
今日はとても残念なお知らせをしなければなりません。
京都 四条河原町の老舗シャンソニエ「巴里野郎」が突然閉店することになりました。
一昨日の夜、虫の知らせだったのでしょうか、何となく気になって巴里野郎のWEBを開いてみたら、お店閉店のお知らせが目に飛び込んできました。
記事がUPされたのは、5分前の事、もしかしたら、WEBで知ったのは私が一番早かったのかもしれません。
2013年の閉店から
思えば、2013年の2月に「巴里野郎」の創設者、初代オーナーの宮本宰完氏から4月一杯で閉店のお知らせを受けたのが最初でした。
シャンソンの殿堂ともいうべき老舗名門シャンソニエ『銀巴里』も閉店となり、次々とシャンソニエの灯が消えてゆく時代の流れの中でのことでした。
巴里野郎とご縁ができたのは、その前年だったかと思います。
その頃はもう宮本オーナーはお身体を崩されて、ご自宅で療養しておいでの頃でしたが、閉店のお知らせに強い喪失感を感じたことを思い出します。

関西のシャンソンの草分けであった名店の終焉を惜しむ声、存続を願う声も、様々なところで湧き上がっていました。
閉店前の1か月間は、巴里野郎30周年を兼ねた記念月間として、様々な方が別れを惜しんで歌われましたが、私もその中でコンサートを持たせていただきました。
宮本オーナーの武勇伝はそれまでにも色々なところで耳にしていました。
30年前に本場のシャンソニエを訪れた時の感動から、日本にも本格的なシャンソニエをという志のもと、ご自身の生年の1953年にレオ・フェレによって作られた曲『パリ・カナイユ(巴里野郎)』にちなんで『巴里野郎』をオープンさせたのだと伺っています。
2013年4月末日に閉店したのですが、どうしてもこの灯を受け継いでいきたいと願う関係者の思いの中で、同年5月に、急遽、現オーナーの藤本氏がそのまま店を引き継ぐこととなって、紆余曲折を経て、その一年後、ピアニスト坂下文野さんに経営上の責任をバトンタッチされたという経緯があったのです。
(宮本氏がご病気でお亡くなりになられたのもちょうどこの時期でした)
それから、6年間、坂下さんが、全力をかけて、巴里野郎を大切に守り支えていらした日々を傍らでつぶさに拝見していました。
私は奇しくも不思議なご縁の中で、巴里野郎の二度の閉店を身近に見ることになったわけです。
坂下さんが、コロナウイルスの脅威の中で、どれだけ悩み、苦渋の選択をなさったのかと思うと言葉もありません。
坂下さんの6年は、私にとっても、彼女と、巴里野郎と、共にあった6年でした。
初代宮本オーナーの想いが現在まで引き継がれたように、ウイルス感染が収束したのち、また再び、どのような形でか、巴里野郎の魂が復活しますように。
皆が肩を寄せ合いながら、共にシャンソンを心から楽しめる日が訪れることを今はただ願うばかりです。

写真は、7年前に当時の宮本オーナーが写メで私に送ってくださった写真です。
巴里野郎のステージの立ち位置なのですが、多くの歌手たちがここで歌って擦り切れてしまった床。
「一番ライトが綺麗にあたる場所です これからのために・・・」との言葉が添えられてありました。
閉店のご挨拶
坂下さん、これまで6年間 本当にありがとうございました。
そして共有させて頂いたたくさんの時間に 心から感謝いたします。
しばし 心身を休めて力を蓄え 次なる飛躍に共に向かっていきましょう。
巴里野郎のWEBに掲載された坂下さんの文章をそのままここに載せたいと思います。
みなさま、お変わりございませんか。
いつも、巴里野郎を支えてくださり、ありがとうございます。

この春のコロナウィルスの蔓延、暖かくなったら落ち着くかと思っていましたが、四月に入っても状況はますますひどくなり、先が見えない状況です。
どんな形でもお店を開けたい。三月まではそう思っていました。
でも、それはお客様を、出演者を、スタッフを危険にさらしてしまう。
いつになったら安全にお客様をお迎えできるのか。
出演者の皆様に、安心してお声かけできるのか。
堂々と公演の告知をすることができるのか。
答えを探そうと、日々あふれるニュース、
コロナウィルスとの戦いに関する さまざまな情報の中で 悩んでまいりました。
その間にも 受け取る寂しい連絡、数々の貸切のご予約のキャンセル。
この春はもちろん、秋10月のご予約さえ、キャンセルが出てしまいました。
しかし、悩んでいる間も営業できずともお家賃、JASRAC、その他いろんなお支払いがあり、、大家さんとも相談の結果、今月末で巴里野郎の営業に終止符をうつこととなりました。
今まで6年間、多大なお力添えをいただいた皆々様へ心より御礼申し上げます。
関西にも緊急事態宣言の出ていることをふまえ、お別れのライブや集まりができないことをお許しください。
坂下文野
京都 四条河原町の老舗シャンソニエ「巴里野郎」が突然閉店することになりました。
一昨日の夜、虫の知らせだったのでしょうか、何となく気になって巴里野郎のWEBを開いてみたら、お店閉店のお知らせが目に飛び込んできました。
記事がUPされたのは、5分前の事、もしかしたら、WEBで知ったのは私が一番早かったのかもしれません。
2013年の閉店から
思えば、2013年の2月に「巴里野郎」の創設者、初代オーナーの宮本宰完氏から4月一杯で閉店のお知らせを受けたのが最初でした。
シャンソンの殿堂ともいうべき老舗名門シャンソニエ『銀巴里』も閉店となり、次々とシャンソニエの灯が消えてゆく時代の流れの中でのことでした。
巴里野郎とご縁ができたのは、その前年だったかと思います。
その頃はもう宮本オーナーはお身体を崩されて、ご自宅で療養しておいでの頃でしたが、閉店のお知らせに強い喪失感を感じたことを思い出します。

