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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

新幹線チケット窓口にて

 薫風吹き抜ける五月を楽しんでいるうちに、いつの間にか梅雨が近づく気配を感じる頃となりました。
 せっかくの桜と青葉の4月、5月を、私は重度の花粉と黄砂アレルギーに呻いておりました。が、ようやく復活です。
 来年6月に開催予定の「月の庭」コンサートの前、12月に少し趣向を変えて、朗読中心のコンサートも開催しようかと目論み始めました。
 また、詳細は改めてお知らせしたいと思います。

 さて、活動再開し、先日、京都から東京に向かう朝、新幹線のチケット売り場の窓口でちょっと面白い光景に出くわしました。

   横並び席
 朝7時なので、まだ空いているのではと思いつつ、予約チケットの受け取りに新幹線の窓口へと向かいました。
 予想外の長蛇の列に、まずびっくりです。
 コロナの規制が解かれてから、京都は観光客も急増し、どこも人で溢れ返っているのですが、早朝から通路にはみ出るほどの行列に本当に驚きました。
 半数以上が外国人の方たちで、海外からの観光客が戻ってきていると言われることも改めて納得。
 一方、朝のためか、四か所ある窓口のうち、まだ二か所しか開いておらず、皆、辛抱強く、次に進むのを待っていました。
 一方はベテランぽい女性の係員、もう一方はまだ入りたてのような青年の係員で、二人とも一生懸命応対していました。

 ふと気が付くと、青年の係員の窓口には、初老の外国人の女性がいつまでも立ったまま、全く動かないのです。
 少し肌が浅黒いエキゾチックな顔立ちの方でしたが、何しろ声が大きいので、何人か後ろに並んでいた私にも話の内容が全て聞こえてきました。
 品川まで二人で乗車するのだが、並び席の座席指定券を希望しているとのこと、号車と席まで指定するのですが、係員の青年は、希望の席はもちろんの事、どの車両ももうすでに満席に近く、並び席は指定の新幹線には全くないと説明していました。
 女性は日本語が全く分からないようでした。ただひたすら自分の希望を訴えています。それに対して係員の青年はあまり英語が得意ではなさそうで、発車ボードを指さしながら手振り身振りを交えて必死で説得にかかっていました。

 女性:「そんなはずはないでしょう?他の車両でも良いからもっとよく探して!」
 係員:「本当に一つもないのです。○○号車なら列は違いますが同じ車両で二席取れます」

 とついには紙に座席図まで描き出す始末。

 ようやく、この便では無理と理解したらしく、では「次の便ではどうか?しっかり探して。」とのオファー。
 青年は、それでも根気強く、
 「かしこまりました。少々お待ちください」と日本語で挨拶しながら、また1号車からすべての号車を検索。
 やはりだめだったらしく、丁重に謝りながら釈明をしていました。
 たぶん半分くらいしか女性は理解できないようで、自分が外国人だからきちんと探してくれないのではという不満を漏らし始めました。

 「少々お待ち下さい」と青年は席を立ち、持ってきたのはタブレットでした。
 日本語で呼びかけるとどの国の言語にも翻訳してくれるアプリが入っているようで、タブレットに向って悲痛な声を出し始めました。
 「お客様がご希望の、お二人でお並びになれるお席は、あいにく、この東海道新幹線○○号にはございません」
 タブレットは解読できなかったようで、再び、トライします。

 やはりだめなようで、彼の焦りは益々ひどくなってきます。
 「そんな丁寧な言葉では却って翻訳アプリには通じませんよ」と言ってあげたかったくらいです。
 段々言葉は省略され、「並び席は全くない」という最後の発声でアプリは反応したらしく、彼は沈黙したまま、その画像を女性に向って差し出しました。

 今度は、女性にも通じたようなのですが、でも更に食い下がり、「どの便でも良いから並び席が出てくるまで探して!」と訴えるのでした。

 青年は、他の便を素早く検索した後、今度は何と言われてもタブレットの文字を指で指し示すだけで、そのやり取りが何度となく続き・・・そうしているうちに、もう一つの窓口が空き、私の番がきて、何とか予約した列車に間に合いました。
 自分のチケット購入を済ませてふと横を見ると例の女性はようやく諦めたらしく、すごすごとその場を後にしていました。
どのように納得したのでしょうか。
 青年係員は何事もなかったように「ありがとうございました」とにこやかに声をかけていましたが、気が練れていて大したもの。朝から大変なお仕事なのですね。

 それにしても、なぜあの女性はそんなに並び席にこだわったのでしょうか。
 交渉すればいつか何とかなると信じて頑張ったのか、・・・日本人なら、係員がないと言えばないのだとそのまま受け入れますし、たった2時間位ですから、少し離れた席に座ったとしても仕方ないと簡単に諦めるのではと思います。
 そして何よりも、自分一人が、二つしかない窓口の一つを長時間占領して、そのために長い列を作って皆を待たせているという事は、大変憚られて、普通は妥協するのではと。

   列に並ぶということ
 「日本人は何かにつけて長蛇の列に平気で並ぶが、それはなぜか」というような質問を半ば揶揄を込めて外国から指摘されることがよくあります。
 確かに日本では「行列の出来る店」は美味しい店の代名詞のように言われますし、これは外国ではあまりない感覚かもしれません。

 でも反対に外国では、ホテルのチェックアウトなどの場で、明細書の詳細な説明を延々と求めたりする結果、やはりフロントに長蛇の列を作る情景など目にします。当然の自己主張が最優先されるべきというような思想があるのかもしれないと感じたことが再三ありました。

 「外国」という言葉でひとくくりにはできませんし、人によって皆違うことも言うまでもありませんが、お国柄によって文化や感性の違いがあることを目の当たりにしたようで、興味深く感じたこの日の朝でした。



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2023年、佳き一年となりますように

新年明けましておめでとうございます。
 
 2023元旦
元旦の朝空、紫の雲が立ち、オレンジの光に包み込まれ、心を取られるような気がしてしばらく眺めていました。
 今年も穏やかな元旦の朝を迎えられたことをとても幸せに思います。

 一年の過ぎるのは早いですが、でも留まることなく様々な出来事が日々起こり、少しずつ、あるいはある時は急展開し、人は変わってゆきます。
全ての人に全てのドラマがあって、それぞれが流れ動きながら、同じ時間同じ時代を生きている。
そういう当たり前の事が、実感として感じられるようになって、これが歳を重ねるということなのかしらとしみじみ思うこの頃です。
子供の頃とは時間の経ち方が明らかに違いますし、変わってゆくことの意味も幼い頃はもっとシンプルだった気がします。

月並みな言葉ですが、人は、次の瞬間が保証されているわけではない今この時だけの一期一会の中で生かされている、だからこそ、今を意識し慈しみながら生きることが大切なのでしょう。

