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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

桜満開(三) 桂昌院のしだれ桜

 「それは何と言っても、桂昌院様お手植えのしだれ桜が、京都では一番の桜と違いますか」
という言葉を生粋の京都人(3代100年程度ではまだまだよそ者、到底京都人としては認められないとよく言われます)の何人かの方から伺ったことを思い出して、では今年の桜の締めくくりは、遠出をし、桂昌院ゆかりの古刹、善峯寺(よしみねでら)にしようと決めました。
 まずは桂昌院についての予備知識から。

   桂昌院について
 5代将軍、徳川綱吉の生母である桂昌院の出自は京都。
 京都の社寺を巡ると、「桂昌院ゆかりの」とか「桂昌院寄進の」とかの縁起をよく目にします。
 絶大な権勢を誇り、「生類憐みの令」の影の立役者とまで言われて歴史にその名を留めていることは周知の通りです。
 悪評高い「生類憐みの令」ですが、世界初の動物愛護令であり、実は儒教に基づく文治政治の一環であり、その目指すところは、むやみな殺生を戒め、平和を希求するものであったのだと、近年その真価が見直されてきています。

 数奇な運命を辿った女性、桂昌院の若き日の名は「玉」、「玉の輿」は桂昌院のシンデレラストーリーから生まれた言葉とよく言われます。

 善峯寺寺伝によると
 「寛永4年(1627)京都堀川に生まれて、6歳の時に義兄善峯寺成就坊賢海の許にて母の栄女とともに同居されます。後に師父宗正の許に帰り13才で父を亡くします。正保元年(1644)継母お蒔女の紹介により、春日局に従い江戸に下り、徳川家に仕えます。これより幼名お吉をお玉と改めます。

 彼女の実家については西陣織屋、或いはかなり貧しかった八百屋、畳屋、等諸説伝わっており、京都にもそれらしい生誕の地がいくつも名乗りを上げているものの、信義は未だ定かではないようです。
 
 そんな桂昌院の「お手植えのしだれ桜」を訪ねて、善峯寺に向かいました。

   雨の西山善峯寺
 最寄駅は、阪急 東向日駅、ここから徒歩2時間約7キロの急な山道を延々と登り続ける覚悟だったのですが、幸い一時間に一本だけのバスに乗ることが出来ほっと一息。ずっと上天気が続いている中、この一日だけが冷たい雨降り。
バスの窓から
午後からは雨もやむという天気予報に、森閑とした西山の険しい斜面に立つ善峯寺に降る雨の中のしだれ桜も格別なのではと、酔狂な興味から出かけたのですが、バスに乗っていてさえも心細くなるような暗い空と寂しく険しくなる山道。窓を雨が濡らします。

 バス停を降りて、15~20分位、雨の参道(山道)を登り、ようやく山門が見えてきました。
到着 山門

しだれ桜
辺りは靄がかかったような幻想的な雰囲気、遠く見る山々、京都の街の遠景が水墨画のように墨色の色合いを感じさせますが、でも100本以上あるという桜の薄いピンクが柔らかさを添えます。
白山桜苑2


彼岸桜、枝垂れ桜、牡丹桜、・・・それぞれの個性が全山を彩っていました。

遊龍1

 「遊龍の松」と名付けられた天然記念物の五葉松。全長37mで日本一の松なのだそうです。一枚の写真にはどうしても収めきれませんでした。
本堂



「本堂」をお参りする頃、雨脚が突然強くなって、カメラのレンズを濡らします。「桂昌院廟」へ。

桂昌院廟への石段


 京都の街が一望できる高台に桂昌院廟(墓地)があります。
 幼少の頃、母と暮らした善峯寺、こんな険しい山寺を、彼女は江戸城で権勢を誇ってもずっと想い、ここに眠ることを望んだのですね。

 寺伝にこのような説明もあります。
 徳川綱吉の外祖父、桂昌院の父である本庄氏が当山の薬師如来に一女子を得ることを祈願するとすぐに女の子が生まれ、この子が後に転じて将軍の侍女となり、徳川家光の寵愛を得て綱吉を産み、家光薨去により桂昌院と号されます。桂昌院はこの出生の報恩を謝して、伽藍を改建して諸器什物を寄付し、またしばらく綱吉より寺封(資金補助)が出されました。
桂昌院廟
 桂昌院廟に桂昌院の詠んだ次のような歌が記されていました

  たらちをの 願いをこめし 寺なれば
  われも忘れじ 南無薬師仏
        (注 たらちを=父)
厄除けの鐘

貞享4年(1687)桂昌院によって寄進された「厄除けの鐘」。

元禄4年(1691)桂昌院は全山の伽藍を改建されました。
現存の鐘楼・観音堂・護摩堂・鎮守社・薬師堂・経堂は、桂昌院によって寄進復興されたもの、また綱吉と桂昌院により『四季繁昌絵巻』、「如法三衣」、「梨子地葵・繋九目紋蒔絵膳具」をはじめ、百点を超える幾多の貴重な什物が寄進されました。これら文化財の一部は文殊寺宝館に展示しています。

経堂多宝塔 霧に包まれる
桂昌院廟を降りると、手前に「多宝塔」そして「経堂」、経堂に添うように、樹齢300年と言われる桂昌院お手植えの「しだれ桜」が見えます。
     手植えの桜
白山桜苑

 「白山桜あじさい苑」と名付けられた散策道を眼下にして。

 霧雨に変わって、しっとりと靄をけぶらせていました。
馬酔木

道端の馬酔木。

歴史を包み込むように、季節を巡らす美しい雨の日の古刹です。





   日差しの中の西山善峯寺
 翌日は上天気。
 晴れた日も行ってみなければと、何故か張り切ってしまいました。
 再び、今度は山道ハイキング。

  <鐘楼で>
鐘つき

 「撮りましょう」とお庭の手入れをしていらっしゃる方に声を掛けられて。

 美しい梵鐘が全山に響き渡ります。


  <再び桂昌院廟>
桂昌院廟晴れ 京都の遠景
 光を受けると印象が変わります。春霞の中に京都の町並みが。春爛漫。

  <お手植えのしだれ桜 桜と楓の共演>
 陽を受ける桜はやはり格別です。
枝垂桜晴れ 根元
 昨日は気づきませんでしたが、根元を見ると、桜と楓の幹が絡み合って合体木となっていて、自然の妙を感じます。楓の葉も、もう少しで開きます。

 一隅に据えられていた歌碑には
 「春ははな 秋はもみじのむすび木は この世のしやわせ めでたかりけり」
 と記されていました。
歌碑 桜と楓

  <白山桜あじさい苑>
  白山苑2
 艶やかに咲く桜 桜
 今年の花便りの最後を飾っています。

  <オマケ>
 善峯寺のHPに平成11年(1999年)に放映されたJR東海のCMが掲載されていました。キャッチフレーズは
「ここの桜のように一年でたった一回でもいい。人をこんなにも喜ばせる仕事ができればなんて思いました。」

 心憎い言葉です。
 映像も美しいので、よろしければご覧ください。
    



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桜満開(二) 京都の街は

  京都の街は 桜が良く似合う
  京都の街は 至る所に桜がある
  京都の街は 今 桜に染まっている

 「達人夜話」のあった4月6日に一気に花開き、それからずっと麗らかな桜日和なのです。
 京都の街は 今 桜色
 桜ってじっと見ていると、取り憑かれていくような奇妙な気分になりますね。
 古くから「物狂いの花」と恐れられるのが何だかわかる気がしてきました。
 
 今日は京都の桜のフォトレポートです。

   <日仏学館(アンスティチュ・フランセ関西)からスタート>
 9日(火)が春学期の初日でした。
 毎年、この時期はもう葉桜になっているのに、今年はまさに今、真っ盛り。
 朝の光の中、青空に淡い桜色が殊の外清々しく感じられます。
日仏1   日仏2
 屋根にはためくフランス国旗とのコントラスト。
 桜行脚の始まりです。

