新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

『僕になついた猫』

訳詞への思い(カット写真)
 今年もブルーベリージャムを作りました。
 浅間高原の新鮮なブリ―ベリーをどっさりと買い込むのが私の夏の楽しみの一つ。毎朝サラダにたっぷりと入れて頂いていますし、お肉料理などのソースにしてもとても美味しいのです。
ブルーベリー  ブルーベリー2
 いつもより早く7月のブルーベリーを入手したら、実が若く一層新鮮さを感じて、酸味と香りが惹き立つ美味しいジャムが出来上がりました。
 どなたに差し上げようかなって、愉しんでいます。

 さて今日は、『訳詞への思い』、新曲『僕になついた猫』をご紹介致します。
 8月のコンサートで初お目見えのお気に入りの曲です。

    
        『僕になついた猫』
                      訳詞への思い<24>


   原曲のこと
 昨年、Camille Couteau(カミーユ・クトー)が歌っているこの曲を偶然見つけて、メロディーラインの美しさと、歌詞の何とも言えない洒脱な風情にすっかり魅せられ、どうしてもこの曲の訳詞がしてみたくなった。
シコブアルキCD
 男女のデュエット曲でフランス語の響きがとても美しく感じられるが、調べてみると実は、1947年に作られたブラジルの曲がオリジナルで、その曲にシコ・ブアルキが1977年、『João e Maria(ジョアンとマリア)』というタイトルで詩を作ったものであることが判明した。
 幼な馴染みの二人が思春期になりやがてお互いを意識し出すという『たけくらべ』のブラジル版のような素朴でほのぼのとした詩の内容で、土臭い香りが漂ってくるように思われた。
カミーユ・クトーCDジャケット
 2009年に、カミーユ・クトーがフランス語で全く別の歌詞をつけて、『Un chat que j'ai apprivoisé』というタイトルで、お洒落なシャンソンに作り変えている。
 「apprivoiser」という動詞は「飼いならす、なつかせる」という意味なので、このタイトルを直訳すると「僕が飼いならした猫」或いは「僕がなつかせた猫」ということになる。

 二人で過ごす昼下がりの部屋には仔猫がいて、彼女の髪にじゃれついて遊んでいる。
 仔猫に向かって語られている詩だが、仔猫はいつの間にか彼女に重なって行く。
 彼は彼女にぞっこんと言いながらも、「君は僕がなつかせた猫だ」「羽根を休めようとする蝶だ」等ともささやいていて、二人の力関係はかなり微妙である。
 私の詩では『僕になついた猫』とタイトルをつけてみた。

   「café-crème」と「ライムソーダ」
 原詩『Un chat que j'ai apprivoisé』の冒頭は次のように始まる。
                                    (松峰直訳)
   <男女>  今日も明日も
           この世界で僕のものは何もない
           僕の手の線が君の手の線と交わっている
   <女>   あなたは私の気持につけこんでくる
   <男>   僕は君を拒むすべを知らない
   <男女>  僕たちはすべてを分け合っている。
          クロワッサンも、問題も、お金も、カフェ・クレームも

 恋の駆け引きが、緩やかに流れるメロディーの中で、押したり引いたり巧みに織り重ねられてゆく。

 冒頭からは、彼の口説き文句を前にし、それをどこまで受けて良いのか、彼女の戸惑う様子が感じられる。

 「信じられるものは何かは分からないけれど、でも君に夢中で、僕たちは今、全てを共有しているのだ」と彼は言う。
 でも彼女は彼が「どこか遠い目をして別のものを見ている」ことを既に見抜いている。
 優しい言葉を言いながらも、「9月になったらこのパリから一人去って行こうとしていること」も感じ取っている。

 言ってみれば彼は、束の間のアバンチュールを楽しみながら、彼女を「僕になついた仔猫」と呼ぶただの遊び人なわけだが、永遠を信じられない喪失感を心に深く持つがゆえに、外目には刹那的と思われても、これが、精一杯彼が示すことのできる愛の形なのだとも思われてくる。
 そんな愛の不条理がこの詩の根底にある事を感じる。
  
私の訳詞の冒頭は次のように始まる。

   今日も明日も
   確かなものなんてない
   まどろむ夢 夏の日差しを受けて
   手を繋いだまま ただ時を過ごす
   ライムソーダ
   ベッドの中でひと息に飲み干す

 楽屋裏がわかってしまうが、これはもはや訳詞ではなく作詞。
 原詩を読み込んで、心に広がったイメージから生まれた私自身の詩でもある。   
 
 「ライムソーダ」など全く出てこないのだが、作詞者のカミーユ・クトーも完全に元の原詩から離れているので、この詩については、私も同じことをしても構わないのではと勝手に考えてみた。
 夏の昼下がりの恋人たちの時間には「カフェ・クレーム」より「ライムソーダ」が涼しげで良いのではと。
 ここから、今回のコンサートタイトル『ライムソーダの夏』が生まれたのは言うまでもない。


   黒猫か白猫か
 最後にこの猫は黒猫か?白猫か?

