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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

『もう何も』

 カット   木管のアンサンブル
 不思議なくらい麗らかな年末年始でしたが、やはり冬は冬。
 何十年ぶりの寒波到来とのこと、ご無事で過ごされていますか。

 寒さの中、私は、大津の友人が主催する木管四重奏のホームコンサートとコンサート後のパーティーに伺ってきました。

 日の出
 折からの大雪情報に開催が危ぶまれていたのですが、主催者であるM氏が「ほら、雪は降っていないでしょう?」と朝明けの景色を、20名程の出席者に一斉メールで送って下さり、予定通り決行ということに。
 ご自宅のテラスからの美しい朝の情景です。

 琵琶湖を一望する高台に面して建てられた大きなカナディアンログハウスが友人の住まいです。
 予報を覆して、晴れ渡った冬空、晴れ女の異名未だ健在と密かに頷きながら・・・。

琵琶湖を臨む
 窓の向こうに見える湖面の輝きを眩しく受け、フルート、クラリネット、ファゴット、オーボエの柔らかい響きが室内を深く包みます。
 手が届くほどの至近距離で、若い演奏者たちの息遣いと共に、木管の音色を堪能したひと時でした。ログハウスの天然木に、木管の響きが優しく溶け込んで、音も香りも温もりも木の穏やかな命を受けている気がしました。

 音楽には心を浄化してゆく素敵な作用があることを改めて感じます。
 
 さて、「訳詞への思い」、今日はバルバラの『もう何も』という曲をご紹介致します。
 

          『もう何も』
                          訳詞への思い<21>

    『 Plus rien 』        
  『Plus rien(もう何もない)』が原題。バルバラ1968年の作品である。

 この曲を訳詞したのはもう随分前になるが、大好きな曲で、訳詞コンサートでもこれまで何回か取り上げている。

 思えばシャンソンの世界に触れるようになって、最初に心魅かれたのはバルバラだった。
 初めてステージで歌ったシャンソンも彼女の曲『リヨン駅』と『黒い鷲』だったかと記憶している。
 それからしばらくバルバラばかり夢中で聴き込む時期が続いた。

 そんな頃、偶然、CDショップで中古の「Barbara  Le soleil noir  ~私のシャンソン バルバラは歌う~」という表題のついたLPレコードを目にして、かなり高価な値段であったけれど、すぐに入手した。
バルバラLPジャケット
 1975年にPHILIPSから発売されたレコードである。
 40年前に・・・と思うとジャケットのバルバラの写真にも何かひどく感慨深いものを感じてしまう。
 バルバラは70年代から来日公演を何回か行っている。ちょうどこの時期、それに合わせて日本で発売されたLPレコードなのだろう。

 この中に『Plus rien』 が収録されていた。
 聴いた瞬間に何か心に強く入ってくるものを感じた。


   『もう何も』
 冒頭の原詩は次のようである。

   plus rien,  plus rien, que le silence,
   ta main, ma main, et le silence,
   des mots, pourquoi, quelle importance,
   plus tard, demaim, les confidences.

 
 (対訳) もう何もない もう何もない 静寂以外は
      あなたの手 私の手 そして静寂
      言葉 なぜ どれだけ重要なのか
      後で 明日 秘密を

 このような調子で、短い言葉がポツポツと呟くように続いていく。
 1分36秒しかない短い曲に極端に少ない言葉が乗せられている。
 フランス語で書かれている原詩でさえ、こんなに言葉が限定されるのだから、ましてこれを日本語の音節にあてはめて行くのは至難の業であり、よほど日本語を厳選し、一語の重みを最大限発揮させて行かなければ詩として成り立たないと思われた。
 しかも原詩のシンボリックで飛躍的な表現から、この詩の情景(恋人たちの愛し合う夜を象徴的に描いている詩なのだが)を、その味わいを損なわずに日本語で再現することのハードルは高い。
 が、その分、訳詞する醍醐味満載の魅力的な詩とも言える。

 
 私の訳詞の冒頭は次のようである。
 上記の原詩を日本語に直しメロディーに乗せると、これぐらいの文字数でしか表せないことにきっと驚かれるのではないだろうか。

    もう 何も 
    深い夜
    あなた 私 
    手のぬくもり

 この歌い出しのフレーズは、実は2~3回曲を聴いていたら自然に浮かんできた。
 日本語が真っ直ぐにはまり込んでゆく。
 夜の中に変幻する恋人達の吐息が聞こえてくるような、魅力的なメロディーライン、メロディーそのものに、誘い込まれるような独特なエロティシズムを感じてしまう。
 この曲の持ち味である、言葉だけを無造作に置いてゆくような作り方を日本語でもしてみたかった。


