一の場合に備えて周到に映像を準備していたのに違いありません。
冬のハーバード
 ここは日本なのではないかと錯覚するくらい、何度も繰り返しニュースは流れ、そして、この崩御のニュースを引き継ぐかのように、新元号の発表の様子も放映されました。

 喪服に身を包んだ当時の官房長官の小渕恵三氏が『新元号は「平成」であります』と、色紙に書いた文字を大きく掲げたのを、私は、ドキドキしながら、ボストンで目にしたのでした。
 <日本の元号というものは何であるのか>の説明をアメリカ人のキャスターが熱心に語っていましたが、どのような内容だったのか、残念ながら今ははっきりと覚えていません。
 ただ、「長く続いた自分たちの時代「昭和」が終わってしまったのだ」という喪失感がヒリヒリと心に沁み入ってきて、自分でもびっくりするくらいショックを受けたことを思い出します。
 「日本の大きな何かが終わってしまった」という、説明のつかない空虚な想いが溢れてきた気がします。
樹氷2

 異国で知ったから・・・・昼間でも外はマイナス10℃にもなるアメリカ東海岸の寒い1月、独りで迎えた新年だったから・・・なおさらだったのかもしれませんね。

 「平成」という文字にも響きにも、初めは大きな違和感がありました。
 過ぎた時代を噛みしめる暇もなく、次の時代はこうして当たり前のように始まるものなのかという戸惑いと共に、初めて元号というものの意味を思った時でもありました。
 でも人ってすぐ順応してしまうらしく、ほどなく「平成」は当たり前になりましたけれど。

 「令和」
 天皇退位という初めての状況の中で行われたこの度の新元号の発表は、多くの人の心に、30年前とは全く異なった感慨を生んだであろうと思われます。

 クリスマスプレゼントを開ける前の子供のように、じっと期待を膨らませて、発表を待つ、そんな盛り上がりがありましたね。


  万葉集から採ったという「令和」の文字。

    初春の令月にして 気淑(よ)く 風和ぎ

 美しいです。

 「万葉集は漢字で書かれているのだから日本の古典ではない」
 などという異論があると聞きますが、文化とは、様々な時代、様々な民族の積み上げてきた知的・物的遺産を継承し、影響・融合し合いながら更に成熟、結実してゆくものなのですから、その進化発展の固有な過程こそがオリジナリティーと言えるのではないでしょうか。

 万葉仮名は明らかに我が国独自の文化。
 繊細で美しい大和言葉を漢字で表記した創造性を、誇りに感じます。

 「令和」に込められた「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ」という大きな志を実現すべく、新時代のスタートを切りたいですね。

   「名付ける」ということ
 例えばイギリスが「ビクトリア王朝」というような呼び名で時代を認識するように、元号と似たような考え方は、他国にもあるとは思いますが、でも、現在、元号を西暦と併用し、実生活の中で共存させている国って日本だけなのではないでしょうか。
 他国との関係の中では、西暦で統一した方がわかりやすいということも事実ですが、西暦と使い分け出来る柔軟性って、とても素敵だと私は感じます。

 西暦は数字ですから、明快で効率的ではありますが、元号のようなその時代特有の彩りは望めません。

人は、名付けられることによって、その人としての輪郭を鮮明にするように、 「明治」「大正」「昭和」「平成」、それぞれの元号に、それぞれの時代に生きた人々、歴史の空気、物語が見えてくるのではないでしょうか。
 独自な色合いが、元号で名付けられることによって浮き上がってきます。
青葉京都1
  父母の時代、祖父母の時代、曾祖父母の時代を感じながら今を生きることが、文化を受け継ぐということなのではないかと思うのです。

 「令和」と名付けられた時代を、共に生きてゆく私たちが、今度はどのような足跡を残して行くのでしょう。

 そんなことを考えて過ごす休日です。




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雛祭り 雑感

   花粉症 今年は大変です
 2月後半から悪化して、ついに寝込んでしまいました。
スギ花粉
 倦怠感と頭痛と微熱とで、風邪にかかったような、でもやはりれっきとした花粉症、皮膚疾患まで加わり、目や喉は勿論、顔や手まで赤く腫れて、本当に参っています。
  「どんどん重症になるのはそれだけまだ細胞が若くて活性化しているという事ですから」とのお医者様の慰めの言葉に、
「・・・・。」
 では、ひたすら後二カ月は耐えるしかないかと、もはや諦めの境地です。
 皆様は如何ですか。
 そのようなわけで、目下、共に花粉症を語り合う仲間募集中です。

