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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

日日是好日

   『日々是好日(にちにちこれこうじつ)』
 2018年に公開された日本映画ですが、先日BSで放映されていました。
 エッセイストの森下典子さんの著書が原作となっていて、ほぼ著者の実体験がベースになった作品であると聞きました。
 二十歳になった典子(黒木華)が主人公で、彼女が同じ年のいとこ(多部未華子)と共に、老齢の茶道師範武田先生(樹木希林)の元でお茶を習い始めるところから物語は始まります。
 お茶のお稽古を通してのその後の歳月が、まるで小津安二郎監督の世界を見るように、緩やかで清廉な日常を映し出していきます。
日々是好日
 毎回同じことの繰り返しであるはずのお稽古の中で、季節ごとに入れ替わる掛け軸や器、美しい和菓子、お茶を通して、自分の心と向き合い、自然の光や音、風に気づきながら、所作を学んでいきます。

四季折々の映像が瑞々しくて、光とか音とかが、風物そのものから鮮烈に香り立ってくる気がしました。
 特に水の音。

 柄杓から垂らす水音と、お湯の音との違いを主人公がある日はっきりと聴き分ける場面があるのですが、心地よい説得力があって、これまでお茶には全く縁がなかった私ですけれど、今すぐにでも茶道の門を叩いて、この音の違いを聴いてみたいという衝動にかられてしまいました。

 登場人物たちの何気なく発する言葉、特に、樹木希林扮する武田先生の品格と、当たり前のように呟き諭す、そのいくつかの言葉がくっきりと心に刻まれています。

 「一期一会、今日という日は二度とない。同じことの繰り返しだけれど同じ人、同じお茶は二度とない。この瞬間をこの出会いを大切に。」
 先生の部屋の掛け軸の「日日是好日」の意味がお茶を通しての歳月の果てに主人公にもしみじみと理解されてくる、そんな締めくくりが美しいと感じました。

 「世の中には、「すぐわかるもの」と「すぐわからないもの」の二種類がある。すぐわからないものは、長い時間をかけて少しずつわかればよい」
紅葉1
 「意味が分からなくていいの。お茶はまず形から。先に形を作っておいて、その入れ物にあとから「心」が入るものなのよ」

 「雨の日は雨の音を聴く。雪の日は雪を見て、夏には夏の暑さを、冬には身の切れるような寒さと、五感を使って全身でその瞬間を味わう」


 立ち止まって日常を見つめる、日常を豊かに生きる、今の状況下にあって、心洗われる美しい作品と感じました。


   「どんな水から」
 コロナが沈静化されたと思われたひと月ほど前、久しぶりに友人と会い、食事をしました。
 長い間ほとんど誰とも会わない生活が続いていたためか、やはり人と顔を合わせながら、話すというのはリモートとは全然違う心地よさがあると実感したのですが、その折の友人の言葉が今も心に残っています。

 外資系の会社のお仕事で活躍中の女性なのですが、彼女、お酒が滅法強くて、しかもとても楽しいお酒なのです。
 私はというと、いつの頃からか全くアルコールを受けつけなくなってしまい、彼女と酌み交わせないのが本当に残念だったのですが、でもノンアル片手の語らいに充分気持ちよく酩酊することができました。
 この日はもう一人の友人と三人の宴、二人とも大のお酒好きですので、利き酒のできる居酒屋さんに集合、日本酒談義にひとしきり花が咲いていました。
紅葉3
 彼女曰く。
 「あ、このお酒、清流のようで、癖がなくて呑みやすいですね。美味しいお水を飲むようにいくらでも呑めてしまいそう。」
「洋酒も日本酒もそれぞれの良さがあって全部大好きですけれど、日本酒は何といっても風情がある気がします。」
 「日本酒の味は一本一本全部違っていて、私はその作られた土地の水がどんななのか、想いを馳せながら呑むのが好きなんです。
 どんな水が流れている土地なのか、どんな山に囲まれているのか、その山間をどんな川が流れていて、水はどんな味がするのだろう。そこではきっとこんな生活が営まれているのだろう。こんな杜氏がこのお酒を守り仕込むのだろう。・・・そんなことを考えていると目の前にその情景が浮かんできて、お酒が益々美味しくてありがたく思えてくる・・・私のお酒はそんななんです。」

