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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

小さな秋の便り

   京都の秋
 深まる季節、この時期の京都は清澄な秋の風情に包まれ、古都の矜持が漂っているような気がします。

 明日24日は十五夜、知人に誘われて嵯峨本願寺でのお月見コンサートに行って参ります。
 演目は声明、合唱、シャンソンの三部立てで、日暮れから音楽を楽しみながら、お寺が振る舞って下さるお月見団子とお茶を頂き、月を愛でるという会で、とても楽しみです。
 嵯峨嵐山の古刹でのお月見、写真が上手く撮れましたら、また改めてご報告致しますね。

 実は、昨日もいつものメンバーとの十三夜のお月見の宴があり、参加したいと思っていたのですが、生憎都合がつかず叶いませんでした。

 前にブログでもご紹介したことのある正伝寺での観月の会、宴たけなわの頃に、それぞれが短歌を作り、皆様の前で読み上げるといういささかハードルの高い宴なのですが、昨日出席した友人から、速報メールが届き、「こんな歌を詠みました」と出来立てほやほやの作歌が送られてきました。
 メール通信もこうなると何だかとても優雅で、<ここは京都>としみじみと感じてしまいます。

 正伝寺に限らず、京都にいるとこの時期、様々な寺社などでの観月の会にお誘いを受けることが多いのですが、<月への憧憬>という、宗教心に満ちた雅やかな文化をずっと大事に生活の中に生かし続けていることを肌で実感します。
 近年、薄れつつある様々な日本の年中行事ですが、<自然への畏敬>と密接に結びついて行われてきたのでしょうし、花鳥風月に心を止め、季節にふと留まる日本人のこだわりを、生活の中で私も柔らかく受け止めて、持ち続けていけたらと思うのです。

 花より団子。
仙太郎お月見団子
 京都の人が並んで買うこの時期の人気スイーツはお月見団子です。
 写真は、大好きな和菓子屋さん「仙太郎」のWEBから転載させて頂きましたが、白いお餅は満月、餡は月を囲む空と雲を模しているとのこと、私も今年も列に並んだ一人です。

 そして、昨日は時代祭り、こちらも残念ながら、見ることが出来ませんでしたが。
約二千人が参加するという時代行列は、明治維新から始まり、時代を遡って平安朝まで約千年間の変遷が再現されてゆきます。
 勇壮でそして雅やかな、各時代を再現する衣装に身を包んだ人々の長い長い行列が大路を荘重に歩み進むのです。
  時代祭(京都新聞)
                        (時代祭2018:京都新聞より)
 それをただじっと眺めていることに、最初は少々戸惑い、退屈になってくるのですが、それでもこらえ、見続けていると、やがてそれに慣れてきて、時を忘れるぼんやりとした快い酩酊感に包まれます。

 思えば京都のお祭りは葵祭りも祇園祭りも皆、行列がゆっくりゆっくり通り過ぎてゆくのをただひたすら見ているというもの・・・・阿波踊りのような観客参加型のお祭りが大好きな人には、気が狂うほど緩慢なのではと思いますが、でも、きっとそれこそが古都たる所以で、この時間の流れを心地よく感じられてくる不思議が京都の魔力なのかしら、なんていつも思っています。

 今朝の新聞で読んだのですが、昨日の時代祭りの最中に馬が暴れ出してしまい、怪我人が数名出たのだそうです。
 武士に扮した騎手の持っていた槍が馬の腹にあたったためと報じられていました。この不幸なアクシデントが今後に深刻な影響を与えなければ良いのですが。

   銀座の秋
 一方、巷では、カボチャや魔女のハロウインの飾りがあちこちに溢れています。
 「ハロウイン??」と首を傾げた一昔前から考えると隔世の感がありますね。
 
 世界のいたるところにお祭りはありますし、お祭り好きは人類共通のものという気がしますが、でも他国の祭事をどんどん取り入れて、日本風にいつの間にかアレンジしてしまうのは、さすがあっという間に文明開化を遂げた<換骨奪胎の我が国>と感心するばかりです。
 
 そんなカボチャで溢れる中、先日、銀座に行きました。
 仕事の打ち合わせだったのですが、お昼をという事になって,「ヒガシヤ ギンザ」というお店にご案内頂きました。
 <新しいお茶の愉しみ方>をコンセプトに、お洒落にお茶を供するお店、和食のランチコースもあって、器一つ一つ、提供するタイミングなども行き届いていて、ゆったりとした美味しい時間を堪能しました。
 最後のデザートタイムに『どのお茶を召し上がりますか』と持ってきてくれたのがこの籠です。
ヒガシヤのお茶
 秋ならではの玄米、五穀、柿、銀杏・・・様々なブレンド茶の原材料が籠に盛られていて、とてもお洒落でした。
実った稲穂と丸々とした柿が<秋の恵み>を楽しく感じさせてくれます。
 お店の若い女性は可愛らしくて説明も心がこもっていたので、思わず話が弾みました。
 持っていたコンサートパンフレットを勢いに任せて彼女に進呈して、記念に一枚。
柿のフレーバーティー
 私が注文した「柿のフルーツティー」がこちらです。

 こうして写真をUPすることも「喜んで」と快諾して下さいました。
 こんな一期一会の小さなご縁にほっとするひと時です。

 後半の打ち合わせは場所を変え、カフェで。
カフェにて
 カフェに向かう道すがら、たまたまある知人の事を話題にしていたらその瞬間、ばったりとその方と遭遇してびっくり。
 勿論ただの偶然なのですが、偶然もまたご縁、心が和みました。
モンブラン
 『ここのカフェのモンブラン、銀座でも美味しいって有名なんですよ』と勧められ、それではと頂いてみたのですが、和栗が上品な甘さでとても美味しい秋の味、仕事にも食べ物にも素敵なセンスを持った友人と一緒の充実した一日でした。 


 取り留めなく綴ってみた私の10月です。


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新年を寿ぐ ~二通の封書~

 1月8日、今朝は、しめ縄、正月飾りなど外しました。
 年賀状も一段落して、段々と日常が戻ってきますね。

 ふと気づくと、コンサートまで一週間を切っています。
 気合を入れ直して、またまた臨戦態勢に突入。

 筋力も声も一日訓練を怠ると、その分弛緩していくと、よく言われますが、お正月を免罪符にして過ごした私には、身に染みる言葉です。
 自戒と自浄への想いを持って、気を引き締めて過ごしてゆかなければ。

