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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

賢者の贈り物

    ~シャンソンの季節~ 6月から7月へ
 6月21日はフランスでは<Fête de la Musique (フェット・ド・ラ・ミュージック )>と呼ばれる「音楽の祭り」です。
 1981年に発起されて、もう30年以上もの歴史を持っていますが、「音楽は全ての人のもの」という主旨の下、ジャンル、プロ、アマを問わず様々な音楽がフランスの街のそこここで演奏され、全土をあげて音楽一色の日として賑わいます。夜が一番短い夏至の一日、朝まで音楽三昧、全てのコンサート・ライブが無料で開放される徹底ぶりです。

 私も、「今年こそ、この日はフランスで!」と毎年思っているのですが、実は未だ実現していなくて、残念ながら、友人から話を聞いたり、映像を見たりするに留まっています。

 日本でもこれに模し、2000年辺りから、パリ市などヨーロッパの都市と連携しながら「音楽の日」と名付けられたイベントを開催しています。
Fête de la Musiqueの写真
 パリと姉妹都市の京都は殊の外活発で、私の友人知人もこれに関わる意欲的な活動を行っている方が多いのです。

 在日フランス大使館のHPに、左のような当日の雰囲気を伝える写真と説明が載っています。
 よろしければご覧下さい。 
  → http://www.ambafrance-jp.org/article7179

 前日20日、仲間うちの会ですが、私も東京でミニコンサートを行ってきました。
 雨の季節にちなんで、水の流れ、川の流れをテーマにしたシンボリックな曲を集めて歌ったのですが、皆様に楽しんで頂けたようで、ホッと一息ついています。
 (その中の一曲は、以前ブログの「訳詞への思い」でご紹介した「go to the river 」です。)

 そして7月14日の「パリ祭」が近づき、紫陽花色のこの季節、シャンソン界は、華やかな活気に満ちてきます。

   『賢者の贈り物』
 話は変わりますが、アメリカの作家、オー・ヘンリーの短編小説、『賢者の贈り物』をご存知ですか?
 子供の頃、読んだことがおありかも知れませんが、あらすじは次の様です。

 アメリカに暮らす貧しい夫婦の物語。
 クリスマス・イヴの日、妻のデラは夫ジムへの飛び切りのプレゼントを思いつきます。
 それは、ジムが何よりも大切にしている祖父、父から代々受け継いできた形見の金の懐中時計に付ける「プラチナの鎖」でした。
 ジムがどんなに喜ぶかと想像してみても、貧しい家にはそれを買うお金はなく、考え抜いた揚句、デラは自慢の長い髪を売ることにしたのです。
 誰でもが振り向く美しく長い髪をずっと彼女は大切に手入れしてきたのですが、鬘(カツラ)を作る商人のところに売りに行き、バッサリと短くなった髪で、プラチナの鎖を買います。
 
 夜になり、ジムが帰宅します。
 鎖をプレゼントするデラをただ茫然と見つめるジムに、彼女は、美しい髪を失った自分に愛情が醒めたのかと一瞬疑うのですが、ジムが差し出すプレゼントを見て泣き出してしまいます。
 それは、自分の大事な金時計を質に入れて買った、高価な「鼈甲(べっこう)の櫛」だったのです。
 彼女が欲しがっていた櫛、長い髪によく似合いそうなその髪飾りと、プラチナの鎖・・・・共に使い道のなくなった二つのプレゼントを二人は机の中にそっとしまい、クリスマスの夜を祝います。
 
 作者のオー・ヘンリーは、最後に結びます。
 「現代の賢者たちに言おう。贈り物をする人々の中で、この二人こそ最も「賢い人々」であるのだと。」

 このお話、私は小さい頃に読んだのですが、とても感動して、読む度に涙ぐんだのを思い出します。そして、幼心に色々なことを考えました。

 二人とも何と謙虚で無欲な人なのだろうとか、自分の事より、相手を思う愛情ってすごい!とか、でもきっと、そういう風に思える相手に出会えるのはこの上なく幸せなことなのだろうとか・・・。
 また、価値のある贈り物というのは、有り余っているものを分け与えることでも、ましてや必要ないから処分するような感覚でもなく、自分にとって最も大切なものを相手への純粋な愛情から敢えて投げ出すこと、痛みを痛みと感じないことなのだと・・・。
 そんな色々を感じていたように思います。

