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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

『五月のパリが好き』

訳詞への思い 昔の写真、よく聴いた音楽、愛読書など、久しぶりに味わい直しています。
 写真の整理をしていると、映画みたいにその時の映像がフラッシュバックしてきますし、夢中になって読んだ本、昔々涙ぐみながら聴いていた音楽に、その時々の感情の渦みたいなものがそのまま、突然、時を超えて沸き起こってきたりします。
 この際だから、整理をと思っても、捨てるかどうかの判断は、まずは、埋もれていたものを呼び起こす作業から始まるのでしょう。
 新鮮な発見もありますし、片づけるつもりが、懐かしんでは結局そのまま仕舞い直すことの多い家籠り、時を辿りながら少し感傷的になっている私の五月です。

 7年前のパリ旅行の写真を見ていました。
 その時に作った訳詞、『五月のパリが好き』を、今日はご紹介します。


    『五月のパリが好き』

                        訳詞への思い<33>

   「さつきのきさきを」
 嘗て、カトリック系の女子校で教育を受けたこともあって、今でも聖歌(讃美歌)の数々がふと口をついて出てくることがある。
 特に、五月は「聖母マリアの月」、こんな歌を思い出す。
 (蛇足だが、当時の歌詞はすべて文語体だった。意味が分からないと良くないということで、途中から口語体に歌詞が変わったが、よくわからなくても文語のほうが格調高く、ありがたい気がしたように思う。)

  あおばわかばに 風かおりて
  せせらぎにきく 奇(く)しき調べ
  木陰に立てる とわのみはは
  御許(みもと)に行き われら憩わん


 そしてこんな曲も。

  五月(さつき)のきさきを あめつち歌う
  ひと年(とせ)めぐりて 百合咲く季節
  マリア祝しませ 祝せられませ

 
 白百合は、どの時代の《受胎告知》の絵画にも描かれているほど、ヨーロッパにおいて古くから聖母マリアと結びついた花、純潔無垢、気高さの象徴であり、そして希望に満ちた春という季節の到来を告げる花でもある。

 『千曲川旅情の歌』の「浅くのみ春は霞みて 麦の色微かに青し」ではないけれど、日本において、春の訪れは、まだ目には定かに見えていない浅春の淡い予感にこそあるのだろう。
 冷気の中に膨らむ木々の蕾であったり、残雪の中からそっと芽を出す野草であったりするけれど、フランスの春は、まさに5月、一斉に鮮やかに咲き乱れる薔薇や白百合の情景そのものである。

恋人たち
 『五月のパリが好き(J’aime Paris au mois de mai)』という曲は、アズナブールのこの曲を歌う時の佇まいと相まって、街行く女性に声をかけて歩く伊達者の曲のように思われている節があるが、実は、リラやスズランが運んでくる春の訪れ、花で溢れた美しいパリへの大らかな賛歌なのだと私は感じている。

   『J'aime Paris au mois de mai』 
 『J'aime Paris au mois de mai(五月のパリが好き)』は、シャルル・アズナヴール(Charles Aznavour)作詞、ピエール・ロッシュ( Pierre Roche)作曲、1956年にアズナブールによって歌われ大ヒットした曲である。

 日本でも「素敵なパリの街に スズランの花が揺れ リラが花咲けば」という山本雅臣氏の訳詞で良く知られていて、5月のシャンソンの代表曲といえよう。
 マロニエ
 5月の初旬から中旬にかけてのパリは、まさにマロニエの花真っ盛りだった。

 ふっくらとした白い花をつける、マロニエの並木の下に、はらはらと白い花びらが舞って、何とも言えない素敵な風情があったのを思い出す。

 その時の情景をデッサンするような心持ちで、日本語詞を作ってみた。

   J’aime この街の中 続く石畳
   どこまでも いつまでも 歩いていたいと 思う
   マロニエの木陰の道
   白い花びら 受けたら 生まれ変われる気がする
   J’aime 五月のパリは 良い  
                        (松峰 日本語詞)

  

 そして、3番の歌詞には、セーヌ川河畔の風景が描写されている。
ブックスタンド 春になると、一斉に河岸に古本の露店や水彩画家たちの姿が見られるようになる。春に誘われて、ブキニストと呼ばれる古本市が岸辺に立ち並ぶのも、この季節ならではのセーヌの風物詩でもある、
移動式露店で、いくつもの緑の大きな箱を固定し、そのふたを開くと古本屋に早変わりする仕組みになっていることを初めて知った。
16世紀の頃から変わらぬ情景が自然の風景と溶け合って、パリの春を作ってきたのだろう。そういう5月という季節のノスタルジーが描かれているのだと感じる。
セーヌ川の恋人 京都とパリは姉妹都市で、風景や街のあり方が似ているとよく言われるが、露天商こそないものの、ゆったりと流れる鴨川の河畔を散策する人たちや、腰を下ろして語らうカップルの姿など、セーヌ川岸辺の情景に重なって見える。
 河のある街は、河を抱えながら、河を中心に、息づいている。