この一年、皆様にとって何が待っているのでしょう。
どんな年になるのでしょう。
希望に満ちて歩みを進めていくことのできる年となりますように。
世界の平和と安寧がどうか訪れますように。
そして、そう願うことをいつも忘れないで過ごせますように。

 2023年
「逆境を好転できるしなやかな力を体得したい。まずは心身の健康あってこそ」といういつもの言葉を自分自身への戒めとしたいと思います。

2023年賀状
今年はこんな年賀状です。
 ファッション誌の装幀などで活躍していらっしゃるEllejourさんというイラストレーターの方が昨年夏書いて下さった私のイラストです。
服装などはこの通りなのですが、あまりにもすらりとしたプロポーションに大変身で、何だかとても恐縮してしまいました。そして大いなるプレッシャーも現在感じております!
4月のコンサートのご案内も載せました。
よろしかったら皆様も是非お越しくださいね。もうすでにチケットのお申込み受け付けています。
新春から4月に向けて本格的に準備を進めたいと思います。

皆様、本年もどうぞよろしくお願い申しあげます。



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ベーコン蜂との遭遇

   木々の光、音
 今年は6月下旬から各地とも異常な猛暑でしたね。
 いっときの京都は、体感温度が40℃を超えるのではと思うほどで、その中で引っ越し荷物の片付けなどしていたら、まさにダウン寸前でした。
 ようやく落ち着き、いつも夏になると訪れる浅間山麓に逃れるようにやってきたのですが、朝晩は羽織り物が必要なほどの涼しさで、今、つかの間の休息を味わっています。
 
 ここでの贅沢は、「何もないこと・何もしないこと」かなって思います。ただ、木々を渡る風の音に耳を澄まし、木漏れ日を浴び。
 ・・・葉擦れの音しかない世界で、静寂が満ちてくるのを感じ、木漏れ日の陰影に心身の再生を感じます。
 もちろん、自然は常に穏やかなわけではなく、叩きつける豪雨だったり、地響きがするような雷鳴だったり、圧倒的な脅威で恫喝されているような気がすることもありますが、それも含めて、人は自然に包まれて生かされていることを実感することはとても大切なことなのでしょう。

 この夏は東京からの友人とこの地で合流しました。
 早朝の散策、語り合い、笑い合い、静けさを満喫し、素朴な地元の食材を堪能し、命の洗濯ってこういうことのように感じています。

   ベーコン蜂との遭遇
 上機嫌で、ゆっくりと朝の食事。
 野菜も果物も卵も牛乳も採りたて新鮮で、何気ないサラダも飛び切り美味しくありがたいなあとしみじみ感じます。
ベランダの食卓にたくさん並べてさあ!と思った時でした。

 耳元で怪しげな羽音がブンブン。
 甘い香りを嗅ぎつけて蜂が一匹テーブルの周りを旋回し始めました。
 あちらが先住者だから静かにやり過ごすことが懸命だと日ごろから有事に備えて覚悟していましたし、蜂はむやみに追い払うと敵対して襲ってくる、何もしないでじっと動かないでいれば決して向かってこないと、聞いていましたので、友人と共に身を固くしてじっと様子を見ていました。
 最初は遠巻きに円を描きながら、ターゲットを物色するように飛び回り、そのうちに段々とその円を狭めて、標的を特定してゆくようでした。
 羽音は耳元で大きくなってきて、わかっていても身をすくめたり、手で追い払いたくなります。
 友人は既に覚悟を決めたらしく、なかなか太っ腹で、「おはよう蜂さん。ゆっくり食事をしたいから気が済んだら早く向こうに行ってね」とかなんとか語りかけていました。
 ヨーグルトや果物やジャムや甘い香りのするものがいっぱいあったのですが、それらには目もくれず、ポテトサラダのお皿の縁に居場所を見つけたようでじっと留まりました。
 それから何度か飛び回ってはお皿に戻り・・・やがてポテトサラダのトッピングに散らしたベーコンの上に降り立ったまま触角を立て、クンクンと匂いを嗅ぎだし、びくとも動こうとはしません。
 ベーコンは細かく刻んで乾煎りしたもので、強いスモークの香りが際立っていました。
 蜂は「これだ!!」というような嬉々とした様子でポテトの中から夢中でベーコンを掘り出そうとしています。
 すぐそばに私たち人間がいるのに、もう全く目に入っていないようで、この作業に全精力を注いでいます。

 ベーコンはポテトの中に食い込んでいて、蜂の体で引き上げるにはなかなか骨が折れるようです。
 口にくわえたまま体を丸め、身体全体を使って持ち上げようと必死で格闘しています。とても人間的な様子に私には見えました。
 まるで、汗をかきながら一人綱引きしているようです。
 何度も何度もあきらめず引き抜こうとし、ようやくスポっとベーコンが離れた時には、その勢いで、蜂はポテトの上に転げました。
 でも満足そうに勝ち誇ったように、口にくわえてテーブルの周りを一周してどこかに飛んでいきました。
 私も友人も怖さを忘れ、なんだか変な感動を覚えた気がします。
 大きく一息ついて、今の光景についてちょっと興奮しながら話し合いました。
 ポテトサラダはどうしようかということになりましたが、蜂がつついたからと言って各段毒があるわけでもないでしょうから、大丈夫なのでは、いう結論となり、何事もなかったように美味しく食べ始めました。

 一件落着と思いきや、ベーコンの油を吸ってパワーアップしたかのように意気揚々とさっきの蜂がまた戻ってきました。
 今度は迷うことなくポテトのお皿に直行し、またベーコンの上に降り立ちました。
 で、さっきと同様な作業を繰り返し・・・。
 巣に食料を運んでいる働きバチなのでしょうか。
 見かけはそんなに大きくなくミツバチのような形状をしているのですが。
 普通の蜂は花の蜜や甘い果物などを好むのではないかと思っていましたので、ベーコンだけを狙うこの蜂は肉食系、だとするとスズメバチなのでしょうか。
 スズメバチだったら、「蜂さ~ん」などと言っている場合でもなく、これは危ないかもと考え始めましたが、でもとりあえずは私も彼女も食事の手を止めて再び微動だにしないで蜂の観察を再開しました。

