FC2ブログ

新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

「もう一つのアヴェ・マリア」

夕暮れのセーヌ川 開会式、素敵でしたね。
 聖火台への点火も圧巻でした。
 参加各国・各地域の名が刻まれているという204本の棒の先に点火された火が、中央へと立ちあがり大きな一つの炎となって集められていく演出には驚き、心を奪われました。
 火というものは、美しく荘厳で、不思議な象徴性を持つものですね。
 ポール・マッカートニーの歌うヘイ・ジュードもとても良かった。
 ここで、この歌か・・・ウ~~ン!!してやられた感じです。
 皆に親しまれていて、共に口ずさめて、懐かしさの中で温かい気持ちになれて、・・・歌の持つ底力を感じました。
 そして、既にサッカーも快挙、これからしばらくはオリンピック三昧になりそうです。

 4年前、8年前、12年前、・・・・観戦してきた私たちにとっても色々な歴史があり、様々な選手たちや競技の中での印象的な場面と共に、その時間・時代を過ごしていた自分の姿も改めて蘇ってくる気がします。
 これから4年後、8年後、・・・今というこの時はどのように思い出されるのでしょうか。どんな自分となって記憶を辿っているのでしょう。

 さて。
 盛り上がっているこの時期の話題としては、甚だ似つかわしくなくて、恐縮なのですが、前回の記事で、『次は 「祈り」という事に触れながら、アヴェ・マリアを歌った曲をご紹介したいです』とお話ししていましたね。
 「祈り」と言っても、宗教的に深い見識を持ったお話はできそうになく、ただ、これまで訳詞した曲の中から、 「祈り」、「アヴェ・マリア」が歌われているものを、ご紹介するだけになってしまうかもしれないのですが、 「訳詞への思い<10>」・・・いかにもシャンソン的な情念のこもった<un ave Maria>という曲を、今日はご一緒にいかがでしょうか?

   「もう一つのアヴェ・マリア」
             訳詞への思い<10> 


 この曲は、以前の記事、『愛を失くす時』でご紹介した歌手、ララ・ファビアンが歌っている曲である。
LARA FABIAN 「9」
 2005年に発表された彼女のCDアルバム「9」の中に採られた曲で,原題は<un Ave Maria >。
 当時、私は、ファビアンにとても嵌まっていて、このアルバムも発売のニュースを知ると同時に、勇んでフランスにネット注文して手に入れた、宝物のようなアルバムだった。
 アルバムジャケットはファビアンの大胆な裸体の写真で飾られており、これまでのイメージからは意表を突いていて、かなり驚いたが、更なる飛躍を目指した彼女の野心作であったのかもしれない。
 このアルバムに収められた全9曲は、いずれもなかなか良いのだが、中でも、私はこの<un Ave Maria >が特に気に入って、『もう一つのアヴェ・マリア』というタイトルで早速訳詞を作ってみた。


   タイトルについて
 <un Ave Maria >は、直訳すれば「一つのアヴェ・マリア」という意味になる。
 シューベルト、グノー、カッチーニ・・・・クラッシックには< Ave Maria >というタイトルの曲が数多くあるが、この曲の場合には「一つ」という冠詞の<un>が付いていることが曲者で、良く考えると、なかなか意味深長だ。

 unは男性形不定冠詞なので,「一人の」マリアではあり得ない。
 やはり、「一つの」なのだが、何を指しているのだろう?
 彫像としての「マリア像一体」か、或いは「祈祷文一つ」と解釈することも可能かと思われる。
 「一つのアヴェ・マリア」は「アヴェ・マリアという祈り」を指していると考えてみたらどうだろう?

 「めでたし聖籠(せいちょう)満ち充てるマリア・・・」で始まる『天使祝詞』という祈りがある。
 処女マリアに父なる神から,神の子の懐妊が告げられたとき,天使が降臨して彼女に祝辞を述べるその祈りである。神の子を育むマリアの栄光を称え,罪深い我らをも温かく見守り導きたまえと無心に祈る祈りである。

 その昔、中学高校の頃(カトリック校だったので)、毎朝の朝礼時に至極当然にこの祈りを唱えていたのを懐かしく思い出す。
 この祈りを当時、私達生徒は、「めでたしの祈り」「マリア様の祈り」と言っていた。
 <un Ave Maria >は『アヴェ・マリアという祈り』『アヴェ・マリアへの祈り』あるいは、『或る天使祝詞』と考えても良いかもしれない。
 
