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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

* 京都 街中 朝の散歩

 このところ、暑くてよく眠れず、朝も4時頃からいつも目が覚めてしまいます。どうせ起きているならと思い立って、今朝、近くを散歩してみました。
 昼間は余りにも暑過ぎて、不用意に歩くと熱中症になってしまいそうですし、朝なら・・・運動不足解消にもなるのではと。

 6時少し前から、スタート。
 京都は朝も侮るなかれ!熱気がムンムンとしていますが、それでもどこか落ち着いた静かな朝の気配が漂っていて、気持ちが良いです。
 今日は、我が家の近くの散歩道をご一緒に。

 少し歩くと、堺町三条にある京都の老舗コーヒー店、イノダコーヒ本店(正式名称はコーヒーではなくコーヒなのです!)の前に出ました。
 ガイドブックに必ず紹介されている喫茶店の代表格。いつも満席で順番待ちの繁盛ぶりです。この頃は、モーニングが評判で、ホテルの朝食をキャンセルしてまでやってくる観光客の方たちも多いようですね。

イノダコーヒー2  イノダコーヒー
 7時から営業という看板が出ています。
 この時6時20分。それなのに、何人かのお客さん風の方たちがお店の中に入ってゆきます。
 お店の前で写真を撮りながらうろうろしている私は、きっとどう見ても朝から舞い上がっている観光客にしか見えないのでしょう。
 親切なおじいちゃまが、
 「モーニングにきやはったんやろ?7時からやけど、常連はんはもう入ってるさかい、頼めば入れてくれはるんと違う?」
 近くでお店をやっているという、どうやら常連客の元締めみたいな方らしく、毎朝、ここのコーヒから始まるのだそうで、頼んであげようか?というお申し出を丁重にお断りして、(実は、お財布を持たずに出てしまっていたので・・・京都っぽい朝をウオッチできるチャンスだったのに・・本当に残念でした)散歩の足を進めたのでした。

朝顔の簾 四条に向かって堺町通りを下がってゆく途中の居酒屋さんの入り口にグリーンカーテンが・・・朝顔の蔓が伸び始めていました。朝顔は成長が早いですから、きっと二週間もすると葉を茂らせ花をつけ始めるに違いありません。簾(すだれ)代わりに風情がありますね。
 この辺りは普通の町屋に混ざって店舗がいくつもありますが、どこも既に綺麗にお掃除され、打ち水が打たれていて涼しげです。

そして京都の台所と言われる有名な錦市場が見えてきます。

錦市場の朝 錦天満宮
 どこのお店も、開店準備に忙しそうな様子です。
 漬物屋さん、そしてお魚屋さん・・・京都の夏は鱧(はも)寿司を初めとする鱧料理ですが、美味しそうな、のぼりがたくさん立っています。
 錦小路の突きあたりには錦天満宮。早朝なのでまだ門は開いていませんでした。

先斗町の朝

 先斗町(ぽんとちょう)の朝、静かです。


 四条通りに出て、河原町から四条大橋に。
 川岸に立ち並ぶ料亭、レストラン。夏期限定で「床(ゆか)」と呼ばれる高床式のテラスのような空間が出現します。京都の夏に涼を求めた昔からの知恵なのでしょう。暮れなずむ頃、床に席を取り、ともり始める灯りと夕暮れの鴨川を眺めながら、鱧を肴に飲み交わすのが京の通人だったのでしょうか。

         鴨川の床

 桜の頃にもご紹介した祇園白川辺り。
 白川の川べりに紫陽花が咲いていました。密やかで風情があります。

北白川の紫陽花  巽橋の柳
 
 柳も青々と大きく生い茂っています。

 京都の6月の朝、1時間半の街巡りでした。


    * さて、今日もおまけのお話です。

 6月30日、今日は何の日だったでしょうか?

  正解 = 水無月(みなづき)という和菓子を食べる日でした。

水無月の張り紙
 逗子に住んでいた時は、そういう習慣を知らなかったのですが、(たぶん我が家だけでなく、関東では余り聞かないように思うのですが、)京都では、「六月のお菓子は水無月」というお約束があるらしいのです。 

 6月になると和菓子屋さんの店先には「水無月」の看板がしっかりと掲げられ、月末が近くなると「6月30日は水無月を食べる日」という文字までもが出現します。で、本日30日は、美味しいと評判の店に至っては行列まで出来ます。
 
水無月 
 郷に入っては、ですので、私も今日は買い求めてきました。
 このような、三角のお菓子なのですが、白い部分はういろうです。
 その昔、天然の氷室に、冬に出来た氷を保管して、夏の暑い盛りに宮中に運んだという、庶民が口にすることのできなかった貴重品の「氷」、その氷の結晶に見立てた形になっているのだそうです。その上に小豆を散らして魔除けの意味としたとか。(豆が魔滅に通じる語呂合わせからきているという説があります)
 6月30日は夏越(なごし)の祓いの神事に因んで、水無月を食べる風習が出来たらしく、食文化の中に伝統が自然に溶け込んで、それが失われず、今も継承されてゆくところはさすが千年の古都だと感じ入ってしまいます。
 
 「水無月」に限らず、様々な食習慣の中に同様のこだわりが残っていて大変興味深いので、また折に触れて色々ご紹介してみたいと思っています。
 
 「水無月」は冷やして食べると口当たりも良く、渋茶に添える夏のお菓子としてお薦めです。


 

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* 紫陽花の花束

 まだ6月なのに、本当に暑いですね。
 「この夏は思いやられる」という言葉が、挨拶代わりに連日飛び交っています。
 
 この数日、東京で過ごし、京都に戻ってきたところです。
 いつもなら関東は梅雨寒の筈ですが、熊谷に至っては39.8℃という桁外れの気温、急にこれでは体が受けるダメージも大きいですよね。
 