 コツをつかんだようで、先ほどよりは短時間で上手にベーコンを略奪し、勝ち誇ったようにお腹のあたりに抱え込んでまたぐるぐるとどこかへ飛んでいきました。とんびやサギや鷲が魚を掴んで飛び立つような雄姿です。
 「また蜂に食べられる前に、ベーコンを全部食べてしまおう」との彼女の提案。
 ポテトの奥の方に数枚だけベーコンを残して、私たちは蜂と知恵比べをする態勢に入っていたようです。
 予想通り、今度はすぐに三度目の登場。
 ポテトもベーコンも随分減っていることに不信を持ったかのようにしばらくじっと考え込んでいましたが、やおら実力行使で、ポテトの中に隠されたわずかなベーコンとの大格闘が始まりました。
 今思うとカメラを傍に置いておかなかったことが痛恨の極みです。
 写真か動画でお見せ出来たらどんなにか興味深かったのに・・・。
 こんな時は、次のチャンスに備えてカメラを取りに行こうということには頭が働かず、まず食べてしまおうという気が先にたち、申し訳ありませんでした。

 本当にスズメバチかもしれず、ベーコンのある場所と学習され、仲間を引き連れてやってこられても大変なので、そのあとは、お皿はすべて屋内に撤収し、安全地帯で食事を再開しました。

 これがベーコン蜂の顛末記です。
 ちょうど私の誕生日の8月21日のことでした。
 あの蜂は、この日一日は所在なく時々飛んできていましたがやがて姿を見なくなりました。
 ファーブルの気持ちがほんの少しだけわかったような気がした出来事でした。



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宴の名残

 暑中お見舞い申し上げます。
 連日の猛暑、降ると豪雨だったりと、気象異変が加速していますね。
 コロナ第7波もいよいよ広がりを見せていますし、国際情勢も平和から遠のいてゆくばかり。不快な出来事や事件は頻出して、諸々、心痛む昨今ですが、でも、そんな中でも季節は廻り、眩しい太陽は真夏の華やぎと力を注いでいるかのようです。

 不機嫌な時代の中で、その根源を正確に受け止めつつも、いかに吞み込まれることなく上機嫌を保つかということが、難しいけれど、私たちに示された最大の課題であり、それこそが人としての真の品格・智慧なのだと言えるのかもしれません。

 パソコンの不具合が続いて、悪戦苦闘しているうちに前回の記事から一か月が経ってしまいました。・・・・という言い訳をしながら、今日は、いくつかの宴の後を辿ってみたいと思います。

   Amical AYANE発足会のご報告
 「Amical AYANE(綾音 友の会)」は今から3年前に発足しました。
 ちょうどコロナがはやり始めた頃だったのですが、「音楽活動が大きく制限される時だからこそ、負けずに歩みを止めないで」と、有志の皆様から温かい後押しを頂いて、この素敵な会が誕生したのでした。
 発足式は、コロナの拡大で毎年延期となり、ようやくこの度実現となったのです。
 遡ること、7月3日。
 会場は事務局の置かれている東福寺塔頭。
 前日前々日の京都は40℃に届こうという脅威的な暑さと湿度で、万が一にもどなたかが熱中症になられたりしたらととても心配でした。
 ところが、折からの低気圧と台風の接近で、当日は30℃を切る涼しさへと急変。
 超晴れ女の私としては、これまでのコンサートやイベントで一度も雨が降ったことがないというギネス記録がついに途切れることになりましたが、でも、嬉しい誤算です。
会が始まる頃は雨も小やみとなっていました。
 「晴れ女」から「お天気を自在に操る女」に昇格ですねと、口々に言って頂き、すっかりその気に。
 
 20名の皆様が東福寺塔頭 即宗院にご参集くださいました。
即宗院 丹精された清廉な庭園にまず心を奪われました。木々、花々、苔の緑が雨に洗われて一層瑞々しく輝いていて、別世界に誘われるよう。いらした皆様も席に腰かけるのも忘れて一面の硝子戸の外を見入っていらっしゃいます。森林浴とは、こういう自然がもたらす解放感と酩酊感を言うのでしょう。

 第一部「発会式」が正午にスタートしました。
 事務局長の軽妙で心に響くご挨拶に続いて、Amical AYANEと名付けて下さった恩師から命名の由来などをお話しいただきました。

 そして、私から。
 心からの謝意を皆様に述べた後、ミニコンサートとして一編の朗読とシャンソンを三曲ご披露しました。

 最初の曲は『雨だれ』
 ショパンのピアノ曲ですが、美しいメロディーですので、言葉を付けて歌ってみたいと思い、以前に自分で作詞した曲です。実は全編20分ほどの長い詞になったのですが、時間の関係で、触りの部分だけの短いご披露となりました。
 縁先越しに見える雨に濡れた深緑が、歌の想いと重なりました。
 仏様に見守られる静謐な本堂に響く生の声を、いつもとはまた一味違う一体感・臨場感として受け止めていただけたようでした。

 第二部は離れでの「親睦会」。
 親睦会に先立ってのご挨拶は東京からのお客様。秋に関東支部発足会を開催することも決まっています。関西と関東を結ぶ輪が少しずつ広がってゆくようでとても嬉しかったです。
 鉄鉢料理
 鉄鉢料理と称せられる精進料理をご用意して下さいました。たくさんの大小の漆塗りの鉢に美しく盛り付けられたお料理はとても美味しくて、僧侶が托鉢の時に携えていた食器を形どっているのだそうです。さらに、いただき終わると、まるでロシアのお人形のマトリョーシカのように全部重ねて一鉢に収まるようになっています。
 お食事に舌つづみを打ちながら、ご参加の皆様それぞれの自己紹介。和やかで、いつの間にか同席した者同士が自然に旧知の仲になったような親密感が生まれました。

 20日余りが過ぎましたが、遠い日のような、つい昨日のような、・・・時間は、まばたきのように流れてゆき、だからこそ、その時間に刻まれた「一期一会」はかけがえのない美しいものなのでしょう。
 懐かしい時間を思い返すときの余韻は、まさに「宴の名残」のしっとりとした陶酔と覚醒を伴うものと感じます。
 
 Amical AYANEへのご入会は随時受け付けています。とても温かく自由な会ですし、各種特典も満載しています。ご興味を持って下さる方はAA会事務局(aa.tomonokai@gmail.com)または松峰までご連絡下さい。

   引っ越し完了
 リフォームが完成し、仮住まいをしていた奈良から京都に再び戻ってきました。
 「あまり頑張らないで、涼しい秋になったらゆっくりと一箱ずつ荷ほどきをした方がよいですよ。」「言っても無駄かもしれないけど、体壊したら元も子もないんだから!」と友人達からの断定的かつ有難いアドバイスが沢山。

 本当にその通りなのです。
 でも。
 あまりにも高く家中に積み上げられたパンダの箱。
 埋もれたままでは、探し物三昧の日々になってしまうではないか・・・山があると一気に挑むという生来の悪癖がむらむらと沸き起こってきて。
 それに加えて、整理整頓、片付けは特技の域ですから、結局走り出してしまいました。
 今日でちょうど二週間ですが、寝食を忘れて没頭した結果、最後のパンダもめでたく解包し、今や我ながらスカッと整理された新居になっています。

