
前回の記事『5月の若草山』で馬酔木の事を書いていたら、急に浄瑠璃寺に行きたくなりました。
浄瑠璃寺は、大学の頃から何度も訪れている大好きなお寺、京都府木津川市にありますので、奈良探訪の記からは離れてしまうのですが、奈良との県境に位置しています。
中学生の時に堀辰雄の随筆『大和路・信濃路』を読み、瑞々しい感性で捉えられている大和路の静謐な叙情にすっかり心惹かれ、特に、この中に載っている『浄瑠璃寺の春』という文章が忘れられませんでした。
以来、春になると、大和路のこの小さなお寺に可憐な花をつける馬酔木の花房を見に行きたくなります。
『浄瑠璃寺の春』を辿る
真言律宗の寺院、嘉承2年(1107)建立。山号を小田原山と称し、本尊は阿弥陀如来と薬師如来。本堂に9体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺(くたいじ)の通称がある。
池を中心とした浄土式庭園を挟んで東に三重塔とそこに祀られている薬師仏。西に本堂と九体の阿弥陀仏、北に潅頂堂と三つの同塔が主要伽藍となり、平安朝寺院の雰囲気を今に伝える。(浄瑠璃寺パンフレットより)
この浄瑠璃寺を堀辰雄夫妻が訪ねたのは昭和18年のこと、この時の思い出が『大和路・信濃路』に随想集として綴られているのですが、この中に『浄瑠璃寺の春』はあります
冒頭は次のように始まります。
この春、僕は前から一種の憧れをもっていた馬酔木(あしび)の花を大和路のいたるところで見ることができた。
そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へ着いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた蒲公英(たんぽぽ)や薺(なずな)のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、やっとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに、丁度いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった。
開門9時と同時に参道に到着。眩しい青空と爽やかな風。ツツジが鮮やかな色で咲き誇っていました。

山門まで真っ直ぐに続く道を辿ります。
道の両側の柔らかい馬酔木の青葉が目に優しく入ってきました。
学生の頃訪れた時には、道はまだこのように整備されてはいなくて、もの寂びて朽ち果てそうな風情でしたが、今は光の中で、生気を取り戻したような明るい風景に変わっていました。

でも山門、両脇の小さなお地蔵様、馬酔木の灌木、変わらずに・・・。
『浄瑠璃寺の春』ではこんな記述になっています。
その小さな門の中へ、石段を二つ三つ上がって、はいりかけながら、「ああ、こんなところに馬酔木が咲いている。」と僕はその門のかたわらに、丁度その門と殆ど同じくらいの高さに伸びた一本の灌木がいちめんに細かな白い花をふさふさと垂らしているのを認めると、自分のあとからくる妻のほうを向いて、得意そうにそれを指さして見せた。
「まあ、これがあなたの大好きな馬酔木の花?」妻もその灌木のそばに寄ってきながら、その細かな白い花を仔細に見ていたが、しまいには、なんということもなしに、そのふっさりと垂れた一と塊りを掌のうえに載せたりしてみていた。
どこか犯しがたい気品がある、それでいて、どうにでもしてそれを手折って、ちょっと人に見せたいような、いじらしい風情をした花だ。云わば、この花のそんなところが、花というものが今よりかずっと意味ぶかかった万葉びとたちに、ただ綺麗なだけならもっと他にもあるのに、それらのどの花にも増して、いたく愛せられていたのだ。――そんなことを自分の傍でもってさっきからいかにも無心そうに妻のしだしている手まさぐりから僕はふいと、思い出していた。
山門をくぐると、池とその奥に阿弥陀堂が広がります。

白い雲と緑の木々を映す池に、黒々とした鯉の一群が悠然と泳いでいました。

見上げれば高い空。
本堂の九体の阿弥陀仏が心を圧倒する気がしました。それぞれの前にじっと座って手を合わせると、慈しみに溢れた阿弥陀様の眼差しを優しく感じ、いにしえびとの信仰の想いが理屈ではなく体に染み入ってくるようでした。

(九体仏のこの写真は浄瑠璃寺のポストカードからのものです)

