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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

嵐峡を渡る月 ~「嵐響夜舟」~

 涼やかな夜風の中で、いつまでもそぞろ歩きしていたくなるようなこの季節。

 「スーパームーン」はご覧になりましたか。

 私は、嵐山で素敵なお月見をしてきました。
 長月、風雅な観月の会がそこここで催されるのは京都ならではの情趣で、さすが古(いにしえ)からの雅と感じ入ってしまいます。
 今日は、初めて体験した「嵐響夜舟」を、写真と共にご紹介してみたいと思います。

   「嵐響夜舟(らんきょうやふね)」に乗る
 阪急嵐山線に乗って、終点の嵐山で下車し、中ノ島公園を通るとやがて渡月橋にさしかかります。
渡月橋の月3
 京都と言えば、すぐに思い浮かぶ、渡月橋から嵐山を臨む風景、嵯峨野巡りの出発点でもありますね。
 写真は夕暮れ時、6時過ぎの情景ですが、大きな月が既に煌々と昇り始め、渡月橋を美しく照らし、川面に映えています。
渡月橋の月2
 渡月橋が架かる川は、「大堰川(おおいがわ)」で、ここから上流が「保津川」、そして下流が「桂川」と呼称は変わっていきます。

 法輪寺橋というのが、渡月橋の正式名称ですが、「鎌倉時代に亀山天皇が、満月の晩、舟遊びをされ、月が橋の上を渡るように見えることから、 「くまなき月の渡るに似る」と詠われたことに由来します。」と解説書にありました。

 <月が橋の上を渡って行く>・・・幻想的で心憎いイメージですよね。
行き交う屋形舟
渡月橋を渡った対岸に「夜舟」乗り場が設置されていました。

 12~16人乗りの屋形船が、次々と船着き場に戻っては、また出航していきます。

 「嵐響夜舟(らんきょうやふね)」と呼ばれるこの屋形船ですが、昔ながらの、船頭さんのゆったりとした櫂さばきに任せて、大堰川を20分程周遊する、さながら亀山天皇の頃の舟遊びを彷彿とさせるような優雅なひと時が流れます。
屋形舟 屋形舟からの月
 
 そして、中秋の満月の夜、二日間だけ、川岸に小さな舞台が設えられて、大堰川と嵐山に向かって、音曲の生演奏が行われるのです。
 今年は、中国の二弦の弦楽器「二胡(にこ)」と、「横笛」の演奏が、数曲毎に交代で、絶え間なく流れていました。
二胡の調べ
 二胡のやるせなくノスタルジックな弦の響き、そして、横笛の端正で、古代の物語の世界に引きこまれるような風雅な残響が、川面を揺らすように響き渡ってゆきます。
 舟に揺られながら、美しい月に照らされながら、染み入ってくる音曲に心を傾ける素敵な時間でした。

 ふと気が付くと、どこからともなく一艘の舟が迫ってきて横付けになり・・・
 それは、焼きイカやみたらし団子や、お茶やビールや、お漬物まで売る屋形船ならぬ屋台船でした。
屋台舟 去ってゆく屋形舟
 お醤油の香ばしい匂いに誘われるのか、結構な売れ行きで、一商売すると、さっと離れて行き、また次の屋形船へ。
 熟練の早業にびっくりです。

 向こうに行き交う屋形船の提灯の灯りがキラキラと輝いています。
提灯の鵜と渡月橋
 提灯に描かれているのは「鵜(う)」と「渡月橋」。
 大堰川では鵜飼が行われており、夏は同じ屋形船に乗って、かがり火に映し出される鵜匠の鮮やかな手さばきを見ることができるのです。
船着き場
 
灯りに映える船着き場。

 舟は戻ろうとしています。

横笛の調べ


 岸辺に近づき、横笛の演奏者の姿も夜の中に再びくっきりと見え始めました。


 川沿いの老舗料亭から観月の灯りが輝いています。
川沿いの料亭






 船を下りると、いつの間にか渡月橋の上に高く昇っていた満月でした。

 演奏は川べりにも響き渡っていますので、のんびりと散歩したり、川辺に腰を下ろしたりしながら、秋の夜長を楽しむのも素敵です。
 九月の京都にいらしたら、一度は是非いかがでしょうか。

