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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

2015年コンサートの日程が決まりました

 この数日の麗らかな陽射しの中で、京都の桜も一気にほころび始めました。
 いよいよお花見シーズン到来、街はもう華やかな賑わいを見せています。
 花の名所のそこここでライトアップが始まり、<しづ心なく・・>ではありませんが、桜ならではの心騒ぐような高揚感が既に高まっている気がします。
 来週からは、京都探訪の友人たちと共に、桜に染まる忙しくも楽しい日々が続きそうです。

   訳詞コンサート vol.9
 さてそんな中、今年のコンサートの日程が決まりました。
 詳細はまだですが、まずは第一報を今日はご案内させて頂きますね。

  * 松峰綾音訳詞コンサート vol.9
    11月14日(土)東京 新橋 シャミオール 昼夜二回公演

  * 松峰綾音訳詞コンサート vol.9 in京都
    12月5日(土)京都 巴里野郎


 昨年は訳詞コンサート vol.7 『君は誰にも似ていない』と、vol.8 『街の素描』を続けて行いましたので、今年一年、コンサートは控えて、充電期間にしようと考え、冬中、寸暇を惜しんでひたすら訳詞作りに勤しんでいたのです。
 ところが、素敵な曲に沢山出会ううちに、コンサートの構想が沸々と湧き上がってきて、冬眠から覚めた熊みたいに覚醒し、皆様にこれをご紹介したいという思いがどんどん募ってきました。

 ホームグランドとなった「シャミオール」、そして「巴里野郎」での公演です。

 「シャミオール」でのコンサートは、これまでずっとアーティストシリーズを企画してきました。
 今回も引き続き、一人のアーティストの特集を中心に展開してみようと思います。
 実は前々から是非ご紹介したいと思っていた男性ビッグアーティストがいるのです。
 その彼を特集するつもりですが、既に訳詞が出来上がっている曲に加え、新たに10曲余りの訳詩も先ごろ完成しました。
 「彼とは誰でしょう?クイズ」みたいですが、今すぐにご紹介したい気持ちを抑え、コンサートタイトルや詳細が決まってから、改めてきちんと発表ということにさせて頂こうと思います。
 いつもながらかなりマニアックなのですが、これはまさに<希少価値あり!>、とても素敵ですので、楽しみにしていらしてくださいね。
 そして日程をまず、手帳に記し、予定して頂けたら、とても嬉しいです。

 それにしても、普通からすると、一年に数回のコンサートは当たり前なのかもしれませんね。
 でも、私の場合は、兎も角、度を越えたこだわり性ですし、コンサートで歌う曲の半分は新曲ですので、新曲発掘から始まって、訳詞作り、譜面おこし、アレンジ、全てを整えながらの作業になり、実現するまでに相当の時間を要するのです。
 それで、年に1回、2回といっても、準備が忙しくて、・・・・でもこれは勿論、好きでやっていることなのでこの上なく幸せなことであり、こんな風に<ゆっくり・じっくりのこだわりペース>をこれまで許して下さっている協力者、スタッフ、お客様のお陰であることはいうまでもありません。
 そのような訳で、今、11月、12月に向けて動き出したところです。

   「採薪亭演奏会」~松峰綾音訳詞コンサート in 東福寺~
 というわけで、vol.9コンサートの開催を決めた矢先だったのですが、先ごろ、思わぬご縁で東福寺からコンサートのお話を頂きました。

  * 「採薪亭演奏会」 
    松峰綾音訳詞コンサートin東福寺『巴里の香り』
    9月13日(日)12時開場 12時30分開演 
      於 京都 東福寺 大慧殿

 
 臨済宗東福寺派大本山「東福寺」は、日本最古の伽藍を有する京都を代表する威風堂々とした名刹ですが、秋は人で埋め尽くされる紅葉の名所、人気スポットとしても良く知られていますね。

