
今日はもう晦日、いよいよ押し迫ってきましたね。
例年ですと、今頃はまだ仕事を抱えたまま、お正月を迎える準備に慌ただしく過ごしているのですが、今年はどうしたことか、半端ではない数の年賀状も、超ビックな大掃除も、整理本が書けそうなほどの徹底した断捨離も、コンサートが終わったら着手しようと思っていたいくつかのデスクワークも、全て早々と終えて、新曲の訳詩まで完成し、わが生涯の中では初めてではないかと思うくらいの余裕で12月30日を過ごしております。
<何かの前兆ではないか?><反動が新年から起こったらどうしよう!>とか、ちょっと怖くもあるのですが。
そんな不安を紛らわすべく、今日は、年末の京都の街を散策してきました。
恒例、錦市場の賑わい
わが家からの通り道が錦市場なのですが、ともかく年末の混み具合は尋常ではないのです。

いつもなら1分かからず抜けられる道が、午前中早い時間なのに、大渋滞でまったく身動きが出来ません。地元の買い出し組と観光の見物組がごちゃごちゃに混ざり合って、カーニバルみたいな空気が漂っています。
アメ横や築地も年末はこんな感じですが、こういう混雑も含めての<錦>なので、誰も別に文句も言わず、むしろ雑踏を楽しんでいる風ですらあります。
前に進めない分、何となく暇で、結構皆、写真なんか撮って楽しんでおり、撮られるお店の人も慣れていてポーズなど作ってくれます。
「餅は餅屋で」・・・納得!

京都の「のし餅」は、関東のように板状のものではなく、蒲鉾みたいな形のものをスライスして売っていて、お雑煮用も角形ではなく丸餅になります。

正月飾りの大きな売り声が年末の活気を誘っていましたが、でも、「来年はもう店を出せないと思う」とぽそりと一言。
「作りたくても輪飾りを編む藁(わら)が手に入らなくなっている」と少し寂しそうでした。

京野菜の一つで、通常より太くて短い「堀川ごぼう」もおせち料理にはなくてはならない食材のようです。途中で引き抜き、地を這わせて育てるので柔らかく太く育つのだと聞いたことがあります。
お魚屋さんには鱧(はも)が所狭しと。
京都は、鯛より、鰻より、何と言っても鱧なのですね。
錦市場からちょっと下がったところには、銭湯寄席などもやって評判の「錦湯」があります。明日の大晦日も営業すると書いてありました。まだ一度も行ったことがないので、来年は挑戦し、探検レポートでも書いてみようかなって思っています。
東寺 晦日の風景
九条まで足を延ばして、久しぶりに東寺に行ってきました。
東寺は平安遷都の際、京都の南、羅城門の東に建立され、弘法大師によって造営された、世界遺産にもなっている威風堂々とした真言宗総本山です。

毎月21日には弘法市が立ち、広い境内に、骨董、古着、植木など、多くの出店が立ち並び、賑わいを見せることで知られていますが、特に12月21日は「終い弘法(しまいこうぼう)」と呼ばれ、全国から数十万人もの人出となります。
その「終い弘法」も終わり、今日は、人もまばらで、明後日の初詣を前に静寂に包まれていました。

五重塔の佇まいが端正で、歴史を経た揺るぎない美しさを感じさせます。
初詣ならいざ知らず、晦日にお寺参りというのもどうなのかしらという気もしていたのですが、金堂の薬師三尊、講堂に安置された大日如来に祈っていたら、何とも言えない厳かな落ち着いた気持ちになって、今年一年の出来事が心に巡ってきました。

一年の終わりにいつも思うことは、時の流れの中には、かけがいのない、人との、時間との、一期一会が積み重なっているということです。
新たな出会い、感動、喜び、様々な幸せがある一方で、心に痛く刻まれて消えないことも、また、積み重なってゆきます。
今年も友人や教え子たちの結婚や出産など、嬉しい出来事がいくつもあり、そういう輝いている時間を共有し祝福できるのは何より幸せですが、反対に、色々な形での人との別離は何より辛いことでもあります。
病で急逝された優しい先輩、不慮の事故で逝かれた友人、親戚、亡き人との思い出が、東寺のひんやりとしたお堂の中で思い起こされてきました。

東京の友人に「もし東寺に行くことがあったら「東寺香」というお香を買ってきてほしい」と頼まれていて、これを買い求めることが、今日のここを訪れた目的でもありました。
東寺でしか手に入らないという白檀の香りがゆかしいお香です。
自分の分も入手して、今部屋に焚き込めていますが、何か、年の終わりの感慨が増してくる気がします。
芸能の神様 車折神社へ
東寺から、車折(くるまざき)神社へと更に足を延ばしてみました。
四条大宮から嵐電に乗って20分ほどのところにあります。