 白猫だったら、フワフワで丸いペルシャ系仔猫。
 シーツもブランケットも真っ白で、モコモコくるまってじゃれている感じがよく似合う。「君」もあどけなさを残した少女の様な眼差しの娘。
 歌に、淡い青春の香りが漂ってくる。

 黒猫だったら、艶やかな短毛で、仔猫なのにすっと精悍な雰囲気を醸し出している。
 黒い小さな塊がシーツに巻き付いて眠っている。
 「君」はエキゾチックな強い目の娘。
 アンニュイで、ちょっと屈折したニュアンスに魅かれる。

   ・・・・と勝手に妄想は膨らんで行くが、勿論これには正解はない。
 むしろ多様に、鮮明に、受け取る人のイメージが広がれば詩として大成功!と言えるのだろう。
 鳥の声が気になって
 
 ちなみに『ライムソーダの夏』のチラシ写真を撮影して下さったA氏の飼い猫は「クロ」なのだそうで、以前、猫好きの私にこんな詩情のある写真を送って下さった。
 
 「クロ」が、窓の外で囀る小鳥を覗き込んで探している。
 
 しなやかに背筋を伸ばす「クロ」。
 
 私の『僕になついた猫』のイメージにしっくりと重なっている。

                                     Fin
  (注 訳詞、解説について、無断転載転用を禁止します。
  取り上げたいご希望、訳詞を歌われたいご希望がある場合は、事前のご相談をお願い致します。)

 
  では、原曲、まずは本家であるブラジル版『João e Maria(ジョアンとマリア)』はこちらから。

   フランス版『Un chat que j'ai apprivoisé(僕になついた猫)』はこちらから。
それぞれお楽しみ下さい。
             
    



このページのトップへ

『森のくまさん』考

   バンドリハーサル
 コンサートまで、一カ月を切り、準備もまさに大詰めを迎えています。
 でも、まだまだ、懸案事項が・・・。

 コンサートのひと月前って、いつもどんなことを考えて過ごしているのかと、何となく以前のブログ記事を読み返してみました。
 二年前に書いていたこんな言葉、今の心境に重なります。

 でも、こういう準備の時間を粛々と過ごし、余裕を持って楽しめないと、本当に味わいのあるコンサートに辿り着けないのでしょうね。
 
 コンサートの当日は、いわばとてもわかりやすい「晴れの日」ですが、その一日を支える密やかな沢山の「ケの日」に支えられていることを思えば、その「ケの日」の生き方、心構えこそが実は大切なのだと、折に触れて気付かされます。
 
 そして、実は「ケの日」の中にも、小さな「到達点」が随所にちりばめられていて、その「到達点」は、同時に次への「スタートライン」にもなっている、・・・・ コンサートを目前にした緊張感の中に居ても、いつも自然に微笑みながら、ひと時ひと時を柔らかく丁寧に過ごしてゆきたい、今そんなことを思っています。

 嘗ての自分の言葉に深く頷きながら、一日一日を大切に過ごせなければ、「ハレの日」も存在しないことを、痛感しています。

      ・・・・・・・・・・・

 そんな「ケの一日」、バンドリハーサルも先日無事終わりました。
 高円寺の音楽スタジオに11時集合、ピアノの三浦高広さん、シンセサイザーの藤山正史さん、ベースの小野照彦さん、そしてコーラスの石川歩さん、私、スタジオの音響担当のスタッフ、総勢6名でこの日に臨みました。 
 藤山さんと小野さんとは二年ぶりの再会。同じステージで音楽を奏でた仲間は、「同じ釜の飯を」のような絆が生まれるものなのでしょう。今年もご一緒できることをとても幸せに感じます。
リハ会場
 普段は、ライブ会場にも使用されているゆったりとしたスタジオでのリハーサルです。
 ・・・実は、気合いが入り過ぎて、写真撮影を失念してしまい、気付いたら、練習風景は一枚も撮れていませんでした。それで始まる前のがらんとした会場の写真なのですが。
シンセサイザー部品
 これはどなたの荷物かお分かりになりますか。
 全部藤山さんのシンセサイザーです。
 分解してこのようにいくつもに分けて運び、これをご自分で組み立てて使っていらっしゃるのです。重量も半端ではありません。

