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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

「そして 君」 その一

夕暮れのセーヌ川 昨日は66回目の終戦記念日でした。
 ニュースでも各地で黙祷を捧げる姿が映し出されていましたが、今年は三月の大震災での犠牲が重なって思われ、殊の外、身の引き締まる思いがしますね。
 そして今日は送り火、京都でも精霊送りの火が五山に点されます。
 高校野球・夏祭り・花火の音と火 ・・・暑気に包まれて夏真っ盛りです。

 さて、今日は、<訳詞への思い>。
たぶん殆どどなたもご存じない、フランスの小さな夏の歌をご紹介してみたいと思います。


       「そして 君」その一 
                        訳詞への思い<6>



ヴァンサン・ドゥレルム
 訳詞コンサート履歴にも記したが、『ヴァンサン・ドゥレルムを知っていますか』というタイトルで、2010年2月にVincent Delerm(ヴァンサン・ドゥレルム)を特集して訳詞コンサートを行ったことがある。
 シャンソン、フレンチポップスの旗手として、独創的な音楽と詩的世界でフランスでは評価が高く、まさに活躍中のシンガーソングライターだが、日本での知名度は皆無に等しいことが残念でならない。
 彼について、私はこれまで、かなりの曲を聴き込んで、訳詞も相当数行っているので、うんちくを思い切り傾けたいところなのだが、とりあえず今回は第一歩から、「そして 君」という曲を紹介してみようと思う。


    Vincent delerm 譜面集より
 この曲は彼の三作目のCDアルバム『蜘蛛の刺し傷』(les piqures d’araignee)の中に収録されている曲である。
「蜘蛛の刺し傷」CDの帯 2006年発表。彼の数あるアルバムの中で唯一日本盤がリリースされたものであり、これがCDショップに並べられ、「ヴァンサン・ドレルム 蜘蛛の刺し傷」と日本語で書かれているのを見つけた時、ついに、この日が!と舞い上がったのを思い出す。
 ただ、残念ながら日本ではあまり注目されなかったようで、ほどなく店頭から消え、今はもう普通に手に入れることも結構難しいのかもしれない。
 全曲を通してポップで軽快な雰囲気が漂っているアルバムなのだが、彼本来の持ち味であるドラマ性や、時に沈鬱とも感じられるような重厚感などが、このアルバムでは押さえられていて、彼の日本デビュー作としてはこれが適切だったのだろうかと、密かに感じている。
 ヴァンサンの詩は、個人的状況や好みをそのまま言葉に入れ過ぎて、日本語に訳しにくいと、いつもぶつぶつ思ってしまう割には、実は私は結構彼の曲が好きらしい。

 さて、「そして 君」なのだが。
 
 原題は「déjà toi」(もうすでに 君)という。
 軽快で楽しげな曲だと最初に聴いた時から好感度が高かった。

 大好きな彼女と少し遠出のデートに出かけた様子を描いた歌なのだが。 
 今回の訳詞のこだわり処を披露しながらこの詩について紹介してみることとする。

 作中、一緒に旅をしているらしい彼女のことを描写しているサビの部分に、
  robe à pois et sandales (水玉のドレス そして サンダル)
 というフレーズがある。
 このファッション、少しレトロでキュートなフランスの女の子が目に浮かんでくる。
 「et sandales」と言う言葉の「et」、これが休符の後でちょっと間の抜けたような甘えたような何とも良い味で歌われており、どうしてもこのタイミングを崩さず訳詞をつけてみたくなった。
 何度聴いてもヴァンサンが日本語で「え?!」とぽそっと言っているように私には聞こえてくる。「ね!!」みたいな感じもある。
 ・・・で、ここは、「水玉のワンピース と サンダル」と訳してみた。
 そのままなのだけれど、Vincentの「え?!」とぴったりハモる、この「と」が歌ってみると結構良い感じなのである。

  次いで第二ポイント。
 彼らが乗っている路線バスの運転手がla calvitie du chauffeur であると書いてある。「運転手の禿頭」の意味だ。
 う~ん。・・・と一瞬ひるんだ後、「運転手の禿頭 吊革も揺れる」というフレーズがするすると出てきてしまった。
 差別用語かしら?
 でも詩や小説などの言語表現に差別用語禁止と過敏に反応しすぎるのは、筒井氏ならずとも必ずしも同意しかねるところはあるし。
 「運転手の禿頭 吊革も揺れる」
 更に言えば、「吊革」なんて実は全く原詩には出てこないので、忠実を旨とするいつもの私にはイレギュラーで、この上なくいい加減な訳詞なのであるが。 
 一日歩き回った旅の終わりに、うとうととまどろんでいる彼女を肩に感じつつ、何気なく目に入ってくるバスの中の情景・・・バスが揺れると吊革も一斉に左右に揺れて、頭だけ見える運転手の後ろ姿も同じリズムで少し揺れる・・・・それはやはり「禿頭」が、ユーモラスで、和やかで、陽気で実直そうなイタリア人のドライバーのおじさんが浮かんできて、良いのじゃないかと個人的趣味で思えてしまった。

 ではついでに、第三ポイントも。
 「déjà toi」が原題であると言ったが、原詩の中では「déjà」という言葉がアクセントに使われている。書き出しの
 déjà l’autobus positano ( もうすでに バス ポジターノ )
  déjà la fanion du torino (もうすでに トリノの旗)
 から始まって、リフレインされる déjà toi déjà tes yeux(もうすでに 君 もうすでに 君の目)まで、短い歌詞の中に13回もdéjà という単語が出てくる。 
 これはこの詩全体の解釈の問題になると思うが、「もうすでに君 もうすでに君の目」 の「もうすでに」とはどういう気持ちなのだろうか?


 
 話はここからですが、夜も大分更けてきたので、今日はここまでにして、続きはまた。

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