年に三回だけ開扉される吉祥天女像に、幸運にも今回出会うことができました。

阿弥陀堂を出て振り返ると三重塔。
回遊式の庭園を散策しながら三重塔に向かいました。
道端には道祖神、そして渡された柵は竹で設えられた粋な意匠で、何とも心にくいです。

青紅葉の風。

池には朽ち果てた一層の小舟が沈んで舟頭だけを水面に見せていました。
生み出された第二の自然。

『浄瑠璃寺の春』のこんな文章が思い出されました。
自然を超えんとして人間の意志したすべてのものが、長い歳月の間にほとんど廃亡に帰して、いまはそのわずかに残っているものも、そのもとの自然のうちに、そのものの一部に過ぎないかのように、融け込んでしまうようになる。そうして其処にその二つのものが一つになって――いわば、第二の自然が発生する。そういうところにすべての廃墟の云いしれぬ魅力があるのではないか?

堀辰雄は彼の見た浄瑠璃寺を「廃寺」と表現しているのですが、幾星霜を経て、今は廃寺から再生した美しい姿を見せています。
でも、5月の連休にもかかわらず、ほとんど人気(ひとけ)のないこの静寂な風景には、自然と、人が作り上げたものとが、一つになって包み込まれているようで・・・堀辰雄の居た遠い時間と溶け合ってゆくような気がしました。
帰路に。

浄瑠璃寺の境内にもこうした参道にも猫たちが沢山いて、どの猫も全く人を警戒せず、当たり前のように共存する、のどかな風景です。
紫陽花が咲く頃も美しいのではと思います。皆様も一度そっと訪れてみてください。
おまけのお話
丹羽文雄をご存じでしょうか。繊細なロマンチストである堀辰雄の作風とは真逆の位置にある、一時は風俗小説と批判された作品世界を持つ作家ですが、彼の作品に、浄瑠璃寺が描かれているのを見つけました。
ある小説に出てくるフレーズ。
「鎌倉前期につくられた吉祥天像や、九躰仏をみることは、つけ足しです。ぼくのねがいは、九百十何年前につくられた、淋しい山寺のなかに、あなたをおいてみたかった」
何と言う口説き文句。何とも何ともなのです。
浄瑠璃寺は、大学の頃から何度も訪れている大好きなお寺、京都府木津川市にありますので、奈良探訪の記からは離れてしまうのですが、奈良との県境に位置しています。
中学生の時に堀辰雄の随筆『大和路・信濃路』を読み、瑞々しい感性で捉えられている大和路の静謐な叙情にすっかり心惹かれ、特に、この中に載っている『浄瑠璃寺の春』という文章が忘れられませんでした。
以来、春になると、大和路のこの小さなお寺に可憐な花をつける馬酔木の花房を見に行きたくなります。
『浄瑠璃寺の春』を辿る
真言律宗の寺院、嘉承2年(1107)建立。山号を小田原山と称し、本尊は阿弥陀如来と薬師如来。本堂に9体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺(くたいじ)の通称がある。
池を中心とした浄土式庭園を挟んで東に三重塔とそこに祀られている薬師仏。西に本堂と九体の阿弥陀仏、北に潅頂堂と三つの同塔が主要伽藍となり、平安朝寺院の雰囲気を今に伝える。(浄瑠璃寺パンフレットより)
この浄瑠璃寺を堀辰雄夫妻が訪ねたのは昭和18年のこと、この時の思い出が『大和路・信濃路』に随想集として綴られているのですが、この中に『浄瑠璃寺の春』はあります
冒頭は次のように始まります。
この春、僕は前から一種の憧れをもっていた馬酔木(あしび)の花を大和路のいたるところで見ることができた。
そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へ着いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた蒲公英(たんぽぽ)や薺(なずな)のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、やっとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに、丁度いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった。
開門9時と同時に参道に到着。眩しい青空と爽やかな風。ツツジが鮮やかな色で咲き誇っていました。