 それでも。
 京都は盆地で、空気がピタッと張り付いて動かないという感じで、どこにも抜けてゆく逃げ場はなく、冬は寒気、夏は熱気にがっちりと封じ込められる、・・・・なかなかのものですので、暑いとは言っても、朝晩風が吹き渡る東京に行くと、少なくとも夏は(真冬もですが)ずっと住み易いのではと思ってしまいます。
 風を感じるのって良いものだなと・・・。
 


 土曜日は、嘗ての教え子たち4人、・・・・今や全幅の信頼を置いている私の有能なコンサートスタッフでもあるのですが、・・・・と会ってとても楽しい時間を過ごしました。
 コンサートではないのですが、時間をかけて皆で企画していた別のイベントが先月末に無事終了しましたので、改めてその打ち上げと、そして次回のコンサートの作戦会議!!(スタートし始めています!!)などで盛り上がり、あっという間に時間が経ってしまいました。
 それぞれが、仕事や学業などに真摯に向かう頑張り屋さん揃いですが、いつも前向きで溌剌と朗らかで、自分らしさをキラキラと輝かせている素敵な方たちばかりなのです。一緒にいると、お互いが良いエネルギーを吸収し合って、それこそ涼風が吹き抜けるような爽やかな気持ちになれます。

紫陽花3 「庭に咲いていた紫陽花なのですが」と、彼女たちの一人、Nさんが可憐な紫陽花のブーケを作ってきてくれました。(薄紫色の英字新聞がデザインされた包装紙に素敵に包んであって、とても洒落た感じでした。)
 「紫陽花は、切り花にするとすぐ萎れてしまうので・・・」と心配そうな顔。
 でも、きっと水揚げを丁寧にして、たっぷりの水に根元を保護して持ってきて下さったのでしょう、元気良く今も咲き誇っています。
 夜、紫陽花と一緒に新幹線に乗って、早速京都の家に飾りました。

 紫陽花は、大好きな花。
 土の酸性度によって、花の色合いは様々ですが、ピンクも青も紫も、皆良いですね。独特な色彩を雨の中で艶やかに放っていて、この花ならではの季節感があります。

 京都に転居する前、私は長く逗子に住んでいたのですが。
 あじさい寺の名で良く知られている明月院を初めとして、鎌倉、逗子、葉山、箱根、この辺りは心なしか京都に比べて、紫陽花が多いような気がします。
 街のどこを歩いても、この時期は紫陽花の花がしっとりと咲いていて、6月は紫陽花色の季節だなと小さい時から思っていましたが、京都の街では、それほどには目にしない感じですし、何となく関東とは色合いが違う気もしています。
 紫陽花の咲く条件が天候・気温などで微妙に異なっているためかもしれません。
 
 
 井上靖の随想に「あじさい」という短編があり、私はこの文章がとても好きで、何となく覚えていて、6月になるとよく思い出すのです。
 さすが一流の作家の文章、格調高く端正で美しいのですが、冒頭だけ少しご紹介してみますね。

        あじさい
   
   あじさいの花を美しいと思うようになったのは、大人になってからである。
   梅雨期の重く湿った大気の中に、静かに咲いている薄紫の花は、なかなかいいと思う。
   雨をしっとりと吸って重たげでもあり、多少憂鬱げでもあり、こうした時期に咲かねばなら  
   ぬ花としての諦めも持っている。

 
 これに続き、彼は、
「幼い頃、私はこの花に好感を持っていなかった。」
「何となく特別な花として感じていた。陰気な感じで嫌だった。」
と書いています。
 「幼い者の感覚は非常に確かだと思う。何となく、あじさいの花を、他の花とは違った特別な花として感じているのは、現在でも同じことなのである。ただ異なるのは、幼い頃は嫌いだったが、今の私は好きになっていること。幼い頃はなぜ特別な花か判らなかったが、今の私にはそれを説明することができるのである。」
 
 このような冒頭から始まり、幼い子供の詩的感受性というものについて、エッセイは繰り広げられてゆきます。

 あじさいは、重たげで、静かで、憂鬱げで、諦めを持っている花。
 確かにこれを読むと、しっくりイメージが出来上がってきますね。

 ・・・でも願わくは、ひんやりとした梅雨寒の冷気の中で、しみじみ感じたいなと。


 紫陽花のブーケを抱え、駅に向かう道すがら、お花屋さんの前を通りました。
    紫陽花が沢山。
 色とりどりで、余りに綺麗だったので、お店の方にお願いしてシャッターを押させてもらいました。「どうぞ」ってにっこりほほ笑んだ若い店員さんの笑顔もとても綺麗でした。

  紫陽花2   紫陽花1

 
 お店で写真を撮っている時、ふと、イベット・ジローが歌って有名になった「あじさい娘」(mademoiselle hortensia)というシャンソンを思い出しました。
 Hortensia(あじさい)という名の、貧しい、でも気立ての良い働き者の娘が、或る日見染められて侯爵夫人になるというフランス版シンデレラ物語のような内容の歌なのです。
 井上靖の「あじさい」の捉え方を、フランス人はどう感じるのでしょうね。梅雨時の長雨と、その雨に打たれる様を想像できないとなかなか理解しにくいかもしれません。
 シャンソンの中のあじさいはもっとカラッとした、陽気で幸せなイメージですから、こんなところにも、文化の違いを見るようで興味深いです。

  しばらくは、このメロディーが鼻歌に出てきそうな気がします。


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* 梅雨時の片付け

   試験の前になると、急に部屋の片付けがしたくなる、
   本棚の本を並べ替えてみたり、
   机の中の整理を始めたり、
   ・・・・そんな人・・・私の他にもいらっしゃるのでは? 
 普段は気にせずごちゃごちゃでも結構平気なのに、秒読み状態の時ばかり・・・あの奇妙な衝動は一体どこから来るのでしょうね? 