嵐電は路面電車、今日乗ったのは一両編成のレトロな仕様でした。
街の信号で自動車と並んで止まり、降車客の切符は運転手さんが受け取ったり、のんびりとした小旅行の気分になります。
途中、太秦映画村の駅では、水戸黄門のテーマソングが車内に流れたりとユーモアもたっぷりです。
車折神社はプラットホームを下りたすぐ正面にありました。
「車折神社は芸能神社ではありません!」と社務所に大きく明示されていましたが、でも芸能神社として、知名度が高いです。

「清めの社(やしろ)」が境内に祭られていて、これに思いを込めて願い事をすると不思議なくらいよく成就し、成就の暁には、小石にお礼の言葉を書いて奉納するのだそうです。
その石の納め処が本殿の前にあります。
最近パワースポットとして紹介され、訪れる人が急増していると聞きました。
そして、本殿の近くの「芸能神社」です。

朱塗りの玉垣にはこれを奉納した歌舞伎役者、映画俳優、歌手・・・・、著名な芸能人の名前がずらりと並んでいて、その思いの深さが伝わってきます。
「人事を尽くして天命を待つ」・・・・そのような天命を求める多くの舞台人の願いがこの場所に漂っている、そういう意味では、まさに、パワースポットであることを強く感じました。
今年は、2月から12月まで計5回に及ぶvol.7、vol.8の二回の訳詞コンサートの開催と、その間にラジオの出演が何回かあり、果たしてやり通せるか、実は、心配にもなっていたのですが、兎も角も無事、終えることが出来たことを、今、本当に有難く思うばかりです。
ステージは全力を尽くしても、それだけでは如何ともしがたい、体調や周囲の状況などの不可抗力も含めて、最後は運任せでもありますので、アクシデントなく終えられたことが如何に幸せだったか、そのことに静かに思いを馳せ、手を合わせました。
何かに挑戦すれば、その分傷ついたり、消耗したりするリスクは負いますが、それでも、来年も、そういう全てを含めて、新しい出発をしてゆくことが出来ればと思っています。
今年も一年、本当にありがとうございました。
このブログも、いつもご愛読いただいて感謝致します。
どうぞ風邪などひかれませんよう気をつけて、良いお年をお迎えくださいね。
例年ですと、今頃はまだ仕事を抱えたまま、お正月を迎える準備に慌ただしく過ごしているのですが、今年はどうしたことか、半端ではない数の年賀状も、超ビックな大掃除も、整理本が書けそうなほどの徹底した断捨離も、コンサートが終わったら着手しようと思っていたいくつかのデスクワークも、全て早々と終えて、新曲の訳詩まで完成し、わが生涯の中では初めてではないかと思うくらいの余裕で12月30日を過ごしております。
<何かの前兆ではないか?><反動が新年から起こったらどうしよう!>とか、ちょっと怖くもあるのですが。
そんな不安を紛らわすべく、今日は、年末の京都の街を散策してきました。
恒例、錦市場の賑わい
わが家からの通り道が錦市場なのですが、ともかく年末の混み具合は尋常ではないのです。

いつもなら1分かからず抜けられる道が、午前中早い時間なのに、大渋滞でまったく身動きが出来ません。地元の買い出し組と観光の見物組がごちゃごちゃに混ざり合って、カーニバルみたいな空気が漂っています。
アメ横や築地も年末はこんな感じですが、こういう混雑も含めての<錦>なので、誰も別に文句も言わず、むしろ雑踏を楽しんでいる風ですらあります。
前に進めない分、何となく暇で、結構皆、写真なんか撮って楽しんでおり、撮られるお店の人も慣れていてポーズなど作ってくれます。
「餅は餅屋で」・・・納得!


京都の「のし餅」は、関東のように板状のものではなく、蒲鉾みたいな形のものをスライスして売っていて、お雑煮用も角形ではなく丸餅になります。

正月飾りの大きな売り声が年末の活気を誘っていましたが、でも、「来年はもう店を出せないと思う」とぽそりと一言。
「作りたくても輪飾りを編む藁(わら)が手に入らなくなっている」と少し寂しそうでした。

京野菜の一つで、通常より太くて短い「堀川ごぼう」もおせち料理にはなくてはならない食材のようです。途中で引き抜き、地を這わせて育てるので柔らかく太く育つのだと聞いたことがあります。
お魚屋さんには鱧(はも)が所狭しと。
京都は、鯛より、鰻より、何と言っても鱧なのですね。

