
「レ・テタール・メランジェ・コンセール2014」
今年のテタールコンサート(と、いつも私は省略して呼んでいますが)は、11月10日と11日の二日間に渡って開催されたのですが、私は今回は出演しませんでした。
レ・テタール・メランジェ・コンセールについては、これまでにも何度かご紹介致しました。以前の記事の一節を取り出してみますね。
まずコンサートタイトルから。
「レ・テタール」は「おたまじゃくしたち」、「メランジェ」は「混ざり合った」という意味ですので、「いろんなおたまじゃくしたちが賑やかに混ざり合ったコンサート」という意味になるかと思います。
様々な音符たちを前に、『オタマジャクシ』みたいな、まだ発展途上のシャンソンを愛する若者たちが楽しみ挑戦するコンサート・・・・と私はイメージしています。
この場合の「若者たち」というのは、音楽に対する真っ直ぐなチャレンジ精神を指しますので、AKBみたいなティーンエイジャーの集団がステージで歌っているというわけではありません。
主催はピアニストの三浦高広氏。
プロ・セミプロ・アマチュア、それぞれが一堂に会し、取り上げる曲も、往年のシャンソンだけではなく、かなりな掘り出し物や、普段尻込みしがちな難解な曲などにも果敢に挑戦していて、それが素敵なアレンジと演奏の中で繰り広げられ、個性的で聴きごたえのあるシャンソンコンサートと、嬉しい巷の評判を耳にします。
このテタールコンサートに、私は10年来、毎年出演させて頂いてきたのですが、今年は、コンサートを終えたばかりで、疲れもかなり残っていたので、参加をご遠慮させていただくことにしたのです。その後、「是非お手伝いを!」と言われ、幸いにも時間の調整が上手くいったこともあり、二日間お手伝いのスタッフとして、急遽加わることとなったのでした。

その三週間前には、『街の素描』コンサートを開催した内幸町ホール、コンサートの日がつい数日前の出来事だったような気がします。
楽屋口。
<MY HOME!>みたいな弾む気持ちで、通用口を通ります。
気合を入れて京都から直行、出演者も他のお手伝いのスタッフもまだ到着しておらず、一番乗りでした。
音
楽屋に荷物を置き、ステージを覗いてみると、音響と照明の方たちが既に忙しく立ち働き、活気が漲っています。
がらんとした舞台の上には、ピアノだけが一台、ちょうど調律をしているところでした。
微かな音叉(おんさ)の音と鍵盤の響きが、誰もいない客席の向こうまで共鳴して、これは、まさに<コンサートの序奏>、ひと際冴えて感じられます。

そして、バンドメンバーが揃い音出しです。
客席で音のバランスを確かめる舞台監督さん。
テタールコンサートにはこれまで出演者として参加していましたから、いつもなら、楽屋に入るとすぐ、お化粧や着替え、リハーサルを待つ高揚感の中で歌のことにだけ専心していました。
当たり前のことですが、<立場が変わると視界も変化する>、コンサートが進められてゆくプロセスが、周囲の動きと共にくっきりと見えてきて、今回は、これまでとは違った発見が様々あった気がします。
両日とも17名の出演者で、各自が2曲ずつの構成なのですが、この一曲一曲のタイトルと歌い手の名前、歌詞の一部分をパワーポイントでステージ後方のスクリーンに映し出します。テタールコンサートは司会者はいなくて、次々と曲が進んで行きますので、こうすると暗い客席でプログラムが確認できなくても、今、誰が何という歌を歌うのかがはっきりわかるのです。

