
昨日は七夕でしたね。
京都は生憎の雨で、昼も薄暗い無情な空・・・めげず私は友人のTさんとランチデートをしました。二年前までフランス語の同級生だった彼女と前回会ったのは今年の一月。
震災の復興、政治、現代若者事情など、話題は多岐に及ぶのですが、私たちが一番盛り上がるのは、音楽美術等の芸術論、一昔前の学生同士みたいに、かなり真面目に山ほど話して、「また秋にでも・・」と言って別れました。
お互いの生活には踏み込まずさっぱりと、でも気心が通じ、良い刺激を受け合う間柄、Tさんは率直で温かい素敵な女性です。
さて、何回か前の記事、「梅雨時の片付け」の続きです。
次回続きを・・と言っておきながら、間が空いてしまいましたが、この間、色々中断しつつも、家の片付けに精を出しておりました。
さすがに一段落し、家の中、身辺、かなりすっきりと片付きました。
梅雨時は放っておくと、カビやダニなど発生し易いですし、気持も滅入りがちな季節ですので、この時期に大掃除するのは、実は理に適っていてなかなか有効なのかもしれません。
前回、<昔から片付けは趣味の一つだった>と告白しましたが、時々彗星ののように本屋さんの店頭に現れる、片付け術を指南するベストセラーも、折に触れ手に取ってきました。(how to本は、元来は好きではなく、殆ど読まないのですが、この分野だけは趣味なので・・・片付け仲間=本の著者と出会い共感するのが楽しみでもあり、また彼らライバル達が(自分で勝手に思ってるだけですが)どんな工夫をしているのかチェックしたくもあり・・・・ちょっとだけ例外なのです!)
で、最近のヒット本、『新・片付け術 断捨離』(やましたひでこ著)と『人生がときめく片付けの魔法』(近藤麻理恵著)に目を通してみました。
「断捨離」とはヨガの行法哲学の「断行・捨行・離行」から取った言葉で、 モノを「断」ち、ガラクタを「捨」てれば、執着も「離」れてゆくということなのだそうで、食事制限(ダイエット)と毒素排出(デトックス)で新陳代謝(メタボリズム)が促されてゆくのに例えられています。
説明が明確なので、一気に読んでいくうちに、俄然片付けたい気分がムラムラと生まれてくるところがミソですね。片付けへの背中を押してくれるものを渇望している方にはお薦めです。
「片付け」と「整理整頓」と「掃除」は全く別物で、「断捨離」とは「片付け」の分野を指している言葉なのだと説明されているのですが、いずれにしても、根本的に自分にとって本当に必要なモノを改めて見直すことが大切と・・・共感させられる部分が確かにあります。
もう一冊、『人生がときめく片付けの魔法』・・・ 『断捨離』同様、インパクトのあるネーミングですが、読者を引きつける必要条件の一つなのかもしれません。
「まずは、収納しないで「捨てる」という作業を一気に短期に完璧に片付けること、これをすれば絶対に元の散らかった状態には戻らない」と筆者は述べています。
では何を、どう捨てるかが問題になるわけですが、「理想の暮らしを考えながら、目の前にあるモノに今、ときめきを感じるか否かで判断する事」が大切であり、モノを貯め込んでしまうのは、「過去にたいする執着」か「未来に対する不安」があるからであり、それをふっ切ることが「モノがなくても何とかなる」という自分に対する自信の獲得につながるのだと、なかなか哲学的に展開して行きます。
完璧な片付けを一度でも体験すると、人生がときめくような感覚を覚え、そしてその後に、自分が本当に求めていたモノや目標までもが見えてくる・・・人生が魔法にかかったかのようにドラマチックに変化してゆくのを実感する・・それを筆者は「片付けの魔法」と称しています。
興味深いですね。
でも、実際には、一つ一つのモノを前にして、「ときめく」か「ときめかない」か、瞬時に判断し、「捨てる」という行動につなげてゆくことは、敏感な感性と毅然とした決断力を必要とすることで、それなりの修練も必要かもしれません。
