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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

『お茶の時間』

訳詞への思い 9月に入りふと感じる涼風に、そろそろ秋の装いを、などと思うのですが、油断大敵、まだ残暑は居座っているようですね。

 9月13日の東福寺コンサートもいよいよ後一週間と迫ってきました。
 万端整ったわけではありませんが、でもここまで来ると覚悟は定まり、粛々と最終調整に努める毎日で、不安よりも楽しみのほうが加速度を増しています。

 以前の記事「『採薪亭演奏会』が近づいてきます」にも記しましたが、東福寺でのコンサートでは一部と二部の間に休憩が一時間入るのです。
お茶の時間プログラム
 この間、ケーキと珈琲で寛いで頂きますが、それではというわけで、一部の終わりに『お茶の時間』という曲を歌ってみようかと考えました。
 思えば2007年の訳詞コンサートvol.1で最初にご紹介した曲で、この時のコンサートタイトルも同名の『お茶の時間』でした。
ヴァンサン・ドゥレルムプログラム
 その後vol.3『ヴァンサン・ドゥレルムを知っていますか』でも取り上げています。
 (HPのコンサートヒストリーのページをご参照ください)
  
 「訳詞への思い」、今日はこの曲『お茶の時間』をご紹介致します。


      『お茶の時間』
               訳詞への思い<17>


 この曲の作詞作曲はVincent Delerm(ヴァンサン・ドゥレルム)。
シャンソン、フレンチポップスの旗手として、フランスでは評価が高く、まさに現在活躍中のシンガーソングライターである。
以前『そして 君』という彼の曲を取り上げたので( 「そして 君」 その一「そして 君」 その二 )、併せてご参照頂ければと思うが、日本における彼の認知度は未だ低いことが残念に思われる。
   
   『l’heure du thé(お茶の時間)』
 <J’etais passé pour prendre un thé> が、この曲の冒頭のフレーズで、「私はお茶を飲むために過ごしていた」という意味である。

    カラメル あるいは バニラ
    ああ違う バニラだけしかない
    私は楽しい話をするためにやって来ていた


  と、原詩は続いていく。

 彼女は、恋人とお茶を飲みたかった。ただそのために彼を訪れた。
 そしていつものように、ゆっくりと二人でお茶を味わった。
 おしゃべりし、お茶を飲むためだけにあった時間だった。
 そして、けれど、・・・・彼と夜を過ごすことになった。
 それが最後の夜になってしまった。

   「その時 私はお茶を飲むために過ごしていたのだ」

 と彼女は繰り返し確認する。

 ・・・何気ないが、なかなか意味深長な言葉だ。
 「成り行きでそういうことになってしまったけれど、所詮その場限りの恋だったのだから・・・。」とも読める。
 しかしまた、「どんなに修復しようとしても、二人の間に、お茶の時間以上の意味は見いだせない。最初の夜は、恋の終結を自らに告げる最後の夜となった。あの時間はお茶を飲むためだけにあった時間、それだけだったのだから・・・。」という、自らに告げる密かな挽歌のようなものとも。これはかなり切ない。

 あらゆる始まりは、終わりに向かって動いて行くのだろうか。

 この曲の、どこか曖昧模糊とした、それでいて、紅茶の湯気の中に、カラメルやバニラがほろ甘く香ってくるような気だるさにかなり惹かれる。
 Vincent Delerm(ヴァンサン・ドレルム)の泣き出しそうにも、面倒くさそうにも思われる頼りなげな独特な歌い方が妙に気になって、いつの間にか嵌(はま)り込んでしまう。

 そもそも『お茶の時間』というタイトル自体、そこら辺にありそうでいて、実はなかなかお洒落なのではないか。
 フランス人が好むというカラメルやバニラフレーバーの紅茶を飲みながらこの曲を聴くことがやはりお薦めかもしれない。

 私の訳詞の冒頭は
お茶の時間
    昼下がり 貴方と
    キャラメルティー それとも バニラ
    ああ バニラしかなかったわ


 とした。あくまでも、さりげなく始まる。
 「お茶を飲むために過ごしていた」という冒頭の原詩をそのままダイレクトに詩にしたくなかった。

  この曲<l’heure du thé>は2002年に発表されたアルバム<Vincent Delerm>に収められている。
 ライブ版DVDも入手できたので鑑賞してみたが、多種多様な曲想の強烈でユニークな世界を持っているにもかかわらず、彼自身は物静かな青年で、少しはにかみつつ知的な雰囲気を漂わせているステージであり、不思議な印象があった。


   メタフォール(隠喩表現)について
 ところで、詩的修辞法の代表的なものに、具体的事物をそのまま多数並べることによってそこから受けるイメージを重層させてゆくという一種の隠喩表現<メタフォール>があるが、彼のほとんどの作品にはこの隠喩的表現が多用されているようだ。
 「お茶の時間」の中では、モジリアーニ、ガブリエル・フォーレ、モーツァルト、ローラン・ヴルズィー、カラン・ルダンジェ、・・・・ 古今名だたる画家、音楽家、俳優等が登場してくる。
 カラン・ルダンジェはフランスで人気の高い女優であり、原詩中で「彼」が「私」におしゃべりする話題の一つになっているのだが、この女優は私の訳詞の中には登場しない。日本の歌詞に置き換えたとき、一般的知名度の点で難ありと判断したことによる。

 具象物そのものが享受者に熟知されていることがこのレトリックの成功の必須条件となるのではないか。

 そのような意味で、この作法を多用する外国の詩人の翻訳は大変難しいと言えるだろう。そのまま写さないと忠実ではないが、受け取る方が知らなければ、「何のことだ?」と、共感を得られないばかりか、そこでイメージが断絶してしまう。

 <l’heure du thé>の中では、人名以外でも更に具象物が続く。
 カラメルティー、バニラティーは言うに及ばず、サン・セヴラン通り、ハム、ピューレ、蝋燭(ろうそく)、・・・・。
 サン・セヴラン通りは、実際には知らなくても、フランスっぽいどこかの洒落た通りだろうと感じられれば、それで良いのではと、訳詞の中に採用した。
 ハム、ピューレ(マッシュポテトなどの裏ごし野菜)、蝋燭は、「お茶の時間」から「夕食の時間」へ、テーブルに供されたのだろうけれど、こちらは割愛した。日本語で突然出てきてもあまりイメージは広がらないと判断したので。

 この<ハム、ピューレ>の類、言い換えるなら、異文化への理解とその伝え方の問題は、実はなかなか奥が深いのではないだろうか。
 
 先ほどの<モジリアーニ・・・>も同様で、モジリアーニのポスターを部屋に飾り、モーツァルトとフォーレ、ローラン・ヴルズィーを聴く恋人たち、それを列挙するだけで、極言すれば、何も説明しなくても、その生活ぶり、習慣やセンス、部屋の様子、恋人同士のあり方まで見えてしまう。共通の土壌・文化であることが、メタフォールを成り立たせる重要な要素の一つと言えるのではないだろうか。

 <原詩のニュアンスを出来るだけ忠実に、メロディーに乗せて伝えたい、しかも自然で美しく共感できる日本語で>というこだわりとどう共存してゆくか、難しいけれど、訳詞の醍醐味がそこにある。

 東福寺のコンサート、お洒落で切ないこの曲のニュアンスを楽しんで頂けたらと思っている。

                                     Fin

 (注 訳詞、解説について、無断転載転用を禁止します。
 取り上げたいご希望、訳詞を歌われたいご希望がある場合は、事前のご相談をお願い致します。)

 
 ではヴァンサン・ドゥレルムの歌う原曲をお楽しみ下さい。

       


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