
格闘中です・・・
12月のブログ記事「ただ今執筆中につき・・・」の中で、<私のコンサート準備の日々は、「少年よ大志を抱け」から始まり、「明日は明日の風が吹く」で終結するのです>などと、変な予言をしてしまったのが運のつきで、今まさに、その通りのプロセスを粛々と辿っております。
現在は、第四段階の、ヤケになり「燕雀(えんじゃく)安(いずく)んぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」を生半可に振りかざし、人様に責任転嫁し始めた辺りを歩んでおり、でも、あと少しすれば、静かな諦めの境地へと辿くのでは期待されます。
ほんの少しだけまだ時間が残されていて、でもやるべきことの山が高々と聳(そび)えていて、尚且つ、生来の凝り性と完璧主義が渦巻いて格闘しているような、・・・今の私の心模様です。
結構苦しいのですが、でも、でも、意外とこれこそがコンサートへのプロセスの醍醐味かもしれず、また、これまでの自分のささやかな経験から推してみますと、この呻くような時間を経過することこそが、自分なりの熟成には不可欠みたいで、なんとか克服して、ふっと収まってくる時が訪れるのを信じたいと思います。・・・・もっと平たく言うと、これだけ苦労したのだから、神様が少しはご褒美をくれるのではという根拠のない期待みたいなものがあるのかもしれません。
ゲンズブールのプロフィール
このところ集中しすぎたためか、今、私の頭の中にはゲンズブールの音楽が鳴り続け、いつもゲンズブールに見つめられているような、怪しい状況になっているのですが、彼のことについて、まだあまりご紹介していませんでしたね。
従来の抒情的なシャンソンと一線を画した、新しいフレンチ・ポップスの旗手として、時代の寵児であり続けたゲンズブール。
天賦の才を自在に発揮して、作詞、作曲、シンガー、映画監督、音楽プロデュースと多岐にわたる旺盛な創作活動を続けた才人ゲンズブール。
けれど、奇矯な言動が目立ち、酒と煙草と女と・・・・みたいないつもスキャンダラスなイメージに身を包んでいた不良中年ゲンズブール。
自傷的と思えるくらい、自ら自堕落なゲンズブール像を演出し眺めているような感が、彼にはあって、そういう危うさになぜか、心が引き寄せられる気がします。
「綺麗は汚い。汚いは綺麗。」・・・こんな言葉がありましたよね。
・・・・シェイクスピアの『マクベス』に登場する魔女たちが、マクベスに予言をする場面だったかと思うのですが、極端な強靭さの裏面には硝子のような脆さがあったり、虚無感や喪失感が希求の裏返しであったり、虚飾が純粋さを隠し持っていたり、人は一筋縄ではゆかない測りがたいものかもしれません。
ゲンズブールに、というか、ゲンズブールの音楽に、私はこれと同質のものを感じてしまうのです。
ちょっと話が混沌としてきました。
コンサートの中でもそんなことに触れてみたいのですけど、説明しがたい世界でもありますので、きっと上手くお話し出来ないかもしれませんね。
でも、・・・「ゲンズブール・イノセント」というタイトルは、そういう私の直感から生まれた言葉でもあります。
彼は1928年に生まれ、1991年63歳で亡くなっています。
ユダヤ系の血を引いていたため、幼少期から、ナチス占領下のパリで、激しい迫害を受け、過酷な逃亡生活の中で、屈折した人生観を持つこととなったようです。
人間や人生そのものに対する根強い不信感や厭世観、虚無感、それを負のエネルギーとして、既成概念や既成の音楽を打ち崩すところに生まれる、彼独自の芸術的世界を構築していったのかもしれません。
前回の『訳詞コンサート 恋するバルバラ』ではバルバラを特集してみましたが、そういえば全くの偶然、バルバラもユダヤ系の血を引いており、それゆえ幼少期には同様の壮絶な体験をしていたのを思い出しました。
激しい人格や人生と裏腹な、儚げで美しい旋律と言葉、陶酔感に溢れるメロディーの優美さは、そうした喪失感の底から生まれ得るものなのでしょうか。
映画『ゲンスブールと女たち』
昨年2012年に、ゲンズブール没後20年を記念して制作公開された『ゲンスブールと女たち』というこの映画、ご覧になりましたか?
こんなポスターでした。
知らない方は、びっくりしますよね。眉をひそめる方もいらっしゃるでしょうね。
「何たること!こんな猥雑な映画、観るなんてとんでもない。これがゲンズブール?? こんな感じの人だったら歌も聴きたくない」・・・・とおっしゃられると困ると思い、実はあまりお見せしたくなかったのですが。
ブリジット・バルドー、 ジェーン・バーキン、 フランス・ギャル、 ジュリエット・グレコ、 カトリーヌ・ドヌーヴ、 ヴァネッサ・パラディー。
もっともっと更に大勢・・・。
音楽プロデューサーとしても類まれなセンスで、ヒット曲を次々と提供し、若い歌手や女優たちの才能を開花させ、スターを輩出してきたゲンズブールですが、また、彼女たちと華やかな浮名を流し、稀代のプレイボーイとしてもその名を轟かせています。
その中でも、20歳年の離れたジェーン・バーキンとの仲は濃密で、結婚し、公私共々良きパートナーとして長く連れ添うことになるのですが、そんな女性遍歴を主軸としながら、音楽家ゲンズブール、そして人間ゲンズブールを、この映画は描いています。
ゲンズブール役のエリック・エルモスニーノを初め、取り巻く女性たちも、イメージがぴったりで、BGMとして流れる曲の扱いも洒落ていて、なかなか興味深く楽しめる映画でした。
上記のポスターの女性は、一目でブリジット・バルドーだとわかりますが、本当にこんな風にピアノの上に座ったりしたかどうかは甚だ疑問です。
イメージが映像を創り上げているのでしょう。