   <白川沿いを行く>
 日仏学館のある百万遍から、ひたすら歩いて白川筋まで。

 サスペンスドラマによく出てくる、京都で有名なロケ地といえば、「南禅寺山門・水路閣」、「東福寺通天橋」、そして「白川のこの小さな橋(一本橋というのだそうです)」の三か所がまず挙げられるのではないでしょうか。
白川ロケ地
 他の二か所が、大抵は犯人を追いつめたり、犯行の告白をしたりする緊迫した場面であるのに比べて、白川は事件が一件落着、しみじみと事の顛末を語り合うエンディングなどに出てくることが多いですよね・・・・柳が柔らかく揺れて、静かな佇まいを見せていました。

人力車
 そのまま白川に沿って祇園に向かいます。

 祇園巽橋付近の賑やかな人並、さすが人気のお花見スポット、人力車、着物姿の女性達、観光客で溢れていました。


吉井勇碑
 吉井勇の歌碑。
 かにかくに祗園はこひし 寝るときも 枕の下を水のながるる
 
 この歌は桜の季節に味わうのが、一番しっくりくる気がします。
 祇園を愛して、艶やかな歌を多く残した吉井勇ですが、同時代を生きた同じ明星派の歌人、与謝野晶子の歌が重なって思われます。

  清水へ祗園をよぎる桜月夜 こよひ逢ふ人みなうつくしき

更に彼女の恋人であり後に夫となった与謝野鉄幹の、返し歌のようなこんな詩の一節。

   祇園の桜散りがたに ひと夜の君は黒瞳がち 
   上目するとき身にしみき


 祇園の桜は、こんなに艶めかしくもあります。

   <高瀬川 一の船入>
 高瀬川は、角倉了以が鴨川の水を引いて開いた運河ですが、この川で用いた舟を高瀬舟と呼んでいました。
一の舟入
 高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞いをすることを許された。それから罪人は高瀬舟に乗せられて、大阪へ廻されることであつた。

 鴎外の『高瀬舟』の冒頭ですが、当時の高瀬舟が川の起点である木屋町二条、「一の船入」に復元されて、ゆったりと往年の姿を伝えています。

 桜に包まれた川沿いの風情が、時間を遡って、遠い夢に誘い込んでいるような気がしました。

   <鴨川を北上>
鴨川を北上
 四条大橋から見る鴨川は、川辺で遊ぶ人たちでいつも賑わっていますが、二条辺りまで来ると、人の姿もまばらになり、穏やかで静寂な春の風情が開けてきます。


水の流れ、川岸の雪柳。
鴨川の水1 雪柳

   < 岡崎 絢爛と咲く桜 桜 >
 さて、翌日。
 所用の合間、岡崎辺りを歩いてみました。

平安神宮の朱塗りの門は、やはり桜に映えます。
平安神宮 十石舟
 南禅寺舟溜りから夷川ダムまで、琵琶湖疏水を運行する十石舟が行き交っています。
 毎年大人気のこの時期限定のイベントです。
山桜

 この辺りの桜はしだれ桜、紅しだれ、ソメイヨシノ、八重桜、様々に混ざり合っていて、美しいグラデーションを見せてくれます。
 山桜も光に映えて。

インクラインに沿って流れる疏水、水しぶきが桜を呑みこんでしまいそうです。
  インクライン  流れる水

   <毘沙門堂 「毘沙門しだれ」満開>
 更に昨日。週末の喧騒を逃れて山科まで足を延ばし、天台宗 京都五門跡の一つである毘沙門堂を久しぶりに訪れました。
 平安の頃から桜の名所で知られ、藤原定家も『名月記』に毘沙門堂の花見の事を綴っています。

 宸殿前の「毘沙門しだれ」。
毘沙門堂3 桜とツツジ2
桜と山ツツジが共に咲いて、次の季節を受け渡しているかのように見えました。

修復されて鮮やかな朱塗りが桜と映える毘沙門堂
毘沙門堂2 八重椿
 そしてひっそりと季節を終えてゆく八重椿。

春爛漫



 春、まさに爛漫です。











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京都迎賓館 夜間公開

 京都迎賓館は、平成17年に開館され、二年前の平成28年から一般公開されるようになったのですが、今年は、晩秋のこの時期の四日間のみ、夜8時まで夜間公開が行われました。

 「京都ならではの日本建築、伝統技能の粋を集めつつ、現代建築の技術と融合させた「現代和風」の創造を見ることが出来る」と内外から広く賞賛を受けているこの迎賓館を11月30日の夜間公開の際に訪れることができました。

 今日は、紅葉の最盛期、情趣溢れる京都の夕暮れ時の迎賓館を、撮ってきた写真と共に、そして見学の際のガイダンスを思い出しながらご紹介してみたいと思います。

   京都迎賓館

 日本の伝統技能の粋を集めた最高のおもてなしの場
 京都迎賓館は日本の歴史、文化を象徴する都市・京都で、海外からの賓客を心をこめてお迎えし、日本への理解と友好を深めていただく施設として平成17年に建設されました。
 歴史的景観や周辺の自然環境との調和を図るため、日本の伝統的な住居である入母屋(いりもや)屋根と数寄屋(すきや)造りの外観とし、品格のある和風の佇まいを創出しています。建物や調度品には、数寄屋大工、左官、作庭、截金(きりかね)、西陣織や蒔絵(まきえ)、漆など、数多くの京都を代表する伝統技能において匠の技を用いています。 (京都迎賓館 WEBサイトより)

             
 京都御苑は、今まさに紅葉の真っ盛り。16時頃に到着したのですが、陽が傾き始めて、晩秋から初冬へと移り変わる季節のしっとりとした趣を見せていました。
薄暮の京都御所1 薄暮の京都御所2
 紅葉の中を迎賓館に向かいます。
迎賓館へ
 白砂が美しく敷かれた前庭の奥に、正面玄関が見えてきました。
 樹齢700年の欅(けやき)の一枚板を使用しているという玄関扉が堂々とした佇まいを見せて、建物に清廉な雰囲気を与えていました。

現在、四つの部屋と庭園が一般公開されているですが、それぞれを繋ぐ廊下は、障子と行灯(あんどん)の光に柔らかく包まれています。
行燈の廊下1
さっぱりと何気なく、美しい陰影が演出されていて、いつの間にか雅やかな遠い時の彼方に誘われるようです。
まさに、谷崎潤一郎の『陰影礼賛』の世界そのものですね。
行燈の廊下2


 行灯(あんどん)の意匠は、折鶴をイメージしているとのこと、確かに鶴がすっと佇んでいるようでもあり素敵です。

 そして、最初の部屋「聚楽の間」に導かれます。
聚楽の間
 晩餐会や大臣会合などが行われる際に、招待されたゲストの控室、随行員の待合とするなど多目的に利用されているそうです。
「聚」は、寄り集まるといった意味、心安らぎ楽しいことが集まる場所という願いを込めているのでしょう。
 鉄や釘を一切使わない京指物を用いた椅子。
 西陣織の茜色が何とも上品な華やかさを演出しています。
長押の釘隠し
 そして、長押の釘隠(くぎかくし)。
 「錺金物(かざりかなもの)」は、「千代結び」をイメージしているとのこと。平和の輪が千代に結ばれますように、という願いを込めたデザインだそうですが、細部に至るまで、日本的な奥ゆかしさが溢れています。
藤の間
 そして、大臣会合などの会議や立礼式(りゅうれいしき)のお茶のおもてなし、晩餐会の待合として使用されるという「夕映(ゆうばえ)の間」を楽しんだ後、次は「藤の間」です。
 「歓迎」という花言葉にちなんで名づけられた「藤の間」は、迎賓館の中で最も大きな部屋で、洋食の晩餐会や歓迎式典の会場として使用されるそうです。  
 「麗花」という壁面装飾は、綴織りの技法で織った織物で、39種類の日本の草花が織り込まれています。
   藤の間2
 「格子光天井」は、美濃紙と京指物とが融合して、「和凧」の形に模してあり、洋のおもてなしを尽くしながら、どこまでも和の意匠を極めていることに、心を強く惹かれました。

