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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

2016年夏のコンサートのご案内<1>

 初夏のような日差しの中で、新緑が眩しく感じられる頃となりました。
 薫風を受けながら、GW、どこかにふらりと出かけてみたくなりますね。

 さて、夏のコンサートの概要が決まりました。

   コンサートタイトルが決まりました
 『松峰綾音訳詞コンサート 10th anniversary』、コンサートタイトルを『ライムソーダの夏』としたいと思います。
 
 目下、チラシを作成中ですが、案内文を次のように考えてみました。

 
   松峰綾音の訳詞と歌でお届けする
       シャンソン、フレンチポップスの魅力
 10周年、Vol.10となる今回の訳詞コンサート、第一部は、これまでの中から選りすぐりの10曲を、第二部は夏の曲を特集致します
 眩しい夏の日差しの中、緑陰の風を一杯に受けながらライムソーダを一息に飲み干す、そんな清涼感溢れた飛び切りの時間を是非ご一緒に!!


 『ライムソーダの夏』・・・冷たく冷えた炭酸水をグラスに注ぎ、ライムをたっぷり絞り入れると、甘酸っぱい香りが辺りに弾けてゆく・・・・夏の日、振る舞ってくれた友人の心尽くしの味と香りが、いつの間にか、夏が運んでくる贈り物のように感じられていました。

 秋冬のコンサートがこれまで多かったのですが、いつか真夏のコンサートも開催できればと思ってきました。
 ・・・・まだ発表したことのない飛び切りの夏の曲がたくさん眠っていて、これらを是非いつか皆様にご紹介したかったことが一番の理由。
 ・・・・そして、もう一つは、燦々と降り注ぐ夏の太陽のように、大らかに、瑞々しくシャンソンをお届けできたらという思いがあったからです。

 今回のコンサート、夏の躍動感や真っ直ぐなエネルギーや、反対に眩光の陰にある息苦しさや憂うつや、そういうこの季節ならではの感情を併せ持った上で、ライムソーダが喉に染み入るような清涼感が生まれると良いなと思っています。

 ちょうど今回は訳詞コンサートを始めて10年目、そして、VOL.10となります。
 前半は、これまでお聴き頂いてきた曲の中から、マイセレクト10曲をお届けしようかと・・・・。

 そして後半は、夏を背景にした斬新な選曲で飾ってみたいと思います。

 今、夢は広がっています。
 勿論、その分、不安や障壁も大きいのですが、ベストを尽くして、本番までの時間に誠実に向き合ってゆきたいです。


   コンサート会場・日時が決まりました
 8月21日の内幸町ホールでの公演に加えて、京都での公演は9月4日に決定いたしました。
内幸町ホール
     2016年8月21日(日)  16:00開場 16:30開演
     新橋 内幸町ホール
    JR・地下鉄「新橋」徒歩5分
                      料金 ¥4,500  全自由席
     Voc. 松峰綾音  石川歩     Dance 古村梓
     Pf. 三浦高広   Bs. 小野照彦   Synth. 藤山正史

OIL
     2016年9月4日(日)   14:30開場 15:00開演
      京都 Cafe/Bar  OIL(オイル) 
 
                  地下鉄「京都市役所前」徒歩7分 
                  料金 ¥4,000 ワンドリンク付
                       全自由席
      Voc. 松峰綾音 石川歩 
      Pf. 坂下文野
 
 ご案内チラシが出来上がりましたら、更なる詳細をお知らせしたいと思いますが、まずは日程など記していただき、是非ご予定に入れて下さいますように。

 OILは京都でのコンサート初めての会場になりますので、詳しくご紹介したいと思います。長くなりそうですので、次回に続けさせて頂きますね。
 



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『バンビーナ』

訳詞への思い 下記のような記事を書いて更新しようと思っていた矢先、熊本地震が発生しました。
 人知の及ばない自然の猛威と、その前にあって如何ともし難いことへの無念さとを痛感させられています。
 犠牲になられた方々に謹んで哀悼の意を捧げると共に、甚大な被害の中で今も大変な思いをされていらっしゃる皆様に心からのお見舞いを申し上げます。
 大きな余震もまだまだ続いていて、予断を許さず本当に心配ですが、どうかお心を強く乗り切っていらっしゃいますように。
 一日も早い終息をお祈り致します。