 楽しい宴。
 施工の業者さんや設計士さんたちと綿密に検討した結果、住み心地よく生まれ変わった家をしみじみと眺めて悦に入っています。
 そしてもう一つの宴の名残は、覚悟の筋肉痛と腰痛の兆しですが、自業自得、黙って耐えるしかありません。

   京都 祇園祭
 京都に戻ってきた日は、ちょうど祇園祭の宵宵宵山。
 三年ぶりの祇園祭再開という事で、これまで以上に街は活気に満ちていて、観光客の数も大変なものでした。
 我が家は、長刀鉾(なぎなたぼこ)の卑近距離にあり、祇園祭フリークにはおそらく垂涎の立地なのでしょうけれど、一歩外に出ると、人込みに巻かれて歩くこともままならないほどなのです。
 夕方になる前に大急ぎで引っ越しの荷下ろしを終了して、外のお囃子や解説の声なども耳を澄ませば聴こえてくるというのに、テレビでの鑑賞。

 今年の祇園祭は後祭りも含めて無事終わりましたが、今年こそはと満を持して準備に臨まれた各方面の皆様にとって、宴の名残はいかばかりでしょうか。

 テレビを見ながら今年特別心に入ってきたのは、山鉾巡行の日の「剛力(ごうりき)さん」と「稚児介添え役さん」の表情でした。
 「剛力さん」は、重い衣装に身を包んだお稚児さんを片方の肩に乗せ抱きかかえ、高い鉾に掛けられた梯子を一段一段上り、途中で一回転して観衆に向かって挨拶し、やがて鉾で迎える介添え役に引き継ぎます。
 「介添え役」は身を乗り出してしめ縄を切る稚児を後ろでしっかりと支えて所作をさりげなく導きます。両者とも、儀式を滞りなく成功させる影の立役者、まさに祭りのクロコさんなのです。
 直接見物している時は、人込みの中ですので、稚児の動きがかろうじて確認できるだけなのですが、テレビの映像ですので、「剛力さん」「介添えさん」の、神経を張り詰めて稚児を全身で守るすべての表情を詳細に観ることができました。
無事役割と儀式を終えたのを見極めた瞬間のお二人それぞれの何とも感慨深く喜びに満ちた眼差しがとても感激的でした。

 この日の宴の名残は、美酒と共に、どんなにか美しいものだったのではと思うのです。


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石刻の歳月 ~当尾と當麻(二)

   當麻(たいま) 二上山と中将姫(ちゅうじょうひめ)の伝説
 前回の記事石刻の歳月 ~当尾と當麻(一)の続きで、今日は當麻をご紹介しようと思います。
二上山
 當麻(たいま)は万葉の昔から神聖化されてきた二上山(ふたがみやま)の山麓の里です。

中将姫が織り上げたという曼荼羅図を本尊とする當麻寺(推古天皇20年(612)建立)と、同じく中将姫ゆかりの石光寺(白鳳時代の弥勒石仏が発掘されたことでも話題になった)を訪ねてみました。
中将姫
 藤原豊成(藤原不比等の孫)の姫君であると伝えられている中将姫ですが、その存在については今も謎に包まれています。
 その生い立ちや半生が詳細に語り伝えられているというものの、そもそも彼女は本当に実在したのか、これに似た境遇の人物がいて、その女性を中将姫として昇華し伝説化したのか、あるいは信仰の理想の姿として古人が作り上げた全くのフィクションだったのか、諸説入り乱れる中で、実際には存在しなかった「伝説上の姫君」だったのではというのが現在の定説のようです。

 容姿端麗、頭脳明晰で人格も崇高、誰からも敬愛される類まれな女性であったがゆえに継母から疎まれ、命まで脅かされる憂き目にあって、それでも慈愛深く、やがて尼として仏門に入り信仰を極めてゆく、そんな劇的な物語が、能、歌舞伎、浄瑠璃などにも脚色され、中将姫の名は時代を超え人々に広く知られ愛されてきました。日本人の判官びいきの資質が、義経伝説を作り上げたように、悲劇の姫君の出自は、理想の女性像・信仰の形を生み出していったのかもしれません。

 當麻の地では、あたかも実在した人物であるかのように、そこここに現在でも生きていることを感じました。
 「ここが、中将姫様が曼荼羅を織り上げる糸を染め上げた井戸」、「これがその糸を乾かした糸掛けの桜の木」というように・・・懐かしい人を偲ぶように語られていて、いにしえの平城京の風土、時間の向こうに呼び戻されるような一種の陶酔感を覚えた気がします。

 そして當麻の里を穏やかに囲む二上山は、皇位継承の争いに巻き込まれ若くして非業の死を遂げた大津皇子(おおつのみこ)が埋葬された地でもあり、姉の大来皇女(おおくのひめみこ)がその死を悼んで詠んだ、
 うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を 弟世(いろせ)とわが見む(『万葉集』巻2-165)
 の歌もよく知られています。

 當麻を訪れたいと思ったのは、実は久しぶりに釋超空(しゃくちょうくう)の小説『死者の書』(1939年)を手に取ったためでした。
 釋超空は民俗学の権威折口信夫(おりくちしのぶ)が、詩歌や小説などを執筆する時のペンネームなのですが、この小説の舞台となるのが當麻なのです。
 當麻の地と、當麻寺に伝わる當麻曼荼羅縁起や中将姫伝説に想を得て、死者である大津皇子が蘇り、姫に曼荼羅図を編ませ、それによっていにしえの魂の再生をみるという内容で、「幻想小説」などとも呼ばれている作品です。

 まずは「當麻寺」へと向かいました。
當麻寺1

 二上山を背にして東西2基の三重塔が立ち並ぶ伽藍配置が現存し、天平・白鳳様式をそのまま残しています。



當麻寺の僧坊「當麻寺 中の坊」に向かいました。
中の坊 誓いの石
 中将姫の一心に仏道を志す強い信念により、不思議にも石に足跡がついたとされる「中将姫誓いの石」

「中将姫さまが當麻曼荼羅に描いたほとけさまを描き写して頂きます」という写仏道場。
 そしてその天井には近現代の画家たちによる150枚にも及ぶ天井画が飾られていました。どれも色彩が優しく、極楽浄土の写し絵のようでした。
天井画 剃髪 
 中将姫剃髪堂も残されています。

 よく整えられた回遊式庭園。
中の坊庭園1 中の坊庭園4 中の坊庭園2

石塀に倒れかけた紅葉の木陰だけが苔むして美しく、静寂な時間が流れています。
塀の苔1 塀の苔2

釋
 帰り際、庭の一隅に釋超空の詠んだ和歌の碑を見つけました。中学生の頃、一年間、彼はこの當麻寺に寄宿していたとのこと、二十年前のその頃を懐かしく想うという歌ですが、『死者の書』の想も、この頃の思い出と繋がって生まれたのかもしれません。

