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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

石刻の歳月 ~当尾と當麻(二)

   當麻(たいま) 二上山と中将姫(ちゅうじょうひめ)の伝説
 前回の記事石刻の歳月 ~当尾と當麻(一)の続きで、今日は當麻をご紹介しようと思います。
二上山
 當麻(たいま)は万葉の昔から神聖化されてきた二上山(ふたがみやま)の山麓の里です。

中将姫が織り上げたという曼荼羅図を本尊とする當麻寺(推古天皇20年(612)建立)と、同じく中将姫ゆかりの石光寺(白鳳時代の弥勒石仏が発掘されたことでも話題になった)を訪ねてみました。
中将姫
 藤原豊成(藤原不比等の孫)の姫君であると伝えられている中将姫ですが、その存在については今も謎に包まれています。
 その生い立ちや半生が詳細に語り伝えられているというものの、そもそも彼女は本当に実在したのか、これに似た境遇の人物がいて、その女性を中将姫として昇華し伝説化したのか、あるいは信仰の理想の姿として古人が作り上げた全くのフィクションだったのか、諸説入り乱れる中で、実際には存在しなかった「伝説上の姫君」だったのではというのが現在の定説のようです。

 容姿端麗、頭脳明晰で人格も崇高、誰からも敬愛される類まれな女性であったがゆえに継母から疎まれ、命まで脅かされる憂き目にあって、それでも慈愛深く、やがて尼として仏門に入り信仰を極めてゆく、そんな劇的な物語が、能、歌舞伎、浄瑠璃などにも脚色され、中将姫の名は時代を超え人々に広く知られ愛されてきました。日本人の判官びいきの資質が、義経伝説を作り上げたように、悲劇の姫君の出自は、理想の女性像・信仰の形を生み出していったのかもしれません。

 當麻の地では、あたかも実在した人物であるかのように、そこここに現在でも生きていることを感じました。
 「ここが、中将姫様が曼荼羅を織り上げる糸を染め上げた井戸」、「これがその糸を乾かした糸掛けの桜の木」というように・・・懐かしい人を偲ぶように語られていて、いにしえの平城京の風土、時間の向こうに呼び戻されるような一種の陶酔感を覚えた気がします。

 そして當麻の里を穏やかに囲む二上山は、皇位継承の争いに巻き込まれ若くして非業の死を遂げた大津皇子(おおつのみこ)が埋葬された地でもあり、姉の大来皇女(おおくのひめみこ)がその死を悼んで詠んだ、
 うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を 弟世(いろせ)とわが見む(『万葉集』巻2-165)
 の歌もよく知られています。

 當麻を訪れたいと思ったのは、実は久しぶりに釋超空(しゃくちょうくう)の小説『死者の書』(1939年)を手に取ったためでした。
 釋超空は民俗学の権威折口信夫(おりくちしのぶ)が、詩歌や小説などを執筆する時のペンネームなのですが、この小説の舞台となるのが當麻なのです。
 當麻の地と、當麻寺に伝わる當麻曼荼羅縁起や中将姫伝説に想を得て、死者である大津皇子が蘇り、姫に曼荼羅図を編ませ、それによっていにしえの魂の再生をみるという内容で、「幻想小説」などとも呼ばれている作品です。

 まずは「當麻寺」へと向かいました。
當麻寺1

 二上山を背にして東西2基の三重塔が立ち並ぶ伽藍配置が現存し、天平・白鳳様式をそのまま残しています。



當麻寺の僧坊「當麻寺 中の坊」に向かいました。
中の坊 誓いの石
 中将姫の一心に仏道を志す強い信念により、不思議にも石に足跡がついたとされる「中将姫誓いの石」

「中将姫さまが當麻曼荼羅に描いたほとけさまを描き写して頂きます」という写仏道場。
 そしてその天井には近現代の画家たちによる150枚にも及ぶ天井画が飾られていました。どれも色彩が優しく、極楽浄土の写し絵のようでした。
天井画 剃髪 
 中将姫剃髪堂も残されています。