ユダヤ人で醜男というコンプレックスを抱えながら、数多の美女たちを虜にした伊達男。
セルジュ・ゲンズブールとは一体何者だったのか?
そして、世界中を虜にしたその魅力とは?
その破天荒でスキャンダラスな生涯に隠された伝説が、数々のシャンソン、ジャズ、フレンチ・ポップに彩られスクリーンに蘇る・・・。
という、このポスターのキャッチコピーです。
ゲンズブール像は、かなりデフォルメされていますし、『ユダヤ人』『醜男』という点に集約して、全てを説明し過ぎているのが多少気になりますが、でも映画ですし、物語を展開していく上で、シンプルな基軸が必要なのは当然かもしれませんね。
CD『ゲンスブールを歌う女たち』
これは、『Gainsbourg versions femmes (邦題「ゲンスブールを歌う女たち」)』という2000年に発売されたアルバムです。
ヒット曲というのは、その一世を風靡した時を過ぎると、ノスタルジックな色合いを急激に増して、一気に枯れてゆく感がありますが、それを差し引いたとしても、どの曲も名曲ぞろいで、聴きごたえがありこのアルバムはお薦めです。
女性たちがそれぞれに歌う歌声の中に、ゲンズブールの音楽の魅力が、まさに爛熟していて、彼の音楽がそうであったように、彼自身もまた、彼女たちに深く愛されていたのではと感じます。
ゲンズブールの世界の持つ、悪酔いしそうでそうでもない、癖になりそうな美酒の芳醇な香りを、私のコンサートでもお伝えできたら嬉しいです。
今日は少しだけゲンズブールのご紹介をしてみました。
12月のブログ記事「ただ今執筆中につき・・・」の中で、<私のコンサート準備の日々は、「少年よ大志を抱け」から始まり、「明日は明日の風が吹く」で終結するのです>などと、変な予言をしてしまったのが運のつきで、今まさに、その通りのプロセスを粛々と辿っております。
現在は、第四段階の、ヤケになり「燕雀(えんじゃく)安(いずく)んぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」を生半可に振りかざし、人様に責任転嫁し始めた辺りを歩んでおり、でも、あと少しすれば、静かな諦めの境地へと辿くのでは期待されます。
ほんの少しだけまだ時間が残されていて、でもやるべきことの山が高々と聳(そび)えていて、尚且つ、生来の凝り性と完璧主義が渦巻いて格闘しているような、・・・今の私の心模様です。
結構苦しいのですが、でも、でも、意外とこれこそがコンサートへのプロセスの醍醐味かもしれず、また、これまでの自分のささやかな経験から推してみますと、この呻くような時間を経過することこそが、自分なりの熟成には不可欠みたいで、なんとか克服して、ふっと収まってくる時が訪れるのを信じたいと思います。・・・・もっと平たく言うと、これだけ苦労したのだから、神様が少しはご褒美をくれるのではという根拠のない期待みたいなものがあるのかもしれません。
ゲンズブールのプロフィール
このところ集中しすぎたためか、今、私の頭の中にはゲンズブールの音楽が鳴り続け、いつもゲンズブールに見つめられているような、怪しい状況になっているのですが、彼のことについて、まだあまりご紹介していませんでしたね。
従来の抒情的なシャンソンと一線を画した、新しいフレンチ・ポップスの旗手として、時代の寵児であり続けたゲンズブール。
天賦の才を自在に発揮して、作詞、作曲、シンガー、映画監督、音楽プロデュースと多岐にわたる旺盛な創作活動を続けた才人ゲンズブール。
けれど、奇矯な言動が目立ち、酒と煙草と女と・・・・みたいないつもスキャンダラスなイメージに身を包んでいた不良中年ゲンズブール。
自傷的と思えるくらい、自ら自堕落なゲンズブール像を演出し眺めているような感が、彼にはあって、そういう危うさになぜか、心が引き寄せられる気がします。
「綺麗は汚い。汚いは綺麗。」・・・こんな言葉がありましたよね。
・・・・シェイクスピアの『マクベス』に登場する魔女たちが、マクベスに予言をする場面だったかと思うのですが、極端な強靭さの裏面には硝子のような脆さがあったり、虚無感や喪失感が希求の裏返しであったり、虚飾が純粋さを隠し持っていたり、人は一筋縄ではゆかない測りがたいものかもしれません。
ゲンズブールに、というか、ゲンズブールの音楽に、私はこれと同質のものを感じてしまうのです。
ちょっと話が混沌としてきました。
コンサートの中でもそんなことに触れてみたいのですけど、説明しがたい世界でもありますので、きっと上手くお話し出来ないかもしれませんね。
でも、・・・「ゲンズブール・イノセント」というタイトルは、そういう私の直感から生まれた言葉でもあります。
彼は1928年に生まれ、1991年63歳で亡くなっています。
ユダヤ系の血を引いていたため、幼少期から、ナチス占領下のパリで、激しい迫害を受け、過酷な逃亡生活の中で、屈折した人生観を持つこととなったようです。
人間や人生そのものに対する根強い不信感や厭世観、虚無感、それを負のエネルギーとして、既成概念や既成の音楽を打ち崩すところに生まれる、彼独自の芸術的世界を構築していったのかもしれません。
前回の『訳詞コンサート 恋するバルバラ』ではバルバラを特集してみましたが、そういえば全くの偶然、バルバラもユダヤ系の血を引いており、それゆえ幼少期には同様の壮絶な体験をしていたのを思い出しました。
激しい人格や人生と裏腹な、儚げで美しい旋律と言葉、陶酔感に溢れるメロディーの優美さは、そうした喪失感の底から生まれ得るものなのでしょうか。
映画『ゲンスブールと女たち』
昨年2012年に、ゲンズブール没後20年を記念して制作公開された『ゲンスブールと女たち』というこの映画、ご覧になりましたか?