 なぜかふと浮かんだのは、山口洋子さんが作詞した五月ひろしの往年のヒット曲「横浜たそがれ」と、ジャック・プレヴェールのいくつかの詩、たとえば「朝の食事」とか「Paris at night 」とか。・・・・いかにも突飛ではあるのだが。

   「横浜 たそがれ ホテルの小部屋 
    口づけ 残り香 タバコの煙 ・・・・
    ・・・・あの人は行って行ってしまった もう帰らない」
 と続く。

 昔流れていて、覚えたわけでもないのに今も口をついて出て来るのは、やはり名曲だからなのだろう。

 それに比して、プレヴェールの方は、すらすらというわけにはいかず悲しいが、でも、同様に、言葉だけがちりばめられてゆく短詩の中で、三本目のマッチが消えた後の暗がりや(「Parie at night」 )、コーヒーカップと灰皿を見ながら、手で顔を埋めて泣いている女の姿が(「朝の食事」)、目の前にくっきりと現れてくるから、こういう言葉の力に限りない憧れを感じる。

 何気ない言葉を(本当は何気なくはなくて、その組み合わせにおいて充分計算され独創的であることはいうまでもないけれど)、何気ないかのように置きながら,説明的でなく情景があふれ出してゆくような詩が書きたいと思った。

 冒頭から更に続く私の訳詞は次のようである。

    言葉は後で
    甘い唇
    私は 狂う
    あなたに くるまる
    あなたも 狂う
    闇を 転がる


 セクシュアルな感じがかなり強く伝わってくると思うのだが。

 「くるまる」について。
 「くるまる」か、「くるまれる」か。
 こういうことは考えていると段々わけがわからなくなってくる。
 「寝袋にくるまって寝る」「毛皮にくるまれて暖かい」
 「包まる(くるまる)」は能動的、「包まれる(くるまれる)」はやや受動的ニュアンスありととって良いのだろうか。
 定かではないけれど、私は、この詩の女性は「あなたに包まれる」のではなくて、「あなたに包まる」としたいと思った。

 そんなことはどうでも良いと思われるかもしれないが、訳詞をして行く時に、どの詩であっても、日本語の微妙なニュアンスや語感に、私は徹底的にこだわってしまう。


 『Plus rien 』、この原詩の中で、炎は揺らめき、火花は飛び散り、火柱は立ち昇る。メタフォア(隠喩)的効果だけれど、詩が丸ごと、光と色彩によって成立しているかのように感じる。

   Pourpre et or et puis bleue(緋色に 金色に そして青色に)

 色彩心理分析ではないけど、炎のあるいは火柱の色の移り変わりをどうイメージするか?

 フランス人がこの詩を読む時、色から自然に浮かんでくる彼等固有のものがあるのだろうかと思い、何人かのフランス人の友人に尋ねてみたのだが、「自分たちだけの特別な色彩感というものはないと思う。この詩に書かれている通りにイメージが生まれる気がするけれど。」「わからない。詩だから。でも言葉が心に残る。炎の色が情熱的な恋を想像させる。」
 色に直結した固定のイメージについてはあまり気にしなくても良さそうである。

 説明的ではなく、極端に抑えた言葉の中で、映像よりも鮮明に、場面や物語や、人の思いや、表情までも浮かび上がらせる。
言葉の持つそんな底知れぬ力を引き出してゆけたらと、いつも思っている。


                                        Fin

  
 (注 訳詞、解説について、無断転載転用を禁止します。
    取り上げたいご希望、訳詞を歌われたいご希望がある場合は、事前のご相談をお願い致します。)

 
  では、バルバラの歌う原曲をこちらのyoutubeでお聴きください。

   https://www.youtube.com/watch?v=1TNHgrAb3EM

    

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 『もしも』

訳詞への思い
 2016年の幕開け、どのようなお正月をお過ごしでしたか。

あっという間に普通の時間に戻ってしまいますが、でもお正月はやはり、心を正して新年の計を立てる「ハレ」の日に違いありません。
2016年元旦の富士山(新幹線より)
 今年も多くの皆様と賀状のやりとりをさせて頂きました。
 そして、HPやこのブログを通して新たにご縁が結ばれた方もあり、こんな素敵な年頭のお手紙も頂きました。
 
 ご自身もシャンソンをお勉強されている方から。
 日本語で歌うことを大切に考え、言葉の細やかなニュアンスを繊細に掬い取り、感性豊かに捉えていらっしゃることが、お手紙の端々から感じられました。

   綾音様の日本語は言葉だけで情景が伝わって参ります。
   洋曲を日本語で歌うことにこだわっている者には、そのように素晴らしい詞を書いて下さる方に感謝せずにはいられません。