 もう一人の友人もお酒に詳しい方でしたから、彼女の言葉が良く理解できるらしく、深く頷きながら楽しそうに杯を傾けていました。

 お酒を呑みながら水の音を聴き水の流れを見ている・・・・先ほどの「日々是好日」につながる素敵な佇まいだと感銘を受けてしまいました。
 下戸の私にはお酒は無理ですが、五感すべてに触れてくるものへ、同様な感性と想像力とを持っていたいものと思います。

MDからのたびだち
 話は変わり。
 MDってもう知らない方も多いみたいですね。
 今はもうレコーダーもディスクも生産中止になって、市場で見ることもなくなりましたが、実は私はまだつい最近までMD(ミニデスク)愛好者だったのです。
 
 最初はカセットテープに録音をしていたのですが、それがある時突然どこからか時代遅れと言われ、これからは小さくて便利なMDの時代になるのだと宣告を受けました。
で、仕方なく移行するにあたり、それまで録りためた莫大な量のカセットテープを苦労してすべてMDに移し替えてようやく今日に至ったのでした。

 なのに、もう数年前から、MDすらも時代の遺物のようになってしまい、それでも私が使っていると、珍しいものを見るような目で一瞥され、のみならず、まだそんなの使っている人がいるのねと憐みの言葉を浴びせる人までいる始末。
 だったら私はこれで通そうと、ずっと使い続けるつもりだったのですが、ついに予備に買っておいたMDレコーダーまで壊れてしまい、修理不能!もはやここまでとなってしまいました。
コンポ1
 で、今、我が家で唯一MDが使えるコンポにUSBメモリーをつないですべてのデータを移すという保管作業に夢中になっています。
 けれど、高速ダビングの機能がなくて、一枚移すのに一枚分の時間(80分)を要するのですが、これでも当時はUSBメモリーの接続口がついている最先端の機種で、今になってこれが役立っているのです。
 実は、もう半年以上、暇さえあればこの作業をしています。
廃棄MD
 すでに何千曲、何百枚ものデータを移し終え、後残すところMD3枚となりました。
 この写真は、すでに移し替えて行き場を失ったMDの山、これは作業を終えた中のごくごく一部分にすぎません。

 MDと別れを告げて、これからはICレコーダーでの録音となり、専らPCに頼ることになりますが、どこか理不尽でもあり、名残り惜しくもあり、また、再び引っ越しをすることはないでしょうねえ??・・・・と懐疑的にもなっています。

 延々と続いてきた作業にさすがに疲れましたが、でも作業中聴き直していましたら、一枚一枚が貴重な自分自身の歴史でもあり、それぞれに録音されている曲と出会った頃の感激が蘇ってきて、とても新鮮でもありました。
 この中からまた新たに訳詞してみたい曲も発掘できましたし、私にはとても意義のある時間となりました。

 甚だ私的なお話で恐縮ですが、MDからたびだつ心境を聞いて頂きました。



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本の顔つき

 いつの間にか11月、確実に季節は廻っています。
 落ち葉
 浅間山麓に暮らす友人からの便りが一葉の写真と共に届きました。

 「今朝の室温は4℃、枯葉を踏む音を楽しみながら、日課の早朝散歩をしています。朝の光が木々の黄葉を眩しく照らし、思わず見とれてしまいました」
 日々刻々、移ろう季節の息づかいが、心地よく心身に染み入ってくる風景、落ち葉の匂いと秋の陽のぬくもりがこの写真を包んでいるように思われました。


   『蓬莱曲』
 日本近代文学館が昭和52年に特選名著復刻全集を刊行したのですが、その中の一冊、北村透谷の『蓬莱曲』を知人がプレゼントしてくれました。
 明治24年(1891年)、130年も前に出版された透谷の長編詩『蓬莱曲』。
 近代文学の幕開けともいえる新体詩の先駆けとして発表されたこの長編詩は瑞々しい青春のエネルギーが漲っていますが、でもその分、若さの気負いも強く檄文調で、詩としても難解なので読み解くこと自体かなり骨が折れるのです。
蓬莱曲 
 そういう大変さはあるにしろ、私は何より、本の装丁や意匠に強く心惹かれました。
「本としての品格のある本」「本としての香りのある本」・・・本というもの自体が私は大好きですので、当時のまま忠実に復元されたこの復刻版全集には、以前から全巻買いそろえたいほどの思いを持っていたのです。
 例えば、この『蓬莱曲』にしても、今とは違う出版事情と出版技術の中で、おそらくは一冊の本を世に出すことはどんなにか大変なことだったでしょうし、二十歳そこそこの名もない文学青年であった透谷が、自費出版で、どれほどの愛着と使命感とを持って作り上げたであろうかと、その思いがしのばれます。
蓬莱曲裏表紙 
 力強い表紙のタイトルの書体と、裏表紙のヨーロッパ的な繊細なペン書きの意匠。
 二重に織り込まれた透明で弾力のある和紙の見返し紙。
 本文のレイアウト,字体の選び方。
 本文の和紙の紙質の手触りのよさ。
 そして、厚紙で丁寧に作られたブックケースの素朴な存在感。

