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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

「名付ける」ということ

   「平成」はあと二日です
 「平成」も後二日で終わり。
 年の瀬のような気分で、周囲を片づけてみたり、行く年を振り返ったり・・・。どことなく高揚感を感じています。
青葉京都2
 元号が変わるGW、皆様はどのような思いの中でお過ごしでしょうか。

 新元号が発表されてから、このひと月、新聞やテレビでも、「平成」を振り返る特集が多く組まれていますし、そんな映像を見たり、記事を読むにつけ、平成30年間の歩みが改めて思われます。

   元号発布のとき
 「平成」
 30年前、「平成」の元号が発表された時のことを覚えていらっしゃいますか。

 当時、私はボストンで暮らしていました。
ボストンの冬
 何気なくテレビを付けた時、JAPANの文字が突然大きく画面に現れ、昭和天皇崩御のニュースが流れました。
 昭和64年1月7日の事でした。

 それから、アメリカのテレビの海外報道の扱いとしては、類を見ないほどの長時間、昭和天皇の半生を伝えるドキュメンタリーが映し出されました。
 即位の時から戦争を挟んで現在までの軌跡を丹念に追って、キャスターたちも喪に服しながら、とてもしめやかに哀悼の意を伝えていました。
 きっと随分前から既に健康状態のことが伝わっていて、万一の場合に備えて周到に映像を準備していたのに違いありません。
冬のハーバード
 ここは日本なのではないかと錯覚するくらい、何度も繰り返しニュースは流れ、そして、この崩御のニュースを引き継ぐかのように、新元号の発表の様子も放映されました。

 喪服に身を包んだ当時の官房長官の小渕恵三氏が『新元号は「平成」であります』と、色紙に書いた文字を大きく掲げたのを、私は、ドキドキしながら、ボストンで目にしたのでした。
 <日本の元号というものは何であるのか>の説明をアメリカ人のキャスターが熱心に語っていましたが、どのような内容だったのか、残念ながら今ははっきりと覚えていません。
 ただ、「長く続いた自分たちの時代「昭和」が終わってしまったのだ」という喪失感がヒリヒリと心に沁み入ってきて、自分でもびっくりするくらいショックを受けたことを思い出します。
 「日本の大きな何かが終わってしまった」という、説明のつかない空虚な想いが溢れてきた気がします。
樹氷2

 異国で知ったから・・・・昼間でも外はマイナス10℃にもなるアメリカ東海岸の寒い1月、独りで迎えた新年だったから・・・なおさらだったのかもしれませんね。

 「平成」という文字にも響きにも、初めは大きな違和感がありました。
 過ぎた時代を噛みしめる暇もなく、次の時代はこうして当たり前のように始まるものなのかという戸惑いと共に、初めて元号というものの意味を思った時でもありました。
 でも人ってすぐ順応してしまうらしく、ほどなく「平成」は当たり前になりましたけれど。

 「令和」
 天皇退位という初めての状況の中で行われたこの度の新元号の発表は、多くの人の心に、30年前とは全く異なった感慨を生んだであろうと思われます。

 クリスマスプレゼントを開ける前の子供のように、じっと期待を膨らませて、発表を待つ、そんな盛り上がりがありましたね。


  万葉集から採ったという「令和」の文字。

    初春の令月にして 気淑(よ)く 風和ぎ

 美しいです。

 「万葉集は漢字で書かれているのだから日本の古典ではない」
 などという異論があると聞きますが、文化とは、様々な時代、様々な民族の積み上げてきた知的・物的遺産を継承し、影響・融合し合いながら更に成熟、結実してゆくものなのですから、その進化発展の固有な過程こそがオリジナリティーと言えるのではないでしょうか。

 万葉仮名は明らかに我が国独自の文化。
 繊細で美しい大和言葉を漢字で表記した創造性を、誇りに感じます。

 「令和」に込められた「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ」という大きな志を実現すべく、新時代のスタートを切りたいですね。