 東福寺宗務本院=大慧殿(だいえでん)は、この東福寺の広大な敷地内にあり、通常は信徒の方々が集う法話会や法事、また、全国の東福寺派寺社の僧侶が一堂に会する集会、勉強会などで使われているとのことです。
 ここで、数年前から年に一度『採薪亭(さいしんてい)演奏会』が開催されていて、これまではクラシックを中心に様々なジャンル、楽器の音楽会が企画されてきたのだそうです。
 ご縁があり、昨年の京都でのコンサートを聴きにいらして下さった東福寺の方が、今年は、私に白羽の矢を立てて下さって、「訳詞コンサートを是非!」という有難いお話を下さいました。<シャンソンコンサートは初めて開催する>ということで、本当に光栄に思っています。
 
 これまで、自主公演のコンサートを通してきた私ですが、今回は招待コンサート、そしてお寺という場所でもありますので、「ご要望や条件は?」とお伺いしたのですが、「何の制約も感じないで、自由に、松峰さんらしい企画でなさって下さい」とのお言葉を頂き、益々感激です。
 
 これから選曲等の詳細は詰めて行きますが、『巴里の香り』というコンサートタイトルで、シャンソンの香りを満喫して頂きながら、シャンソンの持つ多様な世界をお伝えし、楽しんで頂けたらと夢膨らみます。
 
 この東福寺コンサート、まだ正式には公表前なのですが、チケットは寺社関係の皆様の分で既にかなり埋まっているようです。フライヤーなど出来てきましたら、詳細と共にすぐにブログにご案内させて頂きますので、ご希望の方は出来るだけ早めにご連絡下さったほうが確実かもしれません。

   春の東福寺
 会場となる大慧殿を数日前に訪れました。
 ピアノの設置、音響機材のチェックなど会場の事前確認も必要でしたので、伴奏をお願いする坂下文野さんにもご一緒して頂きました。
 文字通り超多忙の活躍をなさっている坂下さん、いつお会いしても温かい笑顔で溌剌としていらして、この日も9時という早い時間の打ち合わせにも関わらず快く同行して下さって、感謝で一杯です。

 バスを降りてから、風情ある参道を15分ほど歩きます。
バス停からの道 通天橋の美しい眺め
 三門が近づく辺りで、通天橋の美しい姿が見えてきました。

周囲のもみじの芽吹き
 
 秋は、一幅の錦絵のように絢爛とした紅葉、黄葉で埋め尽くされる景色ですが、今はもみじの新芽が、血が巡るように赤く色付いて、足元の苔の緑も鮮やかで、春ならではの躍動感を感じます。


そして三門。
朝の冷気に包まれて、禅寺らしい閑寂な趣が漂ってくるようです。
三門  朝の光の中で
 朝の光の中で。

大慧殿入口

 会場となる「大慧殿」です。
 
 百畳以上ありそうな整然と清められた大広間で、そこに立つだけで身が引き締まるような清々しさを感じました。
 主催者のご住職は「懐の深い」という言葉がぴったりの、快活で慈愛に満ちた素敵な方で、和やかに丁寧に打ち合わせをしてくださいました。

 9月・・・思いが膨らみます。
 
帰り際、通天橋を坂下さんと一緒にぶらり散策。
 音楽談義にも花が咲いてとても楽しいひと時でした。
坂下さんと散策  坂下さんと散策

弥生3月の終わり。
そして、私の新年度4月も、桜の便りと共にこうしてスタートします。


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東山魁夷 ~岩絵の具の青~

 昨年末の東京での開催に引き続き、現在、京都の『美術館「えき」京都』で3月29日まで、「東山魁夷 わが愛しのコレクション展」が開催されています。
 一昨日訪れましたので、今日はこのお話をしてみたいと思います。

   東山魁夷のこと
 このブログでもこれまでに何回か東山魁夷画伯と、その絵画についてご紹介したことがありました。

 嘗ての記事をご記憶の方もいらっしゃるかと思いますが、久しぶりですし、改めてご紹介してみますね。
2011年に記した「椅子の魅力(2)~コンコルド広場の椅子~」という記事なのですが、その一部を引用します。(全文については上記をクリックしてお読み下さい。)