 大きな勇気を頂ける言葉の贈り物、そんなお手紙にとても感激してしまいました。有難うございます。

 そうおっしゃって下さる方の為にも、今年はもっともっと沢山、これまで書きためてきたものを含め、新しい曲と訳詞を『訳詞への思い』でご紹介してゆきたいと思っています。
 では早速、今日は『もしも』という曲を取り上げてみます。

            『もしも』 
                            訳詞への思い<20>  


   『 Si 』
 昨年11月に、訳詞コンサートVOL.9『吟遊詩人の系譜』を開催した。
 このコンサートの第一部「ゴールドマンの世界」で、J.J.Goldmanの曲を8曲ほど紹介したのだが、『もしも』はその中の一曲、是非このコンサートで取り上げたくて新たに訳詞した曲である。
ザーズCDジャケット
 原題は『si』、「もしも」という意味。
 ゴールドマンが2013年に作詞作曲し、当代人気ナンバーワンともいうべき若手歌手のザーズに提供している。

 全編一貫して、シンプルに真っ直ぐに、平和への希求を伝えている原詩だが、まずは、その原詩の冒頭を訳してみたい。

   もしも私が神様と友達だったら
   もしも私が祈りを知っていたら
   もしも私が貴族の血を持っていたら
   全てを消し去り 作り変える力があったら
   もしも私が女王か魔術師か
    王女か 妖精か 大連隊の偉大な隊長であったら
   もしも私が巨人の歩みを持っていたら

   私は苦悩(悲惨)の中に空を置き
   全ての涙を川に流すだろう
   そして希望さえも流してしまう砂漠に花を咲かせるだろう
   私はユートピアの種を撒くだろう 
   屈服することは許されない
   私達はもう目をそむけないだろう

    ・・・・・・・

 
 「恵まれない人たちの為に、虐げられている人たちの為に、力ない幼い子供たちの為に、卑小な自分に何ができるだろうか。
 でも、一人では無理でも、皆で手をつなげば 心が通じ合っていれば この世界を少しずつ変えて行くことがきっと出来る筈だ」
と、原詩は締めくくられる。

 ゴールドマンの詩の多くは、難解な比喩表現が駆使され、発想にも飛躍が目立つ。内容も哲学的であったりして、日本語詞を作ってゆく時、こちら側のイメージをはっきり固めて対峙することを要求されるのが常なのだが、他の歌手に提供している最近の曲については、メッセージが明快で言葉もストレートになっていると感じる。
 特にこの『Si』などは、まさにその典型とも言えるかもしれない。

 歌詞をじっと噛みしめていると、詩の根底に流れる、ゴールドマンの、生きとし生けるものへの深い思いが、しみじみと伝わってくる気がする。 

 デビュー当時から、人として誠実に妥協せず生きること、平和で美しい世界を実現すること、そういう彼の思いの根幹は何ら変わっていないのだろう。
ザーズ(CD写真より)
 年齢と共に、装飾的な言葉の全てはそぎ落とされて、更に深みと力とを増して、シンプルになった詩が心に迫ってくる。
 時を経て、より慈愛に満ち、深まる愛を、次世代に繋ぐように若い歌手に歌を託している、そんな風にも思えてくる。

 ザーズ自身も「世の中を変えたいと願う人それぞれが行動を起こそう」と折に触れ訴えていて、それに共感したゴールドマンが彼女に贈った曲なのだと聞く。

   『もしも』
 既に述べたように、ゴールドマンにしては意外過ぎる程の素朴な言葉に終始したこの『Si』という曲。
 「もしも 私が」と繰り返される祈りは、「魔法使いのように強い力を持っていたら」などという子供のような願いに繋がって無邪気ですらある。

 「ユートピアの種を撒きたい」「一人では無理でも皆で手を繋げば、声を合わせれば、きっと変わってゆく筈だ。一歩ずつであっても歩みを進めよう」

 強く迫ってくる旋律に乗せて、ダイレクトであるがゆえに迷いなく浸み入ってくる言葉の力を、私の訳詞『もしも』では、最大限伝えたいと思った。
 原石をちりばめたような、不器用な位にそのままの言葉を、私も敢えて研磨することをせず、そっと置いてみたかった。
 そういう言葉でなければ、ゴールドマンの思いは届かないのではと思った。

 そうして作った私の訳詞。
 冒頭部分と最後の締めくくり部分はこのようである。
 上記の原詩と比べてご覧になると、そのエッセンスに忠実な歌詞であることがおわかり頂けるのではと思う。