 突き上がってくる“片付けたいパワー”に勝てず、狂ったように綺麗好きに変身し、机の中まで徹底的に整理などしてしまうと、もう逃げ場を失って、いよいよ目の前にホントは迫っているテスト勉強に向かわざる得なくなる・・・・この試験が終わって自由の身になったら、続きの片付けをすべて終わらせてスカッとした部屋で生まれ変わったような生活をしよう!!と心に誓い、テストに出陣するのですが、帰還してくると、スッと熱が冷めて、なぜあんなに掃除好きになっていたのかわからなくなる・・・・あれは試験勉強からの無意識裡の逃避行動だったのでしょうか?
 自分を時間の限界に追い込んでゆく自虐的な通過儀礼みたいな気もして・・・・今もほろ苦い感覚で思い出します。


 実は数日前から、ブログの更新もさておいて、梅雨時の今、不治の病の再発、片付け三昧の生活に入っているのです。

 しかしそれにしても、人が生きることはゴミを生み出すことかと思うほど、どうしてこうもモノやゴミって溜まるのでしょうね。
 吐き出す吐息みたいに、何かが湧き出してくる気がして、それを一つ一つ吟味し片付けながら新陳代謝してゆかないと、身も心も本当に重くなってしまいそうな気がします。
 
 昔の強迫観念の裏返しもあってか、私の趣味の一つは片付けと言っても良いくらい、整理整頓は好きなほうなので、たぶん一般的なレベルよりはかなり綺麗好きで、人様には家の中や身の回りがいつもすっきり片付いていると言っていただけるのですが、それでもいつの間にか背中に何かが覆いかぶさってくるように、モノが溜まり込んでくるものですね。
 
 人やモノとの関わりを深めてゆくことが、積極的に自分の人生を生きているという証しでもあるのでしょうから、過去や未来と繋がるモノの存在は、おざなりに出来ない意味あるものに違いありません。
 むしろ、重荷や余分と思われるものを敢えて背負ってこそが、人生の本当の意味であり面白さだということも、また真実でもあるのですが・・・。

 片付けの理想として、私の中に刻まれている一つの映像をご紹介してみたいと思います。


    祖母の部屋。
 私は小さい時から筋金入りのおばあちゃん子でした。
 祖母は昔気質の生粋の江戸っ子。ユーモアに溢れた、優しく温かい人柄で包容力のある親分肌の人でした。本当に楽しい人だったのですが、でも一面、竹を割ったようなしゃっきりとした性格で、とにかく真っ直ぐで何でも筋を通す一途なところがありました。
 初孫の私は、鉄は熱いうちに・・・ということで、祖母の家で小さい頃、礼儀作法、言葉、生活全般に到るまで、それはそれは厳しく仕込まれ叩きこまれました。(その割に今、ヘナチョコで、これはひとえに私自身の資質の問題、不徳の致すところで、今は亡き祖母に合わす顔はないなといつも申し訳なく思っています。)
 
    その祖母の部屋なのですが。
 実に綺麗なのです。 何と言うか・・・清潔にして簡素。部屋の中の一つ一つのモノが充分に生きて喜んでその役割を果たしているという感じなのです。
 例えば、読み終わった新聞のたたみ方一つとっても、凄いのです。
 ピシッと寸分の狂いなく、まさに折目正しく、それがストック箱に重ねられている様子まで思い出しますが、角までピタッと揃って実に気持ち良く、古新聞と言えども芸術品みたいな美しさを幼心に感じたものでした。
 どうしても祖母のようにはたためなかった私は秘訣を聞いたのですが、
 <今やっていることを心を込めてすれば、何でもできるようになる>
 という半ば禅問答のような答えでした。
 <今やることを厭だと思ってやったらいけない>
 とも言っていました。
 <泣き仕事はしないこと>という祖母の言葉は未だに、越えられない大きな課題として私の中にあります。
 祖母は人とのつながりをとても大切にしていましたが、モノに執着しない無欲な人でしたし、衣類にしろ、小物雑貨にしろ、余分なものは置かず溜めず、必要なものだけを大事に手入れし、合理的に整理整頓し、気持ち良く暮らしていた気がします。
 使い込んだ家具も、お茶碗も、新聞紙までが、あるべき場所でその役目を果たし、ピカピカだった気がします。

 私の祖母自慢は、武勇伝も含め、調子に乗って話すと、際限なくなりますので、我慢して今日はこれくらいにしておきたいと思いますが。


 私にとって、<片付ける>ことの理想はここにあるのかなと。


 今、<片付ける>ということが、ちょっとしたブームになっているそうで、書店に行ってもマニュアル本など多く並んでいたりします。
私もこれについては、子供時代からのそれなりのキャリアもあることですし、この話題は次回続けてお話してみようかと思います。


   ではこれからまた<片付け>、頑張ります!

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* 梅酒の思い出

 前回の記事、 美味探訪~レモン トパーズ色の香気~ にこのようなcommentをいただきました。

   そういえば今年初めて檸檬酒なるものを作りました。
  作り方は簡単でお砂糖&良く洗った檸檬&ホワイトリカーを瓶にいれてねかすだけで
  す!!3ケ月もすれば飲めるとか!!ついでに梅酒もつくりました。余り飲めないの
  ですが---ママ友達が楽しみにしてるから飲んでいただこうかな---!