 けれどそれ以上に小野さんのベースのケースも頑強で大きく、びっくりしてしまいました。人一人充分に入れそうな大きさ、それを事も無げに黙々と運び入れて、ジャンボさんの愛称、さもありなん、早速演奏スタートです。
 
練習日はこの日のみで、次はコンサート本番となります。
 新譜も多く含んだ全曲22曲を、この限られた時間の中で作り上げて行くのですから、全員、和気藹藹としたご挨拶タイムとは打って変わった真剣勝負、殺気が漂うような空気の中でリハーサルが進みます。
 リハ風景
 最初の一回は曲作り、曲想をつかみ、歌を交えながら取りあえず音を出してみます。
 バンドマスターの三浦先生から楽器のバランスなどを考えながらの調整、指示がリズミカルに出されます。
 そして、次の二回目の演奏では、既に驚くべき完成度、私も目の前にステージが見えて来るような臨場感・陶酔感と共に120%熱唱してしまったらしく「メインボーカルはもっと音量小さく!」と何回もスピーカー調整の指示が出されました。
 
 コンサートを作って行く過程、新たに生み出されてゆくハーモニー、その中に自分も溶け込んで、音楽が誕生する産声を体感できるのは何にも勝る喜びがあります。 16時までの5時間、ピンと張り詰めた空気が流れ続けました。

   朝の散歩 ~落葉松林の中で~
 バンドリハーサルを終え、コンサートの全体像もようやくはっきりと見えてきた気がします。 
夜明けの落葉松1
 夏のコンサートは初めてですので、例年の夏の過ごし方とは様変わりしているのですが、それでも、願掛けでもするように、大好きな深緑の落葉松林がどうしても見たくなり、数日前から浅間高原に来ています。
 
 朝夕はカーディガンを羽織らなければいられないくらい肌寒くて、でもその冷気に触れると修行僧にでもなったように心が引き締まり覚醒し、それがこの上なく心地よく感じられます。
夜明けの落葉松2

 夜明けの光が落葉松の木立の間から差し始める頃。5時過ぎの朝の散歩です。

やがて刻々と光が増し、落葉松の間から真っ白い夏の雲が見えてきます。
影帽子

 朝陽を背中に受けて、長く映る自分の影を久し振りに見た気がしました。




 高原の草花。
 華やかではないけれど路傍に小さく咲いて季節を飾っています。
野草1 野草2
 森の中に佇んでいると耳が、微かな音を逃さず楽しみ始めます。

 木立を縫って、遠くから近づいてくる風の音、葉擦れの音、風が梢に溜まった雨の滴を落とし、それに呼応するようにあちらこちらで鳥のさえずりが聞こえて来る、鶯が美声を誇り、長く冴えわたる鳴き声を聴かせています。そして遠くに小川のせせらぎも。
 ・・・・・忙しい日常生活では聴こえなくなってしまっている、或いは聴こうとしなくなっている音が沢山あって、それは自然の中にこそ豊かにあって、じっと耳を澄ませることがどれほど心を解き放ち、柔らかくしてくれるか、しみじみと感じます。

 夕方、村の一斉放送が、遠くのスピーカーからとぎれとぎれに聴こえてきました。耳を澄ましてみたら、熊が出没したと言う注意喚起の放送でした。
 「このあたりで熊の親子を見たという目撃情報がありました。
 出逢っても子熊には絶対近づかないように。目を合わさず慌てないで身体を低くするように。独りで外を歩く際には、鈴を鳴らすように。」
 という内容でした。
 凄いです。
 ニュースでは耳にするとは言うものの、生でこんな言葉を聞いてしまうと俄然、現実味を帯びて迫ってきます。
 童謡の『森のくまさん』はひょうきんで可愛いのに、現実はそんな生易しものではないのですね。