「桐の間」
先ほどの「藤の間」の<洋>とは好対照に「五七の桐」を配した和の晩餐室がこの「桐の間」です。
桐の間1  桐の間2
 全長12メートルあるという漆の一枚仕上げのテーブルが圧巻でした。
 庭の緑や天井を漆の漆黒が水鏡のように映し出して、ここにも陰影の美が生きています。
 でも、座椅子を使いながらも掘り炬燵式になっていたのは、やはり外国からの賓客に配慮したためなのでしょう。

行灯に照らされて廊下をしばらく進むと、廊橋に出ます。
 行燈  出口より
 廊橋の天井は、船底を逆さにしたような形、「船底天井」で、吉野杉を使用しています。

 「庭屋一如(ていおくいちにょ)」を体現した庭園
 京都迎賓館の庭園は、御苑の緑を借景とし、広大な池を中心に、様々に表情を変えつつ、まわりの建物に融け合うように配置されています。これが、古くから日本人の住まいに貫かれた伝統「庭屋一如」の思想です。

 賓客の方々が「舟遊び」を楽しめるように「和舟」も池に浮かんでいます。
 中庭1 中庭2
 そして、多数の錦鯉が放たれていて、海外の方たちは餌やりに殊のほか興じられるのだとか。

刻々と日が落ちて、水面に部屋の明かりが映ります。
   中庭3
 
 京都の伝統技能11職の技術の粋を集めた建物。
 光と影とが織り成す幽玄の美。

 古都の風土と歴史とが相まった日本的な美意識の中で,優しく柔らかく海外の賓客をもてなすことの矜持に、改めて日本人としての誇らしさを感じたひと時でした。


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京都 七月

   「綾音 達人夜話」第二夜
 まずは、7月21日(土)に開催の「綾音 達人夜話」第二夜のご案内から申し上げます。

 桜繚乱の中の第一夜、4月7日から、早いものでもう三カ月。
 今度は盛夏7月の高瀬川の集いとなります。
 タイトルは「 バレエ・オペラ・ミュージカル・シャンソン 」

   7/21(土)18:00~「綾音・達人夜話 第二夜」
           ゲスト 西田 稔 氏(同志社大学名誉教授)
 「 バレエ・オペラ・ミュージカル・シャンソン 」
 第二夜のkey wordは『 シャンソンへとつながる舞踊と演劇 』
 京都生まれ京都育ちで町家ギャラリーのオーナー、フランスのバレエ・オペラ等に造詣が深く、劇作家ラシーヌの研究者である西田氏に、フランスの音楽舞踊劇の歴史と特徴等について興味深いお話をお伺いします。
 フランスのミュージカルのご紹介もお楽しみに!

 実は、私は中学・高校の頃、演劇部に所属していました。
 なぜか、ギリシャ悲劇やモリエールの喜劇などに皆で凝っていた時期があり、そのいくつかを上演したのですが、西田先生と、色々打ち合わせをする中で、先生がラシーヌやモリエールの専門家でいらして、劇作のことが話題になるにつけ、何だかとても嬉しく不思議なご縁を感じています。
 先生には主にバレエとオペラのお話しを伺い、私はミュージカルとシャンソンを取り上げようと思います。

 貴重な音資料も駆使して、興味深い講演になると思います。
 参加ご希望の方はまだ少し席がありますので、どうぞご連絡くださいね。

   自然の脅威
 さて、お話は変わり。
 京都はさすが千年の都で、歴史的に見ても、自然災害が極端に少なくて、「神さんに守られてるんと違いますか」と普通に語られる街なのですが、最近、地震、豪雨と大変な状況が続いて、にわかに不安が募ってきています。
 地震の時は、「ついに・・・」と覚悟するくらい激しい揺れで、物が落ちてきたりもして怖かったですが、幸いさほど大きな被害もなくお陰様で無事でした。
 豪雨も、実害なく済みましたが、嵐山の辺りに住んでいる友人は、有栖川が決壊しそうで本当に恐怖を感じたと話していました。
 皆で災害への備えのこと等、話題にしている昨今です。

 こういう日々の中、圧倒的な自然の力、その前にある人の無力さを改めて痛感させられますし、だからこそ、平穏な日常の有難さを思い知らされます。

 でも、この度の豪雨では、もっともっと沢山の深刻な被害が生れています。
 今現在もどんなにか大変な思いをされておいでの皆様も多いことでしょう。
 心からお見舞い申し上げ、一日も早い復興をお祈りいたします。


   宵宵山を行く
 7月15日、今日は三連休のなか日ですが、尋常ではない暑さですね。
 京都、昨日は38℃、「今日、明日は40℃近くなるでしょう」との天気予報を聞くだけで卒倒してしまいそうです。
 「でもこれは、室内の風通しの良いところでの気温で、外は更に高いので、熱中症には充分気を付けましょう」と今朝の気象予報士の方が力を入れて語っていました・・・・。
 毎年、こういう猛暑は更新されている気がしませんか。
 日本は、亜熱帯を通り越して、もはや熱帯へと突入したのでしょうか。

 そんな中ですが、京都は一年の数あるお祭りの中でも代表的な<みんなのお祭り>、祇園祭の真っ只中です。

 昨日は「宵宵宵山」、そして今日は「宵宵山」、明日は「宵山」。

 「宵山」というのはお祭り前夜の事。
 祇園祭本番は17日火曜日ですので、その前祝いの夜ということで、言ってみれば12月24日の夜、クリスマスイヴのようなものです。

 前にも何回か祇園祭についてご紹介しましたが、山鉾巡行が行われる本番もさることながら、7月に入るとすぐ、祭りを行うための様々な行事がそこここで行われ、7月そのものが祇園祭一色に染まって行きます。

 本日、「宵宵山」の朝。
朝の錦市場
 我が家近くで。

 我が家は、山鉾巡行の最先端を常に切る長刀鉾(なぎなたぼこ)に卑近距離にあります。
 朝、5時頃。

 さすがに誰もいない錦市場を抜けて四条通りに出ると長刀鉾が朝陽に映えていました。

長刀鉾1 長刀鉾2
 観光客と地元の方たちが押し寄せてくる前の、静寂なひと時です。
二階から鉾へ

 ビルの2階から鉾の中に入る橋が架けられています。巡行の際には、御囃子の他に、祭りの開始を告げるしめ縄を切る稚児もこの橋を渡るのでしょう。

そして、もう一度夕方も、少しだけ視察に出かけてみました。
   人の波   宵山の長刀鉾
 「宵宵山」になると、出店も一斉に立ち、ブラブラと街を歩く人たちで溢れ、これこそが夏の風物詩という風情を見せ始めます。
 浴衣に団扇の老若男女が今年も夏の夜を一杯に飾っています。

 祇園祭は、元々、平安京で疫病が流行した869年に、その災厄の退散を願い、当時の国の数と同じ66本の鉾を立て祇園社(現八坂神社)の神を祭ったのが起源とされています。
 このとんでもない猛暑の中で、更にヒートアップするかのように今年も盛大にお祭り気分が盛り上がっているのは、災厄を収めるというお祭りの原義が、京都人のDNAの中に沸々と再燃されてきているのかもしれないと、ふと思ったりしています・・・。
おはやし