   祈りについて 
 この曲のサビの部分を、かなり意訳なのだが、イメージを尊重しながら次のように訳詞してみた。

   アヴェ・マリア
   私たちに届けられた あなたの手紙
   祈ることを忘れた心に 言葉よ 響け
   救い給え アヴェ・マリア


 この歌は全体を通して、<聖母よ 罪人なる我らを救いたまえ>と言っていて、その意味では,既に歌詞自体が「めでたし」の祈りそのものであるともいえるかもしれない。しかし,マリアに祈り続ける曲中の「私」からは,<暢気な女学生>とは違う特殊な事情,何か深い影というか傷を感じてしまう。
 
 更に訳詞は次のように続く。


   アヴェ・マリア
   淫らな歌しか 歌えない者のために
   不毛の愛を 彷徨うだけの 私のために
   救い給え アヴェ・マリア


 ここまでくると、曲中の「私」に、切羽詰まった懊悩が垣間見えてくる。
 成就しえない<不毛の愛>を抱えた女が、マリアに何をどう祈るのか、というところから、シャンソンとしてのドラマと凄みが生まれて来るのを感じる。

 「私」は、<人は理性を超えた肉体と愛情との果てしない抱擁の中から生まれてくる>のに,<一旦生を受けたときから,様々な愛憎の苦悩に翻弄される>ことになると感じている。そして、信仰心がなく,祈ることを知らず,人の心に届く言葉を発することもなく,美しい音楽を奏でることもない,<淫らな人々>を救い給えとマリアに一心に祈っている。
 
 けれど、いかんともし難い煩悩にうめき,闇をさまよっているのは「人々」ではなく実は「私」自身であり、この祈りは,他者のための祈りではなく,「私」自身の救済を求める祈りなのでもあるのだろう。

 重く切迫したメロディーと、陰を含んだ言葉とが、<不毛な>ものの匂いを更に強く醸し出してゆく気がする。

 誰かの幸せのためではなく,自分だけにとらわれ自分を離れられない祈りとは,極言すれば,我欲=我への執着に繋がってゆくことにもなるだろう。
 渇望が渇望を生み続けるだけで,本当に救われることは難しく,そのような二律背反の匂いを,どうしてもここからは感じてしまう。

 この曲の主人公の「私」は行き場のない愛の闇を彷徨い続け,それはもはやマリアによって救われる闇ではなく,それを知りつつ,マリアの悲しい眼差しを感じつつ,やはり救い給えと念じ続けざるを得ない。
そんな行き所のない女性の姿が、歌の中から浮かんでくる気がした。
 
   黒衣聖母
 飛躍するが、芥川龍之介の作品に『黒衣聖母』という短編小説がある。
 麻利耶観音(マリヤかんのん)と呼ばれる、切支丹禁制時代に作られた聖母像を前にして、そのミステリアスな伝説が語られてゆくという筋立てなのだが、物語の聞き手は、この麻利耶観音にどこか独特の悪意に満ちた嘲笑の表情があると感じている。
 物語は、このマリア像を所有していた江戸時代末のある素封家の老婦人の話へと遡る。幼い孫が、重い病にかかって明日をもしれない状態となり、これを嘆く彼女は、このマリア像に一心に願をかけるというところから始まってゆく。
 如何にも芥川らしい、鋭くシニカルな味付けと気味の悪い結末が用意されていて、紹介したいのはやまやまなのだが、こういうミステリーに種明かしはご法度かもしれないので、興味のある方は直接読んで頂くこととし・・・・最後の謎解きに、マリア像の台座に「汝の祈祷 神々の定め給う所を動かすべしと望む勿れ」という銘が刻まれていたと記され締めくくられる。
 「神が定めたことを人は動かそうと願ってはならない」というわけだ。

 芥川ならこの曲<un Ave Maria >の女主人公の祈りをどう断ずるのだろうかと少し興味深い。


 今回のこの曲の訳詞については、原詩からの自分のイメージを敢えて優先することにしたのだが、この曲を通して「私」が呻くように唱え続けるもう一つの天使祝詞・・・「もう一つのアヴェ・マリア」を伝えてみたいと思った。

 これも,やはり切なく悲しい、祈りの形なのではないかと思われてならない。

                          Fin

 (注 訳詞、解説について、無断転載転用を禁止します。
  取り上げたいご希望、訳詞を歌われたいご希望がある場合は、事前のご相談をお願い致します。)


(最後に、ファビアンの歌っている<un Ave Maria >のyoutubeを参考に載せておきます。よろしかったら下記をクリックしてお聴きください。)
   http://www.youtube.com/watch?v=UMafgiNsRTw




このページのトップへ

勘違いの歌詞 ~『夜中の薔薇』考

 数日前まで耐え難い猛暑でしたね。
 京都も36~38℃位になり、盆地の底でサウナに閉じ込められたようで、吸い込む息まで熱かったですが、一変して、この涼しさ。
 今東京に来ていますが、上着を羽織っても尚、肌寒いです。
 そして豪雨。
 九州を始めとして各地にまた、大変な爪痕を残してしまいました。
 痛ましい被害に遭遇された沢山の皆様に謹んでお悔やみを申し上げます。

 思えば、毎夏、<例年を上回る・・・・>とか、<観測史上始まって以来の・・・>とか、想定外の猛暑や、猛烈な暴風雨、竜巻、雷鳴、気象異変が加速度を増して次々と起こってきています。
 日本は、想像を絶する速さで、四季の美しい温暖気候から、熱帯に近い国へと変貌を遂げつつあるのでしょうか?