 よく整えられた回遊式庭園。
中の坊庭園1 中の坊庭園4 中の坊庭園2

石塀に倒れかけた紅葉の木陰だけが苔むして美しく、静寂な時間が流れています。
塀の苔1 塀の苔2

釋
 帰り際、庭の一隅に釋超空の詠んだ和歌の碑を見つけました。中学生の頃、一年間、彼はこの當麻寺に寄宿していたとのこと、二十年前のその頃を懐かしく想うという歌ですが、『死者の書』の想も、この頃の思い出と繋がって生まれたのかもしれません。

石光寺

そしてすぐ近くの「石光寺(せっこうじ)」にも立ち寄りました。天智天皇の勅願で創建されたと伝わる古寺名刹です。




「糸掛け桜」「染の井」。
丁寧に保存されていて、やはり歴史の中で守り続けてきた中将姫への敬愛が感じられます。
中将姫3 中将姫2

石光寺の石仏の静かな佇まい。
地蔵様1 お地蔵様2

牡丹の庭
 「ぼたん寺」とも言われるほどの一面の牡丹が大木に育っていて、今は若葉が艶やかで見事でした。2000株という牡丹が一斉に花開く頃はどんなに華やかなことでしょう。
 中将姫を包みながら、平城京と牡丹の花々はとてもよく似合うと思いました。

   おまけのお話
 當麻寺 中の坊は、「陀羅尼助丸(だらにすけがん)」の発祥の地なのだそうです。
陀羅尼助丸というのは奈良で古くから伝わる皆が常備している漢方の胃腸薬。
ちょうど正露丸のような漢方独特の匂いがし、真っ黒ですが、正露丸よりずっと小さいけしの実状の粒で通常1回に30粒服用とありました。
陀羅尼助釜 陀羅尼助
 中の坊には役の行者が秘薬「陀羅尼助」を精製した際、水を清めて用いた井戸「役の行者加持水の井戸」や、薬草を煮詰めた「大釜」も残されていました。

陀羅尼助2   陀羅尼助
 私も祈祷済みの「陀羅尼助丸」を購入し、ちょっと食欲不振だったときに早速服用しました。
 とても効くような気がします。




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石刻の歳月 ~当尾と當麻(一)

 奈良に仮住まいしていつの間にか二か月が経とうとしています。
 あと半月・・・奈良での日々を惜しみつつボチボチまた出かけています。
 奈良というと古墳や陵墓のイメージが私には強いのですが、散策していると石畳、石塀、石仏・・・長い時の流れに磨かれてきた様々な石の情景を至る所で目にし、石の持つ静謐で柔和な表情を感じます。訪れてから少し日は経ってしまいましたが今日はそんな石たちを紹介したいと思います。

   当尾(とうの) ~石仏の笑い
 浄瑠璃寺に近いのに、前回立ち寄れなかった岩船寺を訪れました。
 浄瑠璃寺も岩船寺も、京都府と奈良県の境にある当尾(とうの)と呼ばれる地域にあります。
 平安遷都までは「山背国(やましろのくに)」と称されていた。南都仏教の影響を強く受け、平城京の外郭浄土として興福寺や東大寺にいた高僧や修行僧の隠棲の地となり、真の仏教信仰にそそがれた地域であった。
「当尾(とうの)」の地名は、この地に多くの寺院が建立され三重塔・十三重石塔・五輪石塔などの舎利塔が尾根をなしていたことから「塔尾」と呼ばれたことによる。


 岩船寺は、天平元年(729年)に聖武天皇が阿弥陀堂を建立させた時から始まると伝えられていますので、その歴史は半端ではありません。
笑い仏 見過ごしてしまいそうに密やかに道端に点在する摩崖仏を眺めながら石仏の道と呼ばれる岩船寺への参道を辿ります。阿弥陀三尊磨崖仏 (笑い仏)。よくよく眺めると確かに三体とも晴れやかに笑っていて、心和みます。なぜかこの地の石仏たちは微笑んでいるものが多く、この仏たちを昔年の石工はどんな思いで彫り削ったのでしょうか。
遠い昔に呼び戻される心地よさでいつまでも眺めていたい気がしました。