   小さい秋、見つけた
 ススキ
 
 季節は確実に流れています。
 
 ススキが揺れています。




  歩道に落ちていた栗の実。
     栗2
 まだ青いので、熟して落ちたのではなく、鳥か小動物の仕業かもしれません。
 イガが割られて、栗の実も齧られていました。
栗1

 栗ご飯と栗きんとんを早く作りたくなります。






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『採薪亭演奏会』のご報告 その二

 今日は、前回の記事、『採薪亭演奏会』のご報告 その一に続いて、コンサートのフォトレポートです。

 第一部が終わり、ケーキと珈琲とワインで寛いだ休憩時間を挟んで、第二部がスタートしました。

   第二部『恋する思い』
 たくさん用意されたワインもあっという間に空になってしまったというほど、皆様、気持ちよく歌の後の余韻を堪能されていたご様子、休憩時間の和やかな雰囲気が加わって、コンサートもいよいよ第二部へと佳境に入ってゆきます。

 このコンサートの主催者であるご住職の杉井さんです。
ご住職の司会
 これまで打ち合わせなどでお目にかかる時は、いつも僧衣を清々しく纏っていらしたのですが、今日は「シャンソンに合わせてフランスっぽく!」とユーモアたっぷりにおっしゃりながら、洋服姿で登場なさいました。
 お寺に縁(ゆかり)の方々もご住職の洋装は滅多にご覧にならないようで、ご登場と共に「おお~~!」と会場が湧きます。

 開会時、閉会時、そしてこの二部の初めも、自ら司会をなさって下さいました。
 楽しく巧みなご住職の話術、私のお話する音楽や言葉の話題を深く受け止めて、更にそれを、人としての心の在り方、深い人生観へとさりげなく繋げてお話は進みます。
 心穏やかに、第二部への期待が高まってゆく客席の雰囲気が伝わってきました。
贈り物アレンジフラワー

 贈り物のアレンジフラワーがステージを飾ります。
第2部のスタート
 そして、第二部の歌が始まります。
 こうして襖から登場するのも、お寺っぽく、でも違和感なく、なかなか溶け込んでいますよね。

 二部のコンサートテーマは『恋する思い』。
 「シャンソンならではの情熱的な恋の曲をたくさん盛り込んで下さい。」というご住職のリクエストにお応えし、飛び切りの曲揃えでスタートしました。

初めの曲は『ノワイエ』から。
歌い、話し、コンサートは進みます。
手拍子の中で歌う 二部でのお話
 楽しそうに手拍子を打って下さるお客様の表情がステージからはっきりとわかりました。
聴き入る坂下さん

私のお話に興味深げに聴き入る坂下さんの優しい表情です。

石川さんの飛び入り
 あっという間に終盤へ。
 最後から二曲目に『私の街の男の子たち』という曲をお届けしたのですが、ここで、この日はお客様としていらした石川歩さんに、飛び入り出演をしていただきました。
 思わぬサプライズに歓迎の大きな拍手が。

「シャンソンが好きで、これまで色々な方のコンサートを聴きに行きましたが、こんな風にコーラスの入る曲を聴いたのは初めてです。
本当に新しいシャンソンなんですね!新鮮でとても楽しかったです。」
とのお言葉を、帰り際にお客様にかけて頂きました。
フィナーレに歌う
 そしてフィナーレは、『世界の片隅に』。

