
今、フランスのミュージカル『ノートルダム・ド・パリ』が初来日していますね。
2月27日からスタートした東京公演が、3月17日に大盛況のうちに終わり、今日から再び、大阪、名古屋での公演が始まりました。
私も先日、渋谷のシアターオーブでこのミュージカル、観てきました!
とても興味深かったので、今回はこの『ノートルダム・ド・パリ』のお話をさせて頂こうかと思います。
小説『ノートルダム・ド・パリ』
まずは原作のご紹介から。
『ノートルダム・ド・パリ』は、『ノートルダムのせむし男』という題名にも訳されて日本に紹介されていますが、フランスロマン派の文豪、ヴィクトル・ユーゴーが1831年に発表した長編小説です。(蛇足ですが、『せむし男』という日本語タイトルには、時代を感じますね。今なら差別用語として採用されなかったに違いありません。)
ユーゴーと言えば、何と言っても『レ・ミゼラブル』ですけれど、『ノートルダム・ド・パリ』も、これと並ぶ彼の代表作品です。
再び脱線しますが。
私は、幼少期から現在に至るまで、自他共に認める、読書三昧の日々、・・・・・文学書であれば、大概はクリアしてきた中で、どうしても途中挫折して何回目かでやっと読破できたという、忘れられない強敵が、これまでに何冊かあります。
そのベスト3に入るのが、実はこの『ノートルダム・ド・パリ』で、確か中二の時に読んだかと。
読みにくい、わかりにくい、面白くない・・・中学生には所詮、難解だったのでしょうが、それでも意地になって戦い挑んだのを思い出します。
当時の本を本棚の奥からひっぱり出して開いてみたら、かなり黄ばんで時代がかった本の香りがします。 細かい活字が二段組みにびっしり並んで500ページ強。
今となっては旧敵に再会する不思議な懐かしさです。
この物語のあらすじを記し始めるとどこまでも長くなりそうなので、・・・触りだけ、ウィキペディア「ノートルダム・ド・パリ」から勝手に借用して下記に引用してみます。
舞台は荒んだ15世紀のパリ。教会の持つ権限が、弾圧と排除を生み出す時代の物語。ノートルダム大聖堂の前に、一人の醜い赤ん坊が捨てられていた。彼は大聖堂の副司教、フロロ(Frollo)に拾われ、カジモド(Quasimodo)という名をもらう。彼は成長し、ノートルダムの鐘つきとなる。
パリにやって来た美しいジプシーの踊り子エスメラルダ(Esmeralda)に、聖職者であるフロロは心を奪われる。欲情に悩み、ついにはカジモドを使ってエスメラルダを誘拐しようとする。
しかしカジモドは捕らえられ、エスメラルダは衛兵フェビュス(Phoebus)に恋するようになる。フェビュスとエスメラルダの仲は深まるが、実はフェビュスは婚約者がいる不実な男だった。
捕らえられたカジモドは広場でさらし者になるが、ただ一人エスメラルダだけは彼をかばう。カジモドは人間の優しさを生まれて初めて知り、彼女に恋をする。フロロも彼女に想いを募らせるが、エスメラルダの心はフェビュスにある。
上記はシンプルにまとめてありますが、この小説、読んでみると実は、非常に複雑に人間関係や愛憎が絡み合っていて、(不思議な能力を持った奇妙なヤギまで登場してきて)物語の場面展開も目まぐるしく多岐にわたり、結構把握しにくいところが多いのです。
一言でいえば、「エスメラルダという美しいジプシーの娘を巡る、三人の男性の愛憎劇」なのですが、でもこれに絡めながら、当時の権威主義的な教会のあり方や、社会矛盾、虐げられてきた民衆の叫びなど、宗教的、社会的な問題を告発するメッセージ性の強い小説でもあるように思います。
エスメラルダはフェビュスの不実を見抜けず、ひたすら純愛を捧げるのですが、彼に裏切られ、そして、副司教フロロの邪心を拒んだために彼からも憎まれ、この二人によって無実の罪に落とされて、唯一彼女を心から愛したカジモドの救いの手も及ばず、絞首台に消えて行くこととなります。
小説では、数年後、処刑場からエスメラルダとカジモドの寄り添うような白骨が掘り起こされるという、ぞっとするような冷ややかな悲劇的結末で終結しています。
聖職者である自分の中に、邪悪な嫉妬心や欲情、狡猾な心を見出し、そのことに懊悩するフロロの姿、そしてそれこそが、人の持つ宿命なのではないかと思い知らされるプロセス。
不実な遊び人であるフェビュスの中にある、不安や葛藤。