関西のシャンソンの草分けであった名店の終焉を惜しむ声、存続を願う声も、様々なところで湧き上がっていました。
閉店前の1か月間は、巴里野郎30周年を兼ねた記念月間として、様々な方が別れを惜しんで歌われましたが、私もその中でコンサートを持たせていただきました。
宮本オーナーの武勇伝はそれまでにも色々なところで耳にしていました。
30年前に本場のシャンソニエを訪れた時の感動から、日本にも本格的なシャンソニエをという志のもと、ご自身の生年の1953年にレオ・フェレによって作られた曲『パリ・カナイユ(巴里野郎)』にちなんで『巴里野郎』をオープンさせたのだと伺っています。
2013年4月末日に閉店したのですが、どうしてもこの灯を受け継いでいきたいと願う関係者の思いの中で、同年5月に、急遽、現オーナーの藤本氏がそのまま店を引き継ぐこととなって、紆余曲折を経て、その一年後、ピアニスト坂下文野さんに経営上の責任をバトンタッチされたという経緯があったのです。
(宮本氏がご病気でお亡くなりになられたのもちょうどこの時期でした)
それから、6年間、坂下さんが、全力をかけて、巴里野郎を大切に守り支えていらした日々を傍らでつぶさに拝見していました。
私は奇しくも不思議なご縁の中で、巴里野郎の二度の閉店を身近に見ることになったわけです。
坂下さんが、コロナウイルスの脅威の中で、どれだけ悩み、苦渋の選択をなさったのかと思うと言葉もありません。
坂下さんの6年は、私にとっても、彼女と、巴里野郎と、共にあった6年でした。
初代宮本オーナーの想いが現在まで引き継がれたように、ウイルス感染が収束したのち、また再び、どのような形でか、巴里野郎の魂が復活しますように。
皆が肩を寄せ合いながら、共にシャンソンを心から楽しめる日が訪れることを今はただ願うばかりです。

写真は、7年前に当時の宮本オーナーが写メで私に送ってくださった写真です。
巴里野郎のステージの立ち位置なのですが、多くの歌手たちがここで歌って擦り切れてしまった床。
「一番ライトが綺麗にあたる場所です これからのために・・・」との言葉が添えられてありました。
閉店のご挨拶
坂下さん、これまで6年間 本当にありがとうございました。
そして共有させて頂いたたくさんの時間に 心から感謝いたします。
しばし 心身を休めて力を蓄え 次なる飛躍に共に向かっていきましょう。
巴里野郎のWEBに掲載された坂下さんの文章をそのままここに載せたいと思います。
みなさま、お変わりございませんか。
いつも、巴里野郎を支えてくださり、ありがとうございます。

この春のコロナウィルスの蔓延、暖かくなったら落ち着くかと思っていましたが、四月に入っても状況はますますひどくなり、先が見えない状況です。
どんな形でもお店を開けたい。三月まではそう思っていました。
でも、それはお客様を、出演者を、スタッフを危険にさらしてしまう。
いつになったら安全にお客様をお迎えできるのか。
出演者の皆様に、安心してお声かけできるのか。
堂々と公演の告知をすることができるのか。
答えを探そうと、日々あふれるニュース、
コロナウィルスとの戦いに関する さまざまな情報の中で 悩んでまいりました。
その間にも 受け取る寂しい連絡、数々の貸切のご予約のキャンセル。
この春はもちろん、秋10月のご予約さえ、キャンセルが出てしまいました。
しかし、悩んでいる間も営業できずともお家賃、JASRAC、その他いろんなお支払いがあり、、大家さんとも相談の結果、今月末で巴里野郎の営業に終止符をうつこととなりました。
今まで6年間、多大なお力添えをいただいた皆々様へ心より御礼申し上げます。
関西にも緊急事態宣言の出ていることをふまえ、お別れのライブや集まりができないことをお許しください。
坂下文野


