
昨日は節分、そして今日は立春、旧暦の新年ですね。
京都の節分と言えば、まずは吉田神社、前に紹介記事「鬼の行方」を書いたことがありました。今年は所用があり、参拝は叶いませんでしたが、でも家で豆まきはしっかりと!
我が実家では、昔から何故か豆まきは欠くべからざる大事な年中行事となっていました。三つ子の魂で、年を経ても、私も弟も今もその習慣だけはきっちりと守っています。
立春は、清々しい気分で。
一年の安寧と健康を祈りたいと思います。
人形作家との出会い ~ 『こもれびの詩』
米山京子さんをご存知でしょうか。
人形作家として大変ご活躍なさっておいでの方なのですが、そのお人形を見れば、「ああ!!」と多くの方が思われるのではないでしょうか。
いつか見たことのある優しく愛らしい表情、それぞれのお人形にそれぞれを包むメルヘンが漂っていて、心和む世界に引き込まれます。
私はずっと前から米山京子さんのお人形が大好きで、こういう世界を生み出される方はどんな方なのかしらと、憧れを持って感じていました。
ところが、思いがけぬご縁。
知人の紹介で、昨年一月の市ヶ谷での「雨の日の物語」コンサートに京子さんとお嬢様のマリさん、お二人でいらして下さったのが最初の出会いだったのです。
終演後、満面の笑みで優しくご挨拶して下さったご様子が、はっきりと浮かんできます。
お母様とお嬢様、お顔立ち・しぐさまでどこか似ていらして、お二人ともあどけない童女のような第一印象がありました。
その後、ご自身のお仕事や日常について綴られたエッセイの中で、この日のコンサートのことをこんな風に記して下さいました。
雨の多い季節になり、雨傘を開くたびに、今年の初めにうかがわせていただいた松峰綾音さんのコンサートを思い出します。
シャンソンと朗読で綴る「雨の日の物語」、松峰さん訳の歌詞からも、名作の一場面からも、情景や登場人物の様子が、まるで映画のワンシーンでも見るように浮かんできます。
客席も一緒に大合唱で終わったコンサートは感動的で、年明けから貴重な経験をさせて頂きました。 ・・・中略・・・
松峰さんのコンサートでいただいた感動がまた明日へのエネジーになりました。
そして昨夏に一度、三人でご一緒にティータイムを過ごす機会を得、初めてとは思えないほど打ち解けて、楽しくお話をさせて頂いたのでした。
京子さんとマリさん、そして私、思わぬ共通項がいくつもあって、例えば無類の猫好きであること、おっちょこちょいな失敗が結構多いこと、他愛なく和やかな日々の話、その中で、お人形という有形なものを生み出す衝動やその工夫や喜びなど、創り手としての矜持、気概も、共感できる話題でした。
京子さんがイマジネーションを駆使して紡いでゆく物語が鮮明であればあるほど、その中で、主人公であるお人形は生き生きとその命を生きるのだと思いました。
創造とはそういう事なのでしょうね。
私の場合は言葉が対象となっているわけですが、同様の感覚の中にいると感じられます。

京子さんは『こもれびの詩』という<人形絵本>を出版されているのですが、私はこの本が大好きです。
美しく撮影された人形たちの写真が、生きているように瑞々しくそれぞれの表情を捉えています。
夏のティータイムを包んでいたのも、眩しい木々の木漏れ日でした。
人のご縁というものは本当に不思議なもの。
20年も前から一方的にファンだった方と・・・。
お嬢様のマリさんはお母様と同じ道を進まれて、お二人は良きパートナーとして、お互いの独自の世界を深め合っていらっしゃいます。マリさんはお人形作りに、イギリスで本格的に修得なさった刺繍の技術と手法を加えて、素敵な作品を沢山作っておいでです。
とても仲の良い母娘であると共に、肝胆相照らす相棒でもあるのですね。
情念とメルヘン
昨年暮れ、お二人からお人形をプレゼントして頂きました。
お人形に寄り添っているのは可愛い子猫。