   『五月のパリが好き』
 この旅行で出会った一人の男性がこの歌に登場してくる。
 これは原詩にはないので、勝手に私が書き加えた創作だ。
 訳詞は、本来、原詩通りに忠実に訳すべきであるが、原詩の心や風景がよりリアルに伝わるなら、あえて、イメージを自由に広げる場合があってもかまわないのではと、私は考えている。

 生き生きとしたパリの街の臨場感を伝えたかった。
一服
 早朝、街を散策していた時、お洒落な花屋の前に出くわした。
 中から色とりどりの薔薇の花束を抱えた店主らしき男性が出てきて、ウインドウに素敵にディスプレイを施し、そのあと石段に腰掛けて、大きく息を吐き、タバコに火をつけ、いかにも美味しそうに一本をふかした。
 その様子がとても爽やかで素敵で、思わず見とれてしまったのだが、どうしても留めたくて、遠巻きにシャッターを押してみた。
バラの飾りつけ
 彼は、ふっとこちらに気付いてにっこりと綺麗な笑顔で挨拶してくれた。

 その後、何気なくかわした幾つかの会話が楽しくて、頭の中で、彼を主人公にちょっと良い物語を作っていた。

 その彼が出てくる2番の歌詞は下記のようである。
                   
   J’aime Paris au mois de mai
   眩しい光の中 花屋の店先に 
   薔薇の香りが漂い 朝が目覚めて行く
   J’aime Paris au mois de mai
   腰下ろしタバコふかし カフェは賑やかに
   一日が また 始まる

   J’aime 人ごみの中 陽気な噂話
   このままで いつまでも 過ごしていたいと 思う
   街を行く 娘たちと
   微笑み交わす時 優しくなれる気がする
   J’aime 五月のパリは 良い

              (松峰 日本語詞)

  
コンコルド広場
 コロナ禍の今、パリはどんななのだろうか?
 あの男性は変わらずにいるのだろうか?

 自粛中の我が家に、いつも大好きな薔薇の花を飾りながら、懐かしく思い出している。

                                    Fin

(注 訳詞、解説について、無断転載転用を固く禁止します。取り上げたいご希望、訳詞を歌われたいご希望がある場合は、事前のご相談をお願い致します。)

  
 シャルル・アズナブールの歌う原曲です。お楽しみください。



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『ウイスキーをヴィシーに』

訳詞への思い 自宅で自粛のGW
 ウイルスが収束して、自由に動けるようになったなら、出かけたいと思う所がたくさん出てきました。
 京都市街から比較的近い大山崎の、サントリー山崎蒸留所も、その一つ。

山崎蒸留所
 

サントリーウイスキーのCMソング、「ウイスキーはお好きでしょ」

   ウイスキーはお好きでしょ
   もう少し 話しましょ


 という歌い出しで、よく知られている曲ですが、石川さゆりさんが歌って大ヒットした後、様々な歌手によってカバーされています。

 シャンソンの中でもお酒を歌った曲は色々あるのですが、今日は、「訳詞への思い」、『ウイスキーをヴィシーに』を取り上げてみようかと思います。
 

     『ウイスキーをヴィシーに』

                           訳詞への思い<32>

   『Du whisky au vichy』
 作詞Claude Lemesle(クロード・ルメル)、作曲Alain Goraguer(アラン・ゴラゲール)、1977年にSerge Reggiani(セルジュ・レジアニ)によって歌われた曲である。
セルジュ・レジアーニ
 原題の『Du whisky au vichy』は「ウイスキーからヴィシー水へ」の意味だが、この曲は既に、『ウイスキーが水に』の邦題がつけられ、高野圭吾氏の訳詞で広く歌われている。

 ただ、『ウイスキーが水に』というこのタイトルには、ウイスキーが突然変異で水に変わってしまった、あるいは、いつの間にか氷が溶けて殆ど水になったというようなイメージが伴い、原題の本来の意味からすると、少し離れているという感じがしてしまう。

  De minuit à midi Du whisky au vichy
  (真夜中から正午まで ウイスキーからヴィシー水まで)

 曲中のサビとして何回も繰り返されているこのフレーズだが、「ウィスキーを呑んでいた夜の時間から、やがてヴィシー水に飲み代えた朝へと時間が移り」という意味なのだと思う。

