
お正月は遠くなり、今年もすっかり普通のペースで動き出しています。
私の手帳は相変わらず、色々な予定で埋まっていて、暇な日があるわけではないのですが、でも、「じゃあ何をしているのか?」、と問われると、困ってしまいます。
自分にとっては、昨日とは違うかけがえのない一日一日ですが、かといって改めて詳細に表明できるようなものでもなく、日々の食事のように、<とりたてて素晴らしいご馳走というわけではないけど、自然に食べて一番飽きない、一番口に合う>というような、・・・・普通の日、生活って、何気ない時間の積み重ねなのでしょう。
兼好法師に習い、今日は、<心に浮かびくるよしなしごとを そこはかとなく>書き記して行くことに致します。
「農夫と二人の娘」
昔読んだイソップ童話を突然思い出しました。
二人の娘を持つ農夫が、嫁いだそれぞれの娘に何かしてやりたいと思い、「願いは何か?」と尋ねたところ、菜園を営んでいる一人の娘は「何も困ったことはなく幸せだけれど、ただ一つだけ、作物が育つように雨が沢山降って欲しい」と言い、陶芸家に嫁いだもう一人の娘は「何も困ったことはなく幸せだけど、ただ一つの願いは、焼き物を乾かすために晴れの日が沢山欲しい」と言われたというお話だったかと思います。
子供の頃読んだだけですので、細かいところはうろ覚えで、農夫はこの後どうしたのかとか、どのような結末で締めくくられていたかとかは、申し訳ないのですが、ほとんど記憶にありません。
イソップ童話はほぼ全編風刺の利いた寓話ですので、となると、この童話の教訓は何なのでしょう?
<あちらを立てればこちらが立たず>で、世の中は儘ならない、天命は人の関与するところでないと達観すべし!ということなのでしょうか?
雨の日も晴れの日もそれぞれの娘のために喜んだという話も、また別の時に別の本で読んだ記憶がうっすらとあるのですが、これはこのイソップの話をもじったものだったのでしょうか?
「年を取ることは・・・」
「年を取ると体も気持ちも自由にならなくなる。若い時には思いもよらなかった情けなさや孤独との苦しい戦いだ。」
「年を取ると見えてくるものがある。ああこれだったんだと気づかされるのが、何とも言えず面白い。」
「年を取ったから、自然のままに任せようと思う。病気であってもこれまで通りの普通の生活をして好きなものを食べ、好きなところに行き、友達と会い、それが尽きる時を受け入れよう。」
この三つの言葉は、先輩、知人の方に、つい最近、今年になってから直接伺った言葉です。
三人三様、皆様80歳を超えた女性なのですが、それぞれの重みが胸に響いてきます。
焦燥感や執着心を駆り立てながら、老いに竿さし、生きる大きなエネルギーに転化して行こうとする生き方。
そしてそれとは反対に、達観してありのままを受け入れることによる解放感や自由を獲得する生き方。
かなり深刻な病状の前に、医療の一切を希望せず、自然流を貫こうとしてゆく決意。
それぞれの覚悟と真実が込められた言葉の前に、私は、ただ頷くことしかできませんでした。
先ほどのイソップのお話ですが、晴れであっても、雨であっても、どちらも悩みとなる悲しさや愚かさは、裏返せば、人間的には弱いかもしれないけれど、共感だったり、優しさだったりもするわけですし、晴れも雨も共に喜べることもまた、他者の喜びを喜びとして受け入れるという、別の視点からの温かさと言えるわけでしょう。
マイナスに目を凝らすか、プラスを甘受するか、人は、自らの生きるエネルギーをどのように得て行くべきなのか、それは両立し得ないのか、今、そんなことを茫洋とした思いの中で考えています。
飛躍するかもしれませんが、訳詞を作ったり、歌を歌ったりするエネルギーもまた、自分を追い込まないとできない部分と、追い込まず自由に解放しないと遂げられない部分との表裏となっている、・・・そんなことも思われてきます。
吉田神社と京大と
昨年、コンサート関係のことで忙しく、休みがちになっていたフランス語の勉強ですが、また新年から心機一転して始めています。
私、アンスティチュ・フランセ関西(旧日仏学館)に通う学生でもあるのです。
この中にある稲畑ホールをお借りして、数年前コンサートを開催しましたし、勝手知ったる我が家の様な居心地です。
すぐ近くに京大。
シンボリックな時計台のある講堂が冬空の下、威風堂々とそびえ立ち、その前の広場には大きな楠が枝を広げています。
そして、吉田山を背後に抱えた吉田神社。
もう節分会の案内が出ていました。