これが、祇園祭り。

この賑わいが夏の到来を告げます。




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「京の冬の旅」 その三 「東福寺・即宗院」

 さて、前回、前々回に引き続きまして、<京の冬の旅 非公開文化財特別公開 観光バスの旅>、今回で最終回、今日は「東福寺 即宗院」を詳しくガイドしてみることにします。束の間の京都歴史探訪をお楽しみください。

 その前に、まだお読みになっていらっしゃらない方は、「京の冬の旅」その一 序章「京の冬の旅」 その二 幕末の足跡を先にご覧下さい。
 
   「東福寺 即宗院」 
   <続く道>
 2015年9月、もう2年半前となりましたが、「東福寺即宗院」主催の「採薪亭演奏会」に出演させて頂く機会を得ました。
 (その折掲載したブログ記事1ブログ記事2、はこちらです)

 「採薪亭(さいしんてい)」とは、東福寺の塔頭(たっちゅう)、即宗院(そくしゅういん)の境内にあった茶亭(焼失して現存しない)で、西郷隆盛が新撰組や幕府の追っ手を逃れて参謀の隠れ家とした場所、月照上人と幕府転覆の密議を交わした庵でもあります。
 これに因み、即宗院では、年に一度「採薪亭演奏会」という音楽会を開催なさっています。
 私はこれまでに東福寺を何度か訪れているのですが、ただ、コンサート絡みの打ち合わせでしたので、この度、即宗院でも非公開文化財の特別公開があることを知り、改めてその史跡を味わってみたいと思ったのです。

ガイドの旗

 「即宗院」に向かいます。

 ガイドさんの旗の後を離れず歩き続けることに、いつの間にかすっかり慣れてきました。 

 三門に向かう足取りをふと止めて目を上げると、遠くに通天橋。
 苔が青々と白塀に映え美しく続き、やがて東福寺境内へ。
通天橋 白壁

 広大な境内の北東側に「偃月橋(えんげつきょう)」が現れ、この橋を渡ると「即宗院」の山門です。
えん月橋  即宗院山門

   <即宗院 庭園・宝物>
 室町時代に薩摩の大名・島津氏久の菩提を弔うために創建されたという東福寺の塔頭寺院「臥雲山(がうんざん) 即宗院」。
 島津藩の菩提寺として、とりわけ幕末・維新の歴史に深い関わりを持ってきた寺院で、その史跡が今も多く残されています。 
小門
 更に小門を進むと、端正な美しい庭園が開けます。

 近衛家が御所の東御堂として建立し、その子である藤原兼実が、この地を山荘「月輪殿(つきのわどの)」と名づけた。
 現在の即宗院の庭園は、その跡地であり、寝殿造系庭園の原型を留めた自然の景観のある庭園が昭和52年に、往時のまま復元された。


 やはりここでもボランティアガイドの若い方たちが甲斐甲斐しくガイドを務めていましたが、いつもはお忙しくてなかなかお話を伺うことが出来ないという、前ご住職がこの日はお出ましになり、軽妙でわかりやすい語り口の中に、寺院の歴史、幕末の群像との関わり合いを詳しく説明して下さいました。
 その中に、さりげなく織り込まれ、語られる法話が、しみじみと心に沁み入り、心地よい余韻が残りました。
 
 自然を生かしながらも端正に設えられた庭園にどこか懐かしい温かみを感じましたが、4000坪もあるというこのお庭の手入れは庭師を入れず、殆どをご自身でなさっていらっしゃるとのこと。
    庭3
 『若い頃、師匠である先代の住職に修行の極意を尋ねたところ、「何も考えず、ただ庭の手入れだけをしていればよい」と言われた。何のことだか充分に理解しないままに何十年間その教えを守ってきて、今ようやく「自然の中にある」意味が分かってきたところなのです』と静かに語られていたのが印象的でした。
 お話を伺いながら、<晴耕雨読、花鳥風月に心を寄せる生活の如何に芳醇であるか>が思われました。

 本堂では島津家ゆかりの品々、篤姫が将軍家輿入れの際に立ち寄り使用した火鉢等々、また、勝海舟が譲り受けたという西郷直筆の掛け軸や、西郷の座右の銘『敬天愛人』と記された書、慶喜自筆の掛け軸など、貴重な宝物が特別展示されていました。

 西郷の憂国の思い、同朋への愛、海舟との通じ合う絆、篤姫の心情、慶喜が置かれた立場と生き方・・・・和尚様が語られる一つ一つの品の由緒は、幕末の群像それぞれの生き方や思いを映し出す生き証人のようであり、この日一日、訪れた寺社の映像と重ね合わさって、この時代の息使いが聴こえてくるような気がしました。

   <東征戦亡の碑>
 慶応4年の鳥羽伏見の戦いでは、西郷はここを薩摩軍の屯所とし、裏山に砲列を敷いて、幕府軍に砲撃を加えたという。
 更に、明治維新で戦死した霊を供養するため、明治2年には、「薩摩藩士東征戦亡の碑」を建立した。


 塔頭を出て、裏山の山頂に向かいます。
 砲撃は京都を攻撃するためではなく、洛中に大砲の音を響かせて脅すための示威行為だったといわれています。
彩薪亭跡
 嘗て、茶亭「採薪亭」があったのは裏山に向かうこの辺り。
 今でも狸 猿、猪が出没すると聞きましたので、当時はどんなにか寂しい場所だったか、でも、隠れ家には最適だったことが頷けます。
碑に向かう道

 急な石段をひたすら登り、「東征戦亡の碑」に辿り着きました。

 鳥羽伏見の戦いや戊辰の戦闘で戦死した524名の薩摩藩士の霊を供養するため、西郷は半年ほど斎戒沐浴を行い、戦死者の名前を揮毫し、自筆の「東征戦亡の碑」を建立した。
 西郷の弟の吉二郎や西郷の縁者の名もある。正面の碑は西郷の自筆で、薩摩から出て大政奉還までの足跡が書かれている。

東征戦亡の碑
 
苗字のない下級の兵隊の名前まで一人一人漏らすことなく、西郷自身の手で名を刻んだのだそうです。
全部で5機設置されており、全てが故郷の鹿児島に向いて、西向きに置かれてあります。

西郷謹書

「西郷隆盛謹書」と読み取れますね。

・・・・・・

こうして、この日の観光バスツアーは終わりを告げたのでした。
西郷隆盛を中心とした幕末追体験の小旅行、三回に渡る長い記事になってしまいましたが、楽しんで頂けたでしょうか。
 
実は西郷隆盛と京都との縁はこれに留まらず、彼が奄美大島に遠島になった時、結ばれた妻との間に設けた息子、菊次郎が、長じて父とともに西南戦争に従軍し、父亡きあと、1904年、第2代の京都市長に就いているのです。
第二琵琶湖疏水の建設、上水道の建設、道路拡築、市電敷設という大事業に取り組み、京都の近代化に貢献した立志伝中の人物で、京都の近代化のリーダーとなったのです。

 ・・・・・・・

 生活しているとつい見逃しがちになってしまいますが、京都は歴史の宝庫、折に触れ、これからもっと興味を広げて様々な散策をしてみたいと思います。
心の風景もきっと広がってゆきますよね。

 そして、今年9月23日には、2015年に続いて再び「採薪亭演奏会」に出演致します。
最善を尽くしますので、あと半年後、どうぞ皆様お越しくださいますように。



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「京の冬の旅」 その二 幕末の足跡

 お待たせ致しました。
 前回の記事「京の冬の旅」その一 序章の続きです。

   「清水寺成就院」~西郷隆盛と月照上人
 前回は観光バスに乗り込んだところまで、お話ししましたね。
 バスは最初の観光スポット、東山にある「音羽山 清水寺 成就院」に向かいました。