 お年賀状の中に、何通か封書がありました。
 その中から二通、その一部をご紹介したいと思います。
 共に美しい自筆のお手紙で、心に深く残りました。

   その一 手漉き和紙に記された『宝袋の口上』
 年末に親しい知人から素敵なプレゼントが届きました。

 永年の学究生活に一区切りを付けられ、現在、自然の中で悠々自適の生活を謳歌していらっしゃる尊敬する先輩。

 大きな袋一杯に詰まった六つの贈り物の添え状に「六福」とありました。
 ご自身で作られた手漉きの和紙にインクの文字で、それぞれの品物の「口上」がユーモアを交えて記されていました。

  ご自宅の栗の実の渋皮煮。
 大きく立派な栗が柔らかくほんのりと上品な甘味と共に口に広がりました。

  形の良い、見るからに美味しそうな干し柿。
 昔、田舎の大叔母が軒先に吊るしていた干し柿の懐かしい思い出が蘇ります。
大叔母が作ってくれる干し柿が一番美味しいと信じて疑わなかった子供の頃のあの味ととても良く似ていました。

  喉の為、風邪予防の為と、贈って下さった生姜湯。

  ご自身の畑で丹精込めて収穫したニンニク。

  ・・・・etc・・・ etc・・・

 「七福神、七番目の福は新しい年になったら届きます!」

 <福は続いてゆく>という洒脱で温かい言葉でした。

 年末にお出ししたお礼状への再びのご返信=新年の封書には次のような言葉がありました。

 「私は季節の折々毎にそれを感じ取れる事々を、それは毎年くり返されることではありますが大切にしようと思っています。」


   その二 『発酵の歳月』 ~ブログが結んでくれた素敵な邂逅~ 
 元々はこのブログでご縁が結ばれた方なのですが。
 ご自身もシャンソンをお歌いになっていらっしゃって、偶然、私のブログをお読みになり、コンサートにいらして下さったのがきっかけでした。

 お手紙の典雅な文字と、情感のこもった、そして歌への真っ直ぐな想いが伝わってくる素敵な文章に心を打たれて、折に触れてお便りを交わす間柄になりました。

 しばらく体調を崩していらっしゃったとのこと、とても心配です。
 早くご本復なさいますように。

 肝胆相照らし、いつしか音楽や歌について想いを交わし合っているのですが、私が「歌うことには発酵の歳月が必要」と記したことに対してのお返事が新春のお便りに寄せて届きました。
 こんな風に記して下さったお手紙、訳詞について、音楽について共感し考えるところが沢山ありましたので、その一部分だけでもご紹介させて頂こうと思います。

   ・・・・・・・
 お手紙に「歌うことには発酵の歳月が必要である」とありましたが本当にそう思います。

 ただ歌うだけではなく、その楽曲を表現するという点においては熟成させる時間が確かにとても大切なのではと思います。それではどうやって熟成させて行ったらよいのか、考えるととても悩みます。
 詞を読み込むこと、原曲を繰り返し聴くこと、そして人様の前で歌うこと、他にもまだあるのでしょうね。

 そして、同じ曲でも若い方と年輪を重ねた方が歌う場合(同一の歌詞で)時々違和感を覚えることもあります。

 歌いたいなと思っても、あまりに若い感覚の歌詞だと何だか無理しているみたいで。自然に聞き手に届けられる日本語詞があればと・・・。
 いつの時代でも、変わりないことや人生の歌が好きなのは年齢に関係なく歌えるからでしょうか。

 作詞者、作曲者、そして訳詞者に思いを寄せながら、自分の人生をくぐらして、その歌を表現するということなのでしょうか。

 自分の人生の中で、発酵させ熟成させてゆく作業は永遠に続くのかもしれません。
     ・・・・・・・・

 歌うということのご自身にとっての意味をいつも真摯に見つめて、そして、言葉を大切に歌うことを心にしっかりと受け止めていらっしゃる、そういう観点から、私の訳詞創りの意味にも深い理解を示して下さることに、勇気付けられ、強い感銘を受けます。
 発酵させ、熟成させ続けてゆくということは、実は歌うことだけに留まらず、誰にとっても、生きてゆくことそのものに関わる本質的な命題でもあるのでしょうね。

 こうした日々の中で、素敵な方々と出会うことが出来ることに心から感謝しますし、それにお応えできるように、しっかり励んでいかなければと改めて思います。

 新年の幕開けの素敵なお便りを今日はご紹介してみました。



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2018年 今年も素敵な年になりますように

 新年、明けましておめでとうございます。
 
 どのような元旦をお迎えになられましたか。
 皆様にとりまして、健康で幸せな一年となりますように。
  2018年賀状
 私の今年の年賀状には、コンサートの予定をお知らせしました。
 1月半ばから早速スタートします。
 今まで自主企画が殆どでしたが、今年は招待公演が重なっています。
 今までとは違う新しい場、新しい出会いの中で、また新たな経験を積んでいくことが出来るのではと楽しみでなりません。
 挑戦ではありますが、肩ひじを張らずに、このイラストの女性みたいに、心も体もキュートに装い、軽やかに歩いていく心意気で!

 カレンダーが掛け替えられるように、一年の初めの節目を心に一杯に感じて、きりっと、上機嫌で進んで行けたら良いですね。
 新年は、そんな希望を湧きあがらせてくれます。

 そして、素敵な音楽を発掘して、心に沁み入る詩をもっともっと生み出してゆきたいと思います。
 どうぞ本年もよろしくお願い申し上げます。

   <追記1> 朝焼け
IMG_2311.jpg

 自宅のベランダから。
 ビルの谷間越しに鮮やかなオレンジ色に染まった元旦の空。
 
 光が眩しく射していました。


   <追記2> 八坂神社
 朝、例年通り、八坂神社に初詣に行きました。
IMG_2314.jpg IMG_2318_201801011048452b6.jpg
 八坂神社は芸能の神様、一目で祇園の舞妓さん見習中とわかるあどけない少女たちが、ほろ酔い加減の参拝客に混ざって、一心に祈っていました。
 シャッターを押すのが憚られたのですが、とても真剣な美しい表情をしていました。
 私も今年の無事を祈って。
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 戌年の為か、心なしか犬を連れた参拝客が多かった気がします。
 
