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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

桜桃の頃

   茎右往左往菓子器のさくらんぼ
 懇意にしている知人が今年も山形から、さくらんぼの佐藤錦を送って下さいました。
さくらんぼ1
 艶やかでよく熟したさくらんぼ、どっさりと大きな器に盛りました。
 まさに旬で、昨今、とても高価な果物ですが、この時期、季節を満喫し贅沢に一気に味わうのが贈り主への一番の謝意になるのではと思っています。

 年々歳々、このような木になる果物の良さを感じるようになった気がします。
さくらんぼ2
 「巡る季節の中でやがて実を付け熟する美しさ」がしみじみと感じられるのは、それだけ自分も年を重ねてきたという証なのかもしれません。

 「桜桃」はバラ科の落葉樹の実、いっぱいほおばった今年の佐藤錦は爽やかで瑞々しくて殊の外美味しく思われました。
 さくらんぼって、まず形状が良いですよね。
 犀星がこんな俳句を詠んでいます

  さくらごは二つつながり居りにけり

 犀星の香りがします。少し作っている感がにじみ出るのは、俳人ではなく小説家・詩人の習性かしら、・・・少し偉そうに批評してみました。

 さくらんぼを詠んだ詩や歌、句はたくさんありますが、私が一番好きなのは高浜虚子のこの一句。

  茎右往左往菓子器のさくらんぼ 
 (くき うおうさおう かしきの さくらんぼ)     

 鷹羽狩行に、しろがねの器のくもりさくらんぼという作品があって、これも冷えたさくらんぼが美味しそうに浮かんできて、好きな句ですが、そんなことを思いながら、今日はどんな器に盛ってみようかなどと考えるのは日常の中の小さな非日常、いずれにしても白い器がさくらんぼにはよく似合う気がします。

   『桜桃』太宰治
 6月19日は「桜桃忌」、太宰治を偲んで、現在に至るまで三鷹の禅林寺では法要が営まれ、太宰ファンが多くお参りに集まると聞いています。このコロナ禍の中で今年はどうだったのでしょうか。
桜桃
 「桜桃忌」は太宰の小説『桜桃』に因んで命名されたのですが、その『桜桃』を久しぶりに読み返してみました。これまで、太宰の作品に、彼の親としての顔を見ることはあまりなかったのですが、今回新鮮な感慨がありました。触りだけご紹介してみますので、よろしかったら全編お読みになってみて下さい。
 まずは書き出し部分です。
 
 子供より親が大事、と思いたい。子供のために、などと古風な道学者みたいな事を殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。少くとも、私の家庭においては、そうである。まさか、自分が老人になってから、子供に助けられ、世話になろうなどという図々しい虫のよい下心は、まったく持ち合わせてはいないけれども、この親は、その家庭において、常に子供たちのご機嫌ばかり伺っている。子供、といっても、私のところの子供たちは、皆まだひどく幼い。長女は七歳、長男は四歳、次女は一歳である。それでも、既にそれぞれ、両親を圧倒し掛けている。父と母は、さながら子供たちの下男下女の趣きを呈しているのである。
 

 そして、太宰の家庭をそのまま映し出すように物語は始まり、妻との葛藤を描きつつ、うつうつとこの夜も飲み屋に立ち寄る最後の場面に至ります。

 子供より親が大事、と思いたい。子供よりも、その親のほうが弱いのだ。
 桜桃が出た。
 私の家では、子供たちに、ぜいたくなものを食べさせない。子供たちは、桜桃など、見た事も無いかもしれない。食べさせたら、よろこぶだろう。父が持って帰ったら、よろこぶだろう。蔓を糸でつないで、首にかけると、桜桃は、珊瑚の首飾りのように見えるだろう。
 しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種を吐きき、食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供よりも親が大事。
 
 自分を一番に考えたい、でも子供・家庭に傾倒する自分を制御できない、さりとて子供が大切と言い切ることもできない。・・・さくらんぼの種を吐き出し続ける最終の描写は太宰ならではの錯綜した心理模様を象徴しているようで痛ましくも感じられてきます。