   「名付ける」ということ
 例えばイギリスが「ビクトリア王朝」というような呼び名で時代を認識するように、元号と似たような考え方は、他国にもあるとは思いますが、でも、現在、元号を西暦と併用し、実生活の中で共存させている国って日本だけなのではないでしょうか。
 他国との関係の中では、西暦で統一した方がわかりやすいということも事実ですが、西暦と使い分け出来る柔軟性って、とても素敵だと私は感じます。

 西暦は数字ですから、明快で効率的ではありますが、元号のようなその時代特有の彩りは望めません。

人は、名付けられることによって、その人としての輪郭を鮮明にするように、 「明治」「大正」「昭和」「平成」、それぞれの元号に、それぞれの時代に生きた人々、歴史の空気、物語が見えてくるのではないでしょうか。
 独自な色合いが、元号で名付けられることによって浮き上がってきます。
青葉京都1
  父母の時代、祖父母の時代、曾祖父母の時代を感じながら今を生きることが、文化を受け継ぐということなのではないかと思うのです。

 「令和」と名付けられた時代を、共に生きてゆく私たちが、今度はどのような足跡を残して行くのでしょう。

 そんなことを考えて過ごす休日です。




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桜満開(三) 桂昌院のしだれ桜

 「それは何と言っても、桂昌院様お手植えのしだれ桜が、京都では一番の桜と違いますか」
という言葉を生粋の京都人(3代100年程度ではまだまだよそ者、到底京都人としては認められないとよく言われます)の何人かの方から伺ったことを思い出して、では今年の桜の締めくくりは、遠出をし、桂昌院ゆかりの古刹、善峯寺(よしみねでら)にしようと決めました。
 まずは桂昌院についての予備知識から。

   桂昌院について
 5代将軍、徳川綱吉の生母である桂昌院の出自は京都。
 京都の社寺を巡ると、「桂昌院ゆかりの」とか「桂昌院寄進の」とかの縁起をよく目にします。
 絶大な権勢を誇り、「生類憐みの令」の影の立役者とまで言われて歴史にその名を留めていることは周知の通りです。
 悪評高い「生類憐みの令」ですが、世界初の動物愛護令であり、実は儒教に基づく文治政治の一環であり、その目指すところは、むやみな殺生を戒め、平和を希求するものであったのだと、近年その真価が見直されてきています。

 数奇な運命を辿った女性、桂昌院の若き日の名は「玉」、「玉の輿」は桂昌院のシンデレラストーリーから生まれた言葉とよく言われます。

 善峯寺寺伝によると
 「寛永4年(1627)京都堀川に生まれて、6歳の時に義兄善峯寺成就坊賢海の許にて母の栄女とともに同居されます。後に師父宗正の許に帰り13才で父を亡くします。正保元年(1644)継母お蒔女の紹介により、春日局に従い江戸に下り、徳川家に仕えます。これより幼名お吉をお玉と改めます。

 彼女の実家については西陣織屋、或いはかなり貧しかった八百屋、畳屋、等諸説伝わっており、京都にもそれらしい生誕の地がいくつも名乗りを上げているものの、信義は未だ定かではないようです。
 
 そんな桂昌院の「お手植えのしだれ桜」を訪ねて、善峯寺に向かいました。

   雨の西山善峯寺
 最寄駅は、阪急 東向日駅、ここから徒歩2時間約7キロの急な山道を延々と登り続ける覚悟だったのですが、幸い一時間に一本だけのバスに乗ることが出来ほっと一息。ずっと上天気が続いている中、この一日だけが冷たい雨降り。
バスの窓から
午後からは雨もやむという天気予報に、森閑とした西山の険しい斜面に立つ善峯寺に降る雨の中のしだれ桜も格別なのではと、酔狂な興味から出かけたのですが、バスに乗っていてさえも心細くなるような暗い空と寂しく険しくなる山道。窓を雨が濡らします。