モノを消費するのが美徳とされた、<大量生産・大量消費の時代>ならいざ知らず、震災後の、守りと我慢が急務の今、こういう本が流行り、巷(ちまた)にモノを片付けるという欲求が生まれてきているとすれば、それは不合理のようでもありますが、これまでモノに溢れたまま無自覚に暮らしてしまっていたことを省みて、シンプルな生活、本当にモノを大切にし豊かに生きるとはどういうことかを根本から問い直し、生活を変えてみる一歩を踏み出すという点では意味のある事かなとも思うのです。
<断捨離>で言うなら、凝り性で道具立てが大好きな私には、「断」の部分がかなり難関ではあるのですが、いずれにしても、梅雨明けを前にして、私の身の周りはかなりすっきりと片付きましたし、綺麗になると更に綺麗にしたくなるもので、磨き掃除などまでいつもよりこだわって頑張ってみました。
ただし、・・・・水清くして魚棲まずではありませんが、ホテルみたいな部屋が100%良いわけでもなく・・・。
戦後の、絶対的モノ不足を体験したことのある我が母などは、今もってモノが沢山ないと不安なようで、「片付けたい」「片付けなくちゃ」と口癖のように言いつつも、しっかりとモノを貯め込んで、様々なジャンルに渡ってストックに溢れた生活を送っています。
「いらないものの処分を手伝ってほしい、文句は言わないから」と言うのですが、サイズの合わない服などに至るまで、捨てるとなると、惜しそうにダメ出しが始まります。
ある程度の踏ん切りがないと片付けは出来ませんので、ついついむきになって説得にかかったりしてしまうのですが・・・。
でも、思い出の品、モノと言えども共に生きてきた歴史があり、それが今の生活の中でみればもはや不要なモノであったり、はた目からはゴミのようであったとしても、だから、その人にとって価値がないとも言い切れないですよね。
あまりにも過去に引きずられ過ぎたり、ただ整理ができなくて不用品に埋もれ、沢山モノを持っているのに不自由な生活をするのはどうしても感心できませんから、改善の努力をするとして、捨てたくても捨てられないものを苦笑いしながら抱えてゆくのも人間らしくて自然なのかなとも思うのです。
「梅雨時の片付け」の記事でご紹介した亡き祖母のことを思い出します。
きっと様々な執着から離れた潔い心境の中にあったのではという気がしますが、そんな話を改めて聞いてみたかったなとふと思うこの頃です。
京都は生憎の雨で、昼も薄暗い無情な空・・・めげず私は友人のTさんとランチデートをしました。二年前までフランス語の同級生だった彼女と前回会ったのは今年の一月。
震災の復興、政治、現代若者事情など、話題は多岐に及ぶのですが、私たちが一番盛り上がるのは、音楽美術等の芸術論、一昔前の学生同士みたいに、かなり真面目に山ほど話して、「また秋にでも・・」と言って別れました。
お互いの生活には踏み込まずさっぱりと、でも気心が通じ、良い刺激を受け合う間柄、Tさんは率直で温かい素敵な女性です。
さて、何回か前の記事、「梅雨時の片付け」の続きです。
次回続きを・・と言っておきながら、間が空いてしまいましたが、この間、色々中断しつつも、家の片付けに精を出しておりました。
さすがに一段落し、家の中、身辺、かなりすっきりと片付きました。
梅雨時は放っておくと、カビやダニなど発生し易いですし、気持も滅入りがちな季節ですので、この時期に大掃除するのは、実は理に適っていてなかなか有効なのかもしれません。
前回、<昔から片付けは趣味の一つだった>と告白しましたが、時々彗星ののように本屋さんの店頭に現れる、片付け術を指南するベストセラーも、折に触れ手に取ってきました。(how to本は、元来は好きではなく、殆ど読まないのですが、この分野だけは趣味なので・・・片付け仲間=本の著者と出会い共感するのが楽しみでもあり、また彼らライバル達が(自分で勝手に思ってるだけですが)どんな工夫をしているのかチェックしたくもあり・・・・ちょっとだけ例外なのです!)
