
前回の記事『鬼の行方』の中で浜田廣介作の童話『泣いた赤鬼』のことをご紹介したのですが、様々なご感想をお寄せいただき、大変嬉しく思っています。
その中から、Fさんのお便りの抜粋です。
「このお話は、今でも小学校低学年の教科書に載っていて、うちの子も最近授業で読みました。劇にして「卒業生を送る会」で上演するそうです。
私が子供の頃考えた続きは、しばらく経ってから(村人が青鬼のことを忘れた頃)、赤鬼が青鬼を探して連れ帰り、友達として皆に紹介して仲良しになる…というものでした。
大人にとっても、味わい深い物語ですね。」
核心を子供心は敏感に捉えるのでしょう。
納得のいく結末へと逢着する、子供らしい清々しさにホッとします。
友人のA氏からも。
「佐野浅夫 ーーー 語りの世界」(LP版)の中から山下明生(はるお)作の『島ひきおに』の朗読音源をお送り下さいました。
B面には『泣いた赤鬼』が入っているそうです。
何年も前からずっと聴き続けていらっしゃるというこの朗読に早速耳を傾けてみたのですが、これが今、心を離れません。
引き続き鬼の話題となりますが、今日は『島ひきおに』のお話をしてみたいと思います。
『島ひきおに』への招待
<あらすじ>
なんぼか むかしのはなしじゃそうな。
ひろい うみのまんなかに、ちょこんと小さな島があって、
ひとりぼっちで おにがすんでいたそうな。

という文章で始まります。
鬼は毎日、ひとりぼっちで寂しくてたまりませんでした。
ある嵐の晩、漁船が、助けを求めて鬼の島へやってきます。
孤独だった鬼は人の訪れを喜び、漁師たちを歓迎するのですが、漁師たちは命を取られるのではと恐れおののき近づこうとしません。
「人間たちと一緒に暮らすにはどうしたらよいのか」と尋ねる鬼に、漁師たちは、自分たちの島は狭いので、鬼が島をひっぱってきたら一緒に暮らせるのだが、と、口からでまかせを言います。
これを信じ喜んだ純朴な鬼は、漁師たちに言われた通り本当に島を引っ張って海を歩き、人間たちの住む村へと向うのです。
鬼は、ただ寂しくて誰かと一緒にいたかっただけだったのですが、行く先々の村で、忌み嫌われ、騙され、厄介払いされ、それでも鬼はまだ、一緒に暮らしてくれる相手を探して島を引き、やせ細ってしまった体でなお、人間と鬼が一緒に幸せに暮らせるという南の島を目指して深い海を渡り続けるのでした。
<作家の言葉>
童話作家として活躍し、絵本『バーバパパ』シリーズの翻訳等でもよく知られている山下明生氏がこの『島ひきおに』の作者です。 巻頭に読者への次のようなメッセージが記されていました。
山下氏のこの前書きの文章自体が、とても詩的で、『島ひきおに』に胎動する底知れぬ孤独感をじっと見つめる眼差しを感じますので、ご紹介させて頂こうと思います。
私のいなか、広島県の能美島のすぐそばに、敷島という無人島があります。
もとは引島(ひきしま)と呼んでいたそうです。鬼が引っ張ってきた島だから、引島といったんだと、私は小さいときからきかされました。
いかにも鬼が引っ張ってくるのにふさわしい、周囲数百メートルの小島です。
私はこの言い伝えが好きで、たびたび小舟をこいでこの島にわたりました。
島のてっぺんには、何をまつっているのか、古ぼけた祠(ほこら)がありました。きこえてくるのは、波の音、沖をとおる船の音、松の梢をすぎる風の音・・・。
そこは、孤独がしんしんと身にしみる霊場でした。私は祠の前に腰をおろし、島をとりかこむ海をながめながら、この島を引っ張ってきたという鬼のことを想像しました。いいつたえでは、鬼はここで力尽きて、死んだというのです。
しかし、私はこの鬼を死なせたくなくて、自分の空想の中で、どこまでも海を歩かせました。何しにいくのか、どこまでいくか、・・・・考えながら、自分がいつの間にか鬼になっていました。
私の最初の心のうずきは、孤独だったと思います。だれにも遊んでもらえぬ昼さがり、泣いてかえる白い道・・・そして、今日までこの孤独と愛の問題をひきずりながら、「島ひきおに」のように歩きつづけてきた気がするのです。
<朗読の魅力>
朗読には、黙読とは違った効用があると思います。
ただ、耳で味わうのに適した作品と、文字を目で捉えることによってこそ味わえる作品とがあり、そういう意味で私は普段から、朗読で文芸作品を味わうことにかなり慎重になっています。
感情移入が強すぎるとき、もっと抑制の効いた朗読のほうが、却って作品の良さが伝わるのにと残念に思うことも時々あるのですが、でも、この佐野浅夫さんの朗読は何の違和感もなく、鮮やかにイメージが広がり、心に沁み入ってきて、本当に感激してしまいました。
