
自分で訳詞を作り始めてからもう15年になりますが、出発当初、かなり気負って、これからは自作のシャンソン訳詞だけを歌おうと心に決めていました。
かたくなな矜持でしたが、でも、これまでその決意はまだ破られていなくて、コンサートやいくつかのイベントでシャンソンを歌う時には、今も自作の曲に徹しています。
もちろん、シャンソンを習い始めた頃は、先生から勧められる色々な曲を習い歌っていました。
当時、シャンソンの名曲と言われるものを一生懸命練習しましたが、15年間、一度も歌っていないので、もう忘れてしまった曲もあり、ちょっと残念な気もします。
昔の懐かしい譜面を整理していたら、シャンソンの初めての発表会のことを思い出しました。
今日はそんな思い出をお話したいと思います。
カルーゾを歌った日
11月の夕暮れ、海岸沿いのレストランの窓に、空と海が朱に染まっていくのが映っていました。
バイパスの渋滞で、車が速度を緩めます。
ヘッドライトと夕焼けが混ざり合って、時折眩しく窓に射すのを見つめながら、ステージに立っていました。
湘南バイパス沿い、七里ガ浜の海に面した全面ガラス張りのレストランで、初めて人前でシャンソンを歌った日のことでした。

往年の名テナー、ナポリ出身のオペラ歌手エンリコ・カルーゾ( Enrico Caruso )、彼の愛と死を歌った「カルーゾ(Caruso)」というドラマチックな大曲があるのですが、これに向う見ずにも挑戦した初舞台でした。
カルーゾが死にゆく時、愛する女性に最期の思いを語る曲です。
日本でも人気の高い名曲ですが、イタリアのシンガーソングライター、ルチオ・ダルラが歌い、また、パヴァロッティの名唱でもよく知られています。
カルーゾは公演先のアメリカから病気のため故郷ナポリに戻り、48歳の若さで亡くなりましたが、最期の時をナポリ湾に面するソレント半島のホテルで過ごしたということです。
カルーゾが窓に映る夜の海を見つめながら、最愛の人に永遠の愛を歌い上げるその名場面、
お前を愛した 死ぬほどに愛した
この固い絆は 誰にも断ち切れない
初舞台の緊張感も忘れ、主人公に感情移入をして、うっとりと夢み心地だったことを覚えています。
レストランの窓から見える夕暮れの海はしっくりと歌にはまり、もうすっかりナポリにいる気分でした。
目を遠くの海に移したその瞬間、真正面の窓に、信号で停まった大型トラックのドライバーと目がしっかりと合ってしまいました。
運転席の座席が、私の立つステージとちょうど同じ高さだったのでしょう。

真っ赤なドレスを着てスポットに照らされて熱唱する私と、それを囲む華やいだ客席の様子は、何だ?何だ??という感じだったのに違いありません。
物珍しそうにじっとのぞき込む目とぴたりと合って、今でもその表情まで覚えています。
いかにもトラック野郎という感じの精悍で、でも優しそうな方でした。
海の色が刻々と夕闇に溶け込んでいました。
波の向こうに遠く、薄く白い三日月が上り始めていたのも目に入りました。
トラックのドライバーさんは、「頑張ってるね!」って言っているような笑顔を浮かべてこちらに手を振ってくれました。
私も目で答えて、我ながら自分のこの初舞台は、なんてかっこいいのだろうなどと自画自賛。
出来はというと、実はカルーゾを歌うこと自体が無鉄砲だったに違いないのですが、でも、この時の思い出は今でも忘れがたいのです。
ここから私のシャンソンはスタートしました。
訳詞以前
当時、高校で教鞭を執っていて、寝食を忘れるような仕事三昧の生活をしていました。
やりがいがありましたが、それにしても、少しは気分転換も大切かと思い始めていた矢先、シャンソンに夢中だった叔母に誘われて、半ば強引に引き込まれたのが始まりでした。
何か知っているシャンソンを歌ってみて、と初めてのレッスンで言われたのですが、レパートリーは何もなく、聴いたことのあるのは『愛の賛歌』くらいでした。
先生は「それはスタートとしては却って良いことです」「声が綺麗でシャンソンに向いている」とおっしゃって下さり、なんだか嬉しくなっているうちに一度だけの体験入学のつもりがいつの間にか習うことに決まっていました。
今もって続いているシャンソンとの縁の始まりだったのです。
先生の教え方は、まずお手本に歌うご自身の歌を録音してくださり、それをひたすら覚えこむ様にという和事の口伝のようで、下手に楽譜を見てはならないとも言われていました。
当時は、忠実に丸ごと真似する習得の仕方をしていました。
先生はハスキーな低音で声そのものにシャンソンらしい哀愁がありました。
私はその対極で、しかも今よりもかなり細い高音域で歌っていたので、実は、いくら真似をしても全く違う歌に仕上がってしまうのです。
でもだから工夫もしたので、結果的にはよかったのかもしれません。
入門して10か月目に初めての発表会があり、それがこの「夕日の中のトラック」との遭遇だったわけです。
それぞれの曲に、色々な思い出と時間が込められていて、ふと蘇ってくる情景があることをあらためて感じます。
警戒宣言が解除されたとはいえ、都会ではまた患者数が増加して、思うように歌うことが叶いません。家にいる時間に、昔の楽譜やアルバムを整理していたら、シャンソンを習い始めた頃の思い出がよみがえってきて、今日のブログを書いてみましたが、改めて振り返ってみると、なんて気負っていたのだろうと少し気恥しくなりました。
また安心して聴いて頂ける日が来ることを願いながらできる準備をしていきたいと思っています。
かたくなな矜持でしたが、でも、これまでその決意はまだ破られていなくて、コンサートやいくつかのイベントでシャンソンを歌う時には、今も自作の曲に徹しています。
もちろん、シャンソンを習い始めた頃は、先生から勧められる色々な曲を習い歌っていました。
当時、シャンソンの名曲と言われるものを一生懸命練習しましたが、15年間、一度も歌っていないので、もう忘れてしまった曲もあり、ちょっと残念な気もします。
昔の懐かしい譜面を整理していたら、シャンソンの初めての発表会のことを思い出しました。
今日はそんな思い出をお話したいと思います。
カルーゾを歌った日
11月の夕暮れ、海岸沿いのレストランの窓に、空と海が朱に染まっていくのが映っていました。
バイパスの渋滞で、車が速度を緩めます。
ヘッドライトと夕焼けが混ざり合って、時折眩しく窓に射すのを見つめながら、ステージに立っていました。
湘南バイパス沿い、七里ガ浜の海に面した全面ガラス張りのレストランで、初めて人前でシャンソンを歌った日のことでした。