青梅
 青々とした新緑に雨が降り続ける6月のこの季節を、青梅雨(あおつゆ)などと呼ぶこともありますが、まさに梅の実が青く実る季節でもありますね。
Commentへのお返事に代えて、梅酒について浮かんでくることを今日は少しお話ししようかなと思います。


    *   *   *   *

 レモンについての前回の記事の中で、高村光太郎の『レモン哀歌』をご紹介しましたが、やはり光太郎の詩集『智恵子抄』の中に、『梅酒』という詩があります。


    梅酒       高村光太郎

   死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
   十年の重みにどんより澱(よど)んで光を葆(つつ)み、
   いま琥珀(こはく)の杯に凝つて玉のやうだ。
   ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
   これをあがつてくださいと、
   おのれの死後に遺(のこ)していつた人を思ふ。
   おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
   もうぢき駄目になると思ふ悲(かなしみ)に
   智恵子は身のまはりの始末をした。
   七年の狂気は死んで終つた。
   厨(くりや)に見つけたこの梅酒の芳(かを)りある甘さを
   わたしはしづかにしづかに味はふ。
   狂瀾怒濤(きょうらんどとう)の世界の叫も
   この一瞬を犯しがたい。
   あはれな一個の生命を正視する時、
   世界はただこれを遠巻にする。
   夜風も絶えた。

 切ない詩ですよね。
 或る日、光太郎は、台所の片隅に智恵子が自分のために作っておいてくれた10年物の梅酒の瓶を見つけるのですね。
 『智恵子抄』は、精神の病に冒されて亡くなっていく愛妻、智恵子との日々を綴った詩集ですが、この詩は、もうそういう怒涛のような時間が通り過ぎてしまった後の喪失感の中で、亡妻への思いがしみじみと描かれています。
 琥珀色の梅酒の、豊潤な香りを愛しみながら、杯を傾ける光太郎の姿が見えてくるようです。
 この詩を知った中学生の頃から、私にとって、<梅酒>はどこか神聖でポエティカルな飲み物のイメージがあるのです。


    *   *   *   *


 梅酒を毎日飲むと健康に良いという情報をどこかで耳にして、父が或る日、「我が家でも梅酒を作ろう」と言い出したのは私が小学校に入る頃だったでしょうか?
 それ以来かなり長い間、母は毎年ずっと梅酒を作り続けていました。
 (いつの頃かぱったりと止めてしまいましたが。)
 当時余り体が丈夫ではなかった母に、夏は夏バテ防止、冬は冷え改善の効果があるという梅酒を、という父なりの愛情だったのかもしれませんが、何よりも、父はお酒の中で熟成した甘酸っぱく溶けそうな梅の実を瓶から取り出して食べるのが楽しみだったようです。
 梅干しやお漬物など、面倒がって漬けることのなかった母が、青梅を丁寧に広げて干すところからかなり本格的に梅酒を作っていたのは、今思うと不思議なのですが(毎年いくつもの大きな瓶にかなりな量を仕込んでいました)、母の梅酒はなかなか本格的で絶品だと色々な方が褒めてくださっていたようです。

 忘れもしません。我が家の初梅酒体験のこと。
 初めの年に作った梅酒、・・・・仕込んでから、一年間寝かせてさあ解禁という、何かの除幕式のセレモニーのように、恭しく瓶を開ける父を真面目な顔で私と弟は見守っていました。
出来が良く大成功だったのですが、梅酒はお酒ではなく養命酒みたいな薬?!という観念が、父にはどこかに根強くあったらしく、あろうことか、私たち子供もご相伴する事となり・・・・勿論それまでアルコールを口にすることなどなかったのですが、・・・今思えば、ほんの数滴ほどを氷と水で薄めた、もしかしたら少しだけ甘酸っぱいかな?と思うくらいのものだったのですが、・・・それでも梅酒はアルコール・・・てきめんで・・・小学生の私は、頭が熱くなりその夜は覚醒した感じで全然眠れませんでした。幼稚園児の弟は陽気になって騒ぎ始め・・・・ それからは皆で懲りて、子供にとっては、長きにわたり眺めるだけの禁断の飲み物となったのでした。
梅酒
 それから程なく我が家では、梅酒は、三年間寝かせると美味しいという・・・??な法則が出来て、台所の梅酒保管場所に、いつも梅酒が必ず何瓶か、甕(かめ)みたいな大きな瓶に入って、三年目のご開帳を待つことになったのです。


   *   *   *   *


 数年前でしたか、或る日母から電話があり「いつのかわからない古~~~い梅酒が出てきたのだけれど」と言うのです。
 それで、見に行ってみますと、なるほど・・・・納戸の中に昔懐かしい甕(かめ)状の大きな瓶に入った梅酒が二瓶ありました。
 よくよく見てみると、包んであった古びた新聞紙の日付けが、17年前のもので、どうやらこの頃に仕込んだものなのではと推測されるのです。

 皆で茫然と見つめ、どうしたものかという事になりました。
 父と母は、置き去りにされた梅酒は、誰のせいなのか、という責任追及に走りそうな雰囲気だったのですが、落ち着いて考えてみますと、どうも、嘗て転居した際にまとめた荷物を、荷解きをするまでの間という事で新しい納戸に保管して、そのまま忘れてしまっていたようなのです。
 
 まず、瓶の蓋を開けるのも、一苦労・・・糖分が結晶化して瓶の縁にこびりついてしまっていて大変でした。
 『梅酒』の詩ではありませんが、こちらは<17年の重み>です。
で、本当に「どんより澱んで光を葆み」で、濃い琥珀色の、梅の実が半ば溶けだしたような・・良く言えば深いコクが見られ、・・・要するにさらっとした液体ではなく、何か近寄りがたい不思議な雰囲気を醸し出しているのです。