 後ろ姿だけですが、周囲の人たちに注目されて尻尾が揺れていました。


 さてこれから両親の住む逗子に向かいます。
 皆様もどうぞ楽しいお正月をお過ごしくださいね。



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少しだけ文学的に ~川端康成~

   掌編『雨傘』
 師走となりました。早いですね。

 そして、12月16日の「雨の日の物語」までちょうど二週間、かなりハイテンションで過ごしています。

 今回の『雨の日の物語』は「シャンソンと朗読の夕べ」シリーズの三回目となるのですが、初披露の曲を多く取り入れてみました。
 どうしてもご紹介したくて、無謀にも、つい最近作詞とアレンジ譜が出来上がったばかりの曲まで入れてしまったのですが、どうぞお楽しみになさって下さいね。

 そして朗読は、優しい感性が広がってゆくような掌編と詩を選んでみました。
 雨のイメージを柔らかく煙るように伝えられたら、色々な雨を、聴く方たちの心に降らせることが出来たらなどと思っています。  

 その中の一編、川端康成の『雨傘』

 ある少年と少女が、雨の日に写真館で記念写真を撮るという、それだけの、物語とも言えないくらいの小編で、束の間の感情の流露を捉えた淡い初恋のお話なのですが、文章と、発せられる一語一語が何とも言えず嫋(たお)やかで、川端文学の醍醐味を伝えるしっとりとした艶やかさに溢れている気がします。 
 何気なく朗読をしていても、仄かで隠微なエロティシズムのようなものをふっと感じて、読み込むほどにドキッとしてしまいます。
掌の小説
 川端氏の作品の真骨頂は、耽美的で、生々しい危うい世界そのものなのかもしれないなどとも思いました。 
川端康成
 小説の具体的な内容は今は明かしませんが、よろしかったら、この掌編が収められている『掌の小説』をお読みになってみて下さい。

今日は川端康成氏にまつわるお話しを少ししてみたいと思います。

   逗子の海
 私の実家は逗子、家から5分位で海に出ることが出来ます。
 久しぶりに海岸を散歩してみました。
 春霞がかかっているような茫洋とした海の光景です。
 誰もいない初冬の海岸。向こうに稲村ケ崎、江の島。富士山は霞んでいます。
江の島 ウインドサーフィン 流木
打ち上げられた流木。そして静かに寄せる波頭。ヨット。

逗子マリーナ
 夏の名残りのサーフボードが砂浜の景色に溶け込んでいます。
 材木座から小坪浜、左側に逗子マリーナが見えます。

 子供の頃から毎日のように海岸を散歩していました。
 季節を映す風、光、空、潮騒、海の香り。
小坪ワカメ
 幼い頃の小坪浜は、本当に鄙びた漁村で、2月頃になると、ワカメ取りが始まるのですが、海岸に、一斉に作業小屋が立ち並び、大きな茹で釜でワカメを茹で上げ、それを洗濯物を干すように、ロープを張り、洗濯ばさみで挟んで砂浜いっぱいに天日干しする、その情景は圧巻でした。
 いつの間にかその数もまばらとなったそんな情景。
 浜辺に広がる強烈な海藻の香りが冬の風物詩そのもので、私の中の原風景でもあります。

 向こうに見える逗子マリーナは実は川端康成氏が亡くなった場所でもあるのです。

 川端氏は鎌倉に住んでいて、名士中の名士でしたから、訃報に地元は衝撃を受けました。私も子供心にショックだったことを思い出します。

 川端氏の家に出入りしていたお魚屋さんや八百屋さんが、我が家にも御用聞きに来ていましたので、その生活ぶりなどを母は自然に耳にすることも多く、私たち家族ですら、どこかで親しみを持っていたためかもしれません。

 朗読に、『雨傘』を取り上げるにあたり、他の小説も集中して読み返しているので、突然この海辺の風景に、そんな昔のことが蘇ってきました。
 
 
   江ノ電での邂逅
 邂逅と言っても一方的な思いなのですが。
 川端氏の家は長谷にありました。
江ノ電
 江ノ電=江の島電鉄は今は観光のスポットにもなって人気ですが、鎌倉と藤沢を繋ぐ、二両編成の路面電車です。
 長谷は鎌倉寄りの江ノ電の駅、実は私、2回ほど江ノ電の中で川端氏に会ったことがあるのです。

 最初は2月だったでしょうか。夕暮れ時、海が鴇(とき)色に染まっていました。
 部活か何かの帰りらしく男子学生たちが沢山乗り合わせて、賑やかな話し声が響いていました。
 江ノ電と夕焼け
 満員の車両に長谷駅から川端氏が乗り込んできました。
 よく写真で見かける通りの和服の着こなしでステッキを携え、確か防寒のコートを羽織っておられたかと思います。

 小柄な方だったのですが、でも、車両は瞬時で、水を打ったように静まりました。
 川端氏と皆が気づいたのかどうか、・・・でも眼光が異様とも言うほど鋭くて、真っ直ぐにすべてを透すような眼差しに独特のオーラが溢れていました。
 近寄りがたい、冒すべからざる威光というか、そういう凄さだったのかもしれません。
 席に座っていた男子学生たちは物も言わず一斉に立ち上がり、後ずさりした不思議な瞬間でした。
 川端氏は、黙って何事もないように静かに片隅の席に腰かけました。
 長谷から鎌倉までの、10分ほどのあの時間の静謐な空気を今でも忘れません。
 
 私は・・・幼い頃から本の虫でしたから、既に川端氏の作品も読んでいましたので、本の見開きページで目にしていた作家が、本当に目の前にいることに大感激で、固唾を呑んで見入っていました。
 圧倒される威厳は感じましたが、怖いとは思いませんでした。
 むしろ何故か、寂しい感じが漂っていると思いました。あの感覚は何だったのかと今でも思います。

 それから偶然なのですが、やはり江ノ電でもう一度同じような場面に遭遇し、その数日後(4月だったと思います)に、訃報を聞いたのです。

 ですので、私にはいつまでも、川端氏は寂しさの中にいる人というイメージがあり、川端文学もそんなフィルター越しに読んできた気がするのです。

   伊豆の踊子 ~天城の旅~
 代表作の「伊豆の踊子」も好きな作品です。
 作品の足跡を訪ねて、天城越えをする文学散歩をこれまで数知れず行ってきました。
 嘗て教鞭を執っていた頃、長きにわたり文芸部の顧問をしていましたので、生徒たちを伴って、川端文学を訪ねる軌跡を辿ったその一環でした。
伊豆の踊子像
 天城山を越える旅、4時間余り、かなり急な山道ですので、今でしたら、きつく感じるかもしれません。
 旅するときは、いつも新年度に入る前の3月末、春休み。
 山裾に雪の名残りが残っている頃、でも木々の芽はほころび始めて、枯れ枝も薄赤く色づき、天城峠の冷気が心地よく感じられる美しい季節でした。