「是非名付けて下さい」とのメッセージに応えて、女の子は「こまりちゃん」、子猫を「毬太郎クン」と命名しました。
可愛くて見惚れていたら、自然に子供の即興でたらめ歌みたいなメロディーと詩が浮かんできて、それがどうしても心から離れなくなり、ついに『こまりちゃんのティータイム』『おはよう毬太郎』という歌を作ってしまいました。
怪しげですが結構お気に入りで、気がつくと声に出して歌っています。勿論、門外不出ですが・・。
「同じお人形は決して作りません」
「どれもみな、世界に一体だけのお人形」というお言葉に感動します。
どんなに心を込めて、時間をかけて、作り上げていらっしゃるのでしょう。
日本人形でも西洋人形でも、「人形には魂が宿っている」とよく言われます。
リアルな人の形に、人の情も投影させているのでしょうね。
そういえば、市松人形やお雛様なども、歳月が経ったものほど、何か秘めたような奥深い表情が感じられる気がします。
西洋人形でも同様で、極端な場合には、「死んだ子供の生まれ変わりのよう」などという神秘的なお話に繋がってきたりもします。
仏師が最後に仏像に全身全霊をかけて命を吹きこむように、人形作家も、作品にかける思い、自らの情念のようなものまでも人形に込めようとする、そんな精神世界があるのかもしれません。
こういう一体一体の持つ圧倒的な個性、凄味は人形ならではの魅力、醍醐味と言えるのでしょう。
でも一方で、その対極に、できるだけ無色のまま、作り手から委ねられて受け手が自由にイメージを膨らませてゆくということもあるのではという気がするのです。
メルヘンの本質はそこにもまたあるのではと、・・・・我が家の「こまりちゃん」と「毬太郎クン」を見ながら、そんな人形私論に心を巡らせてみたのでした。

「おはよう毬太郎」を心地よく歌うことを許してくれる京子さんのお人形の愉しさを満喫しています。
「ドール ドール」というのは、米山京子さんのWEBサイトのタイトルです。
追記

数日前、こんな美味しそうなケーキのお人形をプレゼントして下さいました。
イチゴタルトとチョコレートケーキ、そしてそれを見ている可憐な女の子です。
ケーキを乗せている美しい刺繍のマットはマリさんの作品です。
見た途端、或るアイディアが閃きました。
実現したら、すぐにご報告致しますね。
京都の節分と言えば、まずは吉田神社、前に紹介記事「鬼の行方」を書いたことがありました。今年は所用があり、参拝は叶いませんでしたが、でも家で豆まきはしっかりと!
我が実家では、昔から何故か豆まきは欠くべからざる大事な年中行事となっていました。三つ子の魂で、年を経ても、私も弟も今もその習慣だけはきっちりと守っています。
立春は、清々しい気分で。
一年の安寧と健康を祈りたいと思います。
人形作家との出会い ~ 『こもれびの詩』
米山京子さんをご存知でしょうか。
人形作家として大変ご活躍なさっておいでの方なのですが、そのお人形を見れば、「ああ!!」と多くの方が思われるのではないでしょうか。
いつか見たことのある優しく愛らしい表情、それぞれのお人形にそれぞれを包むメルヘンが漂っていて、心和む世界に引き込まれます。
私はずっと前から米山京子さんのお人形が大好きで、こういう世界を生み出される方はどんな方なのかしらと、憧れを持って感じていました。
ところが、思いがけぬご縁。
知人の紹介で、昨年一月の市ヶ谷での「雨の日の物語」コンサートに京子さんとお嬢様のマリさん、お二人でいらして下さったのが最初の出会いだったのです。
終演後、満面の笑みで優しくご挨拶して下さったご様子が、はっきりと浮かんできます。
お母様とお嬢様、お顔立ち・しぐさまでどこか似ていらして、お二人ともあどけない童女のような第一印象がありました。
その後、ご自身のお仕事や日常について綴られたエッセイの中で、この日のコンサートのことをこんな風に記して下さいました。
雨の多い季節になり、雨傘を開くたびに、今年の初めにうかがわせていただいた松峰綾音さんのコンサートを思い出します。
シャンソンと朗読で綴る「雨の日の物語」、松峰さん訳の歌詞からも、名作の一場面からも、情景や登場人物の様子が、まるで映画のワンシーンでも見るように浮かんできます。
客席も一緒に大合唱で終わったコンサートは感動的で、年明けから貴重な経験をさせて頂きました。 ・・・中略・・・
松峰さんのコンサートでいただいた感動がまた明日へのエネジーになりました。
そして昨夏に一度、三人でご一緒にティータイムを過ごす機会を得、初めてとは思えないほど打ち解けて、楽しくお話をさせて頂いたのでした。
京子さんとマリさん、そして私、思わぬ共通項がいくつもあって、例えば無類の猫好きであること、おっちょこちょいな失敗が結構多いこと、他愛なく和やかな日々の話、その中で、お人形という有形なものを生み出す衝動やその工夫や喜びなど、創り手としての矜持、気概も、共感できる話題でした。
京子さんがイマジネーションを駆使して紡いでゆく物語が鮮明であればあるほど、その中で、主人公であるお人形は生き生きとその命を生きるのだと思いました。
創造とはそういう事なのでしょうね。
私の場合は言葉が対象となっているわけですが、同様の感覚の中にいると感じられます。