石光寺

そしてすぐ近くの「石光寺(せっこうじ)」にも立ち寄りました。天智天皇の勅願で創建されたと伝わる古寺名刹です。




「糸掛け桜」「染の井」。
丁寧に保存されていて、やはり歴史の中で守り続けてきた中将姫への敬愛が感じられます。
中将姫3 中将姫2

石光寺の石仏の静かな佇まい。
地蔵様1 お地蔵様2

牡丹の庭
 「ぼたん寺」とも言われるほどの一面の牡丹が大木に育っていて、今は若葉が艶やかで見事でした。2000株という牡丹が一斉に花開く頃はどんなに華やかなことでしょう。
 中将姫を包みながら、平城京と牡丹の花々はとてもよく似合うと思いました。

   おまけのお話
 當麻寺 中の坊は、「陀羅尼助丸(だらにすけがん)」の発祥の地なのだそうです。
陀羅尼助丸というのは奈良で古くから伝わる皆が常備している漢方の胃腸薬。
ちょうど正露丸のような漢方独特の匂いがし、真っ黒ですが、正露丸よりずっと小さいけしの実状の粒で通常1回に30粒服用とありました。
陀羅尼助釜 陀羅尼助
 中の坊には役の行者が秘薬「陀羅尼助」を精製した際、水を清めて用いた井戸「役の行者加持水の井戸」や、薬草を煮詰めた「大釜」も残されていました。

陀羅尼助2   陀羅尼助
 私も祈祷済みの「陀羅尼助丸」を購入し、ちょっと食欲不振だったときに早速服用しました。
 とても効くような気がします。




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石刻の歳月 ~当尾と當麻(一)

 奈良に仮住まいしていつの間にか二か月が経とうとしています。
 あと半月・・・奈良での日々を惜しみつつボチボチまた出かけています。
 奈良というと古墳や陵墓のイメージが私には強いのですが、散策していると石畳、石塀、石仏・・・長い時の流れに磨かれてきた様々な石の情景を至る所で目にし、石の持つ静謐で柔和な表情を感じます。訪れてから少し日は経ってしまいましたが今日はそんな石たちを紹介したいと思います。

   当尾(とうの) ~石仏の笑い
 浄瑠璃寺に近いのに、前回立ち寄れなかった岩船寺を訪れました。
 浄瑠璃寺も岩船寺も、京都府と奈良県の境にある当尾(とうの)と呼ばれる地域にあります。
 平安遷都までは「山背国(やましろのくに)」と称されていた。南都仏教の影響を強く受け、平城京の外郭浄土として興福寺や東大寺にいた高僧や修行僧の隠棲の地となり、真の仏教信仰にそそがれた地域であった。
「当尾(とうの)」の地名は、この地に多くの寺院が建立され三重塔・十三重石塔・五輪石塔などの舎利塔が尾根をなしていたことから「塔尾」と呼ばれたことによる。


 岩船寺は、天平元年(729年)に聖武天皇が阿弥陀堂を建立させた時から始まると伝えられていますので、その歴史は半端ではありません。
笑い仏 見過ごしてしまいそうに密やかに道端に点在する摩崖仏を眺めながら石仏の道と呼ばれる岩船寺への参道を辿ります。阿弥陀三尊磨崖仏 (笑い仏)。よくよく眺めると確かに三体とも晴れやかに笑っていて、心和みます。なぜかこの地の石仏たちは微笑んでいるものが多く、この仏たちを昔年の石工はどんな思いで彫り削ったのでしょうか。
遠い昔に呼び戻される心地よさでいつまでも眺めていたい気がしました。

見上げると山門。
山門 山門2
そして、石段を登って山門にたどり着きました。
若葉と花々の向こうに朱塗り鮮やかな三重の塔がくっきりと。
本堂 池
阿字池と呼ばれる美しい池を挟んで本堂が凛として風景に溶け込んでいます。
岩風呂
修行僧が身を清めたという石風呂。

不動明王





 池を巡る小径の片隅に重文指定の石室不動明王立像。
 石に刻まれた不動明王の表情が歳月の中で神々しい優しさを生んでいると感じました。


これも重文の五輪塔。同じく十三重石塔。
  五輪塔   十三塔

庭のところどころに置かれた苔むした灯籠も、石仏同様に過ぎゆく歴史を見つめてきた風格に溢れています。
石塔  石仏2
 石を刻むという行為自体、とても原初的な作業であると思われますし、石を素材にすることで表現できるものもまた限られた素朴なものなのでしょう。 
 でもそれだからこそ伝わってくる力や想いがあり、それはもしかしたら祈りの本質なのではないか、とても唐突なのですが、そんなことを思いました。
 「大和はまほろば」という言葉が胸に入ってきます。

三重塔2 三重塔3 雪の下
岩船寺は「花の寺」、また別名「あじさい寺」と呼ばれており、四季折々様々な花咲き乱れ、あじさいは3000本に及ぶそうです。
私が訪れた時はまだ3分咲きでしたが、今はまさに満開でどんなにか美しい彩りを見せていることでしょう。
紫陽花

 本堂の前の花手水が美しい季節を映し出していました。

  




 

 次に「當麻」へと続きますが、長くなりますので一旦これで終えることとします。追って続きをUP致しますので、お楽しみになさってください。









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豪商の足跡 ~奈良今井町

   重要伝統的建造物群保存地区ということ
 大和まほろばを辿りたくてガイドブックを眺めていたら、「江戸時代に栄えた豪商の町、今井町」が目に留まりました。
 『古事記』『日本書紀』にも記されている古社寺、古墳群に囲まれた日本最古の道「山の辺の道」の風情こそが、私にとっての奈良、大和の原風景そのもの。 
称念寺2 懐古的気分の中で、この神々の道を静かに歩くことが、これまでの自分の奈良の醍醐味だった気がします。
 「江戸時代の繁栄を伝える町・今井町」という言葉は、そのようなイメージからは随分かけ離れているのですが、それで反対に興味を惹かれたのかもしれません。

 近鉄奈良駅から電車で約40分、近鉄八木西口駅で下車、「蘇武橋」と記された赤い橋を渡ると今井町の街並みが目に前に広がりました。
 今井町の成立は、天文年間(1532〜1555)に寺内町(寺を中心とした町)が建設されたことにはじまります。町の周囲に濠をめぐらせ、要塞化して織田信長に抵抗。その後、信長から自治権を認められ、大阪や堺とも交流が盛んになり、商業都市として江戸時代まで栄えました。現在も多くの民家が江戸時代以来の伝統様式を保っており、平成5年に重要伝統的建造物群保存地区にも指定されています。
  全建物戸数約760戸のうち、約500件の伝統的建造物が存在しており、これは地区内の数としては日本一を誇ります。当時の地元の建材を用い、職人の緻密な技術を施して建てられた家々は、土地の風土や自然、歴史を色濃く反映しており、民家建築の貴重な財産だといえます。