コンサート打ち上げ会
この数日、大勢の方たちに会い、楽しい時間を過ごしていました。
中でも、一番賑やかだったのは、コンサートスタッフ打ち上げ会。
新年会も兼ねて、総勢10名のスタッフの方々が我が家に集まって下さいました。
内幸町ホールでのコンサートの振り返りと、京都コンサートの報告、これからのビジョン、ワイワイとテンションが最高潮に盛り上がりつつ、話は多岐に飛び交って行きます。
出来上がってきたコンサートのライブ盤DVDをじっくりと観賞する予定が、時間が足りなくなってしまったほどでした。
共に一つのものを創り上げて行く時の連帯感は、本番だけで生まれるものでもなく、お互いを信頼し、思いやる自然な時の積み重ねから生まれてくるものなのだとしみじみ思っています。
いつでもそういう状況でコンサートが出来るわけではなく、また慣れ合いになってはいけないのですが、でも皆様の曇りのない笑顔を見ているとこんなに贅沢で幸せなことはないと感じます。
心尽くしで準備した手料理に加えて、差し入れの品々も続々と集まり、食卓狭しと並びました。

今回の目玉は何と言っても、Mさんが差し入れて下さったオリジナル「きのこのクレープ」でしょう。(コンサートにいらして下さった方はお分かりですね。一番人気の曲「きのこのクレープ」です)
ホワイトソースで味付けした、ミルフィーユのように何層にもなったコクのあるクレープ、とても美味しく、大好評でした。

そして、前にもこのブログでご紹介致しましたが、仲良しの友人、SさんとMさんからプレゼントして頂いたプリザーブドフラワーです。真ん中の大きいのは私、小箱はスタッフの方に一つずつ、人数分、作って下さいました。
素敵な記念品を皆で分け、何だか、絆が更に深まったような嬉しさを感じました。
私の1月は、こんな風に過ぎています。
私の手帳は相変わらず、色々な予定で埋まっていて、暇な日があるわけではないのですが、でも、「じゃあ何をしているのか?」、と問われると、困ってしまいます。
自分にとっては、昨日とは違うかけがえのない一日一日ですが、かといって改めて詳細に表明できるようなものでもなく、日々の食事のように、<とりたてて素晴らしいご馳走というわけではないけど、自然に食べて一番飽きない、一番口に合う>というような、・・・・普通の日、生活って、何気ない時間の積み重ねなのでしょう。
兼好法師に習い、今日は、<心に浮かびくるよしなしごとを そこはかとなく>書き記して行くことに致します。
「農夫と二人の娘」
昔読んだイソップ童話を突然思い出しました。
二人の娘を持つ農夫が、嫁いだそれぞれの娘に何かしてやりたいと思い、「願いは何か?」と尋ねたところ、菜園を営んでいる一人の娘は「何も困ったことはなく幸せだけれど、ただ一つだけ、作物が育つように雨が沢山降って欲しい」と言い、陶芸家に嫁いだもう一人の娘は「何も困ったことはなく幸せだけど、ただ一つの願いは、焼き物を乾かすために晴れの日が沢山欲しい」と言われたというお話だったかと思います。
子供の頃読んだだけですので、細かいところはうろ覚えで、農夫はこの後どうしたのかとか、どのような結末で締めくくられていたかとかは、申し訳ないのですが、ほとんど記憶にありません。
イソップ童話はほぼ全編風刺の利いた寓話ですので、となると、この童話の教訓は何なのでしょう?
<あちらを立てればこちらが立たず>で、世の中は儘ならない、天命は人の関与するところでないと達観すべし!ということなのでしょうか?
雨の日も晴れの日もそれぞれの娘のために喜んだという話も、また別の時に別の本で読んだ記憶がうっすらとあるのですが、これはこのイソップの話をもじったものだったのでしょうか?
「年を取ることは・・・」
「年を取ると体も気持ちも自由にならなくなる。若い時には思いもよらなかった情けなさや孤独との苦しい戦いだ。」
「年を取ると見えてくるものがある。ああこれだったんだと気づかされるのが、何とも言えず面白い。」
「年を取ったから、自然のままに任せようと思う。病気であってもこれまで通りの普通の生活をして好きなものを食べ、好きなところに行き、友達と会い、それが尽きる時を受け入れよう。」
この三つの言葉は、先輩、知人の方に、つい最近、今年になってから直接伺った言葉です。
三人三様、皆様80歳を超えた女性なのですが、それぞれの重みが胸に響いてきます。
焦燥感や執着心を駆り立てながら、老いに竿さし、生きる大きなエネルギーに転化して行こうとする生き方。
そしてそれとは反対に、達観してありのままを受け入れることによる解放感や自由を獲得する生き方。
かなり深刻な病状の前に、医療の一切を希望せず、自然流を貫こうとしてゆく決意。
それぞれの覚悟と真実が込められた言葉の前に、私は、ただ頷くことしかできませんでした。
先ほどのイソップのお話ですが、晴れであっても、雨であっても、どちらも悩みとなる悲しさや愚かさは、裏返せば、人間的には弱いかもしれないけれど、共感だったり、優しさだったりもするわけですし、晴れも雨も共に喜べることもまた、他者の喜びを喜びとして受け入れるという、別の視点からの温かさと言えるわけでしょう。
マイナスに目を凝らすか、プラスを甘受するか、人は、自らの生きるエネルギーをどのように得て行くべきなのか、それは両立し得ないのか、今、そんなことを茫洋とした思いの中で考えています。
飛躍するかもしれませんが、訳詞を作ったり、歌を歌ったりするエネルギーもまた、自分を追い込まないとできない部分と、追い込まず自由に解放しないと遂げられない部分との表裏となっている、・・・そんなことも思われてきます。
吉田神社と京大と
昨年、コンサート関係のことで忙しく、休みがちになっていたフランス語の勉強ですが、また新年から心機一転して始めています。