 集中して聴いて下さる皆様のお顔を見ていたら、<歌の世界に共に在る>感慨がこみ上げてきました。

 紫のグラデーションの衣装を、スポットライトが美しく照らしています。
 広がる袖が軽やかに天に飛翔するかのようです。


アンコールを促されて
 


 アンコールのお声をたくさん頂き、ご住職に促され再びマイクを。


お礼
 初めての会場、初めて出会うお客様やスタッフの方々、一期一会の中での幸せがしみじみと胸に沁み込んできました。

 今まで様々な形で支えて下さった沢山の皆様に心から感謝申し上げます。


   宴の後に ~即宗院での打ち上げ~
宴の後
 お客様をお見送りした後、全てが片付き整えられ、大広間は仏様が安置されている元の静寂な講堂に戻りました。

 宴の後の大慧殿。
 「採薪亭」の文字だけがその名残を留めています。

コンサートをお手伝い下さった20名ほどのスタッフと共に、東福寺内の塔頭(たっちゅう)、即宗院(そくしゅういん)に場所を移して打ち上げを行いました。
入口の文字。
  即宗院入口    入口から続く飛び石
 普段一般の観光では足を踏み入れることのできない密やかな扉は開かれ、飛び石が静かに続いていました。

 手入れの行き届いた端正な庭園。
即宗院の庭
塵一つ、枯葉一枚、雑草も、掃き清められ、凛とあり続ける美しさがここにもありました。
 松の木の剪定以外、お庭の手入れは全てご住職が自らなさっていらっしゃるとのこと、<掃除は自らを清めること、大切な修業>と聞いていましたが、今、目の当たりにして、その清廉な強さが心に伝わってくるようでした。
庭を眺めて

坂下さんと二人、お庭を眺めながら、コンサートの余韻を味わう幸せなひと時。
やがて、打ち上げの宴もたけなわとなり。

素敵な一日の終わりでした。



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『採薪亭演奏会』のご報告 その一

 秋の爽やかな日差しに恵まれたこのシルバーウイーク、どのようにお過ごしでしょうか。

 コンサートが終わって、もう一週間になるというのに、私は、なぜかいつも以上に、余韻が心にも身体にも染み透ったままで、夢見心地で過ごしています。
 エネルギーを出し切った後の脱力感は、シーンと寂しく、時間が止まっているような不思議な感覚に誘われますが、後少しの間、現実から離れたこんな幻惑に心を委ねていても良いですよね。

 カメラマンの沢木瑠璃さんが、今回のコンサートでも、たくさんの素敵な写真を撮影して下さいました。
 いつもの会場とはまた一味違った京都の名刹ならではの佇まい、その中でのシャンソンの情景を、レンズを通して彼女の瑞々しい眼差しが捉えています。
 そんな写真の何枚かをご紹介しながら、いつものようにコンサートのご報告をさせていただきます。
   
   東福寺 大慧殿の朝 ~開演まで~
 朝の光が清々しく射し始め、心身を浄化させてくれるようで、気持ちが引き締まります。
通天橋を望む風景

東福寺。コンサートまで何度も目にしてきた通天橋を臨む風景。
雨上がりのしっとりとした青もみじに包まれた鮮やかな風景が、この日もここにはありました。

 大慧殿に向かう道。
向かう道2 向かう道1
 苔ともみじの中の静謐な空気の中を向かいます。 
 
そして会場の大慧殿が眼前に広がってきました。
大慧殿 大慧殿の文字

 静かに設えられてお客様を待つばかりの会場で、まずは、音響を整え、照明の位置などを調整した後、早速リハーサルに入りました。
リハーサル

 坂下さんのピアノの響きが大広間に美しく反響し、その流れに乗って、本番さながらに歌います。
プログラム


 今回もいつものように訳詞への思いや原曲の解説を記したこだわりのプログラムを作成しました。
 チラシの柿色を生かした和風のデザインにエッフェル塔、「東西の融合、マリアージュですね」との東福寺のスタッフの方のお言葉が<我が意を得たり>でとても誇らしく感じられました。


 廊下に巻き上げられた御簾の向こうに、美しい石庭が広がっています。
巻き上げられた御簾 大慧殿中庭


   開演 第一部『巡る季節の中で』
 コンサートタイトルは『巴里の香り』ですので、初めてシャンソンをお聴きになる方にも、またシャンソンの愛好家の方にも、お寺という異空間の中で、それでも漂ってくるお洒落で上質なフランスの音楽の香りを満喫し、楽しんで頂けたらと考え、飛び切りの選曲をしてみたつもりです。
第一部は『巡る季節の中で』というテーマで進めてみました。