 梅雨明け宣言のあったばかりの今日も、一日中雨。
 今日は少しOFFの時間がありますので、雨音を聴きながらゆっくりと、9月に歌うことにしている曲を頭に入れようと歌詞を改めて見直したりしています。
 いつも参加している研究会で、4曲ほど歌うことになっていますので、「アヴェ・マリア」をテーマにした曲を特集しようかと準備しているところなのです。
 で、小ブレイク・・・・この記事を書き始めました。

   祈りの言葉
 私は、中学高校とカトリック系の学校で教育を受けましたので、折に触れ、聖書を手に取るチャンスがあり、また、毎朝の朝礼には、朝の祈りと聖歌を皆で歌うのが恒例でした。
 若い頃に心に刻まれた事は、しっかりと身に着くと言いますが、今でも、当時歌っていたカトリック聖歌集の中の色々な曲が、突然、浮かんでくる事があります。
 もしかしたら、私の歌のルーツは案外、ここにあるのかもしれません。

 ところで、カトリックの聖歌の歌詞にも色々な変遷があるようで、概ね非常に古典的な文語がベースなのですが、現代には難解すぎて、意味の解りにくい歌もあり、それでも兎も角も勝手に解釈して、丸ごと、歌っていた気がします。
 カトリック教会も、もっと馴染みのあるわかりやすい言葉にしようと考えたのか、祈りの言葉も聖歌も、途中で(2000年だったかと思います)全面的に口語に改変されたことがありました。
 例えば、一例として、代表的な祈祷文の『主祷文』・・・『主の祈り』と言われるものですが、もともとは
   天にまします我らの父よ
   願はくは御名の尊ばれんことを・・・・

 と始まるものでしたが、これが、
   天におられる私たちの父よ
   み名が聖とされますように・・・・

 のような具合に変わったのです。

 長年親しんでいた祈りや歌の言葉が突然ある日、変わってしまったので、当初は随分混乱していたようです。
 「従来通りの方がずっと格調があって良い」という改変反対派・文語派と、「新しい言葉になってわかりやすく親しみが持てる」という口語容認派があったと聞いています。

 「アヴェ・マリア」からの連想が飛躍しましたが。

 でも、翻ってみると、祈りの言葉というのは、難解で、多少神秘的な部分があることも案外大事で、よくわからなくても、言葉の響きや流れの中に身をゆだね、祈りに集中してゆく要素になり得るのかもしれないなどと思ってしまいました。

 更に飛躍するのですが、・・・そういえば、広く他ジャンルの歌でも、これまで、よくわからず呪文のように歌われてきたものって沢山あるかも・・・しれませんね。

   勘違いの歌詞
 故向田邦子氏に『夜中の薔薇』というエッセイ集があるのですが、この中に載っている同名の「夜中の薔薇」という掌編に、彼女は幼い時、ずっとシューベルトの『野ばら』の歌詞の<童(わらべ)は見たり 野中のばら>という冒頭の歌詞を「野中のばら」ではなく「夜中のばら」だと思い込んでいたと書かれています。
バラ 
 「夜中のばら」だと、これはこれで、却って凄味が出て、詩的な勘違い、さすが向田さんの感性ですが。

 でも、こういうのって「ある!!ある!!」と思いませんか?
 皆様の勘違いの歌詞をここで募集してみたいです。

 よく話題になるのは、古い時代に作られた童謡や唱歌の文語の歌詞を、子供たちが意味も曖昧なまま歌う時に生じる間違いでしょうか。

   卒業式編 ベスト3
 1 一昔前の卒業式の定番ソング、『仰げば尊し』
 <思えば いととし この年月>の<いととし>ですが。
 <愛(いと)しい>の同義語だと思っていたという友人を何人も知っています。正解は<いと 疾(と)し> ・・とても速いということですよね。

 2『蛍の光』
ホタル 
 <いつしか年も すぎの戸を 開けてぞ 今朝は 別れ行く>の<すぎのと>。学び舎の<杉の戸を開けて出てゆく>と、<過ぎる>が掛け言葉になっているのでしょうが、<すぎのと>が呪文状態の子供たちは多くいそうです。卒業に際してよくわからない通過儀礼が待っているみたいで、わからないのもまた味わい深いものがあります。

3『君が代』
 <さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで>の<いわおとなりて>。
 <岩音 鳴りて>と主張し続けた小学校のクラスメートを今でも覚えています。岩の音ってどんな音なのでしょうか?