この中にある稲畑ホールをお借りして、数年前コンサートを開催しましたし、勝手知ったる我が家の様な居心地です。
すぐ近くに京大。
シンボリックな時計台のある講堂が冬空の下、威風堂々とそびえ立ち、その前の広場には大きな楠が枝を広げています。
そして、吉田山を背後に抱えた吉田神社。
もう節分会の案内が出ていました。


コンサート打ち上げ会
この数日、大勢の方たちに会い、楽しい時間を過ごしていました。
中でも、一番賑やかだったのは、コンサートスタッフ打ち上げ会。
新年会も兼ねて、総勢10名のスタッフの方々が我が家に集まって下さいました。
内幸町ホールでのコンサートの振り返りと、京都コンサートの報告、これからのビジョン、ワイワイとテンションが最高潮に盛り上がりつつ、話は多岐に飛び交って行きます。
出来上がってきたコンサートのライブ盤DVDをじっくりと観賞する予定が、時間が足りなくなってしまったほどでした。
共に一つのものを創り上げて行く時の連帯感は、本番だけで生まれるものでもなく、お互いを信頼し、思いやる自然な時の積み重ねから生まれてくるものなのだとしみじみ思っています。
いつでもそういう状況でコンサートが出来るわけではなく、また慣れ合いになってはいけないのですが、でも皆様の曇りのない笑顔を見ているとこんなに贅沢で幸せなことはないと感じます。
心尽くしで準備した手料理に加えて、差し入れの品々も続々と集まり、食卓狭しと並びました。

今回の目玉は何と言っても、Mさんが差し入れて下さったオリジナル「きのこのクレープ」でしょう。(コンサートにいらして下さった方はお分かりですね。一番人気の曲「きのこのクレープ」です)
ホワイトソースで味付けした、ミルフィーユのように何層にもなったコクのあるクレープ、とても美味しく、大好評でした。

そして、前にもこのブログでご紹介致しましたが、仲良しの友人、SさんとMさんからプレゼントして頂いたプリザーブドフラワーです。真ん中の大きいのは私、小箱はスタッフの方に一つずつ、人数分、作って下さいました。
素敵な記念品を皆で分け、何だか、絆が更に深まったような嬉しさを感じました。
私の1月は、こんな風に過ぎています。