京子さんは『こもれびの詩』という<人形絵本>を出版されているのですが、私はこの本が大好きです。
美しく撮影された人形たちの写真が、生きているように瑞々しくそれぞれの表情を捉えています。
夏のティータイムを包んでいたのも、眩しい木々の木漏れ日でした。
人のご縁というものは本当に不思議なもの。
20年も前から一方的にファンだった方と・・・。
お嬢様のマリさんはお母様と同じ道を進まれて、お二人は良きパートナーとして、お互いの独自の世界を深め合っていらっしゃいます。マリさんはお人形作りに、イギリスで本格的に修得なさった刺繍の技術と手法を加えて、素敵な作品を沢山作っておいでです。
とても仲の良い母娘であると共に、肝胆相照らす相棒でもあるのですね。
情念とメルヘン
昨年暮れ、お二人からお人形をプレゼントして頂きました。
お人形に寄り添っているのは可愛い子猫。

「是非名付けて下さい」とのメッセージに応えて、女の子は「こまりちゃん」、子猫を「毬太郎クン」と命名しました。
可愛くて見惚れていたら、自然に子供の即興でたらめ歌みたいなメロディーと詩が浮かんできて、それがどうしても心から離れなくなり、ついに『こまりちゃんのティータイム』『おはよう毬太郎』という歌を作ってしまいました。
怪しげですが結構お気に入りで、気がつくと声に出して歌っています。勿論、門外不出ですが・・。
「同じお人形は決して作りません」
「どれもみな、世界に一体だけのお人形」というお言葉に感動します。
どんなに心を込めて、時間をかけて、作り上げていらっしゃるのでしょう。
日本人形でも西洋人形でも、「人形には魂が宿っている」とよく言われます。
リアルな人の形に、人の情も投影させているのでしょうね。
そういえば、市松人形やお雛様なども、歳月が経ったものほど、何か秘めたような奥深い表情が感じられる気がします。
西洋人形でも同様で、極端な場合には、「死んだ子供の生まれ変わりのよう」などという神秘的なお話に繋がってきたりもします。
仏師が最後に仏像に全身全霊をかけて命を吹きこむように、人形作家も、作品にかける思い、自らの情念のようなものまでも人形に込めようとする、そんな精神世界があるのかもしれません。
こういう一体一体の持つ圧倒的な個性、凄味は人形ならではの魅力、醍醐味と言えるのでしょう。
でも一方で、その対極に、できるだけ無色のまま、作り手から委ねられて受け手が自由にイメージを膨らませてゆくということもあるのではという気がするのです。
メルヘンの本質はそこにもまたあるのではと、・・・・我が家の「こまりちゃん」と「毬太郎クン」を見ながら、そんな人形私論に心を巡らせてみたのでした。

「おはよう毬太郎」を心地よく歌うことを許してくれる京子さんのお人形の愉しさを満喫しています。
「ドール ドール」というのは、米山京子さんのWEBサイトのタイトルです。
追記

数日前、こんな美味しそうなケーキのお人形をプレゼントして下さいました。
イチゴタルトとチョコレートケーキ、そしてそれを見ている可憐な女の子です。
ケーキを乗せている美しい刺繍のマットはマリさんの作品です。
見た途端、或るアイディアが閃きました。
実現したら、すぐにご報告致しますね。