 これは果たして、飲めるのか、飲めないのか、捨てるべきか捨てざるべきか、という話になったのですが。

 色々調べてみると、
 「梅酒は寝かせれば寝かせるほど、熟成され味わい深くなってくる。」
 「本当に価値のある梅酒は10年物で、本当の通はそういうものを味わうのだ」「家庭でも上手に管理すれば10年物を作ることも可能」
 などと記されているのですが、10年ぐらいは大丈夫です!と書いてあっても、ではどこまでがリミットなのかは全く分からないのです。無制限なのでしょうか?
 酒豪の知人にも、顔見知りの酒屋さんにも、念のため聞いてみたのですが、皆「たぶん大丈夫!」とは言うものの、納得のいく充分な解答は得られず・・・保管が良ければ、結構長いこと大丈夫らしい・・・濁りが出ていなければお腹を壊したりしない筈・・・などという怪しげなところ止まりでした。

 結局、
  * 貯蔵庫のようなところできちんと保管していたのではなく、あちらこちら運び回した末、ただ失念していたということ。 
  * 濁りがあるのかないのか、よく判断できない状態であること。
  * 梅酒を飲まない生活をもう長くしてきているのだから、今更リスクを冒してまで挑戦する必要はないだろうということ。

 で、捨てたのでした。(お粗末な顛末でした。)

 長いこと共に側にあったものと離れる時は、誰しも、どことなく執着心が湧くものですが、この小さな梅酒騒動にも、つかの間、昔の思い出や、忘れていたとはいえ、17年間の月日が籠っている気がして、家中にいつまでも、 甘い果実酒の香りを放つ梅酒を捨てながら、「もしかしたらとても美味しくなっていたのかもしれないのに。ごめんなさい」と心で呟いたのでした。

     *   *   *   *

 今日は取りとめなく梅酒の思い出話をしてしまいました。

 ハンドルネームすずろさん、commentありがとうございました。
 檸檬酒も梅酒も、美味しく出来上がると良いですね。



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* 美味探訪 ~レモン トパーズ色の香気~

 梅雨時は、どこかぼんやりした気分になりがちですが、今日は、レモンのお話で、つかの間の清涼感を!
レモン3 先週、6月1日に放映された「ためしてガッテン」をご覧になりましたか?
 ・・私は普段はあまりテレビを見ないほうなのですが、この番組は、さすがNHKで、確かに<ガッテン!>することが多いので、いつも録画しておいて、面白そうなときは時々見ています。
 
 そんなわけで、先週の放送分を2~3日前に見たところなのです。
 実は、「みそ汁もラーメンも!レモンで激うまにする本気の裏技」というちょっと怪しげなタイトルだったので、今回はパスかなと思いつつ、でも、何となくつけてみたら、これがなかなかで、凝り性の私は、結構はまり始めています。


 全部詳しく書くのも大変なので、ご興味のある方は後でゆっくりこちら、NHKのサイトをご参照いただくとして。 
 まずは、内容をざっとご紹介してみますね。

 レモン果汁は酸っぱい。
 でも、酸っぱいだけではお酢と同じなわけで、それを超えた、レモンらしい香りや味わい、その美味しさを追求するとなると、それは、果汁ではなく皮に含まれている、だから、皮ごと食べれば良いのだ、というお話なのです。

 ・・・これだけでも何なので、もう少しだけ説明しましょうね。

 この番組らしく、お酢ティーとレモンティーの飲み比べテストをやっていました。結果はお酢ティーを美味しいと感じた人の方が多数で。  
 ??ですよね。そんなことあってよいのでしょうか?
 そう言われても、自分で試さなければガッテン出来ませんので、私も早速飲み比べてみました。
 微妙ですが、でも普通にレモンティーに期待する、すっきりしゃっきりした酸っぱさは、確かに若干お酢ティーの方が勝っている気がしました。
 NHKの催眠術に巧みに引き込まれてゆくようですが、レモンの酸味がレモンらしさではないとすると、では、レモンらしさとは何か?という事になります。
 
 味じゃないなら香りでしょう。
 <初恋はレモンの香り>・・・レモン特有の香り成分「シトラール」がレモンらしい爽やかな香りを作り出すのだそうで、それがレモンの果汁ではなく表皮の、「油胞」と呼ばれる粒粒の中に詰まっているのだそうです。
 なので、皮ごとばりばり食べるのがベストなわけですが、そういうレシピの多い地中海などのレモンとは違って、日本のレモンは気候の関係から皮が硬いので、食べにくい・・・どうしたらよいのか?・・・というところから、いよいよ話が佳境に入ってゆきます。

 番組は、レモン料理を様々に開発している愛知県豊橋に取材していました。

 真ん中は省き、一足飛びに結論に。
 レモンを丸ごと冷凍庫で凍らせ、使う時に凍らせたままのレモンをおろし金で、すりおろす・・レモンが黄色い粉になります。これをふりかけのように、色々な料理に混ぜるのです。
 この方法だと、油胞は全部つぶれて、酸味もまろやかに、苦味もあまり出ず、どんな料理も抜群に美味しくするのだと言っていました。
 スタジオで、そうめん・ラーメン・味噌汁・お汁粉にかけ試食していましたが、塩味や甘味をより引き立て、味がグレードアップすると出演者は美味しそうに皆絶賛していました。
 ビタミンCも果汁だけの時の5倍も取れるので、健康にもよいですよ!というお話なのですが。ここまで来るとちょっと試してみたくなりませんか?
 