前奏と歌い手が登場する微妙なタイミングを計って、このスライドを映写するのが、今回私が仰せつかったお仕事でした。
ステージ下手側の袖にパソコンを据えて幕の隙間からスクリーンを確認し映像を写してゆきます。
リハーサルと、本番中、ずっとこのパソコンの前に座って操作しながら、ステージの様子を眺めていました。
見えるのは歌い手の後ろ姿、そして幕の隙間からの演奏者の表情。
上手側で、ピアノを演奏する三浦先生とちょうど目が合う位置です。
歌い手が、少し言葉に詰まったりすると、いつも動じない先生に、一瞬、「あ~~あ・・・」という困ったような表情が浮かぶことや、曲想が盛り上がってきた時の指使いが、よりしなやかに跳躍するように鍵盤を飛ぶことなどもしっかりと確認しました。
下手側、幕を隔てたすぐ隣にはドラムス奏者。
まさに手を伸ばせば届く位置での演奏なので、身体を揺り動かされるような迫力です。ドラムスはリズムを刻むだけのはずなのに、メロディーまでもが奏でられているようにさえ聴こえてきます。
一緒になって思わずずっとリズムをとっていました。
二日限りの門前の小僧、奇跡的にリズム感がアップしていると良いのですが。
シンセサイザー、ベース、ヴァイオリン、少しの休憩時間にも音の微調整に余念がなく、真剣な面持ちで譜面を丹念に確認していらっしゃるご様子に心打たれます。
幕間にステージ内で、それぞれの楽器の音出しが密やかになされて、これもまた、コンサートを支える素敵な音の一つと感じました。
光
各出演者の登場時に写すスライドは、数秒で消え、それを引き継ぐように、照明室から美しいライトが照らし出されます。
自分が歌っている時には、照らしてくれるライトがどのようであるか、客観的に見えないわけですが、舞台袖に居ると、スクリーンに投影される照明の様子や、歌い手を包むスポットの全容がよく見えてきます。
スポットの切り替えのタイミングなどから、照明の方たちが、曲想や歌詞などを踏まえた上で、それを生かすライティングを繊細に表現していらっしゃるのがよくわかります。
歌い手という対象をステージの中心に据えて、より輝かせるために包み込んでゆく・・・・照明も音響も舞台セッティングも、皆、陰の力となって支えている、支える気概というか誇りというか、そういう、ステージを動かしてゆくエネルギーにとても感動した舞台袖の私=パソコン操作係でした。
熱
舞台袖に居ると、出番直前の歌い手の緊張を生で感じます。
ステージでは自分一人でそういう緊張感に打ち勝ち、表現に挑んでゆくわけですが、ステージ袖に漲るそんな挑戦の決意、熱のこもった空気が私は大好きです。
側で、そっと落ち着かせ励ます言葉や、叱咤激励の気合を入れる舞台監督さんの細やかな心遣いもまた、裏でコンサートを支える素敵な力です。
二日間終わった後で、或る方からこんなお言葉を戴きました。
「松峰さん、裏方さんのお仕事、楽しそうでしたね。でもこれをキッカケに裏方さんの世界に行かないようにしてくださいね」
<自分なりに少しでもお役に立てればと一生懸命働いた、そういうことを見ていてくれる人がいたこと>・・・支えているつもりの自分は、また他の誰かに支えて頂きながら過ごしているのだということを実感できて、とても心が温かくなりました。
そしてこれからまた、<ステージで頑張って歌っていけば良い>と、励まして下さった言葉でもあると思うと、とても有難くて、それを、こういうさり気ない表現で語れることって素敵だなと思うのです。

最後に、暗い写真で見えづらいですが、ステージのスクリーンの後ろの、上手と下手を繋ぐ細い通路が写っています。まさにステージの裏側です。
飛躍するかもしれないのですが、<人を支える裏方さんにいつでも徹せられること>、そして、<人から支えて貰っている幸せを感じつつそれに報いることができること>、そんな両極の醍醐味を味わいながら生きてゆけたら良いなと感じた、二日間の貴重な体験でした。
今年のテタールコンサート(と、いつも私は省略して呼んでいますが)は、11月10日と11日の二日間に渡って開催されたのですが、私は今回は出演しませんでした。
レ・テタール・メランジェ・コンセールについては、これまでにも何度かご紹介致しました。以前の記事の一節を取り出してみますね。
まずコンサートタイトルから。
「レ・テタール」は「おたまじゃくしたち」、「メランジェ」は「混ざり合った」という意味ですので、「いろんなおたまじゃくしたちが賑やかに混ざり合ったコンサート」という意味になるかと思います。
様々な音符たちを前に、『オタマジャクシ』みたいな、まだ発展途上のシャンソンを愛する若者たちが楽しみ挑戦するコンサート・・・・と私はイメージしています。
この場合の「若者たち」というのは、音楽に対する真っ直ぐなチャレンジ精神を指しますので、AKBみたいなティーンエイジャーの集団がステージで歌っているというわけではありません。
主催はピアニストの三浦高広氏。
プロ・セミプロ・アマチュア、それぞれが一堂に会し、取り上げる曲も、往年のシャンソンだけではなく、かなりな掘り出し物や、普段尻込みしがちな難解な曲などにも果敢に挑戦していて、それが素敵なアレンジと演奏の中で繰り広げられ、個性的で聴きごたえのあるシャンソンコンサートと、嬉しい巷の評判を耳にします。
このテタールコンサートに、私は10年来、毎年出演させて頂いてきたのですが、今年は、コンサートを終えたばかりで、疲れもかなり残っていたので、参加をご遠慮させていただくことにしたのです。その後、「是非お手伝いを!」と言われ、幸いにも時間の調整が上手くいったこともあり、二日間お手伝いのスタッフとして、急遽加わることとなったのでした。

その三週間前には、『街の素描』コンサートを開催した内幸町ホール、コンサートの日がつい数日前の出来事だったような気がします。
楽屋口。
<MY HOME!>みたいな弾む気持ちで、通用口を通ります。
気合を入れて京都から直行、出演者も他のお手伝いのスタッフもまだ到着しておらず、一番乗りでした。
音
楽屋に荷物を置き、ステージを覗いてみると、音響と照明の方たちが既に忙しく立ち働き、活気が漲っています。
がらんとした舞台の上には、ピアノだけが一台、ちょうど調律をしているところでした。
微かな音叉(おんさ)の音と鍵盤の響きが、誰もいない客席の向こうまで共鳴して、これは、まさに<コンサートの序奏>、ひと際冴えて感じられます。