   よくありそうな勘違い ベスト3
 1 どんぐりころころ
ドングリ 
<どんぐりころころ どんぶりこ>です。どんぐりがころがってドボンと池におちるのですから<どんぐりこ>ではありません。
 私もこれに一票を投じる慌て者の子供でした。


2 赤とんぼ
 <負われてみたのは いつの日か>。
 <子守の姐やさんの背中に背負われて赤トンボを見たのはいつの日だったろうか>と言っています。自分が追いかけられたのでも、赤トンボを追いかけたのでもありません。

3 雪
雪国 <雪や こんこ 霰や こんこ> <来む 来む>からきている言葉だそうです。「雪も霰も降っておいで」という意味なのですね。
 雪は<こんこん>と降ると思い込んでしまっている人も多そうです。

   ちょっと怖い歌詞
 1 実は私は、『かごめ かごめ』って、よくわからない気味の悪い歌だなと幼い頃から思っていたのですが、ただの無邪気な鬼ごっこの歌ではなくて、調べてみると、遊女の悲哀だとか、死産の生々しさを歌っているとかまで諸説あって、今もって正体不明な歌のようです。
 大体、籠目か?籠女か? 「かごめ」自体がすでにもうよくわからないです。「夜明けの晩に鶴と亀が滑った」という歌詞を聴く度に、江戸川乱歩の世界にでも迷い込みそうで、何だかぞっとしてきます。それで私は今もって「鬼ごっこ」が嫌いです。

 2 「とおりゃんせ」もどうも苦手でした。
 私の勘違い・・・「行きは良い良い 帰りはこわい こわいながらも とおりゃんせ」の「こわい」が怖かったんです。<帰りはなにか恐ろしいことが起こるけれども、それでも良いなら覚悟して行け>と脅している歌かとずっと思っていました。
 本当は「疲(こわ)い」・・疲れたことを方言で<こわい>っていうのだと大人になってから知りました。<帰りは疲れるだろうけど通っても良いよ>ってことだったのですね。

 本当は今日は<祈り>ということをお話したかったのですが、大分話がそれてしまいました。
 次への枕ということで、ご容赦下さい。
 次回は、<祈り>に触れながら、訳詞した『アヴェ・マリア』の中の一曲を取り上げてみようかと思っています。

 気候不順ですので、体調管理に気をつけてお過ごし下さいね。


このページのトップへ

紋次郎物語 ~その十 別れ~

池の傍の紋次郎 「猫の話を是非!」というリクエストを受け、書き始めてみたこの『紋次郎物語』ですが、いつの間にか十回を重ねることとなりました。
 それでも未だ、語り尽くせず。
 こうして読んで下さる皆様とご一緒に、思い出を懐かしく辿ることが出来て、とても幸せです。
 ここまでお付き合い下さって本当に有難うございます。
 では、今日は最終回、~その十 別れ~ をお読みください。

   ~その十 別れ~
 紋次郎は、当時としてはかなり長寿の15歳で亡くなりました。
 愛情を注がれ、食住を保証される飼い猫生活が半分、後の半分は、野良猫の自由を獲得したまま、近所の野山や、近くの海岸を駆け巡る自然児として、天寿を全うできたことは、幸せだったのではと思います。

 尤も、それが猫冥利に尽きたかどうかは本人に聞いてみないとわからないことで、人間と猫、それぞれと関わる違う顔を持って、二つの世界を生きることは、それなりに大変で、苦労や気遣いも多かったかもしれませんし、少なくとも、相当多忙な日々を過ごしていたのでしょう。
 そういえば、<紋次郎>は、どことなくいつも忙しそうにしている猫で、池のほとりにじっと座っている時でさえ、暇を持て余しているという風ではなく、「今お仕事中だから邪魔しないで!」というちょっと勢い込んだ緊張感をいつも漂わせていました。・・・この点だけは、長年の相棒の私に似ていたのかもしれません。いつも何かしていないと落ち着かない貧乏性の私の性癖が伝染していたとしたら、紋次郎に気の毒だったと思います。
往年の紋次郎 
好日往来
 これも既に記したことですが、<紋次郎>にはファンが多かったようで、色々な牝猫がよく我が家の庭を訪れてきました。
 そういう時の<紋次郎>は割とクールで、「なにか用事でも・・」という感じの応対しかしないので、傍目にも涙ぐましいくらい思慕の情を募らせ寄ってくる牝猫にこちらの方が気の毒になってしまうくらいでした。
 「折角訪ねてきているのだから、もうちょっと優しくしてあげれば・・・」と思わず声をかけても、結構あっさりした顔で「そんな仲でもないからご心配なく」みたいな様子で平然としているのです。
 人間でいえば、<どうしよう、でも思い切って告白します>というような純情可憐なお嬢様タイプの牝猫が多くて、<紋次郎>は猫の世界では結構イケメンだったのでしょうか。
 何しろ言葉が通じ合う私達ですので、牝猫が帰った後、「もんじろう君、隅に置けませんねえ」とからかうと、彼はなんとも照れくさそうな様子で下を向いてしっぽをパタパタさせていました。
 