 東山魁夷画伯と言えば、日本画壇の第一人者。
 いくつかの代表的な絵画がすぐ目に浮かんでくるのではないでしょうか?
 風景画家として、繊細な情感のこもった、美しい自然を描き続けた方ですが、その絵画同様、私は随筆もとても好きです。  
 静謐で内省的な心境と人柄が伝わってきて、言葉から絵が、絵から言葉が、祈るように生まれ出てくるようで、心洗われ、いつも深い感銘を受けるのです。
 東山魁夷画伯
 画伯は1999年に90歳で亡くなられましたが、これは『自然のなかの喜び』(講談社)に載っている70歳の時の写真です。
 <謙虚と誠実と清純>を自らの生活信条にも絵画の究極にも置いた、高い精神性と意志とが、端正な佇まいの中から滲み出てくるように感じられます。

 群青と緑青の絵の具で、深い青の陰影を駆使して描いた唐招提寺の障壁画の『山雲』『涛声』、そして同じく唐招提寺の襖絵に描いた四十二面の水墨画を筆頭に、数多くの日本画の傑作を残していますが、私が一番初めに出会い心魅かれた絵は、中学の国語の教科書の見開きに載っていた『道』でした。

 <夏の朝早い空気の中に、静かに息づくような画面にしたいと思った。
 この作品の象徴する世界は私にとって遍歴の果てでもあり、また、新しく始まる道でもあった。それは絶望と希望を織り交ぜてはるかに続く一筋の道であった。>

 このような『一筋の道』という随筆の一文が添えられていたのですが、心象を映しだすこの一枚の風景画と文章が、ちょうど多感な年頃だった自分の感覚に何か大きく作用したようで、それから「東山魁夷」の名はずっと特別なものとして胸に刻まれてきたみたいです。


 また、別の時に、「落葉松の帰路 ~画家の見た風景~」という記事で、長野の東山魁夷館と、晩秋の風景を描いた画伯の絵画とを紹介していますので、よろしかったらこちらももう一度、お読みになってみて下さいね。

   「東山魁夷 わが愛しのコレクション展」 
 さて、今回の展覧会の特徴は、東山画伯の作品と共に、画伯愛蔵の多様な美術品が展示されていることにあります。

東山魁夷展パンフレット表
 魁夷は、戦後、本格的に日本の古典の美に目覚め、蒐集活動を始めていきます。 魁夷の審美眼により、手元に集められた美術品は、その後、彼の大いなる創作の源泉となっていきます。本展では東山家に今も大切に保管されている古今東西の美術品など、魁夷の貴重な愛蔵のコレクションの数々、および創作の源となる下絵やスケッチを、選りすぐりの東山作品とともに展覧いたします。

 と、パンフレットに説明がありましたが、本当に、実に多くの多種多様な蒐集であることに、まず驚きました。
 古代エジプト、ギリシャ、中国、日本・・・・古美術、近代絵画、陶器、彫刻、仏像、書画、茶器、経典に至るまで、・・・・国、民族、時代、ジャンルを超えて、数知れぬ優れた美術品の蒐集を行っており、並々ならぬその情熱と造詣とが、展示品の一つ一つから溢れ出てくるように感じました。

 画伯の中で、これらの美術品がどのように結びつき、そのどのような魅力が画伯自らの創造の世界に力を与えていくことになったのか、コレクションの数々を観賞しながら、次第に、時空を超えた美の世界に惹きこまれるような、不思議な心持ちがしてしまいました。