 こういう生活の知恵を授けてくれる番組は、他にも色々ありますが、どんなに良くても、あまりややこしいと、その時は納得しても、すぐ忘れたりしてしまうものです。(私の場合はですが・・)
 でも、冷凍庫に入れて凍らせておくだけなら、私でもOKですし、大体、普段、レモンをいくつか買ってきても、そんなに沢山使えるものでもありませんから、使い切らずに無駄にしてしまうことも多いのです。
 冷凍庫に入れて良いなら大助かりで、しかも納豆には薬味の感覚で、ご飯には風味を増すのでたっぷりと・・・といった具合で・・・それで美容にも・・というのは結構良いお話なのではと。
 これは、是非ブログでシェアせねばと思った次第です。

 素直な私は早速、(お汁粉だけはまだ試せていませんが、それ以外)納豆・ご飯・お味噌汁など番組紹介のメニューは全部、それに加えて、煮物・揚げ物などのお惣菜やレモネードなども試してみました。
 本当に結構いけます!!
 柚子やシソ、長ネギなどの薬味や香り付けの感覚で使えば良いかなと思います。それに加えて、ほのかに甘酸っぱいので、甘いものにも意外に合うというのが驚きです。

 ただ一つ気になるのは、番組では特に取り上げてはいませんでしたが、丸ごと食べるということになると、レモンの皮に付着している防カビ剤や残留農薬の事です。
 少し調べてみましたが、結局は、色々な研究データーからの健康影響をどの程度気にするかという各人の判断の差異によるのでしょうね。
 昨今の食べ物にはこれに限らず、様々にリスクが付きまとうので、どこまで良しとするかの許容範囲の問題かもしれません。
 ただ、いずれにしても、良く水で洗って表面をできるだけ綺麗に洗い流すことは大切なことでしょう。
 輸入か国産か、また、自然農法のものか、などのこだわりについても、各人各様かと思われます。

 そのようなわけで、私はしばらく、レモンに凝ってみようかと密かに思っているのです。


 で、今日もおまけのお話。

 マイレモンには、マイおろし金というのが楽しいのではと。

 私のイメージでは、生わさびを自分用の小さなおろし金ですりますよね。或いはパスタにちょっとお洒落なチーズスライサーで粉チーズを削ってゆきますよね。あの雰囲気の食卓が思い浮かぶのです。良いと思いませんか!
 そう思いながら、スライサーを探したら、面白いものが見つかりました!!


   レモン2
         Microplane社HPより

 アメリカのMicroplane社から出ているシトラスツールというおろし器です。
 これまで、私が知らなかっただけで、スライサーの開発では群を抜いている会社のようですね。元々は大工用具のメーカーで、木工用のヤスリから発展させてチーズやシトラスのスライサーを考案したそうです。

 我が凍りレモンをおろしてみましたら、本当に切れ味良くすりおろせるのです。これはなかなかの優れもの。ほわっと薄黄色のパウダー状のレモンの粉がさらさらと面白いように出来上がってきます。
 チーズは勿論、生姜もペースト状でとてもなめらかで食感も風味も抜群なのです。2600円と値が張るのですが、楽しんでずっと使えそうですし、自分としては良いものを見つけたと思います。
シトラスツール ちなみに、日本のおろし金は、食材を引いたり押したりするわけですが、(それが我等日本人の「おろす」という動作ですね。)、このシトラスツールの場合は、食材の上におろし器を置き、おろし器を一定方向にだけ動かします。(手前に引きます)すると、おろしたものは下に落ちずにシトラスツールの上にたまってきます。
 勿論、反対の方法・・・食材をシトラスツールの上に乗せ、食材のほうを動かすという方法も可能です。こうすると、お料理の上にはらはらと雪が舞い落ちるような風情を見ることが出来ます。この場合は食材のほうを押すという動作になるのですが。

 

 
 ところで、<レモン>といえば、高村光太郎の『レモン哀歌』が浮かんできます。
 
   そんなにもあなたはレモンを待ってゐた
   かなしく白い死の床で
   わたしの手からとった一つのレモンを
   あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
   トパアズいろの香気が立つ

 レモンは、詩の中で本当に美しく天のものなる香気を発しています。

 そして、<檸檬>といえば梶井基次郎ですね。
 あの小説の舞台になった京都の丸善書店は6年前に店を閉じてしまいました。
 店じまい直前に、惜しみつつ私も訪れてみたのですが、店頭に『檸檬』や梶井基次郎関連の書籍がたくさん並んでいたのを思い出します。

          レモン


          今日はレモンのお話でした。



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* 「ロボットミューラとマーガレット」 その三

エッフェル塔 今日は「ロボットミューラとマーガレット」訳詞への思い<4>の最終回です。
 「ロボットミューラとマーガレット」その一 及び 「ロボットミューラとマーガレット」その二 から内容が続いていますので、もしまだお読みでない方、何が書いてあったっけ?という方は、遡ってご参照くださいね。

      「ロボットミューラとマーガッレット」その三
                       訳詞への思い<4>
 
 
  「ロボットミューラとマーガレット」
 この訳詞を私が作ったのは2005年、今から6年前になる。
 自分としてはこの曲はかなり気に入っていて、これまで、訳詞コンサートでも何回か歌っているので、聴き覚えて下さった方もおられるのではと思う。

 さて、まずこの訳詞のタイトルについて。
「ロボットに名前があったのか?」ということだが、原詩のどこを探しても何も出ていない。
 実は「ミューラ」という名は私が勝手に命名してしまった名前なので。
 ロボット考2「パックボット」と「パロ」で記してみたような、この曲の中のロボットへの親和感から敢えて命名したくなったのかもしれないし、自分の中に、そういうアトム誕生の国の根強いDNAがあるためかもしれないとも思う。