名優の力量なのでしょう。 そして作品への愛情と理解の賜物なのでしょう。
聴くにつれ、一編の童話の世界が大きく広がって、優れた演劇が小宇宙を創り上げてゆく時のような大きな魅力を感じました。
肉声が生み出す、ナイーブな揺れ、怒り、絶望、切なさ、喜びが胸を貫いてゆく気がします。
作者に、海や波や風の音を聴いて育った素地があるので、物語の中の言葉が、既に自然の旋律やリズムを醸し出すためなのかもしれません。
「おーい、こっちゃきて遊んでいけ」
と叫ぶ鬼の言葉が、随所にちりばめられているのですが、ある時は寂しく、ある時は喜びに満ちて、そして歌うように、最後は弱り切った体を振り絞るように切なく、童話の世界に響きわたって、受け取る側の心を強く揺さぶります。
読書する目は、文字の背後に豊饒な世界を描き出し、聴く耳は、肉声に感性の流露を感じ取るのでしょうか。
<鬼の孤独>
この『島ひきおに』には、『島ひきおにとケンムン』という続編があります。
Fさんが子供の頃、『泣いた赤鬼』の続きの物語を作ったように、作者もまたこの『島ひきおに』がこのまま南の島に向かう海に命果ててしまうのでは如何にも哀れであると考えたのかもしれません。
物語は更に大きく展開していますが、皆様だったらこの先にどのような物語を用意なさりたいでしょうか。様々に思い巡らせてみて頂ければと思います。
この『島ひきおに』の世界は、鬼という異種が日常の生活に紛れ込んできた時に、それを認めることができないが故の悲劇とも言えるかもしれません。
先入観が、本質を見極める目を曇らせてしまうことや、よそ者を排除する非情や、それゆえに没個性に向かってゆく危険や、1973年に発表された童話ですが、現代に巣食う様々な問題を喚起させるに足る今日的な童話でもあります。
それにしても。
この童話を覆い尽くしているものは、孤独感そのものであるように思います。
生きること、存在することが持つ孤独。
島を引きながら果てしない海を彷徨う鬼の孤独がどうしようもなく切なく沁み入ってきます。
童話なのに重く哀し過ぎる気はしますが、でも、それを見つめることからしか出発できないものがあるのでしょう。
Fさんがそうだったように、きっと鬼が真に幸福になる物語を希求して、更にこの続編を考える子供たちが多くいて欲しいですし、それがまた『島ひきおに』を生み出した作者の願いでもあるのではないかと、そんなことを感じています。
その中から、Fさんのお便りの抜粋です。
「このお話は、今でも小学校低学年の教科書に載っていて、うちの子も最近授業で読みました。劇にして「卒業生を送る会」で上演するそうです。
私が子供の頃考えた続きは、しばらく経ってから(村人が青鬼のことを忘れた頃)、赤鬼が青鬼を探して連れ帰り、友達として皆に紹介して仲良しになる…というものでした。
大人にとっても、味わい深い物語ですね。」
核心を子供心は敏感に捉えるのでしょう。
納得のいく結末へと逢着する、子供らしい清々しさにホッとします。
友人のA氏からも。
「佐野浅夫 ーーー 語りの世界」(LP版)の中から山下明生(はるお)作の『島ひきおに』の朗読音源をお送り下さいました。
B面には『泣いた赤鬼』が入っているそうです。
何年も前からずっと聴き続けていらっしゃるというこの朗読に早速耳を傾けてみたのですが、これが今、心を離れません。
引き続き鬼の話題となりますが、今日は『島ひきおに』のお話をしてみたいと思います。
『島ひきおに』への招待
<あらすじ>
なんぼか むかしのはなしじゃそうな。
ひろい うみのまんなかに、ちょこんと小さな島があって、
ひとりぼっちで おにがすんでいたそうな。

という文章で始まります。
鬼は毎日、ひとりぼっちで寂しくてたまりませんでした。
ある嵐の晩、漁船が、助けを求めて鬼の島へやってきます。
孤独だった鬼は人の訪れを喜び、漁師たちを歓迎するのですが、漁師たちは命を取られるのではと恐れおののき近づこうとしません。
「人間たちと一緒に暮らすにはどうしたらよいのか」と尋ねる鬼に、漁師たちは、自分たちの島は狭いので、鬼が島をひっぱってきたら一緒に暮らせるのだが、と、口からでまかせを言います。
これを信じ喜んだ純朴な鬼は、漁師たちに言われた通り本当に島を引っ張って海を歩き、人間たちの住む村へと向うのです。
鬼は、ただ寂しくて誰かと一緒にいたかっただけだったのですが、行く先々の村で、忌み嫌われ、騙され、厄介払いされ、それでも鬼はまだ、一緒に暮らしてくれる相手を探して島を引き、やせ細ってしまった体でなお、人間と鬼が一緒に幸せに暮らせるという南の島を目指して深い海を渡り続けるのでした。
<作家の言葉>