 では、大人になった今、それが実現できているかというと、むしろ遠ざかっているかもしれず、そういう考えや行動がどんなに難しいか、痛感せざるを得ません。
 
    「がん闘病の子へ髪贈る」 
 なぜ、突然『賢者の贈り物』を思い出したかと言いますと、先日或る新聞記事を目にしたからなのです。

 二週間ほど前、6月11日の読売新聞の一面トップに掲載された記事です。

 「がん闘病の子へ髪贈る」「父失くした10歳 黒髪ばっさり」という大見出しが付いていました。

 堺市の小学5年生、金田ことばさんのことが取り上げられていました。
 ことばさんは、昨年大好きなお父さんをがんで亡くした後、いつも行く美容室で「小児がんの治療の副作用で髪を失った子にウイッグをプレゼントする活動がある」ことを聞いたのだそうです。

 彼女は長髪が好きで、幼い頃からずっと伸ばし続けてきた自慢の黒髪を、父親はいつも「綺麗な髪だね」と目を細めながら口癖のように褒めてくれたとのこと、その父がすい臓がんに侵され、末期には抗がん剤の副作用で髪が抜けおち、やがて、昨年47歳の若さで他界されました。

 美容室で、ウイッグを無償で贈る美容室仲間の活動を耳にしたことばさんは、「病気と闘っている子に私の髪をあげたい。少しでも笑顔になってもらえるように」と考えたのでした。
 「髪は大切な体の一部やったけど、私に出来ることではないかと考えました。パパも天国で喜んでくれていると思う」との言葉。
 今、彼女は再び髪を伸ばしていて、「高校生になった頃、日本のどこかで病気で戦う誰かにプレゼントするつもりだ。」と、記事は結ばれています。

 一年前に家族で撮った、腰ほどもある長い髪のことばさんの写真も、甘えんぼさんの様でとても可愛いですが、今、明るく笑っているショートヘアの写真は、大切なものを贈り贈られた人の揺るぎなく美しい笑顔に見えました。
アジサイ

 素敵な賢者の贈り物ですね。

 お父様を亡くされた悲しみを乗り越えて、ご家族が幸せに歩んでいらっしゃるよう祈りたいと思います。




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コンサートタイトルが決まりました

『松峰綾音訳詞コンサートvol.9』ですが、コンサートタイトルは『吟遊詩人の系譜』と決まりました。

まずは、最新のご案内をさせて頂きます。

  * 松峰綾音訳詞コンサートvol.9 『吟遊詩人の系譜』
    2015年11月14日(土) 昼夕二回公演(13:30~ 17:00~ )       
    於 東京 新橋シャミオール 
      (ワンドリンク・お菓子付 自由席) 料金 ¥4000- 


  * 松峰綾音訳詞コンサートvol.9 in 京都 『吟遊詩人の系譜』
    2015年12月5日(土) 13:30~  
    於 京都 巴里野郎
      (ワンドリンク・お菓子付 自由席) 料金 ¥4000-
    

 どこが最新情報かおわかりいただけたでしょうか?
では久々に「予測される質疑応答」、十項目でご説明したいと思います。


   質問とお答えのコーナー
<その一>
 『吟遊詩人』ってどのような人のことですか?

 古くはホメロスなど、古代ギリシア時代の叙事詩人に遡るかと思いますが、主には、10~15世紀頃にかけてヨーロッパに現れた、諸国を行脚しながら、歴史的事件や史実に基づく物語を広め伝える叙事詩人たち、そして、その後の「トルバドゥル」と呼ばれる騎士道や恋愛物語を歌う宮廷詩人たちの前身となっているとも言われています。
 見聞きした出来事、そこからの思いや物語を自らの詩にし、楽器を奏でながらそれを歌に乗せる、そして、一か所にとどまらず放浪を続ける・・・・そんなイメージでしょうか?
 日本だったら、さしずめ琵琶法師あたりにルーツがあるのではと思われます。
 「ジプシー」という言葉に刻まれたさすらいのイメージなどもやはり吟遊詩人から繋がっているのでしょう。
  ・・・大雑把ですが、「吟遊詩人」一口解説でした。

<その二>
 では、その「系譜」というのは?