 第一部の始まり。
これまでのコンサートではスポットライトを使用したことはないということでしたが、「シャンソンなので、スポットがあると引き立つのでは」という主催者の方の細やかなご配慮で、優しい光がステージを照らしてくれました。
満員の皆様
 「実は、このスポットライトは、お寺の所有で、重要文化財を照らす時だけに使うLEDライトなんですよ。」とのご住職のお言葉!
恐れ多いライトに照らされて歌う初めての経験でした。

 用意されたお席を越えたお客様のご来場ということで気持ちも高揚します。

 ブルーのドレスと、ステージとなっている絨毯の青とが、偶然ですが調和して綺麗です。
     歌う        お話
  歌い、そして話し、コンサートは進んで行きました。

坂下さん。
坂下さん1
 いつものにこやかな笑顔と、ミュージシャンのお顔はやはり違いますね。

 一部最後の曲は『お茶の時間』。
 とても和やかで温かい雰囲気の中でお客様と気持ちが一つに溶け合ってゆく時間の幸せを感じました。
 
 あっという間に前半は終わり、ここで休憩時間です。


京都の老舗、前田珈琲の美味しいケーキと珈琲にワインまで供されて、皆様楽しそうに歓談していらっしゃる声が隣の楽屋にも聞こえてきました。
ケーキ

 楽屋にも運んで下さったケーキと珈琲がほっと気持ちを暖かくしてくれました。
 
 そして、気持ち新たに第二部へ。


 ここで、ブログも一休みして、続きは次回をお待ちください。




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採薪亭演奏会 無事終わりました

 昨日9月13日の「採薪亭演奏会 松峰綾音訳詞コンサート in 東福寺『巴里の香り』」、お陰様で無事終えることが出来ました。
通天橋を臨む
 朝まで降り続いた朝も、いつの間にか上がって、9月の心地よい秋風の中でのコンサートとなりました。

 元々、会場はゆったりとした大広間なので、座席の数も来客数に応じてかなり自由に調整が出来るのですが、それでも当初は入場者数を限定し、ゆとりを持った空間で音楽を楽しんで頂きたいとご準備なさっていらしたのです。 
でも、予想を大きく上回るお申し込みを頂いた上に、当日参加もあり結局100数十名を超えるご来場者数となり、会場は開演前から活気に満ちていました。
大慧殿中庭

 襖の間からは木漏れ日が射し、廊下を挟んだ中庭は美しい石庭、清潔で静謐な空間、素敵な空気が流れます。

 お寺の関係の皆様や、今回で12回の採薪亭演奏会にいつもいらっしゃるお客様が殆どで、その中にはきっと初めてシャンソンを聴かれる方もいらっしゃるのではないかと思いました。
 どのように私の歌を受け止めて下さるでしょうか?
 楽しんで、ご興味を持っていただけるでしょうか?
 そんな期待と緊張がこれまで以上にあった気がします。

 人と時との出会い、一期一会の中で、歌を通して、心を通わせることの出来る幸せを心から感じました。

 第一部は「巡る季節の中で」、休憩を挟んで、第二部は「恋する思い」というテーマでコンサートを進めて行きました。
 一曲ずつの世界を、何よりも私自身が強く心に描き、その世界を慈しみ、歌の中で生き生きと伝えてゆきたい、そういう思いに動かされてコンサートの時間は過ぎた気がします。

 いらして下さったお客様お二人からこんな素敵な写真を頂きました。
 いずれも第二部の写真です。
この紫のグラデーションのドレス、とても気に入っています。
どことなく東福寺のこのコンサートに相応しい気がして考えたのですが、如何でしょうか。
演奏2 公演1
 坂下さんの伴奏でコンサートはたけなわです。

公演2
 司会をして下さった主催者のご住職様との会話の一シーンです。
 軽妙で温かいお人柄が溢れる語り口で、会場が和やかな雰囲気に包まれ、客席とステージとの一体感と集中力が高まって行きます。
 
 このような素敵な出会いを下さった東福寺、沢山のスタッフの皆様、 ピアニストの坂下文野さん、全てのお客様、そして、コンサートまでの日々の中で、お励ましやお力添えを下さった大勢の皆様、本当に有難うございました。
 改めて心からお礼申し上げます。
 