 ある時、紋次郎の後ろに子猫がついてきたことがありました。
 この猫は紋次郎と瓜二つ。
 誰がどうみても紋次郎の子供であることは明白で、ひとしきり、家族皆で紋次郎をしつこく追求=からかいまくりました。
 もう本当にバツが悪そうで、おろおろそわそわ、あんなに落ち着かない<紋次郎>を見たのは初めてだったかもしれません。
 でも、この頃になると、家族全員、猫というものにすっかり慣れ切っていましたし、<猫吉>がいなくなって、<紋次郎>だけの生活に少し寂しい気もしていた矢先でしたので、当たり前のように、この子猫も面倒見ようということになりました。
 頭の回転は残念ながらさほど良くなかったのですが、おっとりとした人懐こい牝猫で、またまた一瞬で「姫」という名がつけられました。
 「ひめちゃん~」と呼ばれると、一瞬遅れて「フニャー」とちょっとつぶれたような悪声で答えていました。
 そういえば、<紋次郎>の声についてはお話ししていませんでしたが、彼の声は、外見や性格とは全く違って、本当に美しく澄んだ、鈴を鳴らすような高く細い声なのです。声だけ聞いているとどんな絶世の美女かと思うくらい、品格のある涼やかな美声で、外見とのギャップに本当に唖然でした。
 
 <姫>は容貌以外は声も性格も知的能力も<紋次郎>とは全く似ていなくて、とても気の良い子なのに、ドンなところがよほど気に食わなかったのか、<紋次郎>は鬱陶しそうにしていて、父親としての愛情をほとんど示さないのです。
 <姫>はというと、「邪魔だからあっちに行って」みたいな顔を露骨にされても、全然意に介さず、父と慕い(たぶん?!)、どこでもまとわりついて離れず健気でもあったのですが。
 
子猫は母猫が育てるものですよね。なぜ<紋次郎>のところに<姫>が来たのか、今もってよくわかりません。
猫の世界にそういうイレギュラーってあるのでしょうか?もしかしたら<紋次郎>が特別薄情な性格なのではなく、本来の本能とは違う成り行きに戸惑っていたのかもしれないですね。
 
<姫>は半年ほど我が家で暮らし、いつの間にかいなくなりました。
その後、一年位して、首輪をつけて元気に遊びにきましたので、誰か可愛がってくれる人に巡り合ったようです。
<紋次郎>に「早く帰れ」みたいに追い払われても、その後も時々、無邪気な様子で訪れてきました。

   おじいさん先生
 無鉄砲者の<紋次郎>でしたから、生傷が絶えず、私も怪我の治療の腕がどん上がってゆきましたが、幸い体は頑強で、最晩年までお医者様にかかることはありませんでした。
 でも、亡くなる一年ほど前から、段々体調が悪くなり、ものをあまり食べなくなったり、嘔吐したりと具合の悪そうな様子を時折みせるようになってきました。
 ただ黙ってうずくまっている、その様子があまりに心配なので、ついに近くの動物病院に連れてゆこうということになりました。
 ただ、近くと言っても車で20分くらいはかかるので、一体どうやって連れて行ったら良いのか、・・・今ならケージに入れて一緒に旅行にも行ける犬猫は沢山いますけれど、紋次郎にはそういう経験は皆無です。
抱き上げられることも喜ばない風来坊ですので。

 *まずは、恒例の、コンコンと言い含める説得作戦の実行。
 *この後、座布団カバーを頭から被せて顔だけ出してチャックを閉め、<袋入り猫>を作る。(病院に、「これこれしかじかの猫を安全に運んでゆくにはどうしたらよいでしょうか?」と相談したら教えてくれた方法なのです。猫は袋に入れられると落ち着いて大人しくなるのだそうです)
 *座布団カバーから顔だけ出した<紋次郎>を母に助手席で優しく抱きかかえてもらい、私が運転して病院まで連れてゆくことに大成功。
 初めて乗る車、車窓の風景を<紋次郎>はどう思っていたのでしょうか?
 こんなことなら普段から、ドライブにつれてゆく習慣をつけておけばよかったとその時、心底思いました。