  「ウイスキー」について。
 ウイスキーは、1494年、スコットランドで、“アクアヴィテ”が製造されたのが起源だという。
ウイスキー
 麦芽を原料にした蒸留酒を、ケルト語でウスケ・ボー「生命の水」と呼んだのが、ウイスキーの語源であるとのこと。
 友人曰く、「水割りでもロックでもなく、ゆっくりモルトを傾けるのが通」

 映画にでも出てきそうで、カッコ良いと思うけれど、私自身はアルコールが全くダメなので、その美味しさがわからないのが残念だ。

  「ヴィシー水」について。
 フランスで普通に愛飲されている「ヴィシーセレスタン」という天然微炭酸水を指している。
ヴィシー水
 ペリエとかエビアンのようなお洒落感のあるナチュラルミネラルウォーターで、オーヴェルニュ地方にあるヴィシーの街の産物である。

 「ウイスキー」や「ヴィシー水」は、詩中の印象的な小道具ではあるが、この曲の主眼は、グラスを透して見つめる「夜」そのものであり、やがて明けてくる「朝」の光の眩しさなのだと思う。

 欝々とした心を抱えて生きる自分にとって、夜はつかの間の安らぎの時。
 夜が自分を誘い込み、グラスを傾けさせ、酩酊感へと導く。
 「夜=nuit」は女性名詞なので、「彼女=elle」と言葉が置き変わりながら進んでいくのだが、いつの間にか、語り手にとって、elleはただの代名詞ではなく、特定な「或る女」の暗喩となってゆく。
 「彼女」を語る詩とも、とらえられるのではないだろうか。

   『ウイスキーをヴィシーに』
 まず、原詩の概要は次のようである。

  夜になると、うんざりとした日々の生活は消え去り、
  ネオンの明かりにすべては美しく輝いて見える

  夜は恋人のように私を誘い、酒を飲むことを勧める 
  僕が彼女を欺いても 夜という彼女は、決して僕を欺かない
  ずっと自分と寄り添って、一生 最後までいてくれる
  酒に酔いしれる自分を見ていてくれる
  夜は時には狂気であり 不思議な魔法であり 倦怠でもある

  身を守ることを全く知らないのに 
  いつでも処女性を取り戻す処女のようだ

  真夜中から正午まで ウイスキーからヴィシー水まで
  夜になるときまで 身を潜める

 「ヴィシー」は、ペットボトルの水をごくごくと飲み干す昼間の世界。
 仕事をこなし、社会人としての役割を営んでいく、その象徴なのだと思う。
 
 そして、彼は、その疲労感や充足感、時には倦怠感、挫折感などを、「ウイスキー」の酔いの中でつかの間、解放させようとしている。
 夜更けるまで呑んで、けれど朝は必ずやってくる。

 「ウイスキー」と「ヴィシー」は、そういう、人が生きる振り子のようなものかもしれない。

 我を忘れて酩酊することを、夜は穏やかに受け入れてくれる。
 いつもそっと傍にいて、優しく癒してくれるそんな女性が、「夜」のイメージに幻影のように重なってくる。

   C´est comme une vierge qui n´a
   Jamais vraiment su se garder
   Et qui retrouve toujours sa
   Virginité
 (身を守ることを全く知らないのに 
  いつでも処女性を取り戻す処女のようだ)


 この部分の訳詞は、解釈がなかなか難しいと思うのだが。

 高野氏は次のように訳されている。

  こうも言えるだろう 夜は娼婦と
  子供の目を持つ娼婦と あまりの純潔
  それゆえ どんなに汚れても 平気な娼婦と


 原語を咀嚼していく際のイメージには自由度があり、そこに、それぞれの独自な世界を創造してゆくのが訳詞なのだと改めて思う。

 このフレーズが含まれている3番の訳詞を、私は次のように訳してみた。

  夜は 狂気と 不思議な魔法の扉に 突然 いざなう 
  何も知らない少女のように 
  身をすくめたまま 立ち尽くす
  何でもわかっている倦怠の中で 
  夜は 新しく生まれ変わる
  眠りに就くまで 朝がやって来るまで
  ウイスキーをヴィシーに代えるまで

  夜が誘う ウイスキーが揺れる
  夜が薫る ウイスキーが揺れる   (松峰綾音 訳詞)


 いつか、グラス片手にこの曲をステージで歌えたらカッコ良いと思うのだが、なにしろ呑めないので、おそらく、ヴィシー水のボトルになるに違いない。


                            Fin

(注 訳詞、解説について、無断転載転用を固く禁止します。取り上げたいご希望、訳詞を歌われたいご希望がある場合は、事前のご相談をお願い致します。)

  
 セルジュ・レジアーニの歌う原曲です。お楽しみください。



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