 どのような歴史もやがては次の時代の中で自然淘汰され、新たな時の流れの中に埋没していくものなのでしょう。
 まして歴史的建造物等は、その時代の雰囲気・匂いをも愛おしみながら後世に伝え残すという強い思いを、その土地に生きる人々と行政とが一体となって、よほどしっかりと持たない限りは、たとえ保存されたとしても、ただ過去のモニュメントとして、取って付けたものになってしまう危険がある気がします。

 でも、実際にはとても難しい。
 どのような土地も、まぎれもなく現在を生きているのですから、保存される歴史的建造物・町並みに隣接して、コンビニやマンションがあったとしても仕方のないことです。究極的には「歴史を生き生きと感じ楽しみながら、豊かに共存する」文化を、その土地が、日本という国が、どう育んでいるかが問われるのかもしれません。
 少し大げさかもしれませんが、そんなことを想いながら、色々な町並みを再発見するのってとても素敵なことのように感じます。

   豪商の町並み
 まずは町の観光協会に向かいました。
観光センター 『今井まちなみ交流センター華甍(はないらか)』と名付けられたこの建物、今井町の歴史を詳細に伝える資料館として公開され、威風堂々とした佇まいを見せていました。1903年(明治36年)に教育博物館として建てられ、昭和4年から今井町役場として使用されてきたそうです。
 見た途端、奈良ホテル(1909年に創業された辰野金吾の設計による関西屈指のホテル)と似ていると思いました。
 受付の若い女性は物腰がとても柔らかくて、わかりやすく今井町の概要を教えて下さったのですが、町への誇りのようなものが溢れていて、第一印象は上々です。
 今井町が現在のように町ぐるみで保存に取り組んだのはそれほど古くはなく、平成4年頃からだという事です。普通の住居でも、老朽化が進み改築を余儀なくされる場合、外壁の仕様・色合い・高さ・等の制限、町並み全体が統一感を持って、昔ながらの意匠である大きなひさしを設けることなど、町全体で景観を作っていくという取り組みが現在に至るまで生きていると聞きました。
町並み1 
今井町の町並みです。
 昔にタイムスリップしたようなこのような街並みは、多くの場合、観光地として、お土産物屋さんや食べ物屋さんが立ち並んだりしてにぎわうものですが、そういうお店も見当たらず、そして観光客の姿もほとんどなく、かといってさびれた感じは全くなく、穏やかに清廉に町の人たちが日々の生活を営んでいることにまず感銘を受けました。
町並み2


 玄関先に打ち水、紫陽花の花、多くの家の前にこのように花々が飾られています。



 看板もなかなか。
床屋さん、本屋さん、薬屋さん・・・普通に営業しています。
看板2  看板1
 軒先のあちこちにこんな燕の巣も見られました。のどかな囀り。
看板3   つばめ


寺内町である今井町の中心は、重要文化財にも指定されている称念寺です。 室町末期に一向宗本願寺の僧侶、今井兵部が建てた布教道場が始まりで、今井町はこの寺の寺内町として発展したのだと聞きました。
称念寺1 称念寺4
 明治10年には明治天皇が投宿した折、西南の役の勃発をここ称念寺で知らされたと伝えられています。
 称念寺もまた、幾星霜を経て静謐な佇まいを見せていました。

 今井町は、福岡・博多や大阪・堺と同様に、住民である豪商や町民が自治権を握る自治都市として、江戸時代にかけて大いに栄えた町。豪商たちの屋敷も当時の面影をそのままに大切に保存されています。
酒屋
 河合家住宅。江戸初期から現在に至るまで変わらず酒造業を営んでいます。

軒先には杉玉が端然と吊るされ、歴史を負った造り酒屋の風格を誇っているようでした。

 旧米谷家住宅。金物や肥料を扱っていた豪商の家。広い土間には当時のままのかまどや煙返しが残っていました。
かまd  蔵前座敷
 裏庭の土蔵の前には蔵前座敷。錠前がいかめしくかかった蔵を守るべく目を光らせ座していたのでしょうか。 
かいずかいぶき
 豊田家住宅。材木商を営み、藩の蔵元も務めていた豪商です。
 向かい側の豊田記念館の庭には樹齢250年というカイズカイブキの大木が。豪商であっても商人の家には松を植えることは許されなかった時代に松に見立てて丹精した木が今やこのような大木に育って時代を証明していると、現当主が語って下さいました。代々の当主の書画・骨董・古美術など貴重なコレクションの数々も公開中です。

 そして、今西家住宅。予約していなかったため見学はできませんでしたが、惣年寄筆頭として町の自治権を担った名家。

 藤村の『夜明け前』ではありませんが、歴史の中の繁栄と衰退の渦にこの町も巻かれてきたのでしょう。
 今、令和の時代の中で、この風土と調和しながら歴史の記憶を大切に、穏やかな営みを続けている・・伝統の保存という事の意味を考えた小さな奈良探訪でした。


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桜花爛漫 そして悉皆

   桜花爛漫 ざわめき昇る炎

  名残の桜。
桜1 柳
  いつもの散歩道、白川沿いは柳が早緑色に柔らかく揺れていました。

辰巳明神
  辰巳大明神の粋な風情。

桜2



そして季節を謳歌する花々。
咲き誇り絢爛と舞い散る木の下には、坂口安吾や梶井基次郎の言うところの物狂いの壮絶さや妖気さえもが宿る気がしてきます。
桜はやはり格別な花木であるとしみじみ思います。

 古い書類を整理していたら、桜について綴った文章や記事などをまとめたファイルが出てきました。
 聴
 読売新聞1997年3月30日の『絵は風景』のページ。
 20年以上前の新聞なので、紙面はすっかり黄ばんでいますが、近藤弘明氏の絵画『聴』を取りあげ、当時読売新聞の編集委員だった芥川喜好氏が「桜花爛漫 ざわめき昇る炎」と題して解説しています。

