

コロナの猛威が広がる中、満を持して開催されたオリンピックですが、様々な思いを乗せて、閉会の日を迎えました。
関係者のご苦労はいかばかりだったかと想像するに余りありますが、ともかくもすべての選手たちのひたむきな挑戦には、思わず胸が熱くなりましたし、心からのエールを送りつつも、むしろこちらの方が励まされるような思いがしました。
開会式前、インタビューに答えたマクロン大統領の、「日本だからこそ、安全対策をきっちりとって、世界がウィルスと共存し、打ち勝って行けるかを示すことができる!」との言葉に大きな勇気と示唆を得た気がしています。
さて今日は、「訳詞への思い」・・・今回は歌詞のないクラシックの楽曲ですので、厳密には「作詞への思い」なのですが、ショパンの『雨だれ』を取り上げたいと思います。
『雨だれ』
訳詞への思い<35>
雨が降る 密やかに 降り続く
雨の歌に 思い出が蘇る
物語を 小さな夢を
雨は 紡いでゆく
あなただけ想う
硝子窓に 雨だれ 見つめてる
雨の歌 涙溢れる
雨が上がる 木漏れ日 きらめく
木々を揺らし 雨だれが躍る (松峰綾音 作詞)

1839年作、ピアノ前奏曲『プレリュード24 雨だれ(From 24 preludes raindrop)』
誰でもが馴染みのあるショパンの名曲『雨だれ』に上記の歌詞をつけてみた。
作詞と言っても、詩が先行していて後から曲が付く場合と、まず曲ありきで、後に詞を付ける場合の二通りがあり、作詞の立ち位置は随分異なってくると思われる。
いずれにしても、訳詞するときのように元になる原詞がないので、その意味では言葉に縛りがなく自由であると言えるが、今回のように曲が先にあるときの作詞は、その音の世界にどのように言葉を融合させていくかが大きな課題となるわけで、旋律、リズム、音色にひたすら集中して、そこからイメージと言葉が生まれ出てくるのをじっと待つ、そんな作業と言えるかもしれない。
作曲家は、目で見る事象、耳に入る音、触覚や嗅覚も含めた五感で感知する森羅万象を音楽に置換してゆくのだろうし、画家であれば、同様に感得したすべてのものを画布の上に色彩と形象とで再構築してゆくのだろうから、広く「表現」という意味で考えれば、「言葉」も含めすべては共通するものがあるような気がしている。
今回、ショパンの音楽に触れてみて、そんなことを強く感じた。
たとえば、『子犬のワルツ』
『瞬間のワルツ(Minute Waltz)』という別名もある周知の『子犬のワルツ』は、恋人ジョルジュ・サンドに、目の前で自分の尻尾を追ってぐるぐる回る子犬の様子を、音楽で描写して欲しいと頼まれ即興的に作曲したものといわれている。
また、鍵盤の上で戯れる猫の動きを表したと伝えられる『子猫のワルツ』も、同じくショパンの曲で、現在もなお愛されている名曲だ。
そう思って聴くせいか、『子犬のワルツ』は好奇心に満ちた子犬がじゃれて興奮しクルクルとあたりを走り回っているような溢れんばかりの躍動感が感じられるし、子猫のほうには、犬にはない猫ならではのしなやかな身のこなし、誘い込むような表情までもその旋律から鮮やかに浮かんでくる気がする。
猫や犬の一挙手一投足、その心模様まで作曲家は音楽に投影し、音の中に物語を作り上げてゆくのだろう。
『雨だれ』もまた、恋人ジョルジュ・サンドとの熱愛の中で生まれた曲。

病弱であったショパンの体調を回復するために二人で過ごしたというマヨルカ島での日々、突然の嵐の中、外出先から帰宅することができないでいた彼女の安否を気遣い、病の床で不安にさいなまれつつ、雨音を聴きながら作曲した曲なのだという。
『雨だれ』の中で、雨は降り続き、雨の日が繰り広げられてゆく。
ショパンの上にショパンの雨が降る。
けれど、聴く人によって、その時々によって、見えてくる雨の情景は変わってよいのだと思う。
ショパンとサンドとに限定された恋の物語でなくて、聴く人、歌う人、誰でもの中に、「私」と「あなた」との小さな情景があって、いとしかったり、哀しかったり、懐かしかったりする雨がよみがえればよい。
そう考えて、音の上にぽつりぽつりと、何かに特定されない普通の言葉を置いてみた。
真夏の勢いのある雨もいい。
晩秋の冷たい雨も風情がある。
でも、この詩を作ったのは6月。まとわりつくような細い雨が、私には殊の外しっくりとこの曲に溶け込んで、雨の日の情景が浮かんできた。
(注 作詞、解説について、無断転載転用を禁止します。取り上げたいご希望、この歌詞を歌われたいご希望がある場合は、事前のご相談をお願い致します。)