 主人公は、下田までの道を旅芸人一座と同行するのですが、その時、年端もいかない踊り子が、彼の事を噂します。
 この場面の文章が私はとても好きなのです。

   しばらく低い声がつづいてから踊り子の言うのが聞こえた。
   「いい人ね。」
   「それはそう、いい人らしい。」
   「本当にいい人ね。いい人はいいね。」
   この物言いは単純であけっぱなしなひびきを持っていた。感情のかたむきをぽいと幼くなげだして見せた声だった。わたし自身にも自分をいい人だとすなおに感じることができた。晴れ晴れと目を上げ明るい山々をながめた。

 川端康成への所感を、今日は取り留めなく綴ってみました。




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祇園祭 ~暑気払いの季節~

 言っても詮無きことながら・・・・毎日暑いですね。
 京都は盆地です。
 風は通らず、湿気を帯びた熱い空気が地の底に溜まり込んで嵩(かさ)を増し、逃げ場もなく蒸されてゆく・・・・悪夢のようなイメージが頭をよぎります。

 けれど、京都に生まれ育った友人たちは、特にそれほど悲鳴も上げず、表情も変えず、むしろ夏の風物詩を楽しみ、巧みに涼を作り出しているように思えます。
 懐深い京文化の真髄は、そういう自然環境と柔らかく付き合っていくことにも反映されているのでしょうね。

   お囃子の音色
 7月に入るとすぐ、京都の街は祇園祭の準備が華やかに始まります。
 山鉾を立てるために、バス停は当たり前のように移動しますし、朝早くから<コンチキチン>という賑やかなお囃子の音色が街に響き渡ります。
 ねじり鉢巻き、法被姿で山鉾に乗り込み、男たちが奏で続ける<コンチキチン>は、「暑い京都に響く、暑気払いの涼風なのだ」と、少し気取って詩人のように言った知人を思い出しました。

 今日は祇園祭の前日、宵山。
 祇園祭・前祭(さきまつり)の山鉾巡行はいよいよ明日17日に迫ってきました。明日は計23基の山鉾が都大路を粛然と進んでいきます。
 祇園祭は、疫病(えきびょう)退散を祈る八坂神社の祭礼。山鉾には神輿の先触れとしての役割があるといわれています。
 選ばれし男子、今年は誰に白羽の矢が立つのかという「時の人」・・・豪奢な衣装を身に着け、白塗りを施されたお稚児さんが乗り込み、しめ縄切りをする、その山鉾巡行のスタートラインである長刀鉾(なぎなたぼこ)から我が家は1分とかからず・・・実は祇園祭の特等席に住んでいるような地の利の良さで、この時期は得した気分になってちょっと自慢したりしています。
 それで、鉾の立ち上げから本番まで、いつも通りすがりに眺めてもいるのです。
 
 京都新聞に祇園祭の準備から当日に至るまでの動画がUPされていましたので、この時期の京都の街の情景をご参考までに載せてみます。
  http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/gion/index.html

     夏着物・浴衣
 街ゆく人にはこの時期、着物姿が急増します。
浴衣
 女性も男性も、普通に着物を着て、違和感なく街に溶け込んでいます。
 夏着物の紗や絽や麻の涼やかな風合い、夏色の仄かな色彩、襟を正し、すっきりと・・が粋でお洒落ですよね。
 本当なら一番暑いであろうはずのものを、涼しい顔で着こなす心意気を習得したいものだと密かに思っています。
 それで、・・・・数日前、例の清水寺プロジェクトの会合があったのですが、思い立って浴衣を着て出席してみました。
 スナップを一枚。
 帰りは山鉾が立ち並ぶ賑やかな京都の街を夕涼みしながらのそぞろ歩き、これも日本的な涼と、少し納得した次第です。
 
   夏柑糖
 「夏柑糖(なつかんとう)」ってご存知ですか。
 こういうお菓子です。
京都生まれの友人が「暑さの凌ぎに」と送ってくれました。
夏みかん 夏みかん2
 蜜柑をくり抜いてゼリーを詰めたようなお菓子を、この頃いろいろなお店で見ますけれど、大抵、中身はゼリーで、寒天を詰めた和菓子は初めてでした。
 京都の老舗和菓子店「老松」の本家本元の生菓子なのです。

 『甘夏、グレープフルーツなどを使った類似品がございますが、当舗とは一切関係がございません。「夏柑糖」は夏みかんのみを使用しております』

 夏柑糖の袋の中には上記のような注意書きが添えられていて、二番煎じでは断じてないのだという名店の矜持が感じられます。
 「戦後まもなく、庭にあった夏蜜柑の果実に、少しの砂糖と寒天を合わせて作ったのが始まり」で、原材料は「夏みかん果汁、砂糖、寒天のみ」
 『夏柑糖は夏みかんです。そして寒天です。』
ひまわり
 少し硬めの触感と夏蜜柑の香りが喉に涼やかに感じられました。

 今年も猛暑となりそうですが、熱中症に気を付けながら元気で乗り切っていきたいですね。




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GW忘備録2 祇園・清水寺成就院

 GW忘備録、前回に続いて後編をお届けしたいと思います。

   茶々丸 ただ今特訓中
 連休を少し遡りますが、先日、これまでになかった面白い依頼が舞い込みました。
 
  「子猫を拾って育てることにしたのですが、トイレの習慣がどうしてもつかず、部屋のそこら中で粗相をしてほとほと困っています。何とかトイレ習慣を躾けて頂くことはできないでしょうか?出張調教を是非お願いします。」

 嘗ての教え子からの依頼。
 私が無類の猫好きで、猫の躾のエキスパートである・・・というような自慢話を以前したことを覚えていて下さって、藁をも掴む神頼みで、ご連絡をしていらしたものと思われます。
 大言壮語、その責任もあり、何とか力にならなければと出向くことにしました。
 トイレの躾は、難易度はさほど高くはないのですが、それにしても、数時間の訪問では、・・・という懸念を抱えつつでした。