 薄紅色に染まる空間を吹きあれるものがある。
 桜花爛漫の枝が騒ぎ、幹がうねる。野から立つ炎がざわめき昇る。
 枝も幹も左回りに強く渦を巻いて幹の腹のあたりに真空を生み出している。
 吹きあれ花を散らすものの正体は何か。風、と答えればいいのか。
 だがどうもここは様子が違う。外から風の吹き込んでくる気配がない。
 この桜花満開の下は外気が遮られた別種の空間だ。そこに花の発する妖気のようなものが充満している。
 むしろ霊気といおう。そう呼ぶほかない強い放射能が、渦となりすべてを巻き込んで自律運動を続けている。そんな風景に見える。
     ・・・・中略・・・・
 宗教的といわれ、いま地上的な透明感を増しつつある彼の世界を貫く、一つの感覚がある。一羽の蝶の内に身をひそめ、絵から絵へ、浄土から現実へと飛び歩く往来自在の霊的な浮遊感だ。この『聴』では、舞い散る花弁の一枚に作者の意識はある。

 古い新聞に載っている色褪せたこの一枚の絵画に心を奪われる気がしました。
 芥川氏の卓見と美しい文章にも深く惹かれ頷くばかりなのですが、桜の広がりの真下に立って桜の内に入り桜の放つ妖気・霊気に  全身全霊を揺さぶられる・・・そんな酩酊感を感じました。
 近藤弘明氏の生家は天台宗の寺社で、自らも6歳で得度し仏門にあったことからも、独自の宗教的香りに包まれているように思います。
 昔読んだ本の中の彼のこんな言葉が不意に思い起こされました。

  実の花、空想の華、いずれにしても、存在感は同一である。 現実の花は現実以上に空想的であり、空想の華は空想以上に現実的でなければならない。

 含蓄がありますね。
 絵画に限らずあらゆる芸術・学問にあてはまる真理なのではないかと私には思われます。

   悉皆(しっかい)さんに連れられて
 「悉皆」は「しっかい」と読みます。
 「一つ残らずことごとく」という意味ですが、着物の世界では、着物に関する相談を全て受けてくれる、言ってみれば、着物総合プロデューサーの意味で使われています。
 京都の街を歩いていると、所々で、この「悉皆」という文字を目にすることがあり、「洗い張り・染替え・誂染・お仕立て直し、着物のご相談何でも承ります」というような添え書があって、大体イメージできていたのですが、先日、ご縁があって、京友禅の工房を悉皆さんのご案内で見学するという機会を得ることができました。
 私の友人に東京の銀座で呉服屋さんを営んでいる女性がいて、彼女は誰でもが思わず振り返ってしまうような着物美人なのですが、数日前お花見に京都来訪。
 着物をいつも素敵に着こなすもう一人の友人と共に、京友禅の卸問屋さんを訪ねました。で、そこで悉皆さんを紹介して頂き、京友禅について様々学ぶことになったのでした。
 
 私は着物の事には疎く、着る機会もほとんどないのですが、昔ながらの伝統の技を脈々と守り続けて、多くの職人さんたちがそれぞれの役割を担いながら、長い時間をかけて一枚の着物を作り上げてゆく、悉皆さんが熱く語る京友禅のその工程と情熱に圧倒されました。
 
 「悉皆業」とは、一般的には次のような役割を担うのがごく普通であるようです。
 「長い間着ていた着物がくたびれてきたので、洗いに出したい」、「若い頃着ていた着物が派手になったので染め替えたい」、「どうしてもしみが落ちないけれど、気に入った着物なのでどうにか着る方法はないものか」などという着る人の話に耳を傾け、どのような変化を望んでいるのかを聞き出すのも悉皆業の大切な仕事になります。

 卸問屋さんや呉服屋さんは自分のセンスやお店の嗜好とぴったりする、相性のよい悉皆さんとタッグを組んでいて、生涯相棒のように寄り添い、切磋琢磨し合ってこれぞという着物を生み出してゆくのだと話されていました。
 悉皆さんは、そういう発注者の希望を実現して一枚の着物を完成するために、様々な職人さんたちを手配し、それぞれに出来上がりのイメージを伝えていくプロデューサーの役割を持っているのだということが良くわかりました。

 たとえば発注者が孔雀の絵柄の着物を注文したとき、孔雀と一口に言ってもデザインは様々あるわけで、まず構想を練ってイメージを明らかにしてゆきます。
 その発注者のイメージを具体的につかみ、好みを尊重しつつ、更に出来上がった時、最も美しくしっくりと着てもらえるように、どのような色合いと図柄が一番しっくりくるのか、まずは下絵師さんに具体的に提案するところからスタートするのだそうです。

 下絵師さんの工房に連れて行って頂きました。
 まさに孔雀の発注を前にして白生地にデッサンをしていらしたところでした。
 足元に積み上げられた鳥類の図鑑・東西の画家たちの多数の画集・・・・動物園などに足を運び、孔雀を観察することはもちろん、陶器や洋食器などの絵付け、絵巻物などに至るまでかなり研究して独自の発想を得る手掛かりにすると語っておいででした。

 下絵を初めとして、京友禅の制作過程は標準的には19の工程を取るのだそうです。
 この日、何人かの職人さんの工房にお伺いし興味深いお話をゆっくりとお伺いすることができましたが、でも、すべての工程をお訪ねするにはかなりな日数を要しそうです。 
工房2
 工房では写真撮影が憚られて、ほとんどシャッターを切ることができなかったのですが、唯一撮らせていただいたこの写真は、印金加工と言われる金箔や金粉を描かれた絵に添って接着加工する金彩(きんさい)という作業をなさっているところです。

 この後刺繍を施す工程が待っているそうですが、刺繍の職人さんがどこに刺繍を入れてくるかを類推しながら、それを邪魔しないように生かすように金を配置しているとおっしゃっていました。


    工房1
 金彩は金彩、刺繍は刺繍、それぞれ別の職人さんが、ごく一部分を請け負っているのに、それぞれが一枚の着物という宇宙を見て生きている、そんな風に感じ、こうして培われてきた日本文化の奥深さ、伝統の力を心底実感したひとときでした。
 時間や労力やお金がかかる伝統が急速に廃れていく時代ではありますが、捨ててはいけないものがあることをしみじみと思います。

 冒頭でご紹介した近藤弘明氏の言葉

 実の花、空想の華、いずれにしても、存在感は同一である。 現実の花は現実以上に空想的であり、空想の華は空想以上に現実的でなければならない。
 
 この言葉の精神を友禅職人さんたちの中にも見た気がしています。




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2022年、佳き一年となりますように

 新年明けましておめでとうございます。
 
 元旦の朝、いつも通りに早起きして明け方の遠い稜線を眺めていました。
 昨日からの雪がまだ残っていて風に乗って白く流れ、紫紺の空を包んでいました。冷え冷えとした大気は身を引き締めますね。
 天皇皇后両陛下の新年のビデオメッセージに静かに耳を傾けました。

 今一度、私たち皆が、これまでの経験に学び、感染症の対策のための努力を続けつつ、人と人とのつながりを一層大切にしながら、痛みを分かち合い、支え合って、この困難な状況を乗り越えていくことを心から願っています。今年は穏やかで希望に満ちた年になりますように。