山門まで真っ直ぐに続く道を辿ります。
道の両側の柔らかい馬酔木の青葉が目に優しく入ってきました。
学生の頃訪れた時には、道はまだこのように整備されてはいなくて、もの寂びて朽ち果てそうな風情でしたが、今は光の中で、生気を取り戻したような明るい風景に変わっていました。

でも山門、両脇の小さなお地蔵様、馬酔木の灌木、変わらずに・・・。
『浄瑠璃寺の春』ではこんな記述になっています。
その小さな門の中へ、石段を二つ三つ上がって、はいりかけながら、「ああ、こんなところに馬酔木が咲いている。」と僕はその門のかたわらに、丁度その門と殆ど同じくらいの高さに伸びた一本の灌木がいちめんに細かな白い花をふさふさと垂らしているのを認めると、自分のあとからくる妻のほうを向いて、得意そうにそれを指さして見せた。

どこか犯しがたい気品がある、それでいて、どうにでもしてそれを手折って、ちょっと人に見せたいような、いじらしい風情をした花だ。云わば、この花のそんなところが、花というものが今よりかずっと意味ぶかかった万葉びとたちに、ただ綺麗なだけならもっと他にもあるのに、それらのどの花にも増して、いたく愛せられていたのだ。――そんなことを自分の傍でもってさっきからいかにも無心そうに妻のしだしている手まさぐりから僕はふいと、思い出していた。
山門をくぐると、池とその奥に阿弥陀堂が広がります。


白い雲と緑の木々を映す池に、黒々とした鯉の一群が悠然と泳いでいました。


見上げれば高い空。
本堂の九体の阿弥陀仏が心を圧倒する気がしました。それぞれの前にじっと座って手を合わせると、慈しみに溢れた阿弥陀様の眼差しを優しく感じ、いにしえびとの信仰の想いが理屈ではなく体に染み入ってくるようでした。

(九体仏のこの写真は浄瑠璃寺のポストカードからのものです)

年に三回だけ開扉される吉祥天女像に、幸運にも今回出会うことができました。

阿弥陀堂を出て振り返ると三重塔。
回遊式の庭園を散策しながら三重塔に向かいました。
道端には道祖神、そして渡された柵は竹で設えられた粋な意匠で、何とも心にくいです。


青紅葉の風。


池には朽ち果てた一層の小舟が沈んで舟頭だけを水面に見せていました。
生み出された第二の自然。

『浄瑠璃寺の春』のこんな文章が思い出されました。
自然を超えんとして人間の意志したすべてのものが、長い歳月の間にほとんど廃亡に帰して、いまはそのわずかに残っているものも、そのもとの自然のうちに、そのものの一部に過ぎないかのように、融け込んでしまうようになる。そうして其処にその二つのものが一つになって――いわば、第二の自然が発生する。そういうところにすべての廃墟の云いしれぬ魅力があるのではないか?

堀辰雄は彼の見た浄瑠璃寺を「廃寺」と表現しているのですが、幾星霜を経て、今は廃寺から再生した美しい姿を見せています。
でも、5月の連休にもかかわらず、ほとんど人気(ひとけ)のないこの静寂な風景には、自然と、人が作り上げたものとが、一つになって包み込まれているようで・・・堀辰雄の居た遠い時間と溶け合ってゆくような気がしました。
帰路に。

浄瑠璃寺の境内にもこうした参道にも猫たちが沢山いて、どの猫も全く人を警戒せず、当たり前のように共存する、のどかな風景です。
紫陽花が咲く頃も美しいのではと思います。皆様も一度そっと訪れてみてください。
おまけのお話
丹羽文雄をご存じでしょうか。繊細なロマンチストである堀辰雄の作風とは真逆の位置にある、一時は風俗小説と批判された作品世界を持つ作家ですが、彼の作品に、浄瑠璃寺が描かれているのを見つけました。
ある小説に出てくるフレーズ。
「鎌倉前期につくられた吉祥天像や、九躰仏をみることは、つけ足しです。ぼくのねがいは、九百十何年前につくられた、淋しい山寺のなかに、あなたをおいてみたかった」
何と言う口説き文句。何とも何ともなのです。