 まずは、無事終了したことの第一報を申し上げました。
 コンサートの詳細は、写真と共に、また改めてゆっくりご報告させて頂きますので楽しみになさってくださいね。
     
   朝陽の中で
 二人の友人からの素敵なアレンジフラワーが、今朝は我が家のリビングに眩しそうに咲いています。
花束
 「紫のイメージで選んでみたの」という花かごは、期せずして第二部の衣装としっくりと溶け合って、不思議な位でした。

 じっと眺めながら、今、コンサートの余韻を味わっています。

 もう一つ、可憐な花束がペアで。
コップの花束
 「歳を取って見つけた恋」、と少し恥ずかしそうに語る友人から頂いた可愛いブーケです。
 シャンソンは大好きというロマンチストの彼は嬉しそうに彼女と連れ立って。
 お幸せになられますように。




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『採薪亭演奏会』を前に

   謹んでお見舞い申し上げます
 台風一過、京都は、抜けるような青空と、カラリとした強い日差しの一日でした。
 でも、テレビでは今も鬼怒川の堤防が決壊した無残な映像が一面に映し出されています。 住宅街も商店も何もかもが跡形もなく、街全体が大河の中に沈み込んでしまったような情景に目を奪われます。

 3月11日の震災の日の信じがたい映像、津波が街に襲い掛かってくる猛々しく凄まじいあの映像と重なって、身が震えました。

 まだこの中で救助を待っていらっしゃる方、安否すら不明のままの方。
 どれほどの恐怖や不安や憤りと闘っていらっしゃることでしょう。

 どうか、早く身の安全を確保されますように。
 心が折れてしまいませんように。
 謹んでお見舞い申し上げるばかりです。

 テレビの中で、ようやく救助された一人の中年の男性にマイクが向けられていました。
 その方は、落ち着いて、むしろ淡々とかなり鮮明に、その時の状況を説明しておられました。
 察してあまりある切迫した状況に、インタビュアーの若い男性記者は言葉を失って、小さな声で最後に、
  「お話を聞かせて頂きましてありがとうございました」
 と息を詰まらせながら深々と頭を下げていました。

 被害に遭われた男性は、
  「どういたしまして。皆さんに伝えるお仕事、ご苦労様です。」
 と優しくねぎらうようにおっしゃっていました。

 若い記者も。
 答えていらした男性も。

 非常事態の中で、人の心を慮る美しいものを失っていない、そのことに深い感銘を受けます。

 すべてを失い、絶望の只中にあるはずなのに、それに翻弄されない深い諦念を持って立つことの毅然とした美しさを感じます。

   世界のこの片隅に 一筋の幸せが灯りますように

 震災の時に作ったこの曲『世界の片隅に』を、思いを込めて、明後日のコンサートの中で歌わせて頂くつもりです。


   初秋の東福寺
本堂
 コンサートの最終確認に、今日、会場となる東福寺大慧殿を訪れました。

 澄み渡った秋空に本堂が威風堂々と聳え立っています。


大慧殿

 何回か足を運んだ、大慧殿は青紅葉の葉陰の中、静かな佇まいを見せていました。

明後日の会場準備が既に整えられています。
塵一つなく清められた美しい大広間に、低い椅子とテーブルが整然と並べられていました。
ステージと客席
 仏像が安置されたこの講堂で、コンサートの日、どのような時間が過ぎて行くのでしょうか。

 沢山の方々が、心を込めて丹念に準備して下さっている、そのことの幸せを改めて感じて、コンサートへの思いが高まってゆきます。

帰り際に方丈庭園を散策してみました。
方丈庭園
 方丈とは、禅宗寺院において、僧侶の住居のことを言う言葉なのですが、その東西南北に四庭が配され、「八相成道(はっそうじょうどう)」に因(ちな)んで「八相の庭」と称されています。