 本年が、皆さんにとって、明るい希望と夢を持って歩みを進めていくことのできる良い年となることを、心から願っています。新年に当たり、我が国、そして世界の人々の幸せと平和を祈ります。


 穏やかで希望に満ちた年 明るい希望と夢を持って歩みを進めていくことのできる良い年となることを・・・・・深く頷きながら、その気持ちを大切に持って少しでも努力し、進んでいきたいと、心から思いました。
年賀状2022
 皆様にとって、2022年が明るい希望と夢とに満ちた良い年となりますように。
 
 オミクロン株が早く収束して、この閉塞感の漂う時間から解き放たれ、自然に人と交流し笑い合える本来の生活が戻ってきますように。
 
そして、逆境も自らの学びとし、好転できるポジティブでしなやかな力を体得してゆけたらと願います。
 それもこれも、まずは心身の健康あってこそですよね。
安全対策を怠らず、けれど恐れすぎることなく、日々楽しく心を込めて今という時間を生き切ってゆけたら素敵です。
  
  まずは1月8日の京都文化博物館ホールでのコンサートがすぐ目の前です。
  力を尽くして向かいたいと思います
 
 皆様、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。


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夏のご馳走

 九月の暦と共にしっとりとした秋の気配が立ち始めました。

 「種類の違う虫は決して一斉には鳴かない。ある種類の虫が鳴き終わるのを待ってから別の種類の虫が追いかけるように鳴くって知っていた?」と、先日知人が話していました。夜更けに虫の音に耳を澄ましていたら、初めてそのことに気づいたのだそうです。
 本当なのでしょうか?・・・それから意識して耳を傾けているのですが、どうもあまりはっきりとわからないままです。
 でもそうだったら、お互いを聴き合って尊重しているようで、なんだか風情がありますよね。

 コロナ籠りになってから随分季節が流れ、時間が経ちましたが、前よりゆったりと落ち着いて耳や目や心を澄ますことが増えた気がして、それは幸せなことなのではと感じます。

 「食べ物、食べることにあまり興味がない。特に何を食べたいとか思ったことはない」と言う人が時々いて、その都度、驚天動地・・・私はその正反対で、食べることがこの上なく好きな食いしん坊ですので、いつも食材や料理全般にとても興味を持っています。
 と言っても、もっぱら自己流の料理で、素材をそのまま味わう主義なのですが、でもどうすればこの食材が一番おいしくなるかしら?などと思いながら楽しく工夫し、結構凝った料理を作ったりすることもあります。
 その場にある食材とその日の気分で適当に作っていますので、改めて厳密なレシピなど問われると答えられなくて困ることが多いです。

   かき氷
 この夏凝ったのはかき氷。
 37℃を超えた猛暑の日、京都のお茶屋さんのカフェで濃い茶をたっぷりかけた宇治金時を頂いたのが、あまりにも美味しくて忘れられなくなり、自分でも作ってみたいと思ったのがきっかけでした。
 調理器具や食器のお店を片っ端から探して歩き、ついに見つけたのがこのかき氷機です。氷の赤い文字と、青銅色の本体がレトロで、昔の氷屋さんを思い出しました。
かき氷
 鋳物のように重そうに見えますが、実はただのプラスチック製、とても軽くて扱いも簡単、安価でした。
 でも、氷のキメを自在に調整できる優れものですし、どこにでも簡単に移動できるので本当に便利です。
 時間のある時は丹波の小豆など買い込んで、コトコトと煮て粒あんを作り、忙しい時は缶詰のゆで小豆でも充分OK、そこに例のお茶屋さんを模して、抹茶をたて、恭しく上から注ぎます。人に供するときは、作る過程を披露することが美味しく召し上がっていただく必須条件です。
かき氷2
 で、黒蜜を小瓶に入れて添えてみたり、街のカフェみたいにフルーツのトッピングをしてみたりその時の気分で色々楽しめます。
 凝りに凝ってこの夏は毎日のようにカリカリカリカリと機械を回していました。ベランダなどに運んでパフォーマンスするとよりおいしそうで、しかもあっという間にできるので、冷たいものの苦手な人以外にはお勧めの夏の我が家デザートです。

   お餅のピザ
 「沸騰したお湯に入れると約5秒で柔らかくなる」というキャッチフレーズの「しゃぶしゃぶ餅」ってご存知ですか。
 お餅も大好きなので、これにチーズをかけて焼いたら美味しいのではと思いながら、でもいっそのことピザ台に敷いてチーズと溶け合わせたらもっちり感があり、いけるのではと閃きました。
 一大発明と思ったのですが、しゃぶしゃぶ餅のパッケージには「お鍋に」「ラーメンに」などの文字と並んで「ピザに」と既に書いてありました。
 私が知らなかっただけなのですね。でもめげずに作ってみたら、なかなかなのです。お餅が入ると普通のピザより重量感を感じますが、実はヘルシーでランチには最適かもしれません。
 ピザ台も、ピザソースもベースは出来合いのものを使いました。トマトピューレや生トマトのスライスなどで適当に味調整をすればかなり美味しくなります。
ピザ
 オープントースターで焼いて出来上がり。
 私はベーシックなマルゲリータが一番好きなのですが、ベランダの鉢植えのバジルをパラパラと乗せて。
 バジルがなければ、シソでも九条ネギでも山盛りでかけてください。和洋が融合してなかなか乙です。

   玉ねぎのてんぷら
 てんぷらの揚げ方を褒めて頂くことが何回かあったので、お客様の時には時々揚げ物を添えたりしています。
玉ねぎ
 夏野菜は天ぷらに最適、特に新鮮な玉ねぎは甘くサクサクして本当に美味しいのでお勧めします。
 初めはキッチンが脂っぽくなるので揚げ物は敬遠していたのですが、やっているうち普通になって今は全く気にならなくなりました。
 夏はマイタケやシイタケ、エリンギなどきのこ類もおいしいですし、ナス、ハス、アスパラ、しそ、なども最高です。
 荒塩を少しつける食べ方は今流行りの通人の流儀ですが、私は天つゆが素朴な野菜天ぷらには一番合う気がしています。これは各人の好みに合わせて。
 「エビやほたてなどの魚介類を使わないところがお洒落です」と、食通の友人に褒められて以来、野菜だけを揚げることに決めました。

   真夏のおでん
 その友人宅に、この夏、旧友と共に招かれて、ランチをご馳走になりました(密を避けて、3人の会食です)。
     おでん
 供されたのは何とおでん。
 真夏のおでん。

 みんなでまずはふうふうと。
 イイダコをほおばりながら「これが究極の贅沢」とのおもてなしの言。

 すっかり納得した豊かな時間でした。



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