 バス停を降りて、15~20分位、雨の参道(山道)を登り、ようやく山門が見えてきました。
到着 山門

しだれ桜
辺りは靄がかかったような幻想的な雰囲気、遠く見る山々、京都の街の遠景が水墨画のように墨色の色合いを感じさせますが、でも100本以上あるという桜の薄いピンクが柔らかさを添えます。
白山桜苑2


彼岸桜、枝垂れ桜、牡丹桜、・・・それぞれの個性が全山を彩っていました。

遊龍1

 「遊龍の松」と名付けられた天然記念物の五葉松。全長37mで日本一の松なのだそうです。一枚の写真にはどうしても収めきれませんでした。
本堂



「本堂」をお参りする頃、雨脚が突然強くなって、カメラのレンズを濡らします。「桂昌院廟」へ。

桂昌院廟への石段


 京都の街が一望できる高台に桂昌院廟(墓地)があります。
 幼少の頃、母と暮らした善峯寺、こんな険しい山寺を、彼女は江戸城で権勢を誇ってもずっと想い、ここに眠ることを望んだのですね。

 寺伝にこのような説明もあります。
 徳川綱吉の外祖父、桂昌院の父である本庄氏が当山の薬師如来に一女子を得ることを祈願するとすぐに女の子が生まれ、この子が後に転じて将軍の侍女となり、徳川家光の寵愛を得て綱吉を産み、家光薨去により桂昌院と号されます。桂昌院はこの出生の報恩を謝して、伽藍を改建して諸器什物を寄付し、またしばらく綱吉より寺封(資金補助)が出されました。
桂昌院廟
 桂昌院廟に桂昌院の詠んだ次のような歌が記されていました

  たらちをの 願いをこめし 寺なれば
  われも忘れじ 南無薬師仏
        (注 たらちを=父)
厄除けの鐘

貞享4年(1687)桂昌院によって寄進された「厄除けの鐘」。

元禄4年(1691)桂昌院は全山の伽藍を改建されました。
現存の鐘楼・観音堂・護摩堂・鎮守社・薬師堂・経堂は、桂昌院によって寄進復興されたもの、また綱吉と桂昌院により『四季繁昌絵巻』、「如法三衣」、「梨子地葵・繋九目紋蒔絵膳具」をはじめ、百点を超える幾多の貴重な什物が寄進されました。これら文化財の一部は文殊寺宝館に展示しています。

経堂多宝塔 霧に包まれる
桂昌院廟を降りると、手前に「多宝塔」そして「経堂」、経堂に添うように、樹齢300年と言われる桂昌院お手植えの「しだれ桜」が見えます。
     手植えの桜
白山桜苑

 「白山桜あじさい苑」と名付けられた散策道を眼下にして。

 霧雨に変わって、しっとりと靄をけぶらせていました。
馬酔木

道端の馬酔木。

歴史を包み込むように、季節を巡らす美しい雨の日の古刹です。





   日差しの中の西山善峯寺
 翌日は上天気。
 晴れた日も行ってみなければと、何故か張り切ってしまいました。
 再び、今度は山道ハイキング。

  <鐘楼で>
鐘つき

 「撮りましょう」とお庭の手入れをしていらっしゃる方に声を掛けられて。

 美しい梵鐘が全山に響き渡ります。


  <再び桂昌院廟>
桂昌院廟晴れ 京都の遠景
 光を受けると印象が変わります。春霞の中に京都の町並みが。春爛漫。

  <お手植えのしだれ桜 桜と楓の共演>
 陽を受ける桜はやはり格別です。
枝垂桜晴れ 根元
 昨日は気づきませんでしたが、根元を見ると、桜と楓の幹が絡み合って合体木となっていて、自然の妙を感じます。楓の葉も、もう少しで開きます。