 画伯は東京美術学校(現東京芸大)日本画科、及び研究科を終了の後、1933年にドイツ留学を果たしています。
 ベルリン大学で東西の美術史を学ぶことになりますが、<外国にあって「日本美術」を味わい直す>という逆の立ち位置から、改めて日本美術の持つ本質的な特質と向き合うことになったのでしょう。
 そして、それはきっと、画伯自身の、日本人としてのアイデンティティーを問われることに繋がっていたのではないでしょうか。
 日本の風土に生まれた自分が、その中で育まれてきた従来の日本画の手法とどう向き合っていくのか、自分の中に脈々と流れる日本的なものと、西欧文化の洗礼を受けた、より現代的なものとのせめぎ合い、葛藤の日々があったのだと思われます。

 今回の、あまりにも多様な美術蒐集の足跡を目の当たりにして、この葛藤の突破口が、二律背反する世界の融合に辿り着くことだったかもしれないと感じました。

 簡単に言ってしまえば、<美しいものは美しい>ということで、古今東西、時空を自由に跨(また)いで、しなやかに貪欲に、普遍的な美の世界を追求しようとしていたのでしょうか。

 目に優しい、懐かしいものに出会うような幸せを感じさせる魁夷画伯の絵画と収集品の数々を観賞しながら、しばしうっとりと日常から離れた世界に心を遊ばせました。

   岩絵の具の美しさ
 展示の中に、美術作品と並んで、画伯が使用していた絵具や絵筆などが紹介されているコーナーがあり、これもとても心に残りました。
岩絵の具の棚
 日本画に使用する岩絵の具(いわえのぐ)、その顔料が細いガラス瓶の中に収められていて、それがグラデーションを作って美しく整理されているのです。
 こんなにと思うほど、同色系であっても沢山のバリエーションが細やかに微妙に存在していて、これがどのように選び出され、組み合わされて、一幅の絵画に仕上がって行くのか、そんなことを思っていたらとても感動してしまいました。
 特に「魁夷の青」と呼ばれる青・緑・群青・紺・・・微妙に変化する色調は本当に美しく豊かで、色自体が大きな力を持って誘いかけてくるようでした。

 パンフレットにあった写真を(少しわかりにくいかもしれませんが)載せてみます。

「道」
 先ほどの『道』という絵ですが。
 宝石箱のようなこの多彩な顔料の中から、わずかに数色だけが採用され、<一筋の道>を完成しています。
 まさに<魁夷の青>と言われる色調ですが、全てをそぎ落として、「道」が訴えかけてくる心象だけを画布に再現した絵画。
 絵の中に自分が佇んでいるような臨場感と、精神性とが美しく胸に迫ってくる気がします。


 これは絵葉書ですが、『朝雲』という作品。
朝雲(東山 魁夷)
 やはり青が優しく、遠い峰々の陰影を写し出しています。湧き上がってくるような雲の冷気まで伝わってくるようです。

 「本物」に触れる感動の中で、私はというと、日々の生活を省み恥じ入ることばかりで、身の引き締まる思いで一杯の一日でした。

 最後に、東山魁夷画伯の『風景開眼』という随想の中から、大好きな一節をご紹介してみたいと思います。

  私は生かされている。野の草と同じである。
  路傍の小石とも同じである。
  生かされているという宿命の中で、
  せいいっぱい行きたいと思っている。
  せいいっぱい生きるなどということは
  難しいことだが、
  生かされているという認識によって、
  いくらか救われる。
  

 
 

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花を待つ季節

 「桜の花がピンクを秘めているような気配に春を待ちわび、如何お過ごしかとメール致しました。」

 先日頂いた仲良しのMさんからのメールです。
 この時期、いつも花粉症に悩まされる私の体調をさりげなく気遣って下さったお見舞いメールの結びはこのように締めくくられていました。

 弥生3月となり、桃、梅、そしてやがて桜、と弾むような春色に染まる季節の到来です。
 ふっと爽風が吹き抜けるようなMさんの優しい文面に触れた途端、黒褐色の桜の木肌が、赤黒く色を変え始め、幹と枝と蕾とを膨らませてゆく情景が目の前に浮かんできました。
 桜の花の樹液が樹木全体を流れ巡っていくそんな時節。