錦市場からちょっと下がったところには、銭湯寄席などもやって評判の「錦湯」があります。明日の大晦日も営業すると書いてありました。まだ一度も行ったことがないので、来年は挑戦し、探検レポートでも書いてみようかなって思っています。
東寺 晦日の風景
九条まで足を延ばして、久しぶりに東寺に行ってきました。
東寺は平安遷都の際、京都の南、羅城門の東に建立され、弘法大師によって造営された、世界遺産にもなっている威風堂々とした真言宗総本山です。

毎月21日には弘法市が立ち、広い境内に、骨董、古着、植木など、多くの出店が立ち並び、賑わいを見せることで知られていますが、特に12月21日は「終い弘法(しまいこうぼう)」と呼ばれ、全国から数十万人もの人出となります。
その「終い弘法」も終わり、今日は、人もまばらで、明後日の初詣を前に静寂に包まれていました。

五重塔の佇まいが端正で、歴史を経た揺るぎない美しさを感じさせます。
初詣ならいざ知らず、晦日にお寺参りというのもどうなのかしらという気もしていたのですが、金堂の薬師三尊、講堂に安置された大日如来に祈っていたら、何とも言えない厳かな落ち着いた気持ちになって、今年一年の出来事が心に巡ってきました。

一年の終わりにいつも思うことは、時の流れの中には、かけがいのない、人との、時間との、一期一会が積み重なっているということです。
新たな出会い、感動、喜び、様々な幸せがある一方で、心に痛く刻まれて消えないことも、また、積み重なってゆきます。
今年も友人や教え子たちの結婚や出産など、嬉しい出来事がいくつもあり、そういう輝いている時間を共有し祝福できるのは何より幸せですが、反対に、色々な形での人との別離は何より辛いことでもあります。
病で急逝された優しい先輩、不慮の事故で逝かれた友人、親戚、亡き人との思い出が、東寺のひんやりとしたお堂の中で思い起こされてきました。

東京の友人に「もし東寺に行くことがあったら「東寺香」というお香を買ってきてほしい」と頼まれていて、これを買い求めることが、今日のここを訪れた目的でもありました。
東寺でしか手に入らないという白檀の香りがゆかしいお香です。
自分の分も入手して、今部屋に焚き込めていますが、何か、年の終わりの感慨が増してくる気がします。
芸能の神様 車折神社へ
東寺から、車折(くるまざき)神社へと更に足を延ばしてみました。
四条大宮から嵐電に乗って20分ほどのところにあります。

嵐電は路面電車、今日乗ったのは一両編成のレトロな仕様でした。
街の信号で自動車と並んで止まり、降車客の切符は運転手さんが受け取ったり、のんびりとした小旅行の気分になります。
途中、太秦映画村の駅では、水戸黄門のテーマソングが車内に流れたりとユーモアもたっぷりです。
車折神社はプラットホームを下りたすぐ正面にありました。
「車折神社は芸能神社ではありません!」と社務所に大きく明示されていましたが、でも芸能神社として、知名度が高いです。


「清めの社(やしろ)」が境内に祭られていて、これに思いを込めて願い事をすると不思議なくらいよく成就し、成就の暁には、小石にお礼の言葉を書いて奉納するのだそうです。
その石の納め処が本殿の前にあります。
最近パワースポットとして紹介され、訪れる人が急増していると聞きました。
そして、本殿の近くの「芸能神社」です。


朱塗りの玉垣にはこれを奉納した歌舞伎役者、映画俳優、歌手・・・・、著名な芸能人の名前がずらりと並んでいて、その思いの深さが伝わってきます。
「人事を尽くして天命を待つ」・・・・そのような天命を求める多くの舞台人の願いがこの場所に漂っている、そういう意味では、まさに、パワースポットであることを強く感じました。
今年は、2月から12月まで計5回に及ぶvol.7、vol.8の二回の訳詞コンサートの開催と、その間にラジオの出演が何回かあり、果たしてやり通せるか、実は、心配にもなっていたのですが、兎も角も無事、終えることが出来たことを、今、本当に有難く思うばかりです。
ステージは全力を尽くしても、それだけでは如何ともしがたい、体調や周囲の状況などの不可抗力も含めて、最後は運任せでもありますので、アクシデントなく終えられたことが如何に幸せだったか、そのことに静かに思いを馳せ、手を合わせました。
何かに挑戦すれば、その分傷ついたり、消耗したりするリスクは負いますが、それでも、来年も、そういう全てを含めて、新しい出発をしてゆくことが出来ればと思っています。
今年も一年、本当にありがとうございました。
このブログも、いつもご愛読いただいて感謝致します。
どうぞ風邪などひかれませんよう気をつけて、良いお年をお迎えくださいね。