 訳詞の冒頭は次のようである。

    ナノテクロボット 彼の名はミューラ
    家事ならお任せ 何でも 何でも パーフェクト
    掃除 洗濯 Eメール 美味しい料理を作り
    赤ちゃんに子守歌 犬のロックに餌をやる


 金属アームを振り上げて花びらを引きちぎったり、赤ちゃんの皮をむいたりする、乾いたハードな西洋的ロボットは、少なくとも私の日本的感覚においては、この童話のような物語にはそぐわない、どうもしっくりこないという気がして、・・・でもそこがフランスのシャンソンなのに、と言われると困るのだけれど、・・・・今回は、毒を抜いてかなり親しみのある可愛らしいイメージに徹してみた。

 ロボットにはミューラ、犬にもロックと名付けたら、個性を持った人間的な顔が見えてきた。
 それぞれの名前の由来には、個人的なこだわりと愛着が勿論充分にあるのだけれど、これは秘密・・・・。どうしても話したくなるまで、言わないで我慢することとする。

 後半、ミューラはマーガレットがなぜ咲いているのか、知りたくなって花びらをそっと一枚だけ飲み込んでみる。・・・そうすると、異変が起こるわけだが。
 この部分は、こう訳してみた。

    プログラムが狂いだす スープに手紙を煮込んで
    犬のロックに 子守歌 哺乳瓶でミルク

     <好き 嫌い>
    一枚ずつ 花びら ちぎって飲み込み
     <好き 嫌い>
     <好き 嫌い>・・・・突然 動かなくなった



 前回の記事で触れた、原曲の対訳と比べていただけると明白なのだが、言葉も、全体の雰囲気も、かなり変えている。
 例の、皮をむくことなどは勿論やめて、せっかく名前が出来たロックに、代わりにもう少し登場してもらうことにした。

 5分の1のpassionnément (熱烈に)も却下して、日本的に、オーソドックスな2分の1の賭けで、ミューラに占ってもらうことにした。


 いつも訳詞を手掛けるときの信条として私は、出来得る限り、原詩に忠実に、ニュアンスをそのまま伝えることを大切に、と考え、努力しているのだが、今回、この詩に関してはむしろかなり原詩から離れ、創作部分を多く取り入れてしまっている。

 この原詩をそのまま読めば、フランス人ならおそらく感じるであろう、現代のメルヘンとしての面白さ、ロボットが恋をするという発想の意外性、可愛さは、忠実な対訳でフランス語をそのまま日本語に置き換えることでは、却って伝わらないのではと考えたためでもある。
 また、自分としてのロボット像がかなり明確に浮かんできたので、それをこのメロディーに組み込んで、原詩のエッセンスだけを残してゆければと思ってしまったためもあるかもしれない。

 訳詞はどうあるべきか、・・・・一筋縄ではゆかない難しさ、それゆえの面白さをいつも感じている。


 ともあれ、この「ロボットミューラとマーガレット」は、これからもコンサートの中で歌ってゆきたい大好きな曲の一つである。
 リアルな現実ではないけれど、結構切なくもあり、こんなシャンソン、こんな恋の歌があっても、また楽しいのではないかと思っている。

                                       FIN

    (注 訳詞、解説について、無断転載転用を禁止します。
取り上げたいご希望、訳詞を歌われたいご希望がある場合は、事前のご相談をお願い致します。)




    おまけの話
Tシャツ   一昨年、ベネトンで、こんな絵のついたタンクトップを見つけました。
 ああ、ミューラだ、と思って思わず買ってしまいました。
 私の中ではミューラはこんなに、のほほんとした平和な顔をしたロボットなのです。
 何となく勿体なくて、これまで箪笥にしまって時々、眺めていただけでしたが、今年は着てみようかなと思っています。
                               


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* 「ロボットミューラとマーガレット」 その二

エッフェル塔
 6月になりました。紫陽花が雨に映える季節ですね。
 
 さて、早速、前回の記事
「ロボットミューラとマーガレット」その一 訳詞への思い<4> の続きに入りましょう。今日は、原曲のご紹介をしたいと思います。


      ロボットミューラとマーガレット」その二 
                          訳詞への思い<4>


  le robot et la marguerite
 「ロボットミューラとマーガレット」という訳詞についての説明に入る前に、まず、この原曲のことから。
 原曲は「le robot et la margurite」(ロボットとマーガレット)であり、既に述べた通り、これは、シャーロット・ランプリングのアルバム『comme une femme』に収められている曲である。


 「le robot et la marguerite」は、次のような歌詞から、始まる。

  un robot électroniqu’ magnétique, informatique
  aspirait, lavait, brossait   epluchait, tricotait, rasait
  faisait les lits, le courrier   coupait les frit’s, berçait bébé
  préparait l’eau pour le bain et donnait la pâtée au chien
 
  (電子のロボット 磁気の コンピューターの
   掃除機をかけ 洗濯をし ブラッシングをし
   皮をむき 編み物をし 髭そりをし 
   ベッドメイク 手紙 フライのカット 赤ちゃんの世話
   お風呂の用意 犬に餌もやった)

 ざっと対訳すると上記のような意味なのだが、コンピューターで制御されたこのロボットは、家事全般がかなり得意なようだ。
 そして、フランス語部分を目で追ってみてもすぐわかるように、音韻が綺麗に揃えてあって、軽快なリズムに合わせてフランス語の発声が規則的に響き、まさにロボットが休むことなく働き続けていく、勤勉な様子が感じられる。
 アンニュイなハスキーボイスのランプリングが、この歌だけは、可愛い声でお茶目に歌っていて・・・・歌おうとしていて、そのアンバランスな感じが、却って大人のメルヘン、という雰囲気を醸し出していて、聴いているとなかなか微笑ましく楽しい。
 