  ・・・・・・・・・・・・・・


   桜の美学
 絢爛たる桜も、今、いつの間にか柔らかい緑の葉影にその名残を残すばかりとなって、次の季節へと時が移ってゆくのを感じます。
 道端に降り積もる花びらが風に渦巻く様(さま)、時折煽られて宙を舞う様、そして街を流れる白川や高瀬川を薄桃色に埋め尽くして流れてゆく様は、まさに桜花が見せる散華の美といえるのでしょう。
     散華の美2      散華の美1 
 「世の中に絶えて桜のなかりせば・・・」ではありませんが、一時に咲き誇り、それが一時にはらはらと舞い落ちる、尋常ではない桜の花の華やかさと儚さはやはり心に触れてきます。

 大学時代、能に頗る詳しい友人に誘われて、能楽堂に足繁く通った時期がありました。
 彼女の熱のこもった講釈に影響され、私も謡曲や能楽論など読みふけったりもしたのですが、能には桜の花に関連している演目が殊の外多いのです。
 『熊野(ゆや)』、『桜川』、『西行桜』等々・・・。

 故郷の老母の危篤の知らせに心痛めながら遊女「熊野」が桜の花びらの散る中で舞い踊る歌・・「都の桜も惜しけれど 慣れし東(あずま)の花や散るらん」
 熊野がひるがえす扇の上に、散りゆく花びらがまさに鮮やかに見えてくるようで、幽玄の世界が繰り広げられます。

 『桜川』・・・子供を失った悲しみの中で狂女となった母親が桜川のほとりで、川に流れる花びらを夢中で掬いながら舞い狂う・・・。

 先日、花吹雪の高瀬川沿いを歩いていたら、なぜだか、この 『桜川』の、子を失った母のやるせなさがふと浮かんで、唐突ですが、『バンビーナ』という曲を思い出しました。

 今日は、「訳詞への思い」、ララ・ファビアンの『バンビーナ』をご紹介してみようかと思います。


          『バンビーナ』
                         訳詞への思い<23>
  
   『バンビーナ』
 Lara Fabian(ララ・ファビアン)2001年の曲。
(ララ・ファビアンについては以前の記事「『 je t’aime 』その一 ララ・ファビアン
で既に紹介しているので、ご参考にしていただければと思う)
 nueジャケット
 CDアルバム『nue』に修められているが、押さえ気味の美しい声で切々と歌われていて、最初聴いた時から印象的で心に残るものがあった。

 日本では、2008年に倉本聰が『北の国から』、『優しい時間』に続く「富良野三部作」として書き下ろした連続ドラマ『風のガーデン』の中で使われ、注目されたことがあったかと思う。
平原綾香ジャケット
 平原綾香がホテルのラウンジで弾き語るピアニストの役で出ていたのだが、劇中でこの歌を彼女が歌い出したのにはとても驚いた。
・・・偶然にも私はその時、『バンビーナ』の訳詞を終えた直後だったので。
 原語のまま歌っていたが、放送終了後、「あの曲は何という曲?」という問い合わせが多かったと聞いたことがある。
 (写真は平原綾香のシングルアルバム「ノクターン/カンパニュラの恋」のジャケットで、この中にspecial trackとして「BAMBINA」は収められている)

 「BAMBINA」(バンビーナ)はイタリア語で、「可愛い小さな娘」の意味。
 これが男の子だとバンビーノとなるが、「おちびさん」とか「そこの若いの」のような感覚の言葉で、指す年齢は、幼児からティーンエイジャーまで幅がありそうだ。
 バンビーナのほうも同様に、「お嬢ちゃん」「可愛い子ちゃん」のような愛称で年齢制限はないのだろうが、2~3歳の愛くるしい幼児が一番バンビーナのイメージに相応しいのではないかと思われる。
 
 さて、この『BAMBINA』、ファビアンの作詞だが、彼女の詩はいつも、今ひとつわかりにくくて、歌の設定や状況がすっきりと浮かんでこない。

 バンビーナに向けて歌っていることは確かで、詩全体の雰囲気や言葉の使い方などからして、歌っている側は男性ではなく、女性と考えるべきなのではと思う。

 では、<誰>が、<バンビーナへのどのような思い>を、歌っているのか。

 自分の中のもう一人の自分、幼い少女の頃の自分に向けて「あなた」「バンビーナ」と呼びかけている自問自答の歌と取れないこともないけれど、それよりはもっと具体的な対象に宛てての曲と取った方が・・・私には、この曲は母が幼い娘に歌っているという設定で考えるのが一番自然なのではと思えた。
 
 「バンビーナ」は、母である自分のもとに今はいない。
 亡くしてしまった幼子を愛おしむ母の哀惜の思いが感じられ、そのような解釈のもとで改めて原詩を味わってみた。
 
 原詩の冒頭部分は次のようである。

    Rien qu'un petit espace
    Une toute, toute petite trace
    Une toute, toute petite trace
    Un petit mal qui reste en moi
     (対訳)
    ただ小さな片隅だけにある
    唯一の とても小さな足跡 とてもとても小さな足跡
    私の中に残っている小さな傷