 そこから脈々と現代に繋がっていく糸のようなものをイメージしてみてください。

<その三>
 糸を手繰り寄せて行くと、どこに辿り着くのですか?

 「現代のフレンチポップスとシャンソンの源流、その魅力を是非ご堪能下さい」と、とても思わせぶりにご案内したままだったのですが、今回VOL.9のコンサートでは、J.J.ゴールドマンを特集したいと思います。

 前回のブログ記事『たびだち その一』の中で、ゴールドマンについてご紹介しましたが、あの彼です。

 今回、アーティストシリーズ第5弾となるのですが、ゴールドマンはいつか取り上げたいとずっと温め続けてきた魅力的なアーティストです。


<その四>
 しつこいようですが・・・、ゴールドマンは吟遊詩人なのですか?

 はい。私の中では!
 そこら辺はコンサートの中で詳しくそして熱く語りたいと思っていますので、今は黙して粛々と準備を進めます。
 是非コンサートにいらして下さいね。

<その五>
 シャミオールは昼夕二回公演が定着してきましたね。

 ありがとうございます。応援して下さる皆様のお陰です。
 いつも一回の公演で20曲近く歌いますので、途中一時間弱の休憩を挟み、更に二回目の幕が開くのは、<心身共に大変なのでは?>と言葉をかけていただくことが多いのですが、高揚しているためか、士気益々充実、楽しいです。
 そうは言っても健康でなければ始まりませんので、しっかり体調管理に努めたいと思います。

 ちなみに、これまでは厳冬の2月ということもあって、昼のチケットから埋まっていましたが、今度は11月ですし、晩秋の黄昏時、シャンソンの世界に浸って頂くのも素敵ですので、よろしければ夕の部も如何でしょうか。

<その六>
 京都の巴里野郎でのコンサートの内容は、シャミオール版と同じですか?

 はい。基本的には、歌う曲目・プログラム構成等同様のコンサートツアーとなります。

 でも、会場が異なり、お客様が変わると、同じ曲も全く違う色合いになって流れ出すのが本当に不思議です。まさに、時間、人、音楽との、一期一会なのだと、歌いながら感動してしまうのですが、11月のシャミオール、12月の巴里野郎、それぞれ愛着を感じる素敵なスペースで、どんなコンサートになるか今から心がときめきます。

<その七>
 「京都公演はもしかしたら二回になるかもしれません」と以前書いてありましたが、どうなりましたか?

 現在のところ、13:00開場 13:30開演の一回公演で行いたいと考えています。
 ただ、昨年は、早々に満席になって、ご迷惑をおかけしましたので、場合によっては追加公演も検討するかもしれません。

<その八>
 出演者について教えてください。

 もうすっかりお馴染みになりましたボーカルの石川歩さんに、東京、京都とも加わって頂きます。
 彼女と今や息もぴったり、更に深化したハーモニーをお届けできるよう、夢膨らみます。
 そして、ピアノ伴奏に、三浦高広氏(新橋シャミオール)と坂下文野さん(京都巴里野郎)。
 お二方の卓越したピアノの音色の中で、今回も共に音楽を紡いでゆかれることの幸せを感じています。

<その九>
 コンサートは二部構成ですか?今回のテーマは?

 二部構成で既に選曲も進んでいます。
  一部はゴールドマンの特集となりますが、二部はまた別の趣向で。
 これについては当日まで㊙。やはり、・・・コンサートにお越しくださいね。
  
<その十>
 今回発表の新曲はありますか。

 はい。きっとびっくりなさるのではないかと。
 私のコンサートは、新曲が多いのが特徴なのですが、それにしても今回は半分以上がこのコンサートのための書き下ろしなのです。


 以上、訳詞コンサートVOL.9『吟遊詩人の系譜』についてご案内致しました。
 またコンサート情報を随時お知らせして参りますので楽しみになさってください。 




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『たびだち』 その二

訳詞への思いカット
 夕方から雨が降ってきました。
 霧のようにしっとりとして肌に沁み込んでくる雨です。
 心地よい夜気に触れていたくて、少し冷えるのですが窓を開けています。

 シャンソンの往年の名曲「巴里祭」、この日本語詩の一節に
 「絹糸のような あのこぬか雨に・・・」というフレーズがあるのですが、こんな雨のことなのかもしれませんね。