見上げると山門。
山門 山門2
そして、石段を登って山門にたどり着きました。
若葉と花々の向こうに朱塗り鮮やかな三重の塔がくっきりと。
本堂 池
阿字池と呼ばれる美しい池を挟んで本堂が凛として風景に溶け込んでいます。
岩風呂
修行僧が身を清めたという石風呂。

不動明王





 池を巡る小径の片隅に重文指定の石室不動明王立像。
 石に刻まれた不動明王の表情が歳月の中で神々しい優しさを生んでいると感じました。


これも重文の五輪塔。同じく十三重石塔。
  五輪塔   十三塔

庭のところどころに置かれた苔むした灯籠も、石仏同様に過ぎゆく歴史を見つめてきた風格に溢れています。
石塔  石仏2
 石を刻むという行為自体、とても原初的な作業であると思われますし、石を素材にすることで表現できるものもまた限られた素朴なものなのでしょう。 
 でもそれだからこそ伝わってくる力や想いがあり、それはもしかしたら祈りの本質なのではないか、とても唐突なのですが、そんなことを思いました。
 「大和はまほろば」という言葉が胸に入ってきます。

三重塔2 三重塔3 雪の下
岩船寺は「花の寺」、また別名「あじさい寺」と呼ばれており、四季折々様々な花咲き乱れ、あじさいは3000本に及ぶそうです。
私が訪れた時はまだ3分咲きでしたが、今はまさに満開でどんなにか美しい彩りを見せていることでしょう。
紫陽花

 本堂の前の花手水が美しい季節を映し出していました。

  




 

 次に「當麻」へと続きますが、長くなりますので一旦これで終えることとします。追って続きをUP致しますので、お楽しみになさってください。









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豪商の足跡 ~奈良今井町

   重要伝統的建造物群保存地区ということ
 大和まほろばを辿りたくてガイドブックを眺めていたら、「江戸時代に栄えた豪商の町、今井町」が目に留まりました。
 『古事記』『日本書紀』にも記されている古社寺、古墳群に囲まれた日本最古の道「山の辺の道」の風情こそが、私にとっての奈良、大和の原風景そのもの。 
称念寺2 懐古的気分の中で、この神々の道を静かに歩くことが、これまでの自分の奈良の醍醐味だった気がします。
 「江戸時代の繁栄を伝える町・今井町」という言葉は、そのようなイメージからは随分かけ離れているのですが、それで反対に興味を惹かれたのかもしれません。

 近鉄奈良駅から電車で約40分、近鉄八木西口駅で下車、「蘇武橋」と記された赤い橋を渡ると今井町の街並みが目に前に広がりました。
 今井町の成立は、天文年間(1532〜1555)に寺内町(寺を中心とした町)が建設されたことにはじまります。町の周囲に濠をめぐらせ、要塞化して織田信長に抵抗。その後、信長から自治権を認められ、大阪や堺とも交流が盛んになり、商業都市として江戸時代まで栄えました。現在も多くの民家が江戸時代以来の伝統様式を保っており、平成5年に重要伝統的建造物群保存地区にも指定されています。
  全建物戸数約760戸のうち、約500件の伝統的建造物が存在しており、これは地区内の数としては日本一を誇ります。当時の地元の建材を用い、職人の緻密な技術を施して建てられた家々は、土地の風土や自然、歴史を色濃く反映しており、民家建築の貴重な財産だといえます。


 どのような歴史もやがては次の時代の中で自然淘汰され、新たな時の流れの中に埋没していくものなのでしょう。
 まして歴史的建造物等は、その時代の雰囲気・匂いをも愛おしみながら後世に伝え残すという強い思いを、その土地に生きる人々と行政とが一体となって、よほどしっかりと持たない限りは、たとえ保存されたとしても、ただ過去のモニュメントとして、取って付けたものになってしまう危険がある気がします。

 でも、実際にはとても難しい。
 どのような土地も、まぎれもなく現在を生きているのですから、保存される歴史的建造物・町並みに隣接して、コンビニやマンションがあったとしても仕方のないことです。究極的には「歴史を生き生きと感じ楽しみながら、豊かに共存する」文化を、その土地が、日本という国が、どう育んでいるかが問われるのかもしれません。
 少し大げさかもしれませんが、そんなことを想いながら、色々な町並みを再発見するのってとても素敵なことのように感じます。