 そして、「バンビーナ あなたがいなくて寂しい 心に刻みつけた何枚かの写真には、もう二度と共に行くことのない街の匂いがする」と続いてゆく。

 この曲の日本語詞作りは、原詩が訴えかけてくる情感を、どのような情景の中で再現するのが最も忠実に伝えることになるのかの模索から始まった。 
 一見、原詩から離れてゆくようであっても、実はトータルで原詩の味わいに迫れるなら、時にそういう自在なやり方もあるのではと、今、私は思っている。

 そして、私の日本語詞の冒頭は次のようになった。

    幼いあなたと つなぐ手の温もり
    甘える声も 消えないのに
    あの時のまま 動かない時間を
    ただいつまでも なぞってる


 我が子を突然奪われてしまう母親の悲しみは察して余りあるものがある。
 幼な子にとって、母の存在は世界そのものであろうし、母にとっても同様だろう。
 全ての時間、世界はそこで止まり凍り付いてしまうだろう。
 立ちすくんでいる自分の周りで、時間は、容赦なく流れていく。
 そういう母の思いをこの曲に乗せてみたかった。

 原詩の中ほどに、
   「Je t’attends en bus dans la rue où l’autobus ne passe plus」
 とあって、これは「もうバスが通らない通りでバスを待つ」という意味だが、
    「来ることもないバスを待ち」
    「古びたバス停に立ち尽くして いつも 私は 待っている」

 と言葉をつけてみた。

 一緒にどこかの街に遊びに行き、そこで写真も撮ったのだろう。でももう共に乗るバスは決してやってくることはない。・・・そんなバス停に呆然と佇む心象風景がメロディーから浮かんできた。
 
 立ち尽くす母。
 バンビーナの母は子を失った喪失感の中で、時間を逆行させながら我が子への思いを繰り返し反芻するしかない。
 桜の花びらを掬い取る他すべのない「桜川」の母の物狂いも・・・どちらの悲しみが・・・と比べるべくもなく、どうしようもなく切ない。
                  
                                                     Fin
 
 (注 訳詞、解説について、無断転載転用を禁止します。
  取り上げたいご希望、訳詞を歌われたいご希望がある場合は、事前のご相談をお願い致します。)

 
  では、ララ・ファビアンの歌う原曲をこちらのyoutubeでお楽しみ下さい。
             ↓
 https://www.youtube.com/watch?v=VSEBeeqdFXM

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京都街歩き 会場探しその二

 さて今日も、京都街歩き、前回「京都街歩き 会場探しその一」の続編です。

   町家を訪ねる ~ちおん舎
 幾星霜を経た建物には、負ってきた時間の独自の香りや風格が感じられます。
 欧風文化への憧憬とか矜持のようなものが、どう日本的な生活風土と折り合いをつけてゆくのか、そんなことを思いながら、前回の記事に記した「駒井家住宅」などの洋館を巡っていたのですが、ふと、趣を異にする「町家」の対極の魅力を味わってみたくなりました。
 
 京都には、未来への<町づくり>や、伝統を後世に残そうとする<街並み保全再生>のプロジェクトなどがあり、現存する「町家」の有効利用もその活動の一つになっています。
 そのような働きかけが徐々に実って、修復保存し一般に公開されたり、公共施設・展示会演奏会の会場・宿泊施設・レストラン・カフェなど、様々な用途に使われるようになってきました。

 コンサートをするとしたら・・・。
 いつもと違うそんな目線で眺めながら、今回は町家を巡る京都街歩きです。

 幾つか訪ねた町家の中から、素敵な場所を一つご紹介してみたいと思います。

 地下鉄烏丸御池駅から徒歩3分。「好立地ですね!」と、不動産情報誌の謳い文句のように一人呟きながら向かいます。
ちおん舎の入口
 路地を入ると、落ち着いた門構えに「ちおん舎」という表札が表れました。

「ちおん舎」のHPの説明には、次のように記されています。

  ちおん舎は、㈱千吉商店が京都・衣棚三条で運営する京町家の名称です。
  名前は、「温故知新」から「知」と「温」をとり千・智と音・恩の意味も含ませました。
  伝統の智恵を現代の生活に生かすことにこの空間の「場」の力を利用したいと思います。


 そして、「京都における最古の商家の家柄として世に知られた千切屋一門西村家の遠祖は、遠く奈良時代の・・・」と続き、長い歴史を背負った由緒正しき旧家であることがわかります。