 私も緊張していましたが、<紋次郎>も病院初体験で緊張がピークに来ていたみたいです。消え入りそうな声で助けを求め、がたがた体を震わせていました。可哀想だけど仕方ない・・・・「治るからね。大丈夫だからね」と繰り返すばかりでした。幼い子が白衣や消毒の匂いに怯えるのと同じ動物的拒否反応なのでしょうね。
 
 診察して下さった獣医さんは、陽に焼けて深い皺が刻まれたかなり年配のおじいさん先生でした。
 目がとても優しそうで、じっと<紋次郎>を見つめながら、低い響きのあるのんびりとした声で、「どうしたかな。気分が悪いのか。もう大丈夫、すぐ良くなるからね。ちょっと見せてご覧・・・・・・」と、ずっと話しかけながら、ひょいと抱き上げて、造作なく、口の中を診たり、お腹を触ったり、しっぽを上げて体温計を差し入れたり、手品みたいなよどみない動きで、<紋次郎>は為されるが儘、身じろぎもせず催眠術にかかったみたいな目でうっとりとおじいさん先生を見ていました。いつの間にか震えも止まっていました。
 点滴や他の注射などをしたら、見違えるようにみるみる回復して、獣医さんというのはこんなにも凄いものなのだと大感激して帰ってきました。

 でも診断は、結構深刻で、腎不全で、腎盂炎を起しており、回復するのは難しいけれど、兎も角かなり苦しいだろうから、少しでも楽になるように、様子を見ながら注射に通うようにということでした。

 大人になってからは、猫用のバランス食の缶詰めを食べ物に与えていましたが、その昔子供の頃はそれこそ、当時大方の家がそうだったように、残り物の食事を適当にやっていましたので、知らず知らず塩分なども取り過ぎになっていたのかもしれません。もっと気をつけていればと責任を感じますが、今まで病気一つさせず元気で育てたのだからと先生は慰めて下さいました。

 それから、段々病院に通う頻度が多くなってきました。
 病院にはおじいさん先生と、その息子さんの若先生がお二人で診療していらして、若先生の診察の時は、<紋次郎>はブルブル震え出し、断固拒否して大暴れでした。
 失礼のないよう、密かに塩梅して、おじいさん先生にだけ診て頂くようにするのが一苦労でしたが、おじいさん先生は動物と自由に交信できるムツゴロウさんみたいな方だったのでしょうね。
 この先生に最後まで診て戴けて、<紋次郎>は幸せだったと思います。

   最期の時
 それからひと月ほどして、<紋次郎>は亡くなりました。
 最後の頃はかなり苦しそうで、夜も時々発作を起こすことがあったので、私の部屋で、一緒に寝かせていました。
 苦しがって息を切らしているのを見ることは本当に辛かったです。
 夜中ですし、私がしてあげられることは何もないのですが、ただ体をずっとさすったり、話しかけたりして朝まで過ごした時もありました。
 亡くなる前日の夜はかなりひどい発作が起き、それが治まった時、<紋次郎>は涙を流していました。
いろんな思い出話をしたら、段々落ち着いて優しい顔つきになってきて、何となく<紋次郎>が頷き続けてくれたような気がして、この日も明け方まで、ずっと話しながら過ごしました。
 一緒に過ごした日々、色々な出来事、同じ時間を生き共に過ごした縁が<紋次郎>という一つの命と結ばれている気がして、今でも私にはかけがえのない大切な存在です。
 この日、朝早く病院に連れて行ったのですが、それから間もなくして静かに息を引き取りました。

 実は、この十日後、私はアメリカに長期研修に行くことになっていて、紋次郎の事だけが気がかりでならなかったのですが、そんな思いを察して、最後のお別れができるよう、紋次郎は逝ったのではという気がしているのです。

 我が家の近くに、浄土宗の大本山、由緒ある光明寺というお寺があるのですが、光明寺には、当時としては珍しい動物霊堂があって、紋次郎はそこに葬られています。
浄土宗光明寺(鎌倉) 光明寺境内の動物霊堂 
 お彼岸の頃には、大勢の愛犬・愛猫家たちが供養に集まり、人間並みに厳かな読経が行われます。
 母猫とまだらと猫吉と・・・皆の代表としてこのような供養を受けることとなった紋次郎は、空の上で何と思っているのでしょうか。
 そして、期せずして皆様にも知って戴くことになって、恥ずかしがりながらしっぽをパタパタしているのではと思うのです。 


  『紋次郎物語』、これにて完と致します。
これまでお付き合いいただきまして、有難うございました。

このページのトップへ

紋次郎物語 ~その九 紋次郎と家族たち~

池の傍の紋次郎 昨日も生憎の雨。七夕の恋はなかなか成就しないからこそロマンチックなのでしょうか?
 