    『森のくまさん』
 話が飛躍し過ぎますが、よく考えると『森のくまさん』って妙な歌詞だと思いませんか。

   ある日森の中 くまさんに出会った
   花咲く森の道 くまさんに出会った
   くまさんがいうことにゃ お嬢さん お逃げなさい

 と言われてお嬢さんはスタコラサッサと逃げるのですが、ところがこの後 くまさんは後からトコトコとついてくるのです。
 そして「お嬢さん お待ちなさい 落し物」と言って 白い貝殻の小さなイヤリングを渡します。お嬢さんは立ち止まり ありがとうと受け取って お礼に歌を歌うのです。・・・という、5番までの歌詞をご存知でしたか。

 動物も人間も和気藹藹と仲良しのメルヘンといってしまえばそれまでなのですが、私は幼い頃からこの歌に、大いなる違和感を持っていました。
 優しいくまさんだったら、なぜ最初にお逃げなさいと言うのか、赤ずきんちゃんの狼のように少し胡散臭いものも感じていた気がします。
 途中で心優しいくまさんに変心したのだろうか・・・。

 少し調べてみると、これは元々はアメリカの童謡で、熊に出会ったのはお嬢さんではなく『私』、『私』が銃を持っていないのを知った熊は「それなら取りあえず逃げてみろ」と命じた上で、追い掛けた。『私』は木の上によじ登って辛くも命を繋ぎとめたという、もっとシリアスな内容だったようです。

 本当は怖いグリム童話ではないですが、童話も童謡も本来どこか暗い負の部分を持っていることが多いようで、日本の場合は、一般的には子供への配慮を持って微笑ましい物語に換骨奪胎していると思われます。
 「森のくまさん」はどこかで帳尻を合わせようとして、不思議な展開になっていたのかもしれません。

 それにしてもこんな風に、里にも熊が出没することが多くなる時代には、くまさんがお友達のような感覚を子供に与え過ぎるのもリスクをはらんでしまうのかしら、ちょっと悲しいけれど、などと思ってしまいました。

 つれづれに浮かんできた思いを書き連ねてみました。




このページのトップへ

ソーダの泡

   ペリエ三昧
 梅雨寒という言葉は何処に行ったのか、ギラギラとした太陽の元、既に夏バテ気味なのですが、これから本格的な猛暑が続きそうですね。
都路里のかき氷
 梅雨時に頂くかき氷が大好きです。
 旬を先取りしているようで格別美味しく感じられるのですが、皆様のチョイスは何ですか。
 私は昔から、宇治金時一筋。
 京都に住んでからは、抹茶の味には少しうるさくなってきました。

 でも今年はこれに加え、「ライムソーダ」にはまり込んでいます。
ライムソーダ
 ペリエのコマーシャルみたいな例のチラシですが、お守りのように、儀式のように、この数カ月毎日、カットしたライムにペリエを注いで恭しく愛飲しています。
 「そこに少しのジンを入れないと大人じゃないよ」ってお酒呑みの友人にからかわれましたが、私は不調法なので・・・アルコール抜きでも結構いけるのではと・・・。

 冷蔵庫の中にはペリエとライムがいっぱいに詰まっていて、これがないとコンサートが成功しないような気さえしてくるのが可笑しくて、我ながら何というゲン担ぎなのだろうと半ば呆れてしまいますが。

 もはや美味しいのかどうかもよくわからないまま、でも、人との出会い、出来事との出会い、と同様に食べ物・飲み物との出会いも、ある種のご縁なのかなという気もします。
それぞれの人にそれぞれの説明し難いこだわりがあり、そういうことってどこか微笑ましくもありますよね。

 ところで、「ペリエ」ですが、ちょっとうんちくを傾けてみたいと思います。
  (ネットから、一部分を引用します)
ペリエ
 ペリエはフランスのスパークリング・ナチュラルミネラルウォーター。
 ルーツは紀元前3世紀にさかのぼる。ローマへ行軍中のハンニバル将軍が、ペリエの源泉がある南仏ヴェルジェーズに立ち寄り、泉の水を飲んだという記述がある。
 きめ細かく弾ける炭酸が特徴で、ナポレオン3世がこの泉を「フランスの誇り」と絶賛したという逸話がある。
 1898年、ペリエの由来となるルイ・ペリエ博士が瓶詰設備を設け、1903年に本格的な販売がスタートした。