 産寧坂(さんねんざか)駐車場で下車、ここから清水寺へ向かう急坂を上るのですが、一年中大変な人だかり、京都中で、或いは日本の観光地の中で、一番人口密度が高いのではと思ってしまいます。
 そして今や日本語を凌駕し、様々な外国語がテンション高く飛び交ってもいます。
 バスの仲間たちはその熱気に押されて、黙々と清水坂を歩き続けました。

 やがて清水寺に到着。
 仁王門、西門、三重塔、その奥に清水の舞台も見え隠れしています。
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 着物姿の女性も目に立ちますが、京都でのこの数年のレンタル着物の流行はすっかり定着してきて、海外からの観光客も着物を着て街を歩き、記念撮影するのが常道になっています。最初は派手な柄や色彩などに驚いたものの・・もう目は慣れています。

 桜の枯れ枝も赤味を帯びてきて、あと少しで花の季節ですね。
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トランペット100人の演奏をする西門の化粧直しももう終わり、朱塗りの門が鮮やかに目に飛び込みます。

何を見ても6月21日に繋がり・・・。


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目的地の「成就院」に到着。

この日、ツアーで巡ったお寺は全て室内外撮影禁止でしたので、写真でご紹介できず残念です。
(音楽の祭日の打ち合わせのときの記事をご覧下さい。)

 高台寺山を借景とした「成就院」の庭園は、古来より「雪月花の三名園」の一つ“月の庭”と称されており、国の名勝に指定されています。「成就院」は、幕末の勤王僧として知られた月照上人とその実弟、信海上人が住職を務めたことで知られるほか、西郷隆盛や近衛忠煕(このえただひろ)らが集まって密談が行われたとも言われます。今回は、安政の大獄で幕府から追われた西郷隆盛と月照上人が、鹿児島湾で入水した時に身に付けていたとされる衣や、月照、信海両上人の木像などの寺宝も展示されます。

 上記観光案内の解説にある、小堀遠州作の「月の庭」、どこまでも続いているように見えますが、実は広さ自体はそれほどではなく、周囲の山を借景に取り込み、遠近法も巧みに取り入れて、広がりを演出していることがよくわかりました。
 そして「月の庭」と銘打っているにもかかわらず、縁先に廂(ひさし)が大きく伸びているため、見上げても月を見ることはできません。
 月は直接眺めるものではなく、庭の中心にある池に、月が映るのを楽しむのだとのこと、古の都人の観月とはかくあるもの、幽玄な、まさに陰翳礼賛の日本の美学だと感じ入ってしまいました。

 すでに幕府方に、その行動を危険視されていた月照上人は、安政の大獄で、京都を追われ、鹿児島、薩摩藩に身を置きますが、西郷隆盛と共に、島流しされます。その途中、死を覚悟した二人は、錦江湾に身を投げます。月照上人、享年46歳。その弟である信海上人も捕えられ、獄死したと伝えられます。西郷隆盛は、一命を取り留め、その後、薩摩に戻され、幕府打倒へと、その力を注ぎます。

 西郷隆盛と月照上人の着物は、私が想像の中で描いていたものとは違って、サイズも普通、柄も普通で、今でもそのまま着ることが出来そうな、あまりにもあたり前すぎるように思われました。
 歴史に思いを馳せているうちに、身に着けていた衣までもがどこか特別でなければならないと思い込んでいたのでしょうか。
 西郷さんも月照上人も、血肉の通った一人の人間で、今という時間の流れを遡って存在していたのだと、そのことが妙に生々しく思われ、遠い歴史の彼方に居た人に急に引き寄せられた気がしました。

 <今という時間、今居る場所は長い歴史の中のただの一点に過ぎないけれど、でも確実に人が受け渡してきた時間の延長上に人間の存在がある>という、当然のことが身に迫って感じられる感覚、大仰な言い方をすれば、最近友人と話したプルーストの『失われた時を求めて』を彷彿とさせられるような感覚とでも言えるでしょうか
 プルーストが語る「人間は超時間的存在である」ということと、歴史を丹念に辿ってみることとは一見対極にあるように思われますが、実は同じなのではないかという奇妙な実感です。

 飛躍するのですが、少しぼんやりとした頭で、3カ月半後には、ここで座談会が行われ、自分もその中に居るのだと思っていました。

 さて、そうこうしているうちにお昼。
産寧坂の途中にある日月庵というお店で、皆で懐石弁当を頂いた後、午後の部へと移りました。
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 お店の坪庭に咲いていた赤い椿と花桃が鮮やかに春を彩っています。

   「宝鏡寺」~皇女ゆかりの寺
 臨済宗の尼門跡寺院である宝鏡寺は、歴代の皇女が住職を務めた由緒ある寺院。天皇から贈られた人形や襖絵に、気品が漂う。
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 地元では「人形の寺」とも呼ばれる、人形供養で有名なお寺です。
 私も以前、奥深くずっと仕舞い込んでいた雛人形を、さんざん迷った挙句、思い切ってこのお寺に納めたことがありました。
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 この時期は「春の人形展」が開催されていて、孝明天皇遺愛の人形や、宮中から贈られた雛人形などが展示されて雅やかな雰囲気を伝えていました。

この「宝鏡寺」が「幕末・維新の歴史を訪ねて」のツアーコースに含まれているのは、公武合体の為、徳川家に降嫁された皇女和宮に縁の深い寺社であったからで、和宮の遺品の数々が今もそのまま残されていて、この動乱の時代に巻かれ数奇な運命を辿った彼女の姿を彷彿とさせていました。

   「常林寺」~海舟が愛した庵
 通称「萩の寺」で知られる「京の冬の旅」初公開の「常林寺」では、勝海舟が常宿にしていたという書院が特別公開される。本堂のきらびやかな仏像や天井絵も必見。
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 戊辰戦争時に幕府代表として西郷隆盛と会談し「江戸城無血開城」を成し遂げた勝海舟が京都での常宿とし、時には坂本龍馬も逗留したという、それぞれの部屋が公開されていました。
 陽の深く射す明るく清楚な客間でしたが、どこか田舎の親戚の家に泊まりに来たような和やかな気安さも漂っていて、都の豪奢な設えとも、幕末の緊迫した世界とも、無縁のまま時が流れているという印象を受けました。
 「萩の寺」もさることながら、地元では「世継ぎ子育て地蔵尊」として人気のあるお寺でもあります。
 質実剛健で下町江戸っ子気質の海舟が、束の間、寛いで逗留できた場所だったのでしょう。

 観光コースは後一つ、「東福寺即宗院」を残すのみとなりました。
 でも、長くなりましたので、ここでまた一休み。
 今度はすぐに続きを掲載致しますね。
 今回の見学を通して、特に強く、西郷隆盛、そして幕末・維新の空気を感じることが出来た場所でしたので、更に気合を入れてご報告したいと思います。どうぞお楽しみに。



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「京の冬の旅」 その一 序章

   初春初舞台
 しばらく記事をUPできず申し訳ありませんでした。
 いつの間にか3月となり、昨日はお雛祭り、桃と菜の花の愛らしく柔らかい色合いに包まれる幸せな季節ですね。
 でも、この数日は「5月並みの暑さ」とのこと、汗ばむほどの陽気の中、突然・・・毎年のことながら、花粉症の始まりは特に重篤で、目下、起きていられないほどの自覚症状に呻いております。
 出来ることなら、一歩も外に出ず、穴倉に入って逼塞していたいほどの気分なのですが。