往年の名テナー、ナポリ出身のオペラ歌手エンリコ・カルーゾ( Enrico Caruso )、彼の愛と死を歌った「カルーゾ(Caruso)」というドラマチックな大曲があるのですが、これに向う見ずにも挑戦した初舞台でした。
カルーゾが死にゆく時、愛する女性に最期の思いを語る曲です。
日本でも人気の高い名曲ですが、イタリアのシンガーソングライター、ルチオ・ダルラが歌い、また、パヴァロッティの名唱でもよく知られています。
カルーゾは公演先のアメリカから病気のため故郷ナポリに戻り、48歳の若さで亡くなりましたが、最期の時をナポリ湾に面するソレント半島のホテルで過ごしたということです。
カルーゾが窓に映る夜の海を見つめながら、最愛の人に永遠の愛を歌い上げるその名場面、
お前を愛した 死ぬほどに愛した
この固い絆は 誰にも断ち切れない
初舞台の緊張感も忘れ、主人公に感情移入をして、うっとりと夢み心地だったことを覚えています。
レストランの窓から見える夕暮れの海はしっくりと歌にはまり、もうすっかりナポリにいる気分でした。
目を遠くの海に移したその瞬間、真正面の窓に、信号で停まった大型トラックのドライバーと目がしっかりと合ってしまいました。
運転席の座席が、私の立つステージとちょうど同じ高さだったのでしょう。

真っ赤なドレスを着てスポットに照らされて熱唱する私と、それを囲む華やいだ客席の様子は、何だ?何だ??という感じだったのに違いありません。
物珍しそうにじっとのぞき込む目とぴたりと合って、今でもその表情まで覚えています。
いかにもトラック野郎という感じの精悍で、でも優しそうな方でした。
海の色が刻々と夕闇に溶け込んでいました。
波の向こうに遠く、薄く白い三日月が上り始めていたのも目に入りました。
トラックのドライバーさんは、「頑張ってるね!」って言っているような笑顔を浮かべてこちらに手を振ってくれました。
私も目で答えて、我ながら自分のこの初舞台は、なんてかっこいいのだろうなどと自画自賛。
出来はというと、実はカルーゾを歌うこと自体が無鉄砲だったに違いないのですが、でも、この時の思い出は今でも忘れがたいのです。
ここから私のシャンソンはスタートしました。
訳詞以前
当時、高校で教鞭を執っていて、寝食を忘れるような仕事三昧の生活をしていました。
やりがいがありましたが、それにしても、少しは気分転換も大切かと思い始めていた矢先、シャンソンに夢中だった叔母に誘われて、半ば強引に引き込まれたのが始まりでした。
何か知っているシャンソンを歌ってみて、と初めてのレッスンで言われたのですが、レパートリーは何もなく、聴いたことのあるのは『愛の賛歌』くらいでした。
先生は「それはスタートとしては却って良いことです」「声が綺麗でシャンソンに向いている」とおっしゃって下さり、なんだか嬉しくなっているうちに一度だけの体験入学のつもりがいつの間にか習うことに決まっていました。
今もって続いているシャンソンとの縁の始まりだったのです。
先生の教え方は、まずお手本に歌うご自身の歌を録音してくださり、それをひたすら覚えこむ様にという和事の口伝のようで、下手に楽譜を見てはならないとも言われていました。
当時は、忠実に丸ごと真似する習得の仕方をしていました。
先生はハスキーな低音で声そのものにシャンソンらしい哀愁がありました。
私はその対極で、しかも今よりもかなり細い高音域で歌っていたので、実は、いくら真似をしても全く違う歌に仕上がってしまうのです。
でもだから工夫もしたので、結果的にはよかったのかもしれません。
入門して10か月目に初めての発表会があり、それがこの「夕日の中のトラック」との遭遇だったわけです。
それぞれの曲に、色々な思い出と時間が込められていて、ふと蘇ってくる情景があることをあらためて感じます。
警戒宣言が解除されたとはいえ、都会ではまた患者数が増加して、思うように歌うことが叶いません。家にいる時間に、昔の楽譜やアルバムを整理していたら、シャンソンを習い始めた頃の思い出がよみがえってきて、今日のブログを書いてみましたが、改めて振り返ってみると、なんて気負っていたのだろうと少し気恥しくなりました。
また安心して聴いて頂ける日が来ることを願いながらできる準備をしていきたいと思っています。