カジモドの、過酷な宿命と対峙する懸命な姿など、・・・・作者であるユーゴーの、人間探求の確かな眼差しが、この小説には粗削りな力強さでちりばめられている気がして、やはり一筋縄ではいかない不朽の名作なのだと改めて思います。
パリ・オペラ座バレエ 『ノートルダム・ド・パリ』
映画では1923年に、いち早くアメリカ版白黒サイレントで制作されていて、これが映画としての最初の作品ですが、その後もアメリカ、フランスで何回も映画化されています。
その中の何本かを私もDVD等で観ましたが、映画には時間的制約がありますし、小説の持つ、あの混沌とした不可思議さや広がりは描き切れず、その分、映像に訴え、シンプルかつ劇的に作り変えられているように思いました。
エスメラルダは勇気ある心優しい美女、カジモドは醜い外見とは裏腹に健気で一途な青年、そしてフロロは生粋の悪役・・・・とようにかなりパターン化されています。
そんな中で、1996年にパリ・オペラ座で上演されたバレエ『ノートルダム・ド・パリ』のDVDを先日偶然入手し、一昨日早速観賞してみました。
フランスの振付家ローラン・プティによる大ヒット作品です。
前評判通り、とても素敵な作品で、非常に深い感銘を受けました。
バレエなので、勿論無言劇ですし、ただ音楽に乗って舞踊のみで物語を展開してゆくわけですが、身体表現の持つ魅力と大きな可能性を改めて発見した気がしています。
優雅なクラシックバレエというよりは、もっと激しく躍動感に溢れた切れ味鋭い振り付けに目を奪われ、観客を物語の世界に惹き込んでゆく力を感じました。
言葉がない分、あらかじめ物語を熟知していて、今どの場面のどのような心情を表現しているのかが分かっていることが、バレエを充分に楽しむことの大前提なのでしょうか。
そのような知識や感性を身に備えて、バレエを普通に観る、そういう文化がフランスにおいては、根付いているのかもしれませんね。
・・・・このローラン・プティ振付の1996年版DVDを観ながら、どこか、今回のミュージカル『ノートルダム・ド・パリ』に似ているところがあるという気がしました。
ミュージカルの初演は1998年ですから、似ているのはバレエではなくミュージカルのほうであるわけですが。
セリフを一切入れず、歌だけで展開してゆく音楽劇であること、跳躍的な身体表現を最大限生かした舞踊劇であること、というこのミュージカルの二つの大きな特徴は、先んじて発表された、このバレエから大きな着想を受け、これをミュージカルの中により効果的に換骨奪胎した部分があるのではと強く感じました。・・・・全く見当違いかもしれませんが、・・・・私はそんな印象を持っていますので、もし機会があったら是非鑑賞し比べてみて下さいね。
ともかく、それぞれとても見ごたえがあり、お薦めです。
ディズニーアニメ 『ノートルダムの鐘』
実は、私は、1998年の初演ミュージカルも観ていて、これに触発されて、もう随分前にこの中の曲を何曲か訳詞しているのです。
『ノートルダム・ド・パリ』には結構詳しいのですが、この頃からなので、年季が入っています。
ちょっとおまけで、調子に乗って、ディズニーアニメのお話もしてしまいます。
『ノートルダムの鐘』と可愛く子供向けにネーミングされましたが、1996年公開のアニメで、こちらもやはり、ミュージカルより先んじていることになりますね。
映画にもバレエにもミュージカルにも漂っていた、どことなくおどろおどろしい感じや、激しい情念のようなものは取り除かれて、アニメになるとこんなにも清々しくハッピーエンドになるのかと、違う感動があります。
カジモドは憎めない勇気あるヒーローとなり、エスメラルダはキュートな恋する乙女に。そしてフェビュスはカッコいい騎士になって、フロロだけ相変わらず悪役で、最後はカジモドが、エスメラルダとフェビュスのキューピットとなり恋は実りめでたし、めでたし!というエンディングです。
子供たちが観るのですから白骨が粉々に・・・では確かにちょっとですよね。
そうして、今回のミュージカルへと至るわけです。
長くなりましたので、今日はここまでにして。
本題のミュージカルについては、次回にご紹介致しますので、楽しみにお待ちくださいね。
2月27日からスタートした東京公演が、3月17日に大盛況のうちに終わり、今日から再び、大阪、名古屋での公演が始まりました。
私も先日、渋谷のシアターオーブでこのミュージカル、観てきました!