 古都の中にあって、代々住まいする人たちによって手を加えられながら、大切に守り続けてきた重厚な日本家屋の持つ圧倒的な力は、きっと生活そのものを支える揺るぎない価値観とも融合して、生半可な近代建築などの及ぶところではないのでしょう。
ちおん舎の和室空間
 玄関を上がると、控えの間から覗ける中庭が、穏やかに来客を迎え入れてくれます。
 立派な床の間、そして大広間、雪見障子から日差しが柔らかく畳に差し込んで、和室の快さを充分に体感させてくれました。
 
 町家再生の動きの中で、この「ちおん舎」も、「茶道」・「香道」、「講演会」・「発表会」、「落語会」・「展示会」と、学び・集い・楽しむ空間として、積極的な活用がされています。

 この家の当主でもあるオーナーの方からの丁寧なご説明を受け、優しい余韻を感じながら、「ちおん舎」を後にしました。


   カフェで一休み ~GOSPEL
 眩しい春の日差しに、さすがに歩き疲れ、どこかで休憩したくなりました。
 「カフェでコンサートも良いのでは?」と、若い友人が推薦してくれたお店を思い出し、ではお茶しながらもう一軒と思い、今度は銀閣寺の近く、哲学の道沿いにあるGOSPELというカフェに向かいました。
満開の桜
 「哲学の道」の桜は、私のお気に入りスポットです。
 これまで、ブログでもこの辺りの桜便りを何回かお伝えしてきましたが、毎年、足を運びたくなってしまいます。

 心地よい風に吹かれて、気持ちも桜色に染まり始めます。
ゴスペル外観2
 ぶらぶらと散策しながら、お目当てのカフェを見つけました。
 哲学の道の1本西側にある鹿ケ谷通りの「GOSPEL」。
 何となくどこかで見たことのあるような懐かしさのある建物です。
 ツタの絡まるアンティークな洋館、周囲の喧騒からかけ離れた静かな佇まいです。
 
 手すりのついた急な階段を二階に上がるとそこがカフェ。
 誰かのリビングに招かれたようなアットホームな雰囲気がありました。

 大きな木製のテーブル、ソファー、チェスト、古いピアノ、そして沢山のレコードが納められている棚、様々な形の椅子が広い空間にゆったりと配置されて、それがセンスの良い調和を保っていました。
ゴスペルカフェ  ゴスペル カウンター
 外国のインテリア雑誌に出てきそうな大きなキッチンですが、ここが半オープンの厨房です。

 一杯の珈琲をゆっくりと、映画のシーンを演じているみたいにちょっと気取って味わっていると、疲れがすうっと癒えてゆきます。

 この居心地や空気感が、初めてのような気がしなくて、お店の方に伺ってみると、ヴォーリズ建築事務所の設計建築だとわかりました。

 ヴォーリズは前回ご紹介した「駒井家住宅」の設計者ですね。
 この建物は、彼の死後にその意思を受け継いだヴォーリズ建築事務所によって1982年に建てられたということ。個人の住宅だったのが、今はこうしてカフェレストランとなって生まれ変わって、たくさんの人を迎えているのですね。

 こんな家に住んで、好きな音楽を静かに聴いたり、時間を忘れて読書をしたり、親しい友人たちを招いて、気の置けないホーム パーティーをしたりできたらどんなにか心豊かな生活だろうなどと、気持ちは夢の世界を飛んでいましたが、我に返り、会場としての可能性を探るべく、スタッフの方にリサーチもしっかりとして参りました。

 京都街歩きの数日間、他にも随分沢山、建物とそれを囲む風景を満喫できた楽しい時間でした。

 今、それぞれの良さの中でのコンサートの情景が、心の中で広がっていますが、しばし考えを巡らせ、決定したらご報告したいと思います。
 
   おまけの話
 数日前の京都大学吉田キャンパス構内、時計台記念館。
京大の時計台
 青空に開花したばかりの桜が瑞々しく映えています。

 ちょっと良いことがあり、時計台記念館の中にあるフレンチレストランla tourでお祝いのパーティーを開いて頂きました。
 ラトゥール

 連日の京都街歩きの所産か、どこに行っても反射的に「会場としては・・・」とポイントチェックをしていることに思わず苦笑い。

 クラシック調の重厚なインテリアとゆったりとしたスペース、天井高の古色蒼然とした造り、恭しいサーブ、威風堂々とした佇まいの全てが素敵でした。
 花束
 この日は若い研究者や大学院生たちの集まりで、楽しそうに交わし合っている研究のお話などに静かに耳を傾けるのも何とも好ましく心地よい時間に感じられました。

 こんな素敵な花束も頂き、気持ちが優しくなった休日です。



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