 "Le Temps des Cerises"
 『さくらんぼの実る頃』のタイトルでよく知られた往年のシャンソンの名曲です。訳詞への思い「さくらんぼの実る頃」に詳しく記しましたので、よろしければご参照ください。
 「パリ・コミューン」との関連が深く、戦いの鎮魂歌のように、長くフランスの人々に歌われ愛し続けられてきたシャンソンです。
 
 詩中、二つの実がぶら下がって揺れる<真っ赤な耳飾り>のようなさくらんぼを、若き恋人同士が無邪気に摘みに行く情景は、その赤さゆえにどこかなまめかしくも思われるし、また、さくらんぼが<血のしずくのように滴り落ちている>という表現も、ただ微笑ましいだけではない熱情の激しさのようなものも感じてしまう。

 と訳詞への思いの中で記してみたのですが、いずれにしても「さくらんぼ」はフランス人にとって、特別な感慨のある果物であり、その分、味わいも際立っているのではないかと思うのです。

   さくらんぼの実る頃
   癒えることない傷口が 心に開く
   痛みも後悔も幸せも そのまま愛したい
   さくらんぼの実る頃 
   思い出が 胸を打つ

あじさい


 私の日本語詞はこのように締めくくりましたが、艶やかなさくらんぼを前にこの歌が自然に口をついて出てくる、夏を迎えるひとときの季節です。





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「分人」ということ

 いつまでも続いているこの家籠り生活は、いつの間にか自分籠りにもつながり、多くの人たちが視点を外から内へと移し始めているのではないでしょうか。

 身の回りの整理整頓などもその現れかもしれず、断捨離宣言をして、にわかに片づけを開始する友人も多く出てきました。
 勢いがつくと、物の整理だけにとどまらず、生活習慣の見直しや、人間関係のスリム化のような所にも及ぶようです。
 「本当の自分を見つめてシンプルに生きる」とか、「無理をせず嘘をつかない生き方をしたい」とか、「こんな風に長い間、人と接触しないでいると、今まで周りに気を使い拘泥してきた自分は何だったのかと思ってしまう」などという発言まで聞かれます。

 でも、「本当の自分」とか「本来の自分の在り方」とかの解明は至難の業で、誰にもそう簡単に答えられるものではないでしょう。

 反対に、「自分は二足のわらじならぬ五足のわらじを履いている」とか、「二十一面相みたいに自在にいくつもの顔を使い分けて生きることができたら理想だ」とか、多面的であることの愉しさを語る達人もいて、いずれにしても「私とは」と問う言葉に触れることが最近続いているのです。

 けれど、考えてみると、「確立したただ一つの自分」を見出すというよりは、家の顔と外の顔、公人と私人、本音と建前、・・・・そんな拮抗するいくつかの自分を誰でもが併せ持っていて、対極にあるそれぞれの自分を抱えながら、そのバランスをどうコントロールしながら生きるかということこそが難題なのではと思えてきます。

 私自身も、たとえばステージなどで人前に立ち積極的に自分を発信するとき、その心の反動はあり、外と内とのギャップに混乱することがよく起こるのです。

 そんな中で、思い出すのは「分人主義」という言葉、小説家の平野啓一郎氏の著書『私とは何か---「個人」から「分人」へ』【2012年刊】で語られている言葉です。

   『私とは何か---「個人」から「分人」へ』
 著者平野氏の言葉をまず引用しながらご紹介してみたいと思います。
私とは何か
 私たちは、日常生活の中で、当たり前のように多種多様な自分を生きている。相手次第、場所次第、職場の上司といる時と、気の置けない友達といる時とでは、人は決して同じ人間ではない。
 当たり前の話だ。しかし、環境によって容易に変化する自分というイメージが、個性的に、主体的に生きる自分という固定観念と矛盾を来すためか、私たちは、この事実をなぜか軽んじ、否定しようとする。
  「もちろん、色んな顔は持っている。けど、それはそれ。表面的なことであって、〈本当の自分〉は、ちゃんとある。」
 そして、その肝心の〈本当の自分〉が何なのか分からないことに思い悩み、苦しんでいる。
 流されやすい、主体性に欠ける、自分を持ってない、ブレる、・・・と、私たちの社会は、一貫した個性を持たない人間に、とかく批判的である。