210坪の枯山水の庭園。

無造作に配置されているかのような石と渦巻く砂紋とが、深遠な小宇宙を物語っているのでしょうか。
方丈庭園の石庭 方丈の縁側
 縁側に座ってしばらく心静かに眺めていたら、何とも穏やかな気分になってきました。

通天橋を臨む

 方丈庭園から、通天橋が見渡せます。

 紅葉 紅葉 紅葉 ・・・・
 9月のこの時期、東福寺は、青々とした紅葉で埋まっていました。


 明後日、お天気になるでしょうか。
 皆様に楽しんで頂ける良い一日にしたいと念じています。



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『お茶の時間』

訳詞への思い 9月に入りふと感じる涼風に、そろそろ秋の装いを、などと思うのですが、油断大敵、まだ残暑は居座っているようですね。

 9月13日の東福寺コンサートもいよいよ後一週間と迫ってきました。
 万端整ったわけではありませんが、でもここまで来ると覚悟は定まり、粛々と最終調整に努める毎日で、不安よりも楽しみのほうが加速度を増しています。

 以前の記事「『採薪亭演奏会』が近づいてきます」にも記しましたが、東福寺でのコンサートでは一部と二部の間に休憩が一時間入るのです。
お茶の時間プログラム
 この間、ケーキと珈琲で寛いで頂きますが、それではというわけで、一部の終わりに『お茶の時間』という曲を歌ってみようかと考えました。
 思えば2007年の訳詞コンサートvol.1で最初にご紹介した曲で、この時のコンサートタイトルも同名の『お茶の時間』でした。
ヴァンサン・ドゥレルムプログラム
 その後vol.3『ヴァンサン・ドゥレルムを知っていますか』でも取り上げています。
 (HPのコンサートヒストリーのページをご参照ください)
  
 「訳詞への思い」、今日はこの曲『お茶の時間』をご紹介致します。


      『お茶の時間』
               訳詞への思い<17>


 この曲の作詞作曲はVincent Delerm(ヴァンサン・ドゥレルム)。
シャンソン、フレンチポップスの旗手として、フランスでは評価が高く、まさに現在活躍中のシンガーソングライターである。
以前『そして 君』という彼の曲を取り上げたので( 「そして 君」 その一「そして 君」 その二 )、併せてご参照頂ければと思うが、日本における彼の認知度は未だ低いことが残念に思われる。
   
   『l’heure du thé(お茶の時間)』
 <J’etais passé pour prendre un thé> が、この曲の冒頭のフレーズで、「私はお茶を飲むために過ごしていた」という意味である。

    カラメル あるいは バニラ
    ああ違う バニラだけしかない
    私は楽しい話をするためにやって来ていた


  と、原詩は続いていく。

 彼女は、恋人とお茶を飲みたかった。ただそのために彼を訪れた。
 そしていつものように、ゆっくりと二人でお茶を味わった。
 おしゃべりし、お茶を飲むためだけにあった時間だった。
 そして、けれど、・・・・彼と夜を過ごすことになった。
 それが最後の夜になってしまった。

   「その時 私はお茶を飲むために過ごしていたのだ」

 と彼女は繰り返し確認する。

 ・・・何気ないが、なかなか意味深長な言葉だ。
 「成り行きでそういうことになってしまったけれど、所詮その場限りの恋だったのだから・・・。」とも読める。
 しかしまた、「どんなに修復しようとしても、二人の間に、お茶の時間以上の意味は見いだせない。最初の夜は、恋の終結を自らに告げる最後の夜となった。あの時間はお茶を飲むためだけにあった時間、それだけだったのだから・・・。」という、自らに告げる密かな挽歌のようなものとも。これはかなり切ない。

 あらゆる始まりは、終わりに向かって動いて行くのだろうか。

 この曲の、どこか曖昧模糊とした、それでいて、紅茶の湯気の中に、カラメルやバニラがほろ甘く香ってくるような気だるさにかなり惹かれる。
 Vincent Delerm(ヴァンサン・ドレルム)の泣き出しそうにも、面倒くさそうにも思われる頼りなげな独特な歌い方が妙に気になって、いつの間にか嵌(はま)り込んでしまう。