で、最近のヒット本、『新・片付け術 断捨離』(やましたひでこ著)と『人生がときめく片付けの魔法』(近藤麻理恵著)に目を通してみました。

説明が明確なので、一気に読んでいくうちに、俄然片付けたい気分がムラムラと生まれてくるところがミソですね。片付けへの背中を押してくれるものを渇望している方にはお薦めです。
「片付け」と「整理整頓」と「掃除」は全く別物で、「断捨離」とは「片付け」の分野を指している言葉なのだと説明されているのですが、いずれにしても、根本的に自分にとって本当に必要なモノを改めて見直すことが大切と・・・共感させられる部分が確かにあります。
もう一冊、『人生がときめく片付けの魔法』・・・ 『断捨離』同様、インパクトのあるネーミングですが、読者を引きつける必要条件の一つなのかもしれません。

では何を、どう捨てるかが問題になるわけですが、「理想の暮らしを考えながら、目の前にあるモノに今、ときめきを感じるか否かで判断する事」が大切であり、モノを貯め込んでしまうのは、「過去にたいする執着」か「未来に対する不安」があるからであり、それをふっ切ることが「モノがなくても何とかなる」という自分に対する自信の獲得につながるのだと、なかなか哲学的に展開して行きます。
完璧な片付けを一度でも体験すると、人生がときめくような感覚を覚え、そしてその後に、自分が本当に求めていたモノや目標までもが見えてくる・・・人生が魔法にかかったかのようにドラマチックに変化してゆくのを実感する・・それを筆者は「片付けの魔法」と称しています。
興味深いですね。
でも、実際には、一つ一つのモノを前にして、「ときめく」か「ときめかない」か、瞬時に判断し、「捨てる」という行動につなげてゆくことは、敏感な感性と毅然とした決断力を必要とすることで、それなりの修練も必要かもしれません。
モノを消費するのが美徳とされた、<大量生産・大量消費の時代>ならいざ知らず、震災後の、守りと我慢が急務の今、こういう本が流行り、巷(ちまた)にモノを片付けるという欲求が生まれてきているとすれば、それは不合理のようでもありますが、これまでモノに溢れたまま無自覚に暮らしてしまっていたことを省みて、シンプルな生活、本当にモノを大切にし豊かに生きるとはどういうことかを根本から問い直し、生活を変えてみる一歩を踏み出すという点では意味のある事かなとも思うのです。
<断捨離>で言うなら、凝り性で道具立てが大好きな私には、「断」の部分がかなり難関ではあるのですが、いずれにしても、梅雨明けを前にして、私の身の周りはかなりすっきりと片付きましたし、綺麗になると更に綺麗にしたくなるもので、磨き掃除などまでいつもよりこだわって頑張ってみました。
ただし、・・・・水清くして魚棲まずではありませんが、ホテルみたいな部屋が100%良いわけでもなく・・・。
戦後の、絶対的モノ不足を体験したことのある我が母などは、今もってモノが沢山ないと不安なようで、「片付けたい」「片付けなくちゃ」と口癖のように言いつつも、しっかりとモノを貯め込んで、様々なジャンルに渡ってストックに溢れた生活を送っています。
「いらないものの処分を手伝ってほしい、文句は言わないから」と言うのですが、サイズの合わない服などに至るまで、捨てるとなると、惜しそうにダメ出しが始まります。
ある程度の踏ん切りがないと片付けは出来ませんので、ついついむきになって説得にかかったりしてしまうのですが・・・。
でも、思い出の品、モノと言えども共に生きてきた歴史があり、それが今の生活の中でみればもはや不要なモノであったり、はた目からはゴミのようであったとしても、だから、その人にとって価値がないとも言い切れないですよね。
あまりにも過去に引きずられ過ぎたり、ただ整理ができなくて不用品に埋もれ、沢山モノを持っているのに不自由な生活をするのはどうしても感心できませんから、改善の努力をするとして、捨てたくても捨てられないものを苦笑いしながら抱えてゆくのも人間らしくて自然なのかなとも思うのです。
「梅雨時の片付け」の記事でご紹介した亡き祖母のことを思い出します。
きっと様々な執着から離れた潔い心境の中にあったのではという気がしますが、そんな話を改めて聞いてみたかったなとふと思うこの頃です。