 本はまず手触りで楽しむもの、本の表情、顔つきから味わうもの、・・・「本」を手に取ることから始まる読書の醍醐味を思い出させてくれた気がして、久しぶりに胸が躍りました。

   『明治・大正詩集の装幀』
 工藤早弓さんの著書、平成9年に京都書院から出版された文庫サイズのこの本も、私の蔵書の一冊です。
詩集の装填
 タイトルの通り、明治・大正期の近代詩集の造本についてまとめた本で、数多くの貴重な初版詩集の装幀の写真とその説明から成っています。
 本書の「はじめに」に次のような文章が記せられています。

 古い本・・・それもオリジナルの初版を手にしたときに思うことは多い。
 とりわけ詩集の初刷りは詩人自らが目を通しているのが普通だと思われる。
 活字の大きさ、組み具合、行間の空間、挿絵、表紙のクロス、紙の質、製本等、装幀にも思い入れを込めて心配りをしているだろう。
 だからそんな本を手に取った時は、それが単にその奥付けの時期に出版されたもの、というだけでなく、その本をまっさらの時に読んだ人々、さらにその後の年月に手にした人々のその時の感情・・・・心の揺れやふるえをも手にしていることなのだと思う。
  ・・・・・・
 詩という内容を生かすための入れ物としての詩集は美しい。
  ・・・・・・

 明治黎明期の詩集の代表は何といっても島崎藤村の『若菜集』と、与謝野晶子の『みだれ髪』といえるでしょうか。
若菜集

共によく知られている表紙デザイン。
みだれ髪

 蝶をかたどった若菜集の表紙絵には『初恋』の詩が薫ってくるようですし、心臓を射抜いて滴る血潮のように描かれた『みだれ髪』の赤い文字には晶子の恋の炎が激しく燃えているように感じられます。
猫町

萩原朔太郎の『猫町』の装幀も洒脱で大好きなデザイン。


堀口大学の『月下の一群』の背表紙は金箔でエンボス加工がなされた精密な図柄が押印され、欧米文化に精通した一級の知識人であった彼の面目躍如という気がします。
月下の一群
 「本の顔つき」とはこういうことなのではと思うのです。
 懐古主義になるわけではありませんが、昔の本にそういう固有の顔が多く見られたのに比して、最近はなかなかそのような本に出合うのが難しくなってきているかもしれません。
 趣味も多様化され、紙媒体自体も危うくなり始めた時代ではありますが、でも、だからこそ、私は本屋さんに出向いて、ゆっくり書架を眺め、パラパラとページを繰ってみるのが大好きです。
 そうしていると読みたい本、自分を呼んでいるような本と出会えることも多い気がします。

  
   私家本へのあこがれ
 実はもう10年以上前から、ひそかに自分で出版してみたいと思い続けてきたテーマがあって、それでも、腰が重く、なかなか着手するに至らなかったのですが、このコロナ禍の中、思い切って、少しずつ原稿をまとめ始めました。
 専門的な技術が備わっていれば、本文のレイアウト、挿絵、表紙のクロス貼り、紙選び、製本等、すべての装幀も、100%手作りの本にしたいところなのですが、残念ながらそこまでは到底及びそうもないので、・・・でもできる限り工夫できたならどんなに楽しいでしょう。

 考えている本の中の一冊は、ひそやかで温かいエッセイ。
 全体に白のイメージで静謐な雰囲気の本に仕上げたいです。

 表明してしまいましたが、果たしてどこまで辿り着けるでしょうか。
 ともあれ、チャレンジすることは楽しいこと。
 良いお知らせができるように頑張ってみようと思っています。



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