 数日前、東京で。
 本郷にある宝生能楽堂で観劇の機会を得ました。

 懇意にして頂いている知人が宝生流の高名な能楽師で、自ら淑宝会という一門会を主催していらっしゃるのですが、その舞台にこの度、お孫さんお二人が初デビューをなさるということで、京都から駆けつけたのでした。
能舞台
 まだ幼い姉弟が能舞台に端然と佇み、舞い、まさに一対の雛人形のように清々しい風情です。
 緊張して唇をぐっと噛みしめながら、仕舞を舞う姿が本当に初々しく可愛らしかったのですが、この日の舞台には、一足早くデビューした、もう一人のお孫さん(一番年下の男の子)も出演していて、こちらは既に二年ほどのキャリアがあるだけあって、能一番、「船弁慶」の義経の役で、身じろぎもせず一点を見つめる眼差しも凛々しく、台詞の口跡も堂々としたものでした。

 地謡を吟じるのはお祖父様と、お父様。
 少し心配そうな、でも嬉しそうな面持ちで、お二人ともじっと小さな役者たちを見つめます。
 ご自身が長きに渡って極めていらした芸道の道に、今、息子さんと、そして小さな後継者たちが立ち、共に同じ舞台に在ることを、どんなにか感慨深く感じていらっしゃることでしょう。 
 夏の朝夕、窓越しに聞こえてくる、お孫さんたちにお稽古をつける声は彼らが2~3歳の頃から始まっていたように思います。
お祖父様の吟ずる謡曲の美しい響きに可愛い声が唱和する、そんな風に、父から子供、孫へと脈々と繋いでゆく、日本の伝統文化の厚みを改めて感じた時間でした。
 
 京の冬の旅  
 さて、京都に戻った一昨日ですが。
 今度は、「京の冬の旅『非公開文化財特別公開を巡る定期観光バス特別コース」にチャレンジしてみました。

 <春の桜、秋の紅葉、だけではなく、冬の京都にも是非!>ということで、京都市観光協会が肝入りで開催している「京の冬の旅」のキャンペーンももう既に52回を数え、特に今年は「明治維新150年記念」の大々的な企画を打ち出しているのです。

 京都市と京都市観光協会は2018年1月6日から3月18日にかけて、JRグループ6社共同による「京の冬の旅」キャンペーンを開催する。第52回目となる今回のテーマは「明治維新150年記念」と「西郷隆盛」。
期間中は、幕末や明治維新、西郷隆盛ゆかりの寺院などで非公開文化財特別公開を実施。例えば、勝海舟が常宿にしたという「萩の寺」(常林寺)、明治期の傑像ゆかりの寺・閑寂の庭園(相国寺 豊光寺)など複数の寺院で初公開を実施。そのほか、合計15ヶ所が公開になる。
ゆかりの地を定期観光バスで巡る特別コースや、「伝統産業・文化」、「朝観光・夜観光」、「京の食文化」の視点からさまざまなイベントを実施する。

冬の旅パンフ
 国内外を問わず、旅行は自分流にこだわって、普段からツアー旅行の参加は皆無に等しいですし、従って観光バスに乗ったこともこれまで殆どないのですが、今回何故かふと思い立ったのでした。

 街のそこここに京都市観光協会のポスターが張られ、これまでになく宣伝が行き届いているので・・思わず乗せられてしまったのでしょうか。
 「~明治維新150年記念・大河ドラマ「西郷どん」放映~京の幕末・維新の歴史をたずねて」
 という長いタイトルの、この時期限定の定期観光バス特別コースL4というのを選びました。
L4コース 以下がL4コースの行程です。

 非公開文化財特別公開は、普段見られない寺院や文化財をこの時期だけに特別公開するもので今回は全15か所。うち京の冬の旅初公開が7か所、2018年に150年を迎える明治維新、NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」の放映で注目される西郷隆盛にスポットを当てたゆかりの地は8か所となっています。
 このコースは以下の4か所、大河ドラマ「西郷どん」放映にちなんで、かつて明治維新で活躍した先人たちのゆかりの地を巡ります。
  『清水寺 成就院』庭園「月の庭(名勝)」
  『宝鏡寺』孝明天皇遺愛の人形や和宮ゆかりの寺宝展示
  『常林寺』阿弥陀三尊像や岸竹堂筆の壁画 他
  『東福寺 即宗院』島津家ゆかりの寺宝や徳川慶喜筆の掛け軸など特別展示


 私の専門は、元々近代日本文学で、特に明治黎明期辺りに焦点を当ててきましたので、「幕末・維新の歴史」は得意分野、それに加えて、このコースには「清水寺 成就院」と「東福寺 即宗院」の見学が入っていることが決め手になっています。

実は二か所とも何度か足を運んだことがありよく知っている場所ではあるのですが、どのように観光ガイドされているのか、改めてゆっくりと味わってみたかったのです。
なぜかと言えば・・・
前々からご案内しているように、「清水寺 成就院」は6 月21日に「音楽の祭日 記念座談会」が行われる会場、「音楽は国境を越える 世界友愛の祈り」のテーマで司会を仰せつかっています。
成就院 即宗院
 一方、「東福寺 即宗院」は「採薪亭演奏会」の主催元、9月23日にソロコンサートをとご依頼くださった塔頭なのです。

 今年、関わることになるこの二つのお寺が、共に西郷隆盛と深い縁のある歴史的に重要な寺社であるということで、特に脚光を浴びていますし、そういう観点から改めて学ぶことが出来たらと考えたのでした。
  ・・・大河ドラマを見るのは実は10年ぶり位なのですが、『西郷どん』、今年はしっかり見てみようと思い、毎週録画も怠っておりません。・・・笑顔が優しくナイーヴで心穏やかな、意表を突く西郷さん像で結構はまります。・・・

 さて、そんなわけで、午前10時20分、烏丸口の正面、観光バス乗り場に集合です。
舞妓さんのイラストが入った特別仕立てのバスが入ってきました。
観光バスチケット売り場 観光バス
 春一番が吹き荒れるという予報を覆す麗らかな空模様で、コートも不要で過ごした一日でした。
 平日ということもあってか総勢15名で、大型バスにはゆったりし過ぎではありましたが、でもじっくりとガイドに集中することができた気がします。
 同乗した方たちは、親子、ご夫婦、サークル仲間といった感じの年配者が多く、独りで参加したのは私だけでした。
 そして、揃って歴史好きとお見受けしました。
 バスの中では早速、最近テレビで見た歴史探訪の番組、本で読んだ幕末秘話のお話が熱く飛び交っていましたし、バスガイドさんもベテランの本格的歴女、16時30分に解散するまで、ずっと熱心に京都の街、歴史、人物について、興味深く語り続けて下さって、西郷隆盛も勝海舟も明治天皇も皆親しい友人か家族のように、愛情がこもった話しぶりで、これこそがプロと、何だかとても感動してしまいました。
 
 京都市と京都観光協会がタイアップした特別企画だけあって、それぞれのお寺にきちんとしたボランティアガイドの方たちが何人も配されて対応も行き届き、詳細にして明快な説明、侮るなかれ、こういう旅もお奨めです。

 小さな旅の序章、バスが出発するまでのお話は本日はここまで。
 「清水寺 成就院」から始まるお寺巡りは次回の「その二」に記したいと思います。

どうぞお楽しみになさって下さい。



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大晦日の手帳

 大晦日、如何お過ごしですか。

 私は例年のように、部屋の片づけや掃除、おせちの用意など、普通にお正月を迎える準備に慌ただしく過ごしていますが、新年を待つ年の瀬のそんな昂揚感や、人が行き交う雑多な賑わいなども、昔から結構好きです。