童話作家として活躍し、絵本『バーバパパ』シリーズの翻訳等でもよく知られている山下明生氏がこの『島ひきおに』の作者です。 巻頭に読者への次のようなメッセージが記されていました。
山下氏のこの前書きの文章自体が、とても詩的で、『島ひきおに』に胎動する底知れぬ孤独感をじっと見つめる眼差しを感じますので、ご紹介させて頂こうと思います。
私のいなか、広島県の能美島のすぐそばに、敷島という無人島があります。
もとは引島(ひきしま)と呼んでいたそうです。鬼が引っ張ってきた島だから、引島といったんだと、私は小さいときからきかされました。
いかにも鬼が引っ張ってくるのにふさわしい、周囲数百メートルの小島です。
私はこの言い伝えが好きで、たびたび小舟をこいでこの島にわたりました。
島のてっぺんには、何をまつっているのか、古ぼけた祠(ほこら)がありました。きこえてくるのは、波の音、沖をとおる船の音、松の梢をすぎる風の音・・・。
そこは、孤独がしんしんと身にしみる霊場でした。私は祠の前に腰をおろし、島をとりかこむ海をながめながら、この島を引っ張ってきたという鬼のことを想像しました。いいつたえでは、鬼はここで力尽きて、死んだというのです。
しかし、私はこの鬼を死なせたくなくて、自分の空想の中で、どこまでも海を歩かせました。何しにいくのか、どこまでいくか、・・・・考えながら、自分がいつの間にか鬼になっていました。
私の最初の心のうずきは、孤独だったと思います。だれにも遊んでもらえぬ昼さがり、泣いてかえる白い道・・・そして、今日までこの孤独と愛の問題をひきずりながら、「島ひきおに」のように歩きつづけてきた気がするのです。
<朗読の魅力>
朗読には、黙読とは違った効用があると思います。
ただ、耳で味わうのに適した作品と、文字を目で捉えることによってこそ味わえる作品とがあり、そういう意味で私は普段から、朗読で文芸作品を味わうことにかなり慎重になっています。
感情移入が強すぎるとき、もっと抑制の効いた朗読のほうが、却って作品の良さが伝わるのにと残念に思うことも時々あるのですが、でも、この佐野浅夫さんの朗読は何の違和感もなく、鮮やかにイメージが広がり、心に沁み入ってきて、本当に感激してしまいました。
名優の力量なのでしょう。 そして作品への愛情と理解の賜物なのでしょう。
聴くにつれ、一編の童話の世界が大きく広がって、優れた演劇が小宇宙を創り上げてゆく時のような大きな魅力を感じました。
肉声が生み出す、ナイーブな揺れ、怒り、絶望、切なさ、喜びが胸を貫いてゆく気がします。
作者に、海や波や風の音を聴いて育った素地があるので、物語の中の言葉が、既に自然の旋律やリズムを醸し出すためなのかもしれません。
「おーい、こっちゃきて遊んでいけ」
と叫ぶ鬼の言葉が、随所にちりばめられているのですが、ある時は寂しく、ある時は喜びに満ちて、そして歌うように、最後は弱り切った体を振り絞るように切なく、童話の世界に響きわたって、受け取る側の心を強く揺さぶります。
読書する目は、文字の背後に豊饒な世界を描き出し、聴く耳は、肉声に感性の流露を感じ取るのでしょうか。
<鬼の孤独>
この『島ひきおに』には、『島ひきおにとケンムン』という続編があります。
Fさんが子供の頃、『泣いた赤鬼』の続きの物語を作ったように、作者もまたこの『島ひきおに』がこのまま南の島に向かう海に命果ててしまうのでは如何にも哀れであると考えたのかもしれません。
物語は更に大きく展開していますが、皆様だったらこの先にどのような物語を用意なさりたいでしょうか。様々に思い巡らせてみて頂ければと思います。
この『島ひきおに』の世界は、鬼という異種が日常の生活に紛れ込んできた時に、それを認めることができないが故の悲劇とも言えるかもしれません。
先入観が、本質を見極める目を曇らせてしまうことや、よそ者を排除する非情や、それゆえに没個性に向かってゆく危険や、1973年に発表された童話ですが、現代に巣食う様々な問題を喚起させるに足る今日的な童話でもあります。
それにしても。
この童話を覆い尽くしているものは、孤独感そのものであるように思います。
生きること、存在することが持つ孤独。
島を引きながら果てしない海を彷徨う鬼の孤独がどうしようもなく切なく沁み入ってきます。
童話なのに重く哀し過ぎる気はしますが、でも、それを見つめることからしか出発できないものがあるのでしょう。
Fさんがそうだったように、きっと鬼が真に幸福になる物語を希求して、更にこの続編を考える子供たちが多くいて欲しいですし、それがまた『島ひきおに』を生み出した作者の願いでもあるのではないかと、そんなことを感じています。