 それでは、そんな「嫌いな自分」を肯定するにはどうしたらよいのか。 いわゆる自分らしさとはどう生まれるのか。 他者との距離をいかに取るべきなのか、「分人主義」という言葉を使いながら、筆者は言及してゆきます。
 
 元々、「個人」という言葉は、英語のindividualの翻訳、「分ける」という意味のdivideに否定の接頭辞inがくっついた単語で、「分けられない」という意味だったと語ります。

 一人の人間には、色々な顔がある。つまり、複数の分人を抱えている。そのすべてが〈本当の自分〉であり、人間の個性とは、その複数の分人の構成比率のことである。
 一人の人間の中には、複数の分人が存在している。両親との分人、恋人との分人、親友との分人、職場での分人、……あなたという人間は、これらの分人の集合体である。
 分人主義に基づくと、人間にはいくつもの分人(人格)が存在し、その全てが自分自身であると考える。常にブレない「本当の」自分が1人いるわけではなく、恋人と接している自分も、友人と接する自分もどちらも自分である。
 
 個性とは、決して唯一不変のものではないし、他者の存在なしには、決して生じないものと分人主義では考えられる。

 すべての間違いの元は、唯一無二の「本当の自分」という神話である。 そこで、こう考えてみよう。たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。

 それぞれの自分の顔を否定せず受け入れ、一つ一つの自分を見つめ、それぞれの分人を最大限発揮しポジティブに生きることが大切なのだということなのでしょうね。その時にこそ、「唯一無二の自分であらねばならぬ」という一種の呪縛から放たれるのでしょう。

 確かに、この人と接するときにはいつもなぜか優しい心地よい自分でいられるとか、この人と話すときには、嫌みっぽい言葉や、きつい表情が出てしまい自分の嫌いな自分になっているとかいうことがあります。
 人は、シンプルであろうとするそばから、色々な雑念が生まれるのが常かもしれませんが、それらも含めてそこから、自己発見やよりありたい自分の開発があるような気がします。

 二十一面相とはいかなくても多様な自分を楽しみながら、その程よい距離というかバランスを追及することで、人としての許容量を増すことにもなるのでしょう。

 そんなことを考える時、思い出すのは、幼い頃の祖母との時間です。
 人の道、礼儀、心の持ちようなど、祖母は幼い孫を前に巧みな話術でよく話してくれました。言ってみればお説教なのですが、そんな祖母のことが私は大好きで子供心に深く心酔していたのだと思います。
、膝を交えて熱心に語ってくれる折々の時間がとても貴重に思われましたし、今でも話の端々まで覚えているくらいです。

 思えば子供の私が大好きだと思ったのは、祖母であり、祖母といるときの自分自身の心模様だったのかもしれません。
 素直で愛情が一杯に溢れて、いつもこんな和やかな気持ちで生きていたいと願ったものでした。
 が、一方で、別の人といるときには、祖母の教えと正反対の嫌な自分が前面に出ることもあって、自分はなんと偽善的で二重人格なのかしらなどと混乱したこともあります。
 でも、これも自分の中の一つの「分人」と考えて、ありのまま受け入れ、まずは自分を肯定するところから始めれば、きっともっと開放されていたのだと思うのです。
 そんな前科がある自分ですので、今でも、人が誰かの事を八方美人だとか批判していても、それこそが人ってものなのではとひそかに感じてしまいます。
 誰かからの悪意を感じるときでも、もしかしたら自分が相手からそういう要素を引き出しているのかも、と考える習慣がついているようです。

 人が生きるというのはなかなか一筋縄ではいかないものですが、祖母がそうだったように、相手が自然に好ましい自分でいられるような温かさや安堵感を醸し出せるような人であれたらと思います。

 読み易く、心に素直に入ってくる本ですので、一度手に取ってみたらいかがかと思いご紹介してみました。


 

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