 さて、お待たせ致しました。
 前回の記事、『たびだち』 その一 からの続きです。


          『たびだち』 その二
                         訳詞への思い<16>


  「Puisque tu pars」 =「君は出て行くのだから」。
 自由で可能性に満ちた世界を夢見て、故郷を出て行く「君」を、寂しさや祈りの中で見送る、そんな原詩である事は既に述べた通りである。

 では、出て行く「君」と見送る「私」は誰なのか。
 どんな設定の中であれば、より自然にこの詩を味わうことが出来るのか。
 詩に溢れている思いを受け止め、イメージを膨らましつつ、けれど、物語を作り過ぎて原詩を狭めてしまわないよう留意しつつの日本語詩作りとなった。

   いくつかの日本語詩
 この曲の日本語詩は、何人かの訳詞者によって既に作られているのだが、その中から二作を紹介してみることとする。
 『思い出の扉』、『お前の空を飛んでごらん』という邦題がそれぞれに付いている。

 『思い出の扉』の中の「おまえ」は、家を出て独立してゆこうとする我が子で、「私達」はそれを見送る両親という設定の詩となっている。
 内容は以下のように展開する。

 人は<希望を求めて、自立してゆくのだから素晴らしいことだ>というけれど。引き留めるすべもなく、ただ自分たちはおまえの幸せを遠くから祈るだけだ。

 もっとおまえを愛せたかもしれない
 力が足りなかったことばかりが悔やまれる
 でも今はもう遅いのだ もう遅い・・・・

 という内容である。
 離れてゆく我が子を見守る時の一抹の寂しさと、充分に愛を注ぎ切れなかったのではという後悔の念、そして前途の幸せを祈る親の切なる願いとに、詩の焦点があてられている。

 一方、『お前の空を飛んでごらん』だが。
 こちらは、男手一つで育ててきた我が子の旅立ちへの感慨を父が語るという設定である。
 <自分の人生を大切にして自分のために生きる>ことを教えてきたはずなのに、なぜ今寂しさを感じるのだろう、と思いを噛みしめて、幼い頃の思い出を脳裏に蘇らせる。(・・・この辺りは完全に作詞と言える)
 そんな思いを抱きながら、<翼を広げて大きな空へ飛び立ってほしい>と祈る切なさが伝わってくる。
 この詩の我が子は、息子ではなく、どうやら「娘」で、それもまた、訳詞者の創意が加わっている。

 原詩の性質によって、対訳にできるだけ忠実に仕上げたくなる場合と、イメージを拠り所にして創意を加えたくなる場合とがあると思うが、上記の二編とも、後者のタイプで、子供と親という関係に読み解かれていると言えよう。


    『たびだち』
 人が今在るところから出発しようとするとき、色々な思いとドラマがある。

 私にはこの曲は<卒業>のイメージ。
 <卒業>という言葉とその情景がこの原詩から浮かんできた。

 私が作った日本語詩の邦題は『たびだち』。 そして冒頭は次のようである。

   光が射している
   あなたは見知らぬ世界の 扉の前で 立ちすくんでいる
   大丈夫だから 
   何も恐れないで 夢だけを信じて進めばよい

   頑張ってみても 心を尽しても
   はじき返される事ばかりだと
   悩んでいたのは あなたの優しさだけど
   引き留めることはもうできない
     旅立つ今

   春がやってくる 卒業の風に乗って
   新しい出会いの中に 今旅立つ
   あなたがいつも
   あなたらしく生きるように
   輝き続けてゆくように


 そして、
   私はいつもここにいるから大丈夫 
   夢だけを信じて進んでほしい 
   疲れたらいつでも戻って良いから 
   いつも幸せを祈って待っているから

 
という言葉が続いてゆく。


 この詩を作ったのはもう随分前になる。
 教職にあった頃。
 担任をしていた学年が高校を卒業する日、卒業式で生徒たちの顔を見ていたら、突然この曲が心に流れた。
 それに重なるように、とても自然に言葉が溢れてきて、あとで書き留めてみたのだが、この詩は殆どその時のままの言葉である。