    もしも 今 私の願いが叶うなら
    どんな祈りも 聞き入れられるなら
    もしも 今 私に 魔法の力があって
    世界を自由に変えることができるなら

    哀しみは空に放ち 涙は川に流し
    果てしなく彷徨う砂漠に
    ユートピアの種を 撒き続けるだろう
    どんな風(かぜ)にも ひるむことなく
  
          ・・・・中略・・・・

    それでも 私達が 声を合わせるなら
    きっとそこから 何かが生まれる

    この不毛の地に その手を繋ぎ合って
    一つ 一つ 世界を実らせよう

    心通わせ 共に歩もう


 この曲を初めて歌ったコンサートの当日11月14日は、奇しくも世界中を震撼させたあのフランスでの大惨事が起こった日でもあった。
 朝一番のニュースに大きな打撃を受けたまま、コンサート会場に向かい、午前中からリハーサルに入った。
 『たびだち』『見果てぬ世界』も他のゴールドマンの曲も全てがそうだったのだが、特に、この曲を歌った時には、朝テレビで目にした映像が鮮明に心に浮かんできて、強い衝動を感じていた気がする。
 ゴールドマンの希求が胸に迫ってきて、溢れそうな感情と詰まりそうな言葉とのせめぎ合いの中にあった気がする。
 後で、コンサートにいらしたお客様数名から、「あの曲は今日の衝撃的なニュースをゴールドマンが予感して作ったものなのかとすら感じて背筋が震えた」との感想を伺ったが、朝一番のニュースだけで出てきた私より、お客様は事件の詳細をご存じだった分、更に衝撃が大きかったのかもしれないと思った。


 あれから二カ月が過ぎたが、このお正月も、テロの影響が続くフランス、サウジアラビアとイランの対立紛争、北朝鮮の核実験、平和の対極にある、胸塞がれ、憤りで一杯になるニュースで世界は溢れている。
 2013年に作られた曲だが、今こそまさに、このゴールドマンのメッセージに真摯に耳を傾けるべき時、実感を持って切迫してくる。
 彼はどのような思いの中に今いるのだろうか。

 そんなことを今朝も思いながら、改めてしみじみと『もしも』を口ずさんだ。
                  
                                                 Fin

  (注 訳詞、解説について、無断転載転用を禁止します。
  取り上げたいご希望、訳詞を歌われたいご希望がある場合は、事前のご相談をお願い致します。)

 
  では、ザーズの歌う原曲をこちらのyoutubeでお聴きください。

    https://www.youtube.com/watch?v=W4DTYmmTsyQ






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2016年 今年も素敵な年になりますように

 新年、明けましておめでとうございます。

 昨年中は、様々な出来事や人との素敵な出会いの中で、心を通わせながら充実した時間を過ごしてゆくことができました。心からお礼申し上げます。
 どうぞ今年もよろしくお願い致します。

 サル年ですね。
年賀状(2016)

 今年の年賀状です。
 炬燵(こたつ)の中で寝そべりながら腕組みして、ペットのような、相棒のようなお尻の丸いおサルさんと見詰め合っている、良い年になるに違いないと夢見ながら一年の計を思い描いている、そんな図かと思います。
 私、子供の頃から炬燵が大好きで、勉強部屋は洋室だったのですが、真ん中に炬燵を置いて貰って、そこで正座で読書をするのが何より楽しみというちょっと変な子供でした。
 時々、炬燵布団をかぶって疲れた体を伸ばすと、何とも気持が良いのですよね。
 今でもやはり炬燵は必需品、これがあれば、寒い冬も嫌ではありません。
 
 そして、今年の年賀状に、 
  訳詞コンサートを始めて10周年となる今年は、8月21日(日)新橋内幸町ホールにてvol.10を開催させて頂きたく、心新たに準備に励んでおります。 
 と記してしまいました。
 
 2016年、まずは8月21日(日)、第10回目となる訳詞コンサートに力を尽くしたいと思います。
 
 昨年の元旦に、<one new step!> = 新たなる一歩を!と決意表明をしましたが、思いはいつも同様です。

 <どんなにささやかでも、どんなに心が揺らいでも、どんなに痛みが突き刺さっても、一回きりの時間を自分らしく、歩みを止めないで喜びを持って歩んで行きたい >という祈りを込めて!

 元旦の今朝、こんな思いをまた新たに噛みしめています。
 
 
 そして、皆様にとりまして、健康で希望に満ちた幸多き一年でありますように。  
暁闇


 東向きの我が家のベランダは、暁闇(ぎょうあん)が明けてゆく頃が一番素敵です。
 
 朝6時40分の写真。
 やがて、「紫立ちたる雲」ならぬオレンジの雲が、地平線を持ち上げるように染めて行きます。

 皆様、どうぞ新年の初め、良き一日をお過ごし下さい。
 私は、恒例に習い、これから八坂神社に初詣に出かけ、その足で鎌倉の実家に向かいたいと思います。


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