 祇園白川筋の辰巳稲荷で待ち合わせです。
柳
 眩しい光の中で、柳の新緑が瑞々しく柔らかく風を受けていました。
 ウエディング写真を撮る方たちも最近多くて、何組ものカップルが楽しそうにポーズを撮っている中、遠目にもしっとりと美しく着物を着こなした二人の若い女性がお出迎えをしてくれました。
 
 教え子のKさん、祇園の芸妓さんなのです。
 もう一人は「うちの妹どす」とご紹介して下さった、やはり美しく華やかな素敵な女性。
 Kさんは、子供の頃から日本舞踊を習っていて、舞妓さんになって芸道を極めたいとの志を強く持ち、単身、京都に赴いたのだと聞いていました。
 彼女が卒業して以来、昨年期せずして、京都で再会を果たし、また親しいご縁が繋がりました。

 言葉遣い、立ち振る舞い、伝統の色濃く残る世界での生活習慣の違い、歌舞音曲の厳しい修業など、習得するのはどんなにか大変だったのではと思うのですが、色白で日本的な楚々とした美人、まさにはんなりとした風情で、涼しげに微笑む笑顔が輝いて見えました。
 時折見せる昔と変わらない無邪気な表情に、懐かしさがこみあげてきます。

 子猫は生後6~7か月で、よく聞いてみると、お二人の所属する置き屋のお姉さんが飼っているのだそうです。

 白川筋の粋な門構えを潜って、お姉さんのお部屋に通されました。
 そこで初対面、茶々丸くんです。
茶々丸2
 お姉さんのベッドで茶々くんは一緒に寝ているそうなのですが、猫砂を入れたベッドサイドのトイレには見向きもせず、ふわふわのお布団の上や洗濯したての柔らかいタオルの上などにいつも粗相をしては、皆を困らせているとのこと、人懐こくて、くるくると飛び回る元気のよい子猫なのですが・・。

 同じ悩みを持っている方のために・・・。
 この日の私のアドバイスから、そのいくつかをご紹介してみますね。

*猫は自分の匂いのするところがトイレだと思いますので、粗相をした場所は速やかにふき取り、匂いは完璧に消し去りましょう。

*何となくそわそわし始めて、今かなと思う時を逃さず、そっと抱きかかえてトイレに入れましょう。飛び出しても決して叱らず、何度でも入れ直すのが大事です。

*トイレには猫の臭気が残っていて構いませんが、でも基本的にさらっと綺麗な状態を猫は好みますので、糞尿など取り去り、砂は頻繁に取り換えて、常に乾いた砂の状態にしておきます。

*食事の後、必ずトイレに連れてゆくようにすると、規則的に用を足すようになります。

*万一粗相をしても、決して怒ってはいけません。排泄することを悪いことと思うようになって、隠れて用を足すようになってしまいます。

*留守をするときには、布団の上など、粗相をしそうな所にツルツルのビニールシートなどをかけておきます。猫は尿が染み通っていかないところは気持ち悪く感じて避けるからです。
これは殊の外、効果がありますので是非お試しください。

*猫トイレできちんとできた時には、褒めまくってあげるとプライドを刺激され、また褒められたい意識が目覚めていつの間にか習慣化されてゆきます。

 その他、ノウハウの限りを皆様に伝授し、躾中は必ず誰かが見ていて茶々丸一人にしないようにとお話ししました。
茶々丸1

 皆の温かい愛情を一身に受けて幸せね。
 あとは早くトイレを覚えてね。
 最後に、茶々丸君と向き合って、よ~く言い聞かせて帰りました。
 2時間くらいお邪魔していたでしょうか。

 お姉さんも妹さんもとても温かく楽しい方で、Kさんはそんな方たちに囲まれてしっかりと自分の居場所を築いてこられたのだと、嬉しい気持ちになった帰り道でした。

 別の日、Kさんと妹さんが出演する都をどりも観に行きました。
 お二人のあでやかな舞い姿は息を呑むばかりで、しなやかでありながら揺らぎなく、たゆまぬ努力に裏付けられた、舞台に立つことへの凛とした決意のようなものが心地よく伝わってくる気がしました。

 昨日、彼女からのメールで、あれから二週間余りの間、粗相をしたのは、ただ一回だけだったとのご報告を受けました。
 良かった!良かった!
 ビニールシートが効果があったみたいです。

 いたずら子猫とのつかの間の祇園の休日でした。

   清水寺 成就院を訪ねる
 この数日後、清水寺成就院を訪ねました。
 詳しくは6月末に正式発表があってからお知らせしたいと思いますが、来年、清水寺をお借りしての、大掛かりなプロジェクトを企画していて、実は私もこのプロジェクトの一員に加わっているのです。
成就院への道1  成就院への道2
 仲間の方たちと共に会場になる清水寺の舞台、西門、そして塔頭の成就院を視察がてら、ご相談と折衝に伺ったのでした。

 この日、清水寺の責任者の方が丁寧に対応して下さり、プロジェクトの骨組みもよりクリアに開けてきて、来年への期待が広がってゆきます。
成就院
 連休の前後、外国人の観光客も多く、益々の賑わいで、「この時期の清水寺は、まあ渋谷のスクランブル交差点を思い浮かべて頂くのが適当かと・・・。」とユーモラスに表現されていましたが、なるほど、清水の舞台から下を見下ろしてみると、四方から人が押し寄せてくるような流れが目に入ります。

 そういう中で、ちょっとびっくりするイベントを計画しているので、慎重の上にも慎重を期して、じっくりと練り上げてゆくことを、「スクランブル交差点」という言葉で、示唆されたのかしらとも感じました。

 成就院は4月末から5月連休中は、「月の庭」と呼ばれる名園が特別公開されています。
成就院の庭園  案内
 写真撮影禁止なのですが、準備の必要もあり、この日は特に撮影を許可してくださいました。
端然として静謐な「月の庭」です。
成就院内部 そして、美しく整えられた大広間。

 それぞれの寺社にはそれぞれの、守り続けてきた深い歴史とそれへの矜持とが脈打っているのを感じます。
 外の喧騒から離れた穏やかな時間を満喫したひと時でした。

三年坂


帰路、久しぶりに歩く三年坂の風情は京都の5月に彩られていました。

 祇園と清水寺、東山で過ごした素敵な休日でした。






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GW忘備録1 片づけの魔法

 桜若葉もいつの間にか緑濃く、初夏の彩りに包まれています。

 GWは如何お過ごしでしたか。

 私は、今年は久しぶりに京都でゆっくりとしていました。
 ゆっくりと、というのは遠征せずに・・という意味で・・・。

   片づけの魔法
 何日か休みがあると、ついいつもの片づけの虫が、もそもそとうごめき。
新緑

 花粉も終息を迎え、ようやく大きく窓を開けることができ、しかも梅雨を迎える前の薫風、<今を逃して何時だというのか!>と、意気揚々と、大好きな趣味=「整理整頓・大掃除」に挑んだのでした。