 そもそも『お茶の時間』というタイトル自体、そこら辺にありそうでいて、実はなかなかお洒落なのではないか。
 フランス人が好むというカラメルやバニラフレーバーの紅茶を飲みながらこの曲を聴くことがやはりお薦めかもしれない。

 私の訳詞の冒頭は
お茶の時間
    昼下がり 貴方と
    キャラメルティー それとも バニラ
    ああ バニラしかなかったわ


 とした。あくまでも、さりげなく始まる。
 「お茶を飲むために過ごしていた」という冒頭の原詩をそのままダイレクトに詩にしたくなかった。

  この曲<l’heure du thé>は2002年に発表されたアルバム<Vincent Delerm>に収められている。
 ライブ版DVDも入手できたので鑑賞してみたが、多種多様な曲想の強烈でユニークな世界を持っているにもかかわらず、彼自身は物静かな青年で、少しはにかみつつ知的な雰囲気を漂わせているステージであり、不思議な印象があった。


   メタフォール(隠喩表現)について
 ところで、詩的修辞法の代表的なものに、具体的事物をそのまま多数並べることによってそこから受けるイメージを重層させてゆくという一種の隠喩表現<メタフォール>があるが、彼のほとんどの作品にはこの隠喩的表現が多用されているようだ。
 「お茶の時間」の中では、モジリアーニ、ガブリエル・フォーレ、モーツァルト、ローラン・ヴルズィー、カラン・ルダンジェ、・・・・ 古今名だたる画家、音楽家、俳優等が登場してくる。
 カラン・ルダンジェはフランスで人気の高い女優であり、原詩中で「彼」が「私」におしゃべりする話題の一つになっているのだが、この女優は私の訳詞の中には登場しない。日本の歌詞に置き換えたとき、一般的知名度の点で難ありと判断したことによる。

 具象物そのものが享受者に熟知されていることがこのレトリックの成功の必須条件となるのではないか。

 そのような意味で、この作法を多用する外国の詩人の翻訳は大変難しいと言えるだろう。そのまま写さないと忠実ではないが、受け取る方が知らなければ、「何のことだ?」と、共感を得られないばかりか、そこでイメージが断絶してしまう。

 <l’heure du thé>の中では、人名以外でも更に具象物が続く。
 カラメルティー、バニラティーは言うに及ばず、サン・セヴラン通り、ハム、ピューレ、蝋燭(ろうそく)、・・・・。
 サン・セヴラン通りは、実際には知らなくても、フランスっぽいどこかの洒落た通りだろうと感じられれば、それで良いのではと、訳詞の中に採用した。
 ハム、ピューレ(マッシュポテトなどの裏ごし野菜)、蝋燭は、「お茶の時間」から「夕食の時間」へ、テーブルに供されたのだろうけれど、こちらは割愛した。日本語で突然出てきてもあまりイメージは広がらないと判断したので。

 この<ハム、ピューレ>の類、言い換えるなら、異文化への理解とその伝え方の問題は、実はなかなか奥が深いのではないだろうか。
 
 先ほどの<モジリアーニ・・・>も同様で、モジリアーニのポスターを部屋に飾り、モーツァルトとフォーレ、ローラン・ヴルズィーを聴く恋人たち、それを列挙するだけで、極言すれば、何も説明しなくても、その生活ぶり、習慣やセンス、部屋の様子、恋人同士のあり方まで見えてしまう。共通の土壌・文化であることが、メタフォールを成り立たせる重要な要素の一つと言えるのではないだろうか。

 <原詩のニュアンスを出来るだけ忠実に、メロディーに乗せて伝えたい、しかも自然で美しく共感できる日本語で>というこだわりとどう共存してゆくか、難しいけれど、訳詞の醍醐味がそこにある。

 東福寺のコンサート、お洒落で切ないこの曲のニュアンスを楽しんで頂けたらと思っている。

                                     Fin

 (注 訳詞、解説について、無断転載転用を禁止します。
 取り上げたいご希望、訳詞を歌われたいご希望がある場合は、事前のご相談をお願い致します。)

 
 ではヴァンサン・ドゥレルムの歌う原曲をお楽しみ下さい。

       


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