fc2ブログ

新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

『をみなごに花びらながれ』

 3月、風の冷たさの中にも、どこかふんわりとした早春の息吹が感じられる季節になりました。

 長いことブログ記事を更新せず、大変申し訳ありませんでした。
 重度の花粉症が、今年も益々酷くなり、完全ダウンしております。
 北山杉との闘いに敗れ、日々疲れ果て呻いている京都での私ですが、時間は容赦なく流れ、4月のコンサートが段々近づいてきました。

 桜をテーマにした今回のコンサートですが、いつの間にか桜は、蕾が膨み、黒い幹や枝に心なしかほのかに赤みが加わって、全身で美しく花開くエネルギーを漲らせていることを感じます。


   2葉の写真 ~護国寺の寒桜
初咲きの寒桜


 護国寺近くにお住いの友人Aさんが、「境内の一番咲きのカンザクラです」と送って下さった美しい写真です。


 2月の下旬、まだ京都では雪がちらついている頃でしたが、寒気の中に凛として瑞々しく春の予感を漂わせるこの写真に思わず見とれてしまいました。


満開の寒桜



そして、昨日届いた写真。
「カンザクラは満開になりました」との言葉とともに。
短い間に季節は確実に移っていたのですね。

朝の光の中に桜はよく映えます。
そして閑寂で威風堂々とした護国寺の佇まいをくっきりと際立たせて、絢爛と咲き誇っています。

   『甃(いし)のうへ』
 4月のコンサートタイトルは『をみなごに花びらながれ』ですが、これは三好達治の詩『甃のうへ』の一節から採ったことは前にもお話しした通りです。

 「をみなご」は古語で「乙女たち」の意。
 まだ幼さの残る女の子たちと言っても良いかもしれません。

 ちなみに、「おみな」も女性を指しますが、「お」の表記にすると、女性一般、年配者も含んだ言葉となります。一方「を」は、穢れなき純粋無垢な女の子を指すのが本来の違いだったようですが、今はそんな厳密な使い分けはなされていませんね。・・・古語豆知識でした。

 「甃」はお寺の石畳、敷き石のこと。
 乙女たちが桜吹雪の舞い散る中、静かに語らいながら、古寺の石畳を歩んでいく。石畳の上には白い花びらが降り積もり、目を上げると、澄んだ青空に桜が眩しく映えている。
 お寺の廂(ひさし)の風鐸に、幾星霜を経た揺らぎない美しさの矜持を感じる。
 歩みを進める甃の上に、自分の影も静かに歩んでゆく。

 艶やかで、閑寂で、孤高な、美の世界がこの詩には横溢している気がします。

 この詩が読まれたのは、実は護国寺なのではと言われているのです。
 偶然にもお送り頂いた2枚の写真が、殊の外くっきりと印象付けられます。

 では、詩をご紹介してみます。

   『甃のうへ』
                           三好達治 作

  あはれ花びらながれ をみなごに花びらながれ
  をみなごしめやかに語らひあゆみ
  うららかの跫(あし)音空にながれ
  をりふしに瞳をあげて
  翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり
  み寺のいらかみどりにうるほひ
  廂(ひさし)々に
  風鐸(ふうたく)のすがたしづかなれば
  ひとりなる
  わが身の影をあゆまする甃(いし)のうへ


   物狂いの桜
 散り際の桜の風情にもまた、何とも言えない思いを掻き立てられます。
 満開の桜
 はかなげというよりはむしろ、妖艶な凄さを感じてしまいます。

 随分前に(数年前のブログに)一度、散り際の桜について書いたことがあったのを思い出しました。
 今回のコンサートにもつながりますので、もう一度、下記に、その時の文章をご紹介してみますね。


 散る桜の中に狂気を見るという感覚は、日本人特異な感じ方かと思いますが、私にも何となく頷ける気がします。
 咲くも散るも、他の花とは違った不思議な特別なエネルギーを感じるのでしょうか?
       ・・・・(中略)・・・・  
 
 坂口安吾の小説に『桜の森の満開の下』という作品があります。
 山賊の頭領が主人公なのですが、彼は、自らが略奪した美女にすっかり心を奪われ、彼女の言いなりになってしまいます。この女性は実はとんでもなく我儘で残虐な性格で、次第に無理難題を男に要求するようになります。
 或る時、命じられる儘に、女を背負って満開の桜の下にさしかかるのですが、その時、女は・・・・。
 小説終盤の、花びらだけが降りしきる描写が何ともリアルでかなり背筋が寒くなります。これを読むとしばらくは桜が恐い花に思えてきますので、何事も経験、機会があったら覚悟して読んでみて下さいね!

 梶井基次郎も『桜の樹の下には』の中で、桜があんなに美しいのは、「桜の樹の下には屍体が埋まっている」からだ、などと物騒なことを記しています。
 
 桜の真ん中に立って、降りしきる花吹雪に巻かれていると、二人の作家が夢想したように、魂までもが遠くに運ばれてゆくような一瞬の恍惚感を私も感じてしまいます。
  
    ・・・・・・・・
 
 この小説、抜粋しながら今度のコンサートで、取り上げてみたいと思っています。

 日本的な独自の感覚で捉えられる「桜」と、フランスのエスプリが凝縮された「シャンソン」、・・・・対極にある両者の接点を模索しつつ、今コンサートの準備を進めています。

 是非、皆様ご期待くださいね。
 各会場共、座席数に限りがございますので、お早めにお問い合わせ、お申込みいただけたら幸いです。



このページのトップへ