 以前にも何回かブログで、片付けのノウハウや我流哲学など、色々なことを折に触れお話ししてきたかと思うのですが。


 「趣味・特技」と自負するくらいですので、さすがに人様には家の中や身の回り、書類に至るまでいつもすっきり片付いていると褒めて頂けるのですが、それでもいつの間にか、過ごしてきた時間の集積のように、モノは膨らんで行くものですね。
 
 最近の私の「片づけ衝動」には、大きく分けて二つあるようです。

 何かしなければならない課題を目前にした時、まず身を清めてから臨むというような一種の通過儀礼。
 子供が試験の前に突然机の中を整理し始める・・・、目の前に迫ってくる敵からの、ある種の逃避行動にも似ています。
 からめ手に回ってみたものの、ついにはもう為すこともなくなって、<いよいよ向かうしかない>。
 自分を追い込むような、そういう境地を受け入れるためのプロセスでもあり、向かうべき本命は、片付けではなく、別のところに在るわけです。

 そしてもう一つは、何かが一段落して、その余韻が去ってゆく時に、それを改めてじっと思い返して、それと決別するような感覚。 まさに、何処か然るべきところに<片をつけたい>という衝動といえるかもしれません。・・・何だか恋人との別れみたいですけれど。
 例えばコンサートが終わって、一通りぐたっとした後、ぼちぼちと意識が正常に戻ってくる時などに突如湧き起ってきます。
 終えてきた事柄を一つずつ確認していると、大切に残してゆきたいものと、捨ててゆくものとの領域が見えてきます。
 そのどちらにも意味があり、それを見つめながら、心の中のそれぞれの場所に落ち着かせ、次への出発、跳躍への弾みを探している気がしています。

 今回の片づけ衝動はどちらだったのか、「をみなごに花びらながれ」を反芻して、次を模索しようとする中で、両方の気持ちが混ざり合っていたかもしれません。

 片付けの究極は「断捨離」、「捨てることに在り」と言われますね。
 整理整頓することで、本当に必要なものを見出して、モノや事柄を、より効率的に、魅力的に活用してゆくことが好ましいのでしょうから、エイヤア!というきっぱりとした思い切りをどこで持つかが肝心ということになるのかもしれません。

 けれど、それはなかなか難しいですよね。
 <たかがモノ、されどモノ>
 過去や未来と繋がるモノの存在は、それぞれに、切り捨てられない意味を持つことも事実でしょう。
 むしろ、重荷や余分と思われるものであっても、敢えてそれを背負ってこそが、人生の本当の面白さだということも、また言えるかもしれません。

 基本的には
 「人やモノに拘泥せずに、いつも軽やかにすっきりと!」
 「必要なものを慈しみ生かしつつ、心豊かに共存していたい」
 というのが信条ではあるのですが、一方では、生きることは、無形、有形を問わず、いつの間にか堆積されてゆくあらゆるものを引き受け、付き合うことであるという気さえしてきます。
 
 「整理整頓の極意」私論
 一番厄介なのは、想い出に関わるモノたち。
 捨てたくても捨てられないものを苦笑いしながら抱えてゆくのも人間らしくて自然なのかなとも思いつつ。

 それでも、これまで、とても大事に感じていたものが、ある時ふっとふっ切れたり、また自分の気持ちを敢えて変えたくなったりして、一掃しようと思うことがあります。
 そんな時が「捨てどき」、「手放しどき」なのでしょうね。
 無理しないで、そんな時を待てばよいのではと思っています。
 そして、これはモノだけではなくて、心の傷とか、執着している問題など、心の持ち方にも当てはまる気もしてくるのです。
 
 片付けをしながら、そんなことにふと思いを巡らせたこの数日でした。

 全ては、奥深くしまい込み過ぎると、根を生やして身動きがつかなくなりますので、時々埃を払い、陽の光を当てて、自分にとっての今の意味を確認してみる・・・・私の「片付けタイム」はそんな時間でもあります。

 
 最後に、数年前に大きな話題になったこんな本、『人生がときめく片付けの魔法』(近藤麻理恵著)をご紹介してみます。
片付けの魔法

 現在もベストセラーを更新していて、2015年には、著者の近藤さんは米国TIMEが選ぶ「世界で最も影響力のある100人」に選ばれています。

 前に、この本を一度ブログでご紹介したことがありましたので、その時の文章をもう一度記してみますね。

 
 「まずは、収納しないで「捨てる」という作業を一気に短期に完璧に片付けること、これをすれば絶対に元の散らかった状態には戻らない」と筆者は述べています。
 では何を、どう捨てるかが問題になるわけですが、「理想の暮らしを考えながら、目の前にあるモノに今、ときめきを感じるか否かで判断する事」が大切であり、モノを貯め込んでしまうのは、「過去にたいする執着」か「未来に対する不安」があるからであり、それをふっ切ることが「モノがなくても何とかなる」という自分に対する自信の獲得につながるのだと、なかなか哲学的に展開して行きます。
 完璧な片付けを一度でも体験すると、人生がときめくような感覚を覚え、そしてその後に、自分が本当に求めていたモノや目標までもが見えてくる・・・人生が魔法にかかったかのようにドラマチックに変化してゆくのを実感する・・それを筆者は「片付けの魔法」と称しています。

 興味深いですね。
 でも、実際には、一つ一つのモノを前にして、「ときめく」か「ときめかない」か、瞬時に判断し、「捨てる」という行動につなげてゆくことは、敏感な感性と毅然とした決断力を必要とすることで、それなりの修練も必要かもしれません。




 今回の最大の収穫はMDの整理に着手できたことでした。
 これまでMDに収録してきた音楽資料が膨大なのですが、これをセレクトしながらデータ化するという作業を始めました。
 いつの間にか、MDというものはすべて、市場から駆逐されてしまいましたので、手持ちの機械が健在なうちに何としてもデータ化する急務があるのです。
 さすがにこれは1~2日でできるものではないので、これから、日々粛々と頑張ってみようと思っています。
 けれど、棚上げしていたこの課題に着手したおかげで、既に、これはという曲をかなり発掘することができました。
 新たな訳詞作りが楽しみです。

 かくして、片づけと入念な大掃除を終え、束の間、爽快感を味わっているのですが、GWはそれだけに関わっていたわけでもなく、千客万来の日々でもあり、忘備録はまだ続きます。

 今日はここで一段落。次回は早々にUPしますので、どうぞお楽しみに!