 設定を限定したくなかったので、具体的に卒業式などという言葉も、教師としてなどとも一切入れていないが、<たびだつ>者へのはなむけの辞として、共感してもらえればと願っている。

 今でも曲と共に、あの卒業式の日が胸に蘇ってきて、私には、殊の外、愛着の深い作品となった。

 けれど、思い入れが深いと、却ってなかなか歌えなくなってしまうもののようで、実は、これまでにたった一度だけ、訳詞コンサートvol.2の『もう一つのたびだち』で初披露しただけで留まっている。

 あのコンサートは内幸町ホールで初めて行った時であり、スタッフとして手伝ってくれた教え子たちが8人、バックコーラスで加わった。
 ステージで彼女たちと目を合せながら歌ったことが本当に懐かしく思い出される。

 あれから久しぶりに、今年は11月と12月のコンサートで歌ってみたいと思っている。
 

                         Fin

  (注 訳詞、解説について、無断転載転用を禁止します。
  取り上げたいご希望、訳詞を歌われたいご希望がある場合は、事前のご相談をお願い致します。)

 
 では、ゴールドマンの原曲をこちらのライヴ盤、youtubeでお楽しみください。
      ↓
http://www.dailymotion.com/video/x3dlji_jean-jacques-goldman-puisque-tu-par_music





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『たびだち』その一

訳詞への思いカット
 毎年、5月最後の日曜日に、教え子達の同窓会があります。
 教職にあった頃、長年顧問をしていたクラブ活動の部員たちの同窓会、独創的、かつ、文化的香り高い会で、スペシャルな企画を毎年練りに練って、教え子たちと協力し合いながら主催して、もう7回目となりました。

 ・・・このことも、いつか改めてご紹介してみたいとても素敵な話題なのですが、兎も角も、その会が昨日行われたのでした。

 20名ほどが集い、和気藹藹とした温かい会でした。
 今回は新たな試みに皆で向かうその初回、話し合いも活発に進み、3年をかける大プロジェクトがまさに始動したところです。
 早速、更に忙しくなりそうですが、実現を目指して若い彼女たちと共に力を合わせることの楽しみでワクワクしています。

 青春とは、停滞せず、常に今在る場所から出発すること、折々の決別と挑戦の中にこそ、次に続く道があるのだと、教え子達と再会する時、いつも思います。

 それでも、かつて繋ぎ合った絆はそのままで、旅立った後の月日を持ち寄って、お互いを認め合い、仲間同士、師弟間にまた新たな時間を積み重ねてゆける・・・・それは得難い宝ですよね。

 昨日のそんな感慨を込めながら、今日は「訳詞への思い」、『たびたち』という曲のご紹介をしてみたいと思います。


            『たびだち』 その一
                              訳詞への思い<16>

   J.J.ゴールドマンのこと

 ジャン・ジャック・ゴールドマン。
 1970年代にデビューしてから今日まで、常に不動の人気と実力で、フレンチポップス、シャンソン界を圧倒的な求心力を持ってリードし続けているビックアーティストである。
 彼は、フランスのJJD紙で毎年2回行われる「フランス人が好きな人物」アンケート調査で今年も1位(4回連続1位)という、世代を超えた人気と敬愛を集める「フランス人の中のフランス人」なのだが、日本では知名度は皆無に等しい。
 シャンソン歌手、シャンソンに関わるミュージシャンですら彼の名前さえも知らなかったりすることも多く、<日本におけるフランス音楽の普及度は、未だかくの如し>と改めて痛感してしまう。

 さてその、J.J.ゴールドマンだが。
 彼は、1951年生まれ、今年64歳の生粋のパリジャンである。
 1975年人気ロックバンド「タイフォン」を結成、デビューアルバムを発売後、1979年からシンガーソングライターとしてソロ活動に転向。
 次々にヒット曲、ヒットアルバムを世に送り出し、一躍フランスポップス界の中心となって行く。

 アルバム制作、コンサート活動で活躍する一方、セリーヌ・ディオン、パトリシア・カース、ジョニー・アルディ、最近ではザーズなど、多くのアーティストたちに楽曲を提供している。
 コンサートやアルバムのプロデュースも手掛け、彼らの才能を引き出し世に送り出す名プロデューサーとしても名高い。