 一隅に据えられていた歌碑には
 「春ははな 秋はもみじのむすび木は この世のしやわせ めでたかりけり」
 と記されていました。
歌碑 桜と楓

  <白山桜あじさい苑>
  白山苑2
 艶やかに咲く桜 桜
 今年の花便りの最後を飾っています。

  <オマケ>
 善峯寺のHPに平成11年(1999年)に放映されたJR東海のCMが掲載されていました。キャッチフレーズは
「ここの桜のように一年でたった一回でもいい。人をこんなにも喜ばせる仕事ができればなんて思いました。」

 心憎い言葉です。
 映像も美しいので、よろしければご覧ください。
    



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桜満開(二) 京都の街は

  京都の街は 桜が良く似合う
  京都の街は 至る所に桜がある
  京都の街は 今 桜に染まっている

 「達人夜話」のあった4月6日に一気に花開き、それからずっと麗らかな桜日和なのです。
 京都の街は 今 桜色
 桜ってじっと見ていると、取り憑かれていくような奇妙な気分になりますね。
 古くから「物狂いの花」と恐れられるのが何だかわかる気がしてきました。
 
 今日は京都の桜のフォトレポートです。

   <日仏学館(アンスティチュ・フランセ関西)からスタート>
 9日(火)が春学期の初日でした。
 毎年、この時期はもう葉桜になっているのに、今年はまさに今、真っ盛り。
 朝の光の中、青空に淡い桜色が殊の外清々しく感じられます。
日仏1   日仏2
 屋根にはためくフランス国旗とのコントラスト。
 桜行脚の始まりです。

   <白川沿いを行く>
 日仏学館のある百万遍から、ひたすら歩いて白川筋まで。

 サスペンスドラマによく出てくる、京都で有名なロケ地といえば、「南禅寺山門・水路閣」、「東福寺通天橋」、そして「白川のこの小さな橋(一本橋というのだそうです)」の三か所がまず挙げられるのではないでしょうか。
白川ロケ地
 他の二か所が、大抵は犯人を追いつめたり、犯行の告白をしたりする緊迫した場面であるのに比べて、白川は事件が一件落着、しみじみと事の顛末を語り合うエンディングなどに出てくることが多いですよね・・・・柳が柔らかく揺れて、静かな佇まいを見せていました。

人力車
 そのまま白川に沿って祇園に向かいます。

 祇園巽橋付近の賑やかな人並、さすが人気のお花見スポット、人力車、着物姿の女性達、観光客で溢れていました。


吉井勇碑
 吉井勇の歌碑。
 かにかくに祗園はこひし 寝るときも 枕の下を水のながるる
 
 この歌は桜の季節に味わうのが、一番しっくりくる気がします。
 祇園を愛して、艶やかな歌を多く残した吉井勇ですが、同時代を生きた同じ明星派の歌人、与謝野晶子の歌が重なって思われます。

  清水へ祗園をよぎる桜月夜 こよひ逢ふ人みなうつくしき

更に彼女の恋人であり後に夫となった与謝野鉄幹の、返し歌のようなこんな詩の一節。

   祇園の桜散りがたに ひと夜の君は黒瞳がち 
   上目するとき身にしみき


 祇園の桜は、こんなに艶めかしくもあります。

   <高瀬川 一の船入>
 高瀬川は、角倉了以が鴨川の水を引いて開いた運河ですが、この川で用いた舟を高瀬舟と呼んでいました。
一の舟入
 高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞いをすることを許された。それから罪人は高瀬舟に乗せられて、大阪へ廻されることであつた。

 鴎外の『高瀬舟』の冒頭ですが、当時の高瀬舟が川の起点である木屋町二条、「一の船入」に復元されて、ゆったりと往年の姿を伝えています。

 桜に包まれた川沿いの風情が、時間を遡って、遠い夢に誘い込んでいるような気がしました。

   <鴨川を北上>
鴨川を北上
 四条大橋から見る鴨川は、川辺で遊ぶ人たちでいつも賑わっていますが、二条辺りまで来ると、人の姿もまばらになり、穏やかで静寂な春の風情が開けてきます。