 そして、曲は続き、物語が展開してゆく。

 ロボットは油さえさせば、インフルエンザにも罹らず、心痛めることも、考えることもない。 自覚していたわけではないが、幸せに生きていた。
 でもある日、一輪のマーガレットが彼の平和な生活に混乱をもたらした。
 特に何をしたわけでもなく、良い香りを放った、ただそれだけなのだが。
 「花なんか何の役に立つのだろう?」とロボットは自問して、それを解決するために金属アームを動かして、花弁を一枚引き抜き、自分のらせん状の器官の中に押し込んだ。

 ・・・・さて、ここからロボットに異変が起こるのだが。

 ロボットはぼんやりとして、今までのように有能に仕事をこなせなくなる。
へまばかりして、更にマーガレットの花弁を全部食べてしまい、ついには故障して倒れ動かなくなる。 恋に死んだということを自分では知らずに。

 ・・・・大雑把な説明だが、このような内容の歌なのだ。
 わかるようで結構謎。 可愛いようで結構シュール。シャンソンぽい洒脱な味わいを感じる。

 もう少し具体的に見ながら、いくつかの興味深い点を取り上げてみたい。


 まず、ロボットが壊れてゆく場面の描写から。
 
  Adieu le travail bien fait   il enclenchait, d’un air distrait
  faisait bouillir le courrier   ou bien il épluchait bébé

  (よくできる仕事にさよなら  ぼんやりした様子で動き始める
   手紙を煮込んでしまう  赤ちゃんの皮をむく )

 ロボットが壊れ始めたのはわかるけれど、かなり怖い。
 何気なく歌っているけど、「本当は怖いグリム童話」みたいにゾゾ~と背筋が寒くなる。冒頭のepluchaint(皮をむく)はたぶんフライドポテト用のジャガイモの皮むきなのだろうけれど、なにもこれをbébé(赤ちゃん)と組み合わせなくても・・・こう言っては偏見かもしれないが、・・・・フランスぽいと思ってしまう。


 二つ目の注目点。
 ロボットがマーガレットの花弁を全部食べてしまう場面で、
歌詞に、「彼は“passoionnément”と言い 突然故障して倒れた」というフレーズが出てくるのだが、“passoionnément”は「情熱的に・熱烈に」という意味であり、ではどういうことなのか? 解釈上ここにも一つ、謎がある。 
 ・・・・これはおそらく、“effeuiller la marguerite”、(花占い)のことではないかと思われるのだが。
マーガレット マーガレットは恋占いの花・・・マーガレットの花言葉もまさに「恋占い」なのだが、花弁を一枚ずつ、ちぎりながら「好き」「嫌い」・・・と占っていくあの占いのことだ。
 「好き」か「嫌い」か、意中の人の思いを知りたくて花にまですがってしまう、この占いは多くの国にあるようで、全世界、切ない恋心は共通なのだろう。
 「好き」か「嫌い」かの二者択一に決まっているようなものだが、実はフランスの花占いは少し異なっていて、5段階に細分化されていることをご存知だろうか。

     il m’aime (彼は私を愛している)  
 と、まず、唱えた上で花びらを一枚ずつちぎり始める

     un peu(少しだけ)
     beaucoup(とても)        
     passionnément (熱烈に)
     à la folie( 気も狂わんばかり)   
     par du tout (全然)

 これを繰り返し唱えながら花弁をちぎってゆくのだそうだ。
 よく考えると、この場合、「嫌い」の確率は5分の1なわけで、あとは「好き」の程度を計っているだけなので、賭けとしてはちょっとズルい。
 丁か半か、二つに一つの我が日本の方が潔い気がしてしまうけれど、(ちなみにドイツも二者択一だそうで、この点における同盟国である)、フランス流には、「好きに決まってる!・・・どれくらい好きかを知りたいのだ」という切実さ、更なる欲張りな探究心みたいなものも感じる。
 でもその分、お正月のおみくじと同じくらいの確率で、末吉 吉 小吉 中吉 大吉 とチョイスがやはり5種類もある中で、凶を引き当ててしまった時のショックは却って大きいかも・・・などとつまらないことを考えてしまった。

 ちなみに、il m’aime (彼は私を愛している)という言葉から、花びらをちぎり始める流儀もあるようで、こちらだと、片思いである確率は6分1に縮まってくる。
 さらに付け加えると、il m’aime(彼は私を愛している)の代わりにje t’aime(私はあなたを愛している)と言う場合もあるらしい。こうなると自分の心模様を確かめようとする、恋は自らの心まで計れなくするものだ・・・というようななかなか詩的、且つ、心理学的な境地に入ってくるかと、益々面白く感じられてくる。

 ・・・・もうおわかりのように、ロボットは花占いをしていて、passionnément(熱烈に)と唱えたところで力尽きたという推理である。
 par du tout(全然)ではなくて良かった!!


 さて、三つ目の注目点。
 この曲の歌詞の最後の、動かなくなるところのフレーズにすべての答えが隠されているわけなのだが。

 歌詞の最終行は“Sans savoir qu’il mourait d’amour・・・・”である。

 これは、「彼は恋に死んだということを知らないで・・・・」という意味なのだが、ということは、ロボットは、花びらを飲み込んだ時の自分の気持には全く気付いておらず、でも実は、それはマーガレットに恋をしていたのであり、ロボットが恋をしてしまった時、それはロボットとして生きられなくなる時、つまり破壊する時を意味していたことになる。
 先日来、「ロボット考」の中で書いてきたアトムやナイトと一脈繋がるものを感じてしまうのだが。

 
 さて、いよいよ訳詞の紹介ですが、長くなりましたので、肝心なところを残して、今日はここまで。 
 次回に続きますので、一息入れて、しばしお待ち下さい。

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