   豪商の町並み
 まずは町の観光協会に向かいました。
観光センター 『今井まちなみ交流センター華甍(はないらか)』と名付けられたこの建物、今井町の歴史を詳細に伝える資料館として公開され、威風堂々とした佇まいを見せていました。1903年(明治36年)に教育博物館として建てられ、昭和4年から今井町役場として使用されてきたそうです。
 見た途端、奈良ホテル(1909年に創業された辰野金吾の設計による関西屈指のホテル)と似ていると思いました。
 受付の若い女性は物腰がとても柔らかくて、わかりやすく今井町の概要を教えて下さったのですが、町への誇りのようなものが溢れていて、第一印象は上々です。
 今井町が現在のように町ぐるみで保存に取り組んだのはそれほど古くはなく、平成4年頃からだという事です。普通の住居でも、老朽化が進み改築を余儀なくされる場合、外壁の仕様・色合い・高さ・等の制限、町並み全体が統一感を持って、昔ながらの意匠である大きなひさしを設けることなど、町全体で景観を作っていくという取り組みが現在に至るまで生きていると聞きました。
町並み1 
今井町の町並みです。
 昔にタイムスリップしたようなこのような街並みは、多くの場合、観光地として、お土産物屋さんや食べ物屋さんが立ち並んだりしてにぎわうものですが、そういうお店も見当たらず、そして観光客の姿もほとんどなく、かといってさびれた感じは全くなく、穏やかに清廉に町の人たちが日々の生活を営んでいることにまず感銘を受けました。
町並み2


 玄関先に打ち水、紫陽花の花、多くの家の前にこのように花々が飾られています。



 看板もなかなか。
床屋さん、本屋さん、薬屋さん・・・普通に営業しています。
看板2  看板1
 軒先のあちこちにこんな燕の巣も見られました。のどかな囀り。
看板3   つばめ


寺内町である今井町の中心は、重要文化財にも指定されている称念寺です。 室町末期に一向宗本願寺の僧侶、今井兵部が建てた布教道場が始まりで、今井町はこの寺の寺内町として発展したのだと聞きました。
称念寺1 称念寺4
 明治10年には明治天皇が投宿した折、西南の役の勃発をここ称念寺で知らされたと伝えられています。
 称念寺もまた、幾星霜を経て静謐な佇まいを見せていました。

 今井町は、福岡・博多や大阪・堺と同様に、住民である豪商や町民が自治権を握る自治都市として、江戸時代にかけて大いに栄えた町。豪商たちの屋敷も当時の面影をそのままに大切に保存されています。
酒屋
 河合家住宅。江戸初期から現在に至るまで変わらず酒造業を営んでいます。

軒先には杉玉が端然と吊るされ、歴史を負った造り酒屋の風格を誇っているようでした。

 旧米谷家住宅。金物や肥料を扱っていた豪商の家。広い土間には当時のままのかまどや煙返しが残っていました。
かまd  蔵前座敷
 裏庭の土蔵の前には蔵前座敷。錠前がいかめしくかかった蔵を守るべく目を光らせ座していたのでしょうか。 
かいずかいぶき
 豊田家住宅。材木商を営み、藩の蔵元も務めていた豪商です。
 向かい側の豊田記念館の庭には樹齢250年というカイズカイブキの大木が。豪商であっても商人の家には松を植えることは許されなかった時代に松に見立てて丹精した木が今やこのような大木に育って時代を証明していると、現当主が語って下さいました。代々の当主の書画・骨董・古美術など貴重なコレクションの数々も公開中です。

 そして、今西家住宅。予約していなかったため見学はできませんでしたが、惣年寄筆頭として町の自治権を担った名家。

 藤村の『夜明け前』ではありませんが、歴史の中の繁栄と衰退の渦にこの町も巻かれてきたのでしょう。
 今、令和の時代の中で、この風土と調和しながら歴史の記憶を大切に、穏やかな営みを続けている・・伝統の保存という事の意味を考えた小さな奈良探訪でした。


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