こんなポスターでした。
知らない方は、びっくりしますよね。眉をひそめる方もいらっしゃるでしょうね。
「何たること!こんな猥雑な映画、観るなんてとんでもない。これがゲンズブール?? こんな感じの人だったら歌も聴きたくない」・・・・とおっしゃられると困ると思い、実はあまりお見せしたくなかったのですが。
ブリジット・バルドー、 ジェーン・バーキン、 フランス・ギャル、 ジュリエット・グレコ、 カトリーヌ・ドヌーヴ、 ヴァネッサ・パラディー。
もっともっと更に大勢・・・。
音楽プロデューサーとしても類まれなセンスで、ヒット曲を次々と提供し、若い歌手や女優たちの才能を開花させ、スターを輩出してきたゲンズブールですが、また、彼女たちと華やかな浮名を流し、稀代のプレイボーイとしてもその名を轟かせています。

その中でも、20歳年の離れたジェーン・バーキンとの仲は濃密で、結婚し、公私共々良きパートナーとして長く連れ添うことになるのですが、そんな女性遍歴を主軸としながら、音楽家ゲンズブール、そして人間ゲンズブールを、この映画は描いています。
ゲンズブール役のエリック・エルモスニーノを初め、取り巻く女性たちも、イメージがぴったりで、BGMとして流れる曲の扱いも洒落ていて、なかなか興味深く楽しめる映画でした。
上記のポスターの女性は、一目でブリジット・バルドーだとわかりますが、本当にこんな風にピアノの上に座ったりしたかどうかは甚だ疑問です。
イメージが映像を創り上げているのでしょう。

ユダヤ人で醜男というコンプレックスを抱えながら、数多の美女たちを虜にした伊達男。
セルジュ・ゲンズブールとは一体何者だったのか?
そして、世界中を虜にしたその魅力とは?
その破天荒でスキャンダラスな生涯に隠された伝説が、数々のシャンソン、ジャズ、フレンチ・ポップに彩られスクリーンに蘇る・・・。
という、このポスターのキャッチコピーです。
ゲンズブール像は、かなりデフォルメされていますし、『ユダヤ人』『醜男』という点に集約して、全てを説明し過ぎているのが多少気になりますが、でも映画ですし、物語を展開していく上で、シンプルな基軸が必要なのは当然かもしれませんね。
CD『ゲンスブールを歌う女たち』

ヒット曲というのは、その一世を風靡した時を過ぎると、ノスタルジックな色合いを急激に増して、一気に枯れてゆく感がありますが、それを差し引いたとしても、どの曲も名曲ぞろいで、聴きごたえがありこのアルバムはお薦めです。

女性たちがそれぞれに歌う歌声の中に、ゲンズブールの音楽の魅力が、まさに爛熟していて、彼の音楽がそうであったように、彼自身もまた、彼女たちに深く愛されていたのではと感じます。
ゲンズブールの世界の持つ、悪酔いしそうでそうでもない、癖になりそうな美酒の芳醇な香りを、私のコンサートでもお伝えできたら嬉しいです。
今日は少しだけゲンズブールのご紹介をしてみました。