水の流れ、川岸の雪柳。
鴨川の水1 雪柳

   < 岡崎 絢爛と咲く桜 桜 >
 さて、翌日。
 所用の合間、岡崎辺りを歩いてみました。

平安神宮の朱塗りの門は、やはり桜に映えます。
平安神宮 十石舟
 南禅寺舟溜りから夷川ダムまで、琵琶湖疏水を運行する十石舟が行き交っています。
 毎年大人気のこの時期限定のイベントです。
山桜

 この辺りの桜はしだれ桜、紅しだれ、ソメイヨシノ、八重桜、様々に混ざり合っていて、美しいグラデーションを見せてくれます。
 山桜も光に映えて。

インクラインに沿って流れる疏水、水しぶきが桜を呑みこんでしまいそうです。
  インクライン  流れる水

   <毘沙門堂 「毘沙門しだれ」満開>
 更に昨日。週末の喧騒を逃れて山科まで足を延ばし、天台宗 京都五門跡の一つである毘沙門堂を久しぶりに訪れました。
 平安の頃から桜の名所で知られ、藤原定家も『名月記』に毘沙門堂の花見の事を綴っています。

 宸殿前の「毘沙門しだれ」。
毘沙門堂3 桜とツツジ2
桜と山ツツジが共に咲いて、次の季節を受け渡しているかのように見えました。

修復されて鮮やかな朱塗りが桜と映える毘沙門堂
毘沙門堂2 八重椿
 そしてひっそりと季節を終えてゆく八重椿。

春爛漫



 春、まさに爛漫です。











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桜満開(一) 「綾音 達人夜話」第4夜

   高瀬川の桜
 4月6日(土)、「綾音 達人夜話」第4夜、無事終了致しました。
 思えば、昨年4月7日に第一夜がスタートし、四季を追って様々なゲストの方と楽しくお話を交わしてきました。
 第一夜も桜満開の中でしたし、そして今回の締めくくりも高瀬川を飾る美しい桜に包まれていました。

俯瞰
 余りにも麗らかな陽射しで、格好のお花見日和でしたので、少し早めに家を出て会場に向かいました。 

 眩しい光の中で咲き誇る桜。



 お花見の人達で賑わう四条通りを縫うように歩き、木屋町通りに出ます。
 高瀬川に沿って桜。
高瀬川2 高瀬川3

高瀬川1
 高瀬川は角倉了以・素庵親子によって開削された人工の川、全長約11㎞の運河です。二条大橋の南で鴨川から取水し、木屋町通り沿いの西側を南下し、やがて再び鴨川に合流。

 水深が約30㎝の浅瀬ですが、流れが澄んで美しく、白鷺や鴨がゆったりと遊び、美しく木々の影を川底に映しています。
ギャラリー前

 会場のギャラリー「四季AIR」の前に到着しました。




   ケーキのお人形を飾ってみました
ケーキ人形 (1)
  既にご紹介したケーキのお人形たちですが、演台に並べてみました。
 パティシエの西原さんとの対談にエールを送ってくれているようで、とても可愛らしく、お客様からも「美味しそう!」の声が。
 西原さんのお店の絶品「伝説のアップルパイ」のお話も熱く語りましたので、一番人気はアップルパイのお人形だったかもしれません。
松峰綾音

 会場の設えをしながら一枚。

 実は、気がついたら、ゲストとの対談風景も撮り損ね、この日はご紹介できる写真が殆どありませんでした。


   「食育」について
 満席の参加者、和気藹々とした、そして期待に満ちた雰囲気の中で、パティシエ 西原金蔵さんとの対談が始まりました。
 おおらかで温かいお人柄、ソフトな語り口でいらっしゃるのですが、そこから溢れ出る誠実さと、毅然と揺るぎない信念・自信、それらに裏打ちされたお話の一つ一つが胸に沁みてきました。
 あっという間に定刻の80分が過ぎて・・・・沢山ご紹介したいお話はあるのですが、「食育」についての次のような言葉が特に心に残りました。

