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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

「分人」ということ

 いつまでも続いているこの家籠り生活は、いつの間にか自分籠りにもつながり、多くの人たちが視点を外から内へと移し始めているのではないでしょうか。

 身の回りの整理整頓などもその現れかもしれず、断捨離宣言をして、にわかに片づけを開始する友人も多く出てきました。
 勢いがつくと、物の整理だけにとどまらず、生活習慣の見直しや、人間関係のスリム化のような所にも及ぶようです。
 「本当の自分を見つめてシンプルに生きる」とか、「無理をせず嘘をつかない生き方をしたい」とか、「こんな風に長い間、人と接触しないでいると、今まで周りに気を使い拘泥してきた自分は何だったのかと思ってしまう」などという発言まで聞かれます。

 でも、「本当の自分」とか「本来の自分の在り方」とかの解明は至難の業で、誰にもそう簡単に答えられるものではないでしょう。

 反対に、「自分は二足のわらじならぬ五足のわらじを履いている」とか、「二十一面相みたいに自在にいくつもの顔を使い分けて生きることができたら理想だ」とか、多面的であることの愉しさを語る達人もいて、いずれにしても「私とは」と問う言葉に触れることが最近続いているのです。

 けれど、考えてみると、「確立したただ一つの自分」を見出すというよりは、家の顔と外の顔、公人と私人、本音と建前、・・・・そんな拮抗するいくつかの自分を誰でもが併せ持っていて、対極にあるそれぞれの自分を抱えながら、そのバランスをどうコントロールしながら生きるかということこそが難題なのではと思えてきます。

 私自身も、たとえばステージなどで人前に立ち積極的に自分を発信するとき、その心の反動はあり、外と内とのギャップに混乱することがよく起こるのです。

 そんな中で、思い出すのは「分人主義」という言葉、小説家の平野啓一郎氏の著書『私とは何か---「個人」から「分人」へ』【2012年刊】で語られている言葉です。

   『私とは何か---「個人」から「分人」へ』
 著者平野氏の言葉をまず引用しながらご紹介してみたいと思います。
私とは何か
 私たちは、日常生活の中で、当たり前のように多種多様な自分を生きている。相手次第、場所次第、職場の上司といる時と、気の置けない友達といる時とでは、人は決して同じ人間ではない。
 当たり前の話だ。しかし、環境によって容易に変化する自分というイメージが、個性的に、主体的に生きる自分という固定観念と矛盾を来すためか、私たちは、この事実をなぜか軽んじ、否定しようとする。
  「もちろん、色んな顔は持っている。けど、それはそれ。表面的なことであって、〈本当の自分〉は、ちゃんとある。」
 そして、その肝心の〈本当の自分〉が何なのか分からないことに思い悩み、苦しんでいる。
 流されやすい、主体性に欠ける、自分を持ってない、ブレる、・・・と、私たちの社会は、一貫した個性を持たない人間に、とかく批判的である。


 それでは、そんな「嫌いな自分」を肯定するにはどうしたらよいのか。 いわゆる自分らしさとはどう生まれるのか。 他者との距離をいかに取るべきなのか、「分人主義」という言葉を使いながら、筆者は言及してゆきます。
 
 元々、「個人」という言葉は、英語のindividualの翻訳、「分ける」という意味のdivideに否定の接頭辞inがくっついた単語で、「分けられない」という意味だったと語ります。

 一人の人間には、色々な顔がある。つまり、複数の分人を抱えている。そのすべてが〈本当の自分〉であり、人間の個性とは、その複数の分人の構成比率のことである。
 一人の人間の中には、複数の分人が存在している。両親との分人、恋人との分人、親友との分人、職場での分人、……あなたという人間は、これらの分人の集合体である。
 分人主義に基づくと、人間にはいくつもの分人(人格)が存在し、その全てが自分自身であると考える。常にブレない「本当の」自分が1人いるわけではなく、恋人と接している自分も、友人と接する自分もどちらも自分である。
 
 個性とは、決して唯一不変のものではないし、他者の存在なしには、決して生じないものと分人主義では考えられる。

 すべての間違いの元は、唯一無二の「本当の自分」という神話である。 そこで、こう考えてみよう。たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。

 それぞれの自分の顔を否定せず受け入れ、一つ一つの自分を見つめ、それぞれの分人を最大限発揮しポジティブに生きることが大切なのだということなのでしょうね。その時にこそ、「唯一無二の自分であらねばならぬ」という一種の呪縛から放たれるのでしょう。

 確かに、この人と接するときにはいつもなぜか優しい心地よい自分でいられるとか、この人と話すときには、嫌みっぽい言葉や、きつい表情が出てしまい自分の嫌いな自分になっているとかいうことがあります。
 人は、シンプルであろうとするそばから、色々な雑念が生まれるのが常かもしれませんが、それらも含めてそこから、自己発見やよりありたい自分の開発があるような気がします。

 二十一面相とはいかなくても多様な自分を楽しみながら、その程よい距離というかバランスを追及することで、人としての許容量を増すことにもなるのでしょう。

 そんなことを考える時、思い出すのは、幼い頃の祖母との時間です。
 人の道、礼儀、心の持ちようなど、祖母は幼い孫を前に巧みな話術でよく話してくれました。言ってみればお説教なのですが、そんな祖母のことが私は大好きで子供心に深く心酔していたのだと思います。
、膝を交えて熱心に語ってくれる折々の時間がとても貴重に思われましたし、今でも話の端々まで覚えているくらいです。

 思えば子供の私が大好きだと思ったのは、祖母であり、祖母といるときの自分自身の心模様だったのかもしれません。
 素直で愛情が一杯に溢れて、いつもこんな和やかな気持ちで生きていたいと願ったものでした。
 が、一方で、別の人といるときには、祖母の教えと正反対の嫌な自分が前面に出ることもあって、自分はなんと偽善的で二重人格なのかしらなどと混乱したこともあります。
 でも、これも自分の中の一つの「分人」と考えて、ありのまま受け入れ、まずは自分を肯定するところから始めれば、きっともっと開放されていたのだと思うのです。
 そんな前科がある自分ですので、今でも、人が誰かの事を八方美人だとか批判していても、それこそが人ってものなのではとひそかに感じてしまいます。
 誰かからの悪意を感じるときでも、もしかしたら自分が相手からそういう要素を引き出しているのかも、と考える習慣がついているようです。

 人が生きるというのはなかなか一筋縄ではいかないものですが、祖母がそうだったように、相手が自然に好ましい自分でいられるような温かさや安堵感を醸し出せるような人であれたらと思います。

 読み易く、心に素直に入ってくる本ですので、一度手に取ってみたらいかがかと思いご紹介してみました。


 

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