とても興味深かったので、今回はこの『ノートルダム・ド・パリ』のお話をさせて頂こうかと思います。
小説『ノートルダム・ド・パリ』
まずは原作のご紹介から。
『ノートルダム・ド・パリ』は、『ノートルダムのせむし男』という題名にも訳されて日本に紹介されていますが、フランスロマン派の文豪、ヴィクトル・ユーゴーが1831年に発表した長編小説です。(蛇足ですが、『せむし男』という日本語タイトルには、時代を感じますね。今なら差別用語として採用されなかったに違いありません。)
ユーゴーと言えば、何と言っても『レ・ミゼラブル』ですけれど、『ノートルダム・ド・パリ』も、これと並ぶ彼の代表作品です。
再び脱線しますが。
私は、幼少期から現在に至るまで、自他共に認める、読書三昧の日々、・・・・・文学書であれば、大概はクリアしてきた中で、どうしても途中挫折して何回目かでやっと読破できたという、忘れられない強敵が、これまでに何冊かあります。
そのベスト3に入るのが、実はこの『ノートルダム・ド・パリ』で、確か中二の時に読んだかと。
読みにくい、わかりにくい、面白くない・・・中学生には所詮、難解だったのでしょうが、それでも意地になって戦い挑んだのを思い出します。
当時の本を本棚の奥からひっぱり出して開いてみたら、かなり黄ばんで時代がかった本の香りがします。 細かい活字が二段組みにびっしり並んで500ページ強。
今となっては旧敵に再会する不思議な懐かしさです。
この物語のあらすじを記し始めるとどこまでも長くなりそうなので、・・・触りだけ、ウィキペディア「ノートルダム・ド・パリ」から勝手に借用して下記に引用してみます。
舞台は荒んだ15世紀のパリ。教会の持つ権限が、弾圧と排除を生み出す時代の物語。ノートルダム大聖堂の前に、一人の醜い赤ん坊が捨てられていた。彼は大聖堂の副司教、フロロ(Frollo)に拾われ、カジモド(Quasimodo)という名をもらう。彼は成長し、ノートルダムの鐘つきとなる。
パリにやって来た美しいジプシーの踊り子エスメラルダ(Esmeralda)に、聖職者であるフロロは心を奪われる。欲情に悩み、ついにはカジモドを使ってエスメラルダを誘拐しようとする。
しかしカジモドは捕らえられ、エスメラルダは衛兵フェビュス(Phoebus)に恋するようになる。フェビュスとエスメラルダの仲は深まるが、実はフェビュスは婚約者がいる不実な男だった。
捕らえられたカジモドは広場でさらし者になるが、ただ一人エスメラルダだけは彼をかばう。カジモドは人間の優しさを生まれて初めて知り、彼女に恋をする。フロロも彼女に想いを募らせるが、エスメラルダの心はフェビュスにある。
上記はシンプルにまとめてありますが、この小説、読んでみると実は、非常に複雑に人間関係や愛憎が絡み合っていて、(不思議な能力を持った奇妙なヤギまで登場してきて)物語の場面展開も目まぐるしく多岐にわたり、結構把握しにくいところが多いのです。
一言でいえば、「エスメラルダという美しいジプシーの娘を巡る、三人の男性の愛憎劇」なのですが、でもこれに絡めながら、当時の権威主義的な教会のあり方や、社会矛盾、虐げられてきた民衆の叫びなど、宗教的、社会的な問題を告発するメッセージ性の強い小説でもあるように思います。
エスメラルダはフェビュスの不実を見抜けず、ひたすら純愛を捧げるのですが、彼に裏切られ、そして、副司教フロロの邪心を拒んだために彼からも憎まれ、この二人によって無実の罪に落とされて、唯一彼女を心から愛したカジモドの救いの手も及ばず、絞首台に消えて行くこととなります。
小説では、数年後、処刑場からエスメラルダとカジモドの寄り添うような白骨が掘り起こされるという、ぞっとするような冷ややかな悲劇的結末で終結しています。
聖職者である自分の中に、邪悪な嫉妬心や欲情、狡猾な心を見出し、そのことに懊悩するフロロの姿、そしてそれこそが、人の持つ宿命なのではないかと思い知らされるプロセス。
不実な遊び人であるフェビュスの中にある、不安や葛藤。