   手帳
 皆からからかわれる私の手帳。
 1211という商品番号の黒の能率手帳をもう20年近く愛用しているのですが、「いまどき、そんな手帳を使っている人を久しぶりで見た」「能率手帳ってまだあるのね」などと驚かれつつ、これぞ私には最も使い易い逸品と密かに確信しています。
手帳
 一年は飛ぶように流れて行きますが、振り返ると色々なことが詰まっています。
 誰にも判読できなさそうな走り書きで、びっしりと一年間の軌跡が記されていて、その時々の予定や覚書など、書き留めた時の状況や心持ちまで蘇ってくるようで、一年の終わりに眺めると、スマホのメモとかとは、たぶん一味違う愛着があります。

 パラパラと読み返し、新しいものに替えるのも、大晦日の私の小さな儀礼のようなものです。

 眺めていたら、コンサート関係の記述が圧倒的に多いことに気づきした。
 勿論、他にも公私共々、様々な生活や仕事があるわけですが、でもいつの間にかコンサートを中心に日々のリズムが生れていて、大晦日の昂揚感ではありませんが、実現へのプロセスを楽しみチャレンジすることが自分の中でのやりがい、原動力になっているのかもしれません。

 ともあれ、この一年一歩ずつでも専心できたこと、それを出来る健康を何とか維持できたこと、障壁はありながらも周囲の状況も比較的安定していたこと、そのような幸せにただ感謝するばかりです。

 コンサート活動を通して、新たな出会いや発見もたくさんありました。
 素敵な方々ともたくさん出会うことが出来ましたし、さりげない温かさに助けられてきたこと、手帳の中からそんな嬉しい出来事が浮かび上がってきます。

 人が生きることは、未知の世界・時間に踏み出すことなのですよね。
 色々なことがあっても臆さないでいたいと、この頃しみじみと思います。
 私の歩みはゆっくりで、時々後ずさりもしますけれど。

 さて、忙中閑、手を止めて、ひと時感慨に浸って記してみましたが、午後、あと一仕事、頑張ります。

   錦市場
 昨日、買い出しに行って、撮った錦市場の雑踏をご紹介します。
出店

 今年もお正月飾りの出店が賑わっていました。

 いつも買うお店、売っている方のいつもの顔、小さな幸せを感じます。


雑踏。市場の中の食堂のメニュー。美味しそう、お客様で一杯でした。
雑踏 メニュー 交通整理
 今年初めて見た交通整理のガードマン。あまりに混雑しているので商店街が手配したのかもしれません。

つきたてのお餅屋さん、漬物屋さん、八百屋さん、祝い大根と京人参など独特です。
鏡餅   祝大根

朧月

そしていつの間にか夕暮れ。
右上に光っているのはほぼ満月に近い朧月でした。

・・・・・・
皆様、今年も大変お世話になりました。
どうぞ、良い新年をお迎えくださいますように。




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花冷えの伏見 ~十石舟と酒蔵巡り

 桜満開のはずが、冷え込む日が続いて、まだまだ京都は蕾が固いままですね。

 そんな中で、東京の友人が二人で来訪。
 数年来、この時期の絢爛と咲き誇る桜花を共に楽しんでいる仲なのですが、今年は例年になく開花が遅れていてとても残念です。
 おまけに一昨日3月31日は、心底凍えるような冷たい雨が降り続いていました。
 けれど、折角だからと、この日は伏見を散策することに。
 桜の名所も、お花見後の酒宴処も、もうかなり制覇している彼女達ですので、もはや未踏の地を探すのはなかなか大変なのですが、伏見城の外堀、濠川(ほりかわ)添いに続く白壁土蔵の酒蔵の風景を眺めながら十石舟に揺られ、そして酒蔵見学をしつつ利き酒も、というプランです。

 今日はそんな伏見散歩をお届けしたいと思います。

   ランチは黄桜カッパカントリーで
 「黄桜」といえばすぐに、小島功さんの妙に色っぽい河童の絵が浮かんできますね。黄桜記念館・黄桜酒場・黄桜商店・・・黄桜直営の「カッパカントリー」内は至る所カッパで埋っています。
往年のポスター
 壁には歴代のこんなポスターが。懐かしい女優さんたちの顔です。

 今や大衆の日本酒代表のような「黄桜」、そして「月桂冠」ですが、いずれも伏見がその発祥の地、黄桜エリア、月桂冠エリアのような棲み分けが粛然となされた街並みに誘われます。伏見は20以上の蔵元を有する国内2位の酒処なのです。

 その黄桜エリア、「カッパカントリー」の中庭にカッパのオブジェを見ながら、まずは民家の設えが素敵な直営のレストランでランチを取ることにしました。
黄桜カッパカントリー   カッパの像
 京風のお弁当に、酒蔵オリジナルの大吟醸を注文し、再会に乾杯。
 ワイングラスに注がれたお酒はフルーティーで口当たりがとても良いと感じました。伏見のお酒は、伏水とも称される水質の関係で、灘の男酒と比して、女酒と呼ばれるはんなりとした甘口なのだと聞いたことがありますが、殆ど呑めない私にもそのまろやかさはわかりました。
 吟醸、純米、にごり酒3種の利き酒セットなども出してくれます。
 
 伏見は坂本龍馬ゆかりの地でもあります。
 龍馬が襲撃された寺田屋の跡に石碑がありました。
 すぐ隣に、現寺田屋が復元され、当時の風情を伝えながら、現在も旅館を営んでいます。
寺田屋跡  龍馬像
 龍馬とお龍(りょう)のブロンズ像。
 龍馬通りなど、街のそこかしこに「龍馬ゆかりの・・」という文字が掲げられて、龍馬への熱い思いが、今も大事に残されているのでしょうね。
柳

 桜はまだ2分咲き程度ですが、柳並木のさ緑色の芽吹きが、雨の川面にも美しく映されていました。

   伏見十石舟
 往復約55分の、江戸時代の輸送船を再現した十石舟の舟旅を楽しんでみました。
十石船乗場
 この日の雨は、空を重く曇らせていましたが、江戸時代には淀川舟運の港町として栄えていたという伏見の町、そんな伏見の濠川を、月桂冠大倉記念館裏にある乗船場から伏見港公園(三栖閘門(みすのこうもん)まで、舟は向かいます。

 本来ならこの時期、並んでもなかなか乗船出来ないほどの賑わいを見せると聞いていたのですが、この日乗った十石舟は私達を入れて乗客4名、殆ど貸切状態、すれ違う舟もやはり3人だけの乗客。
増水
 そんな舟を巧みに操る年配の船頭さんが、「舟のバランスを崩さないよう座って下さい」と4人にそれぞれ四隅に座るように指示していて、何だかとても微笑ましくて、こんな雨の日の舟の、束の間の旅もまた特別の風情があると感じたのでした。

   月桂冠大倉記念館を訪ねる ~利き酒の愉しみ
 観光案内にこんな解説がありました。

370年余の伝統と銘酒にホロリと酔いしれる。
大蔵記念館
 寛永14年(1637)に「笠置屋」の屋号で創業し、明治38年(1905)に「月桂冠」の酒銘を商標登録して以来、全国でも名高い蔵元の長い歴史を伝えるのがこちらの記念館。明治から昭和初期にかけての酒造用具や明治期の実物商品、絵図で見る当時の製造工程など、酒造りの歴史がひと目でわかる展示が人気。ガラス越しに昔ながらの酒づくりの様子を見学できる「月桂冠酒香房」のオプションもあります。


 というわけで、このオプションに勿論参加してみました。

 郷愁を誘う酒造り唄が館内に静かに流れる中、丁寧な説明が続き、日本酒の醸造過程がよくわかります。
びっくりしたのは、長い年月の中で、酵母がこの酒蔵自体に棲みついていて、自然に空気中から樽の中に降ってくるのだというのです。
麹室  ツアー
 洋酒も、倉庫に長く樽を寝かせて熟成させる方法は伝えられていますが、酒蔵自体が酵母の貯蔵庫でもあるということ、温度、湿度、大氣の環境等、変わらぬ条件を保ちながら、酒蔵を守ってきたのだということにとても感銘を受けます。