    雛祭り 
 花粉の中でぼんやりと過ごしていたら、いつの間にか三月になりました。
 今日は雛祭り。
 
 幼い頃、両親が奮発して買ってくれた優美な七段飾りの雛人形が大好きでした。
 お雛祭りが近づくと、雛段を組み立て、赤い毛氈をかけ、和紙に包んだ雛人形をそっと箱から出して飾ってゆく母の柔らかい手つきをうっとりと見ていました。
 箱の中から樟脳の香りが漂って来て、春の到来を幼心に感じていた気がします。
 雛壇の横に桃の花と菜の花を活けて、雛あられや桜餅をお供えし、おすましの顔をして撮って貰った毎年のお節句の写真が古いアルバムに今も残っています。
 ひな祭り
 京都ホテルオークラのロビーに飾られていた七段飾りの雛人形を見ていたら、そんなことを懐かしく思い出しました。
今晩の夕食は、お雛祭りの日のご馳走だったちらし寿司にしようと思います。
菜の花


 和菓子屋さんの店先には桜餅やひし餅に並ぶ行列があって、これも京都らしい情景、こういうこだわりって良いですね。



   
    土佐文旦
 私はグレープフルーツが大好きで、ほぼ毎朝、朝食時に頂いています。
 オレンジも温州ミカンもポンカンも、柑橘類は全て好物なのですが、先日、初物という事で、友人が立派な土佐文旦を沢山送って下さいました。
文旦
 瑞々しく薫り高く、さっぱりとした味でとても美味しいのです。
 惜しみながら頂いて、今残りは三つ。今日はフルーツサラダにしてみようと思います。
 
 皮が厚く、でも柔らかいので、これはと思い、昨日、文旦マーマレードを作ってみました。とりあえず大成功!
 他の柑橘類と一味違う和風の苦みがとても美味しく感じられます。
 菜の花の酢味噌和えの上にたっぷり乗せると、料亭風、なかなか乙でお勧めです。

   相続と断捨離
 ふと目にした小冊子の中で、作家の五木寛之氏が、お話しされたこんな文章の一節が心に残りました。
 
  「物の相続ではなくて、心の相続。
 断捨離で物を捨てるのではなく、物の中にある思い出に囲まれて暮らすのも良い。思い出を懐かしむだけでなく、人に会い、声を通して聞くこと、語ることで、私たちは精神を活性化しながら「100歳人生」を生き抜けるのでは、とふっと考えたりします。」

 「百年人生を生きる」をテーマにした金融機関(三菱UFG信託銀行)のセミナーでの講演の一節なのですが、昨年相続税法が改正され、今年から施行されるという事もあって、最近とみに「相続」や「遺言」などの問題がクローズアップされていますね。
 
 金融関係の方の講演と対比して、五木氏の講演は作家らしく心の有りように焦点を当てたお話だったようです。

 大仰かもしれませんが、先ほどの「雛人形」や「ちらし寿司」も五木氏流に言えば、一種の「心の相続」ということになるのでしょうか。

 いささかロマンチックすぎる目線かもしれませんが、<家を継ぐ>とか<名を継ぐ>とかいう事も、実は物の相続の前に、心をどう負って引き受けてゆくのかという問題なのではないかと思うのです。
 <財産を受け継ぐ>ことも、本来はその延長上にあることかもしれませんね。
 更に言うなら、<文化の継承>も、そのこだわりと責任の中にあるとも言えるのではないでしょうか。

 高齢になった両親が、最近、頻繁に片づけのことなどを話題にしているので、そんな場面と重なって色々なことを考えてしまいました。

 私の両親の世代は、たぶん一様に、物を大事にし、捨てることに抵抗が強いようです。
 その結果、物が溢れ過ぎ、何とか整理したいと思うジレンマも生れてくるのでしょうね。

 「断捨離」の考えからすれば、言語道断かもしれませんが、でも物は、それと関わってきた人の個人的な思いと連動しますので、傍目には不用品でも、当事者にとっては思い出深い宝物になり得るのでしょう。

 「物の中にある思い出に囲まれて暮らすのも良い。思い出を懐かしむだけではなく・・・・」

 の言葉に,片付け大好きの私ではありますが、全面的に共感します。

 物と、物に宿るものとを、大切に受け継ぎながら、受け継いだものを噛みしめながら、でもそこに埋没しないで日々新たに生き直してゆけたら素敵ですね。


 花粉症のぼおっとした頭に色々なことが流れてゆく、雛祭りの夕餉です。


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