カジモドの、過酷な宿命と対峙する懸命な姿など、・・・・作者であるユーゴーの、人間探求の確かな眼差しが、この小説には粗削りな力強さでちりばめられている気がして、やはり一筋縄ではいかない不朽の名作なのだと改めて思います。
パリ・オペラ座バレエ 『ノートルダム・ド・パリ』

映画では1923年に、いち早くアメリカ版白黒サイレントで制作されていて、これが映画としての最初の作品ですが、その後もアメリカ、フランスで何回も映画化されています。
その中の何本かを私もDVD等で観ましたが、映画には時間的制約がありますし、小説の持つ、あの混沌とした不可思議さや広がりは描き切れず、その分、映像に訴え、シンプルかつ劇的に作り変えられているように思いました。
エスメラルダは勇気ある心優しい美女、カジモドは醜い外見とは裏腹に健気で一途な青年、そしてフロロは生粋の悪役・・・・とようにかなりパターン化されています。

そんな中で、1996年にパリ・オペラ座で上演されたバレエ『ノートルダム・ド・パリ』のDVDを先日偶然入手し、一昨日早速観賞してみました。
フランスの振付家ローラン・プティによる大ヒット作品です。
前評判通り、とても素敵な作品で、非常に深い感銘を受けました。
バレエなので、勿論無言劇ですし、ただ音楽に乗って舞踊のみで物語を展開してゆくわけですが、身体表現の持つ魅力と大きな可能性を改めて発見した気がしています。
優雅なクラシックバレエというよりは、もっと激しく躍動感に溢れた切れ味鋭い振り付けに目を奪われ、観客を物語の世界に惹き込んでゆく力を感じました。
言葉がない分、あらかじめ物語を熟知していて、今どの場面のどのような心情を表現しているのかが分かっていることが、バレエを充分に楽しむことの大前提なのでしょうか。
そのような知識や感性を身に備えて、バレエを普通に観る、そういう文化がフランスにおいては、根付いているのかもしれませんね。
・・・・このローラン・プティ振付の1996年版DVDを観ながら、どこか、今回のミュージカル『ノートルダム・ド・パリ』に似ているところがあるという気がしました。
ミュージカルの初演は1998年ですから、似ているのはバレエではなくミュージカルのほうであるわけですが。
セリフを一切入れず、歌だけで展開してゆく音楽劇であること、跳躍的な身体表現を最大限生かした舞踊劇であること、というこのミュージカルの二つの大きな特徴は、先んじて発表された、このバレエから大きな着想を受け、これをミュージカルの中により効果的に換骨奪胎した部分があるのではと強く感じました。・・・・全く見当違いかもしれませんが、・・・・私はそんな印象を持っていますので、もし機会があったら是非鑑賞し比べてみて下さいね。
ともかく、それぞれとても見ごたえがあり、お薦めです。
ディズニーアニメ 『ノートルダムの鐘』
実は、私は、1998年の初演ミュージカルも観ていて、これに触発されて、もう随分前にこの中の曲を何曲か訳詞しているのです。
『ノートルダム・ド・パリ』には結構詳しいのですが、この頃からなので、年季が入っています。

ちょっとおまけで、調子に乗って、ディズニーアニメのお話もしてしまいます。
『ノートルダムの鐘』と可愛く子供向けにネーミングされましたが、1996年公開のアニメで、こちらもやはり、ミュージカルより先んじていることになりますね。
映画にもバレエにもミュージカルにも漂っていた、どことなくおどろおどろしい感じや、激しい情念のようなものは取り除かれて、アニメになるとこんなにも清々しくハッピーエンドになるのかと、違う感動があります。
カジモドは憎めない勇気あるヒーローとなり、エスメラルダはキュートな恋する乙女に。そしてフェビュスはカッコいい騎士になって、フロロだけ相変わらず悪役で、最後はカジモドが、エスメラルダとフェビュスのキューピットとなり恋は実りめでたし、めでたし!というエンディングです。
子供たちが観るのですから白骨が粉々に・・・では確かにちょっとですよね。

そうして、今回のミュージカルへと至るわけです。
長くなりましたので、今日はここまでにして。
本題のミュージカルについては、次回にご紹介致しますので、楽しみにお待ちくださいね。