そして、バンドメンバーが揃い音出しです。
客席で音のバランスを確かめる舞台監督さん。
テタールコンサートにはこれまで出演者として参加していましたから、いつもなら、楽屋に入るとすぐ、お化粧や着替え、リハーサルを待つ高揚感の中で歌のことにだけ専心していました。
当たり前のことですが、<立場が変わると視界も変化する>、コンサートが進められてゆくプロセスが、周囲の動きと共にくっきりと見えてきて、今回は、これまでとは違った発見が様々あった気がします。
両日とも17名の出演者で、各自が2曲ずつの構成なのですが、この一曲一曲のタイトルと歌い手の名前、歌詞の一部分をパワーポイントでステージ後方のスクリーンに映し出します。テタールコンサートは司会者はいなくて、次々と曲が進んで行きますので、こうすると暗い客席でプログラムが確認できなくても、今、誰が何という歌を歌うのかがはっきりわかるのです。

前奏と歌い手が登場する微妙なタイミングを計って、このスライドを映写するのが、今回私が仰せつかったお仕事でした。
ステージ下手側の袖にパソコンを据えて幕の隙間からスクリーンを確認し映像を写してゆきます。
リハーサルと、本番中、ずっとこのパソコンの前に座って操作しながら、ステージの様子を眺めていました。
見えるのは歌い手の後ろ姿、そして幕の隙間からの演奏者の表情。
上手側で、ピアノを演奏する三浦先生とちょうど目が合う位置です。
歌い手が、少し言葉に詰まったりすると、いつも動じない先生に、一瞬、「あ~~あ・・・」という困ったような表情が浮かぶことや、曲想が盛り上がってきた時の指使いが、よりしなやかに跳躍するように鍵盤を飛ぶことなどもしっかりと確認しました。
下手側、幕を隔てたすぐ隣にはドラムス奏者。
まさに手を伸ばせば届く位置での演奏なので、身体を揺り動かされるような迫力です。ドラムスはリズムを刻むだけのはずなのに、メロディーまでもが奏でられているようにさえ聴こえてきます。
一緒になって思わずずっとリズムをとっていました。
二日限りの門前の小僧、奇跡的にリズム感がアップしていると良いのですが。
シンセサイザー、ベース、ヴァイオリン、少しの休憩時間にも音の微調整に余念がなく、真剣な面持ちで譜面を丹念に確認していらっしゃるご様子に心打たれます。
幕間にステージ内で、それぞれの楽器の音出しが密やかになされて、これもまた、コンサートを支える素敵な音の一つと感じました。
光
各出演者の登場時に写すスライドは、数秒で消え、それを引き継ぐように、照明室から美しいライトが照らし出されます。
自分が歌っている時には、照らしてくれるライトがどのようであるか、客観的に見えないわけですが、舞台袖に居ると、スクリーンに投影される照明の様子や、歌い手を包むスポットの全容がよく見えてきます。
スポットの切り替えのタイミングなどから、照明の方たちが、曲想や歌詞などを踏まえた上で、それを生かすライティングを繊細に表現していらっしゃるのがよくわかります。
歌い手という対象をステージの中心に据えて、より輝かせるために包み込んでゆく・・・・照明も音響も舞台セッティングも、皆、陰の力となって支えている、支える気概というか誇りというか、そういう、ステージを動かしてゆくエネルギーにとても感動した舞台袖の私=パソコン操作係でした。
熱
舞台袖に居ると、出番直前の歌い手の緊張を生で感じます。
ステージでは自分一人でそういう緊張感に打ち勝ち、表現に挑んでゆくわけですが、ステージ袖に漲るそんな挑戦の決意、熱のこもった空気が私は大好きです。
側で、そっと落ち着かせ励ます言葉や、叱咤激励の気合を入れる舞台監督さんの細やかな心遣いもまた、裏でコンサートを支える素敵な力です。
二日間終わった後で、或る方からこんなお言葉を戴きました。
「松峰さん、裏方さんのお仕事、楽しそうでしたね。でもこれをキッカケに裏方さんの世界に行かないようにしてくださいね」
<自分なりに少しでもお役に立てればと一生懸命働いた、そういうことを見ていてくれる人がいたこと>・・・支えているつもりの自分は、また他の誰かに支えて頂きながら過ごしているのだということを実感できて、とても心が温かくなりました。
そしてこれからまた、<ステージで頑張って歌っていけば良い>と、励まして下さった言葉でもあると思うと、とても有難くて、それを、こういうさり気ない表現で語れることって素敵だなと思うのです。

最後に、暗い写真で見えづらいですが、ステージのスクリーンの後ろの、上手と下手を繋ぐ細い通路が写っています。まさにステージの裏側です。
飛躍するかもしれないのですが、<人を支える裏方さんにいつでも徹せられること>、そして、<人から支えて貰っている幸せを感じつつそれに報いることができること>、そんな両極の醍醐味を味わいながら生きてゆけたら良いなと感じた、二日間の貴重な体験でした。