 ペリエは後から炭酸を注入する人工的な飲料ではなく、湧水から抽出した天然の炭酸水だと言うわけです。フランスを始め、世界で親しまれていて、ミネラルを豊富に含んだ健康飲料とも言われています。
 ・・・会社の宣伝販売員みたいな文章になってしまいましたが。
 実は、フランス語を習い始めの頃のテキストに「ペリエ誕生の歴史」という文章があり、その頃はまだ飲んだこともなかったのですが、何だか妙に印象残っているのです。

   ソーダの音・泡 そして「消失」
ライムソーダ三昧 そのようなわけで、毎日、冷たくしたグラスにソーダを注いで、シュルシュル シューというような音を立てて、やがて、ポンポンと小さく泡立ち弾けるグラスの中をじっと覗きこんでいます。
 ソーダを注ぐ時の音にも泡立つ様子にも、大げさかもしれませんが、一種の不思議な陶酔感を感じます。


 話が飛躍するのですが、以前『消失』という訳詞を作ったことがあります。
 ケレン・アンの 「 La disparition(消失)」というのが原詞なのですが、喪失感と陶酔感とに満ちた不思議なポエティカルな世界を持っています。
 水の中に深く沈んでゆく時の不思議な心情を象徴的に表現していて、少し危険で魅力的な詩なのですが、一番だけ私の訳詞をご紹介しますね。(今度、「訳詞への思い」にも記してみたいと思います)

    やっと 心が埋まってゆく
    もう一人の私が言う 
    消えてゆく前に もう一度
    貴方に そっと 口づけする

      冷たい水の中
      透き通る水の中
      どこまでも 沈んでゆく
      心が 満ちてゆく

ソーダの音と泡を思っていたら、こんな訳詞を作ったことが不意に浮かんできました。

   泡 ~坂下文野さんからのメッセージ
 私の訳詞コンサートには、いつもプログラム冊子を作成していて、今もその原稿を記している最中なのですが、今回は10周年ということで出演者の皆様に特別にコメントをお願いしました。

 9月4日の京都OILでのコンサートでご一緒して下さるピアニスト坂下文野さんからこんな素敵な文章が届きました。
 プログラムにも掲載させて頂きますが、それだけではもったいないので、このブログでもご紹介したいと思います。

 「ソーダの音と泡」のこと、奇しくも同じ感覚をお持ちだったのですね。
 そして、『ライムソーダの夏』をこんなに繊細に受け止めて下さって、素敵なメッセージを下さったことに感激してしまいました。
 文野さんの文章をそのまま転載致します。

     ・・・・・・・・・
坂下文野さん
 泡。
 泡は、お好きですか?私は泡が大好き。
 子供の頃に飛ばしたシャボン玉。
 パスタを茹でる鍋から湧いてくるモクモクした泡。
 滝壺に落ちる水から勢いよく生まれる泡。

 すぐに消えてしまう泡だけど、目の前にあるその瞬間、泡たちは 楽しそうで、生き生きしている、みんな光っている。それを見ている私も好奇心いっぱい。

 今回の松峰綾音さんのコンサートは、ライムソーダの夏、です。
 皆さんは、ソーダが とてもいい音を聴かせることを知っていますか。是非、グラスに注いで、耳をグラスの縁に当ててみましょう。  喝采が、聞こえましたか?コンサートが始まるんですよ。ライトを当てて、中を覗いてみましょう。そこもここも、泡でキラキラ光ってる。きれいだなあ。
 よく見てください、ほら、グラスの中に松峰さんが見つかりましたか?いつも、、素敵だなあ。
 あ、あなたも、今はグラスの中の泡のひとつですよ。どうぞしばらくお座りください。今回は特に楽しく、ライムのいい香り、音楽のエッセンスにうっとり過ごしていただきます。
 あ、一気に飲んではダメです、ゲップが出るし、喉が痛くなりますよ!今回も少し、内容に刺激を含んでいますからね。ゆっくり、楽しみましょう。

 ライムソーダの夏、松峰綾音の夏、まさにこの夏 開演です!

 わたくしはライムソーダの緑のボトル、ピアニストの坂下文野でございます。
 松峰綾音さんの訳詞の世界を まさに美味しく味わっていただけるよう、キリッと冷やして皆さまのお越しを心より、心よりお待ち申し上げております。

   2016年夏     坂下文野

       ・・・・・・・・・・・

 ライムソーダの緑のボトルだとおっしゃって下さった坂下さんと今回もステージをご一緒にできますこと、とても幸せに感じます。
 皆様、どうぞ是非いらして下さいますように。




このページのトップへ