 この数年は、プロデューサーとしての楽曲提供に力を注いでおり、自らのコンサート活動を休止しているのだが、それでも彼が中心になって設立に関わり尽力している慈善運動の「resto du coeur(心のレストラン)」は、今や国家的な規模にまで広がり、その支援募金を募るためのコンサート「レ・ザンフォワレ」も、これに賛同するミュージシャン達が多数集う国民的なイベントになっている。
若き日のゴールドマン 彼のアイドル時代、しなやかで精悍な佇まいに、キラキラとした涼しげな眼差しが魅力的な、なかなかの好青年なのだが、その歌声を聴くにつけ、また、コンサートの映像など見るにつけ、かつての日本のフォークソング、グループサウンズ時代と共通するような、独特な雰囲気を私は感じてしまう。
どこかノスタルジックな青春の香りのする、少し青臭くもピュアで一途な曲の世界が充満しているように思うのだ。

 「若き日のゴールドマン」
 そして、それはもしかしたら、ゴールドマンの今も変わらない<音楽と詩>の根幹である気もして、・・・・30年以上経った現在までも彼の中には<青春の旅立ち>というような一貫したテーマが流れているのかもしれない、そんな風に思われてくる。

  「真っ直ぐで、思慮深く哲学的であり、それでいて甘く敏感な感性や痛みをいつも持ち続けている」、そんな青年の面影が、私のゴールドマン像であり、彼の音楽と詩の世界へのイメージでもある。
 
   puisque tu pars
「グレーの世界」CDジャケット
 1987年のアルバム「entre clears et gris fonce(邦題「グレーの世界)」の収録曲に、この「puisque tu pars」がある。
 ゴールドマンの代表曲の一つとなっているが、この原題の意味は「君は出て行くのだから」。
 私は『たびだち』という邦題を付けた。


 「グレーの世界」のCDジャケット
 ゴールドマン自身も自らのコンサートの中でいつも取り上げていて、恐らく、愛着の深い大事なレパートリーなのではないかと思われる。

 原詩冒頭の対訳の一部を次に記してみる。

  闇が訪れて来るから
  それは風を越えて 忘却の歩みより高い山からではないから
  理解が足りないことを学ばなければならないから

  時には全てを与えることさえも必ずしも充分ではないと君は考えたのだから

  君の心がより高なるのは他の場所だから
  君を引きとめるには私達は君を愛しすぎているのだから
  君は行ってしまうから


 というように始まる。
 冒頭から「puisque=~なのだから」で始まる様々な文が綴られているのだが、これ自体が既に判じ物のようで難解で哲学的な内容になっている。
 「闇が訪れて来るのだから」・・・「君は行ってしまうのだから」。
 だからどうあってほしいと言うのか?

  私達よりもっと君を愛してくれる場所に風が君を連れて行ってくれますように
  人生が君に多くを教えてくれますように
  君が自分自身に嘘をつかないでいてくれますように
 
  いつまでも君が変わらないでいてほしい
  チャンスを大事にしてほしい

  放浪にあるとき戻ることを覚えていてくれますように
  私達の別れを記憶に留めてくれますように


 「君は行ってしまうのだから」、それだから、「私」は、<君の行く手に幸あれかし>と思いを贈る。はなむけの言葉を贈る。

 けれど、今在る場所は君にはもはや窮屈で、脱出すべき枷(かせ)になっていて、そして、「私」自身も、いつの間にかその枷の一つになっていたのかもしれないと気付く。
 一方では、そんな後ろめたさや寂しさもまた、この原詩から感じとれる気がする。

 更には、未知の世界への希望は、未知であるがゆえの不安でもあるわけで、夢が挫折と表裏になっていることを予感させてもいる。

 実は挫折の後にこそ、それを乗り越えてゆけるかという本当の試練が待っている。

 そんな色々なことを思わせる、繊細な感性に溢れた原詩であるが、では、日本語詩を作り上げてゆくにあたって、実際にどのような場面設定の中でこれを伝えて行けばよいのか。
 具体的なイメージを持たなければ味わいにくい詩と言えるかもしれない。

 そんなことを考えながら作った訳詞、『たびだち』のご紹介をしてみたいと思う。


 長くなってきたので、一度筆を置き、次の「その二」に続けたいと思います。
 次回もどうぞお読みくださいね。




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