 手紙でもメールでも、素敵な便りというのは、美辞麗句ではなくて、実はとてもシンプルで、でも言葉に力を待っているもの、相手に送る「気」のようなもの、温かい思いやりや愛情が伝わってくるものなのだと、改めて感じます。

 ふとした時に、時間の、季節の、移ろいを感じ、その一瞬を共有したいと思う、そんな便りは、言葉だけに出来る素敵な贈り物なのでしょう。

 Mさんからのメールにそんなことを感じて、何だかとても幸せになりました。
春を待つ桜木1

 毎週通っている「アンスティチュ関西」にも開花を待つ桜木があります。

 枝の隙間から、3月の空と風にそよぐフランス国旗が眩しく光っていました。

 ともあれ、Mさんも心配して下さった私の花粉症とそれに加えて黄砂のアレルギー症状は年を追ってひどくなっています。
 不甲斐ないことに、ついに今週は満身創痍、重病人みたいな雰囲気で寝付いてしまったのですが、何年かすればピークも過ぎて、快方に向かうものなのでしょうか・・・?
 2月、3月は、<冬眠中>の札をそっと掲げ、体力を温存し、ひたすら嵐が通り過ぎるのを待とうかと思います。
 そのような訳で、今は、頭もぼおっとしていますので、ブログの更新もままなりませんが、一刻も早く復帰できるよう努めますので、どうぞ今しばらくご容赦くださいね。

   おまけのお話
  *その一 衝動買い
 昨日、街を歩いていたら、B4サイズの書類が入るトートバックが目にとまりました。
 とても鮮やかなマゼンタに近いピンクで、革製なのですが不思議なほど軽く、使いやすそうで、そして嘘みたいな安価でした。
 この冬、お気に入りで愛用しているあのロイヤルブルーのコートをこの日も着ていて、バックの明るく冴えた色調がこれに調和し、<ちょっとフランスっぽい色合わせかな?>と勝手に解釈し、<バックとの遭遇! バックが呼んでいる!>と更にまた、勝手に確信して早速買い求めました。
 とても単純なのですが、春を一足先に纏ったような優雅な気分で、鬱陶しさも少し紛れて、今日はかなり幸せです。

 この春、ロイヤルブルーのコートとマカロン色のピンクの大きなバックにどっさり荷物を詰め込んで、京都の街を嬉しそうに闊歩している長い髪を見かけたら、それはおそらく私です。

  *その二 桜色について
 このバックを買う時に、若い女性店員さんが<綺麗な桜色のバックですよね>と薦めてくれました。
 「桜色の・・・」という言葉の響きがどこかはんなりとして心に残ったのですが、でも、厳密に言うとこのピンクは、桜色ではなく桃色なのです。
 イメージ的には私も桜色と言いたくなりますが、実際の桜は殆どピンクの色合いはなく、透き通って限りなく白に近いピンクホワイトと言う方が正しいかと思います。
 京都は桜を模した和菓子などもこの時期、数多く供されますが、これらも同様で、イメージは事実を超えてリアリティーがあるという興味深い例かもしれません。

 ちなみに、染色家の志村ふくみさんの著書で以前知ったのですが、草木染めの桜色は、桜の花から染めるのではなく、桜の幹の樹皮を煮詰めて、・・・それも開花直前の樹皮だけが・・・それで染めるとまさに桜色の上品な美しいピンクがあらわれて来るのだそうです。
 「桜は開花の前から、樹木全身で春のピンクに色づいていて、花びらはいわばそれらのピンクが、ほんの尖端だけ姿を出したものにすぎないのだ」 という、奥深い、目に見えぬ世界への示唆に富んだ趣を感じますし、また、自然の営みが、どれほど不思議で美しく圧倒的な力を持つものか、改めて思わずにはいられません。

 今年の桜前線は早いのでしょうか?
 楽しみな季節がすぐそこです。





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