 さて、いつも『紋次郎物語』を愛読して下さっているYさんから、温かいメールが届きました。 素敵な感想を頂いてとても嬉しかったので、少しだけご紹介したいと思います。

 猫吉
 猫さんたちのシリーズ、特に好きですが、私は何と言っても「月の使者」猫吉さんに魅かれます。
 梅のマークの山本海苔の、しかも焼き海苔が好きだなんて、なんて魅力的なのでしょう!私も、海苔は断然焼き海苔派です(笑)。
 スローペースながら自分なりの拘りを持ち、いつも静かに月を眺めている生き様は私を魅了して止みません。
 月夜の晩にいなくなってそのまま帰って来なかったというところも何かミステリアスでその後のストーリーをあれこれ想像してしまいます。


 この後、実は、Yさんの素敵なストーリーが続くのですが、余り公開しすぎてもと思いますし、今は、私だけに記して下さったプレゼントということで大事に心に仕舞っておきたいと思います。

 でも猫吉君、Yさんにファンになっていただけてどんなにか喜んでいることでしょう。良かった!良かった! 
猫吉になり代わり、お礼申し上げる次第です。
 
 では、今日も『紋次郎物語』をお楽しみ下さいね。いよいよ大詰め、その九です。

   ~その九 紋次郎と家族たち~
端坐する紋次郎
 <猫吉>が姿を消してから、我が家に残った猫は<紋次郎>だけとなり、ここから彼は更に、10年近い歳月を私たち家族と共にすることになるのですが、10歳を超える頃からでしょうか、紋次郎は益々、何ともいえず、顔つき、しぐさ、感情の表し方など人間的になってきたように思います。

 そういえば『徒然草』に「奥山に猫又(ねこまた)というものありて・・・」と始まる章があったのを思い出します。
 「猫のへ上がりて 猫又になりて 人とることはあなるものを・・・」と書かれてあって、何ともおどろおどろしいのです。
 「へ上がりて」というのは「歳を取って」とか、「変身して」とかいう意味ですから、「猫は長生きをすると、ただの猫ではなく猫又という名の妖怪に変わり、人を襲ったりするのだ」というわけですね。
 この後はいつもの徒然草の文章らしく洒脱なオチへと続いてゆくのですが。

 尤も、この「猫又」というのは、兼好法師の専売特許というわけではなく、実はもっと古い民間伝承などの中にも既に広く言い伝えられていたようです。
 「猫又」の推定年齢は10歳を超えたあたり・・・というのもいつか何かで読んだ気がするのですが、昔は猫の世界も、今のように高齢化ではなかったでしょうから、長生きする猫は希少で、どこかただものではない異様な雰囲気を漂わせて、化け猫物語などと結び付いていったのかもしれませんね。

 でも、その昔私は、この「猫又・・・」の文章は、正直何のことか全くピンときませんでした。
 『妖怪』『化け猫』などというと余りにも・・・なのですが、でも今は、猫が歳月の中で、猫を超えた生き物になってゆくというような感覚はわかる気がしています。
 長く人間と共に生き、人間のことも言葉も良く理解できて、自らも人間化してきた猫のこと・・・・私にとっては、<紋次郎>は愛すべきそんな<猫又>・・・<家族>だったのかもしれません。
 そういう<紋次郎>の後半生について、今日は、私たち家族たちとの係わりの中で、ご紹介してみたいと思います。

   紋次郎と父
 庭の池のほとりに、紋次郎はよくじっと座っていました。
池の端に寝そべる紋次郎
 前にも記したように、父は池に結構大きな鯉や色々な種類の金魚を大切に育てていました。
我が家は、海の近くで漁港もあり、そのあたりの魚などを狙ってか、当時、鳶(とんび)が空高く毎日旋回しているのを目にしていたのですが、我が家の池も格好の狙い場だったようで、ピーフュルフュルという鋭い鳴き声と共に、池の水面にまで急降下してきて、泳いでいる鯉を両足でガチっと掴んでさらってゆくということがよくありました。
 大きく元気よく育っている鯉ほど狙われやすく、なすすべなく無残に空に運ばれてゆくのを眺めているのは父ならずとも実に腹立たしく感じられたものでした。