 このツアーには外国人の方も多く参加なさっていて、熱心に酒造りの工程に聞き入り、通訳の方に多く質問を投げかけていました。
 こういう日本の伝統に興味を持って訪れて頂けることに何だか誇りというか幸せを感じたのでした。
月桂冠利き酒
 そして利き酒コーナー。
 二人の友人は、かなりいける口ですので、味の違いを楽しんで係りの方ともお話が弾んでいました。
 私は、「なるほど!そういえば、そんな感じが!!」
 相槌ばかりを打ちながら。
 でも美味しさはわかった気もするのです。

   お土産を買いました
「シャンソンを歌っているのに呑めないの?」とよく人から言われますが、飲酒はシャンソンを歌うための必要条件ではないのです・・・・。
 
 そんな私が、お酒を買ってしまいました。
 美味しそうに嗜み、蔵元限定酒をたくさん買い込んだお二人に触発され、初利き酒体験もして、良い気分になっていたためかもしれません。
おみやげ
 黄桜のスパークリング酒、「ピアノ」という銘柄に惹かれた衝動買いです。
 泡が躍るのでしょうか。何だか可愛くて・・・ピアニストの坂下さんに差し上げようかな・・・と思っています。

 もう一本は、月桂冠で、「プラムワイン」、「粒よりの梅を伏見の名水で仕込み、発酵させたプラムワイン」と書いてありました。梅酒ですが、なぜか主に輸出用に製造しているのだとか、利き酒で美味しかったので、少しずつ、・・と思っています。

 急にお酒呑みの知人の顔が浮かんできました。
 「このチョイスは邪道でしょう」と言われそうです。

 ちなみに、伏見の利き酒を共にした友人二人、今日はサントリーの山崎工場を見学し、ウイスキーの利き酒を大いに楽しんできたということです。
 そのバイタリティーと探究心に脱帽!



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大晦日の『神泉苑』

   年の終わりに
 2016年、どんな一年でしたか。

 あっという間に時は流れてゆきますが、それでも、辿ってみると去年とは違う自分、周囲の状況であることが痛感させられます。

 私にはコンサート三昧の一年、その一つ一つに、新たな人や出来事との得難い出会いがありました。

 その一方で、親しい方たちの訃報が多くもたらされた年ともなり、悲喜こもごも、世のすべては、人の意志では如何ともし難い不思議な力に導かれて動いてゆくものなのでしょう。

 でも、ともかくも、今こうして健康であることに感謝しつつ・・・そんなことを静かに思う大晦日です。


   朝一番のジャム作り
 数日前、親しい友人に柚子を沢山頂きました。
 少し陽に焼けていたり、虫に食われた跡があったりする、元気に育った丸々と大きな実、冬の恵み、良い香りを部屋中に放ってくれました。

 柚子湯に入り、鍋の薬味にし、それでもまだどっさりあるので、今朝、思い立って柚子ジャムを作ってみました。

 自己流ですが、私の簡単レシピをご披露致しますね。

1 洗ったら、まず皮を剥き、外皮を細かく千切りにします。手を抜かずひたすら薄く、長さは2センチ位にして、刻み続けて下さい。

2 中身から種を取り除きます。種はガーゼに包んで別にしてください。テルテル坊主を作る要領です。

3 種を除いた部分をザルで丹念に漉します。汁と薄皮の部分に分かれますが、どこまでもいつまでも薄皮を漉し続けるとやがて何だかわからないくらいに柔らかくとろけた感じになります。
煮詰める2
4 1を茹でて、水を捨て、また煮立てて茹でて・・・を3回繰り返します。 
これはあく抜きのような効果があり、刻まれた外皮が柔らかく苦味がうっすらとしてきます。

5 お湯を切った「外皮」と、「種」と、3で作った「中身(汁+薄皮)」を全て鍋に移し、10分位ゆっくりと煮詰めます。
途中5分くらいのところで種を包んだテルテル坊主を取り除きます。
柚子の種にはペクチンが豊富に含まれているらしくて、こうするとジャムが自然にとろりとしてくるのです。でも食べられませんので、必ず取り除いて下さいね。
この時同分量の砂糖を入れるというのが常套手段です。

6 私の秘伝のジャムは、砂糖は殆ど使わず、蜂蜜を代用します。
今日は、頂き物の和歌山の「みかん蜂蜜」がありましたので、ゴージャスにこれを使用しました。同じ柑橘系のためか、相性抜群でした。

7 もう一つの秘伝は、ブランディーを少し入れること。
隠し風味と言いますか・・・・急に大人の味に変身します。
出来上がったゆずジャム
8 最後の秘伝は、鍋から離れず、「美味しくなってね」と優しく、声に出して話しかけることです。
 これは必須!

 で、出来上がりました。
 とっても美味しいジャムになりました。
 私は作り置きして、或る時は柚子味噌、或る時はお肉料理のソース、或る時は柚子ジンジャーソーダ・・・・等々、万能です。

   午後はぶらりと「神泉苑」散歩
 麗らかな日差しの年の瀬、二条城の近くに所用があったので、その近くの「神泉苑」に足を伸ばしました。
 
 東寺派真言宗『神泉苑』は、現存する日本最古の史蹟として知られる、池を囲んだ名園です。
神泉苑
 朱塗りの鳥居、社寺が目に鮮やかで、それを取り囲む美しい設えの池が、ゆったりと華やかな平安絵巻を再現するかのようでした。

 桓武天皇が平安遷都の折、大内裏の南に沼沢を設けたのが最初と言われています。その池の水が枯れないことから「神泉苑」と名付けられたのだそうです。

 後に弘法大師空海が祈祷をして雨を降らした祈雨霊場(雨乞いの場)としても有名で、勧請された善女龍王を祭った善女龍王社と法成橋、「神泉苑」での疫病の御霊会が祇園祭の誕生のきっかけとなったこと、また帝から五位の位を賜った優雅な五位鷺(ごいさぎ)伝説などでもよく知られています。
法成橋  善女竜王社
 庭園の一角に、「歳徳神(としとくじん)」と呼ばれる、小さな社(やしろ)があり、格別に今日は榊や供花などが献上されてありました。
 これは通称「恵方社」とも呼ばれ、その年の恵方に、社自体を回転させる不思議な仕掛けが施されています。
 実は、立ち寄ったのは、これを見たかったからでした。
恵方社
 大晦日の夜「恵方改め式」というものがこの社で行われるのです。

 「恵方巻き」ってご存知ですよね。
 近年、全国的に流行してきましたが、節分の日にその年の恵方に向かって巻き寿司を無言で食べ切ると幸せが訪れ願いが叶うというあの「恵方」です。

 社自体が回転する仕掛けになっていて、翌年の恵方に社の正面を向きを合わせるという儀式が大晦日の夜に粛々と行われるとのことなのです。
歳徳神
 午後10時30分に始まるとの張り紙がありました。
僧侶がお経をあげて、儀式を取り行ったのち、石臼のような社の土台を皆で担って回転させるということで、一度見てみたかったのですが、夜までじっと待てず・・諦めることにしました。
恵方札
 来年、平成29年の恵方は「亥子(いね)の間」=北北西だそうです。
 まだ来年の話ですが、思わずこんなお札を買ってきてしまいました。
 年が明けたら、家の北北西にこのお札を貼って、安全祈願をしようかと思います。

ぶらりと足を止める街のそこかしこに、歴史の重みとその矜持が散りばめられていることを感じた京都の年の瀬でした。

 今年も、このブログをご愛読頂き有難うございました。
 また来年もどうぞよろしくお願い致します。

 皆様、どうぞお元気で良きお年をお迎えくださいますように。




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