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2017年 今年も素敵な年になりますように

 新年、明けましておめでとうございます。
 今年も健康で幸せな一年となりますように。

 皆様に楽しんで頂ける素敵なステージを目指し、更に精進して参りたいと思います。
 そして、魅力的な音楽を発掘し、心に沁み入る詩をもっともっと生み出してゆきたいです。
 どうぞ本年もよろしくお願い申し上げます。

      2017年賀状

 今日は穏やかで暖かい元旦となりましたね。
 でも、今回、年賀状作りに着手したのは早く、11月の終わり、ちょうど寒波が到来して、急に冬の訪れを感じたそんな頃でした。
 
 大きな暖炉に、炎が赤々と燃えていて欲しい。

 家中をポカポカにして、服装は薄着、絨毯に座り込んで好きな本に読みふける至福の時間がテーマです。
 足元に焼き立てのクッキーを置き、そして飲んでいるのはココア。
 薪ストーブでマシュマロを焼き焦がして、それを熱いココアに入れて、マシュマロがシュワーと溶けてゆくのを啜る、そんな冬の美味しさを、フランス人の友人から教わったことがあります。

 「何かに夢中になると、寝食を忘れるくらいに集中し過ぎてしまう、そこが貴女の良いところでもあり最大の欠点でもある」 ・・・と何人かの親しい友達は私のことを異口同音に言います。

 目的に向かって力を注ぐというのはそういうことではないかとは思うのですが、でも確かにいつも一直線では、自分も周囲も疲れてしまいますので、何割かの余力を残しつつ、肩の力を抜いて、何でも楽しむ自由さは必要なことですね。

 この絵の女の子のように、リラックスした時間を大切にする<緩急の妙>を今年は体得したいと思っています。
 
 私みたいな性格の方は、今年は、ご一緒にココアでもいかがでしょうか。

 
 <どんなにささやかでも、どんなに心が揺らいでも、どんなに痛みが突き刺さっても、一回きりの時間を自分らしく、歩みを止めないで喜びを持って歩んで行きたい >
 
 いつも元旦の朝、思いを新たにするこんな言葉を今朝も噛みしめてみました。



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『夕鶴』雑感

   『クリスマスの贈り物』、明後日に迫ってきました
 ご報告が遅くなりましたが、11月25日の堀内環さんとのジョイントライヴ、お陰様で無事終わりました。

 いつもの『松峰綾音訳詞コンサート』は、ソロライヴですので、常に20曲前後を一人で歌い続けることになります。
 初めから終わりまでの集中力やテンション、声量、スタミナの配分など、ゴールまで完走することを見据えて、上手にコントロールすることが要求されるのですが、ジョイントの場合は、共演者に自分の世界を受け渡しながら、全体として一つのステージを作り上げてゆく妙があることを今回改めて感じました。
 言うならば、チームプレイの持つ面白さでしょうか。

 大ベテランの堀内環さんの、歌はもちろんですが、ソフトで明るい話術や、間合いの取り方、パフォーマンスなど、同じステージに立ち、肌で感じ、学ぶところが多く、とても意義深く楽しいライヴでした。


 そして、あっという間に二週間が経ち、明後日12月10日は、いよいよ『新しいシャンソンと朗読の夕べ』Vol.1『クリスマスの贈り物』の本番です。

 ちょっと風邪を引きそうな嫌な気配を、気のせいだと振り払いつつ、日々、忙しく飛び回って準備を進めてきました。

 今回は、いつもと一味違った新たな試みもたくさん取り入れてみましたので、どうぞご期待なさって下さいね。
 お席のほうは、まだ少しならご用意できますので、早めにご連絡頂ければと思います。


   『夕鶴』雑感
 『クリスマスの贈り物』では、朗読にも挑戦しますので、夏前から、色々な朗読会・独り芝居など、参考のために積極的に聴きに行っています。

 様々な公演に通ってみましたが、共通した決まった形があるわけではなく、それぞれの演者が独自なやり方で工夫を凝らし、朗読の方法も読む対象も、千差万別なのです。

 文章を読む場合には、その理解度は、読者自身の言葉に対するセンスや感性、知性などに全て委ねられるわけですが、朗読を聴く場合には、朗読者自身の色合いに左右されてくるということでしょうか。

 朗読者の肉声と、言葉を感受する素質、更には、その人の人柄や生き様までもが、媒体となって伝わってくるのでしょう。

癒しの朗読会ちらし
 数日前に、『巴里野郎』で朗読会がありました。
 長くアナウンサーをしていらした丸尾ともよさんの4回目、そしてファイナルの朗読会でした。
 私が聴かせて頂いたのは、この日の3回目のステージで、演目の後半に『夕鶴』を取り上げていらっしゃいました。

 「つう」が丸尾さん、「よひょう」がもう一人の演者の湯口和明さん、という二人読みに挑戦なさり、更にソプラノ歌手の方も加わって、ところどころにオペラ『夕鶴』を挟みながらの、聴きごたえのある素敵なステージでした。

 『夕鶴』は元々、戯曲として書かれた文学作品ですので、舞台で名優たちが演じてきた、そのような演劇的な力も要求され、なかなかハードルの高い演目だったのではと思います。

 淡々と抑制して読んでゆく手法、劇的に演じるように読む手法、素材によって読み方も全て変わってゆくわけで、朗読の奥深さや難しさを改めて思いました。

 でも、この日、朗読を聴きながら、一番印象的だったのは、『夕鶴』という作品の私自身の捉え方が、以前読んだ時と大きく異なっていると気づいたことでした。

 端的に言うと、昔は「つう」に感情移入し、共感していたのが、今回は「よひょう」の側により強く感じるものがあったことです。
夕鶴 山本安英
 学生の頃は、「つう」の無欲で穢れない純粋さが踏みにじられてゆく、その悲しさや不条理に憤りを覚えていました。
 「よひょう」が、なぜ、質素でも穏やかな自然の中の生活に満足せず、都の華やかさに憧れるのか、際限のない金銭欲に飲み込まれてしまったのか、「機織り部屋を覗かないでほしい」というただ一つの願いも守れなかったのか、「よひょう」に喜んでもらうことだけを願って、自分の身を削った「つう」の愛情がことごとく裏切られてゆく悲しさに寄り添う気持ちでした。