 いたずら者の<紋次郎>でしたし、動くものに反射的に手が出てしまう猫の習性から考えても、父は、これ以上猫にまで大事な鯉や金魚を奪われることは我慢ならないと思っていたのでしょう。・・・・当初、猫が庭に来ることにも不快感を示していた原因はそこにもあったのではと思われます。

 事実、<紋次郎>は(赤ちゃん猫の頃でしたが)、寄ってくる金魚に思わず手を出してピシャピシャと水を叩いて、父にかなりの叱責を受けたことがありました。そのような前科持ちでしたので、父は、<紋次郎>が池の近くにばかり居ることに初めは、不安と不快感があったようです。
 ですが、私が金魚もウチの家族だと何回も言い含めた甲斐あってか、その後、手を出すことは全くありませんでした。喉が渇いても池の水を飲むことさえせずじっと我慢しているようでした。

 壮年期老年期の<紋次郎>は、これも前回記しましたが、この辺りでのかなりの顔役、ボス猫になっていたようで、縄張りを仕切る渡世人の元締めみたいな一種独特な仁義に生きる雰囲気を醸し出していて(私が勝手に感じていたのですが)、そういう彼には、我が家族の序列も彼なりに解釈し大いに尊重していた節が見られます。
 その尺度から言うと、父は彼にとって、家長=大親分で、一目も二目を置いていたのではないかと思うのです。それに「野良猫は野良猫道を!」みたいな父の信念と一脈通じあっていたのかもしれません。
 父には、甘える様子を見せることはありませんでしたが、でも常に遠巻きに恭順の意を表明していたような気がします。 父が帰宅すると、どこにいても身を正して迎え出ていました。近づかず一定の距離をおいて、取り澄ました顔をしていて、本当に可笑しかったです。

 実は、<紋次郎>は池の魚たちを、とんびやサギ、他の野良猫たちから、守る使命を果たしていたのではと思うのです。
 彼が池のほとりに座り続けてからの日々、鯉が減ることはついぞなく、亡くなった後、ほどなくして、何匹もいた池の鯉はいつの間にか、壊滅状態になってしまって、図らずもそのことが証明されました。今も、ほろりとする<紋次郎>の思い出話の一つとなっています。

   紋次郎と母
 綺麗好きの母は、初めは猫があちこちを汚すのではと心配していたのですが、我が家の猫はその辺はかなりパーフェクトでしたし、(私の教育が良かったんですね!)そのうちそんなことすっかり忘れたように<うちの子たち>と呼んで、「猫がこんなに可愛いとは知らなかった」と、私たち姉弟より可愛いいのではと疑いたくなるくらい本当に大事にしていました。
 人の愛情に殊の外敏感な紋次郎は、そんな母の事が大好きだったみたいで、無条件で大甘えする唯一の存在でした。母が少しでも疲れた顔をしていたりするととても心配そうに気遣ったり、慰める素振りをみせたりして、何とも健気なのです。小さい時に別れた優しい母猫への思慕が彼の中に残り続けていたのかもしれません。
 母にしかしない<紋次郎>の究極の愛情表現は、喉を鳴らしながら、足元にすり寄ってペロペロと舐めまわすことでしたが、くすぐったがり屋の母はこれだけは閉口していました。


   紋次郎と弟
 弟の舎弟のような<猫吉>に、意地悪してきた負い目がずっとあったのでしょう。弟の前では、いつも気まずそうに小さくなっていました。
 それに、何か悪いことや失敗をすると決まって弟に見つかってしまう巡り合わせになっていて、何と言うか、頭の上がらない兄貴分だったのかもしれませんね。
 でも面白いことに、ヒヨドリを狩猟した時などは、誰よりも弟の所に真っ先に見せに来て、良い所を認めて貰いたかったのかもしれません。
 弟は、こういうときには、「よし頑張ったな!」と労いの言葉をかけてやって、なかなかのもの、我が弟ながら感服したものです。


   紋次郎と私
 私は紋次郎にとってどんな存在だったのでしょうね。
 できるものなら彼に聞いてみたいです。
 かなり厳しい教育係であり、面倒全般引き受け係であり、アドバイザーであり、後見人であり、友達だったのかなとも思います。
 <紋次郎>がこちらの感情や意志をかなり正確に読み取れるように、私も彼の言葉や気持ちを察知し交信することに長けていましたので、<仲間>だったのかもしれません。
 色々あり過ぎて、言葉に尽くせませんが、<一匹の猫を飼った>ということを超えて、<紋次郎>という存在に出遭ったのだと今、感慨深く思っています。

 長くなってしまいました。では、続きはまた。
 お名残り惜しいですが、たぶん次回が『紋次郎物語』の最終回となりそうです。
 

このページのトップへ