 今、お菓子に関わる仕事についていることの根底には、一つには幼少の頃に受けた「食育」があるのではないかと思います。
 兼業農家だったので、その季節の収穫をいつも食べさせてもらっていました。
 初物を食べるときには、必ず作物の出来不出来などの話題が食卓に上りました。何が美味しいのか、どのように美味しいのか、家長であるおじいちゃんの話してくれる、食べ物への様々な受け止め方が、自然に心に入っていたのかもしれません。
 食べるということへの基本的なマナーや、味覚の感じ取り方や、それをいかに表現するかといった、自分にとっての「味覚の土台」の形成だった気がします。
 子供の頃の思い出としては、おばあちゃんが年に数回作ってくれた「岩おこし」の美味しさ、「おこし」といっても少し柔らかく何とも言えない甘さで、お菓子に惹かれた幸せな原体験になっています。

 もう一つ。
 フランス留学で出会ったアラン・シャペル氏から学んだ「食育」が、現在の自分のベースになっていると言って過言ではありません。
 「ルセットを超えるもの」ということ・・・・ルセットとは、調合(レシピ)のことですが、お菓子は科学と言われるぐらい、「決められたことを決められたように再現するというのがお菓子作りである」という考え方がベースにあります。アラン・シャペル氏は「ルセットを超えるもの」という料理哲学を持っておられたのです。
 シャペル氏からは「その基本から抜け出せなければルセットを超えることはできない」と、いつも言われました。
 いつもその時その時の最高の素材を見つけ、その素材を生かし得る最高の方法を探ってゆくこと。
 自然体で自分が真に美味しいと思えるお菓子を作ること。
 食べ物の中にある思い出を大切にすること。
 そんな多くの事を彼から学んだのです。

 誰のために作るのか。その人のためにどういった食材がいいか、どのように
して、良い素材を手にするのか。食べてもらう人と時をいつも意識して、食材に向き合う、厨房にある西原さんの真摯な眼差しが浮かんでくるようでした。

 お祖母様の作って下さった「岩おこし」の飛び切り美味しい幸せな味をきっとずっと楽しく想い描きながら、お菓子に挑戦していらっしゃったのでしょうか。
 「食べ物の中にある思い出を大切にする」ということは、そういう「幸せ」を再現することなのでしょうか。
 「こうするともっと美味しくなるかもしれない」・・・・ワクワクするような好奇心、探究心と、素材への愛情、供する相手への愛情が、お菓子作りのエネルギーの源になっているのだと感じました。

 対談は多岐に渡り、途中シャンソンの話に言及して、歌も披露しながら進めていきました。
 すべてをご紹介できないのは残念ですが、素敵な4月の夕べとなりました。

 
 「言葉を超えるもの」をメインテーマとした、この「綾音 達人夜話」のシリーズを終えるにあたり、今、思うのは、究極的には、あらゆるジャンルに「共通するもの」があるのではという事です。

 ・・・食べ物であろうと、言葉であろうと、音楽であろうと、哲学、演劇、・・・・あらゆる素材において、その奥にある「目には見えないもの」、でも「生き生きと輝き続け躍動するもの」を掬い出す、対象への慈しみをベースとした柔軟で創造的なエネルギーこそが、真に良きものを見出だし、生み出すのではないかと。
 そして更にそのベースに、揺るぎなく立つ自分(風土、育ち方、習慣、歴史、感受性、人としての真の教養、などに裏打ちされていくのでしょうけれど)があることが大切なのではないでしょうか。
 「グローバル」であることの本当の意味を、考えることのできた貴重な経験に改めて感謝しています。
西原金蔵
 
 写真は夜話が終わった後のワインパーティーで。

すっかりリラックスしたツーショットです。

帰路に向かう道。
夜桜、水面に映る桜花、白く浮かび上がる花びら。
    夜桜花筏

   桜の季節が、今、美しく流れて行きます。



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