 でも、今回は、むしろ、次々と膨らんでいく欲望を抑えられない「よひょう」の弱さや、そのために愛する人を傷つけ、それにも気づけないでいることの愚かさ、果ては、止められない好奇心が、取り返しのつかない過ちを誘発すること、・・・・人として持つ悲しい宿命のようなものに、どうしようもない切なさを感じてしまいました。

 今の私にとって、この物語の主人公は、「つう」というよりも「よひょう」であるようです。

 「つう」は、人の心を確かめに来た遠い世界の人で、『蜘蛛の糸』のお釈迦様の寂しい眼を、去ってゆく鶴の、最後の描写に感じました。

 同じ文章でも、やはりそれに触れる時の年齢や状況、心境によって、大いに違ってくるものですね。

 歌もまた同様なのかもしれません。


 明後日、どんな心境で、どんな風に歌うことになるのか、その場になってみないと本当にはわからず、そういうことって緊張もしますが、でも、とても楽しみでもあるのです。



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『あなたがだいすき』

 この週末、京都は、紅葉の最盛期。
 晩秋から初冬へと移ってゆく乾いた冷気の中に落ち葉の香りが漂い、風に流れています。
東大路通りの街路樹
 京都の街路樹は、植木職人が年に2回剪定して、美しい紅葉を見せてくれているそうです

 歩道に溜まっている落ち葉を踏みしめて歩きたくなるような季節、シャンソンの少しアンニュイな調べがしっくりと似合うかもしれませんね。

 
   『あなたがだいすき』
 既にご案内致しました通り、12月10日に京都「巴里野郎」で、『新しいシャンソンと朗読の夕べ』シリーズ、第一回目を開催することになりました。
 テーマは「クリスマスの贈り物」。

 かなり前から、『クリスマス』と『贈り物』のイメージを素敵に伝えることの出来る、それに相応しい物語や文章を選びたくて、候補になりそうな沢山の本を集中して読みふけっていました。例の如く、機織り部屋に籠り、寝食を忘れ・・・。
 そして何冊かの素敵な本に出会うことが出来ました。
 コンサートの日が今から楽しみでならないのですが、でも、これについては当日までお話しするのは禁物ですね。

でも・・・そういいながら、一冊だけご紹介してみます。
あなたが大好き

 『あなたがだいすき』(鈴木まもる 作・絵)という絵本に出会いました。

 お母さんが、幼い我が子に語り聞かせてあげるのにぴったりな、ひらがな書きの、とてもシンプルな絵本です。

   わたしは あなたが 
   だいすきです


 という言葉から始まります。

 全部話したくなってしまいそうなので、WEBの解説にあったこんな文章をご紹介することに致します。
 
 目の前にだいすきなひとがいるしあわせ。抱きしめあえるしあわせ。
 日頃ついわすれてしまうしあわせを、この絵本で思い出してくださいね。
 そして……あなたの大事なひとりひとりをだきしめて、包んでほおずりして、応援してあげられますように。
 「あなたがいるだけでうれしい」「あなたがだいすき」って。

                    (大和田佳世氏 記)

 この絵本は、母親の我が子への思いだけにとどまらず、大事な人への、愛を込めた言葉のプレゼントとして受け止めることが出来ると思いました。
 私の『クリスマスの贈り物』として、お届けできたらと思っています。

 そして。
 この絵本を読みながら、実は、祖母のことと、そして先頃、お二人の方から伺ったおばあさまのお話を思い出しました。


   「おばあちゃん」の思い出 ~三題~
  <祖母のこと>
 幼い頃からおばあちゃん子だった私、その大好きだった祖母の命日がまたやってきました。
鶴岡八幡宮の大イチョウ
 他界して、いつの間にか長い年月が経ちましたが、祖母の葬儀の日、晴れ渡った高い空に銀杏の大木が鮮やかに黄葉していたのを今でも思い出します。
 私には11月は、どこかそういう、しめやかさを持った季節。

 幼い頃、体が弱く、自分に自信が持てなくて不安感が強かった私を、祖母はいつも丸ごと受け止めて認めてくれていた気がします。

   心配しなくて大丈夫。
   いいの いいの そのままで大丈夫。
   自分のままで大丈夫。


 という言葉を祖母は折に触れて言ってくれて、その時の優しい響きは、今も私の中の深いところに生き続けているのです。

 <ぬくもり>
 S氏のお話。
 S氏のご両親は彼が赤ちゃんの頃から、忙しく外でお仕事をしていらしてため、ずっと「ばあやさん」に育てられたのだそうです。
 「ばあやさん」といっても寝食を共にしていて、彼には本当の「おばあちゃん」以上の存在だったとか、愛情深い方だったことが、その思い出話からも汲み取ることが出来ました。
 まだ幼児で人恋しい時も、いつも「おばあちゃん」が添い寝をしてくれて、肌の温もりを感じながら安心して眠りについて、「そういう安らぎが、自分の母性の記憶なのだ」と、懐かしそうにおっしゃった言葉が心に残っています。

 <赤い鼻のおじさん>
 A氏のお話。
 子供の頃の思い出。
 離れて暮らしていた「おばあちゃん」の家に遊びに行くと、彼の大好物の、すき焼きをいつも振る舞って下さったのだそうです。
 まだ、戦後からそんなに経過していない貧しい時代の中で、「生活にも不自由していたかもしれない当時の、精一杯の心尽くしだったのだと思う」と、静かに話してくださいました。

 その時、「おばあちゃん」の家には赤ら顔で、鼻の赤い、知らないおじさんがいつも訪ねてきて、今思うと、その人は古道具屋さんだったのだ。
 おばあちゃんは、家にある道具を売って、たまに訪れる可愛い孫が喜ぶ一番のご馳走を調達していてくれていたのだ・・・・
 祖母を思う時、あの赤い鼻のおじさんのことを思い出す・・・



 『あなたがだいすき』というこの絵本の最後の行は、次のように結ばれています。

   あなたが いるだけで
   とっても とっても 
   とっても うれしい



 二日後、25日金曜日は、堀内環さんとのライヴです。
 まずは、皆様が楽しんで、優しい気持ちになってくださるような良い時間を目指してベストを尽くしたいと思います。

 お時間のおありの方はどうぞお越しくださいね。



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