

以前、片山さんとシャンソン談義をしていた時、ララ・ファビアンが大好きという彼女に、じゃあこれはどうかしら?と、「愛を失くす時」というタイトルで訳詞した曲を推薦したのですが、大いに気に入って下さり、今回、お披露目ということで、私も聴かせて頂こうと出掛けました。
和やかで楽しいコンサートでしたが、この曲は初披露ということで、片山さんも少し緊張していらしたご様子、でもとても丁寧に思いを込めて歌って下さって、素敵な仕上がりに客席からブラボーの声が沢山かかり、詩の生みの親としてはホッと一息、鼻高々でありました。
この日は実はもう一つ、とっても良いことがあったんです。
シャンソン歌手で訳詞家の別府葉子さんに、偶然お会いできたことです。
私、ずっと前から、隠れファンでして、もう何回かコンサートも聴きに行っていますし、素敵なブログを頻繁に更新していらっしゃって、彼女のブログの愛読者でもあります。
受付でお手伝いをなさっていらしたのですが、すぐに「おお~~~!!!」とわかりました。
この胸の高鳴りこそがファン心理なのだと大いに納得。
興奮してちょっと舞い上がった楽しい日でした。
そうしたら、別府さんもブログに「ブログ友達の松峰綾音さん」と書いて下さっていて、再び感激。(思わず今日の冒頭は、この日の別府さんのブログの第一行目をそのまま拝借してしまいました!)
コンサートを聴いて、触発された曲があり、数時間で訳詞を完成なさったとのこと、凄いですねえ!! 私もがんばろう~~
今日は、久しぶりに「訳詞への思い」・・・・「愛を失くす時」を取り上げてみようかと思います。
「 愛を失くす時 」
訳詞への思い<9>

原題は<Perdere L’amore>。
G..Artegiani作詞 M.Marrocchi作曲、Massimo Ranieri(マッシモ・ラニエリ)が歌っているカンツオーネで、1988年のサンレモ音楽祭での優勝曲である。
私はこの曲をLara Fabian(ララ・ファビアン)の歌唱で聴いたのが最初だったので、自分の中ではファビアンの曲という印象がとても強い。1996年の彼女のアルバム「Pure」に発表されている。
ファビアンはベルギー生まれ、カナダ国籍、父はベルギー系、母はイタリア系フランス人で、彼女自身、何カ国語も自由に操れるマルチリンガルであるが、この曲は原曲通りイタリア語で歌われている。
ファビアンの歌 ←よろしければクリックしてお聴き下さい。You tubeに繋がります。
ファビアンは、全曲英語で歌った2000年のアルバム「Lara Fabian」あたりから英語圏にも活動を広げ、かなりファン層を伸ばしているようだ。
やはり英語でないと、世界的にメジャーになっていくのは難しいのかもしれないけれど、私の中でのファビアンは、何といってもシャンソン=フランス語!という思いがあって、英語で歌うのを聴いてもどうもしっくりとなじめない。
・・・であるが、ファビアンの歌うカンツォーネは実はなかなか良く、圧倒的な声量と情感に溢れた歌唱を生かしたアレンジで、この曲は聴かせる。
Parole net(最近は著作権の問題で自由に使うことができなくなったのだが)の中に<Perdre l’amour>という題名でフランス語で翻訳されて載っているのを以前に見つけた。
私が訳した「 愛を失くす時 」はここから採ったものなのだが、念のためイタリア語専攻の友人に助けて貰いながら元のイタリア語にあたってみたところ、しっかりとニュアンスまでくみ取っているほぼ正確なフランス語訳であることがわかった。
その後、何人かの歌手が、このフランス語の歌詞でカバーしているのを聴いたことがあるが、ファビアン自身もフランス語で歌っているのだろうか?
そうなら是非聴いてみたい。
けれど、情念がめらめらと沁み渡ってくるような独自の節回しと、情熱的なメロディーに乗ってどこまでも歌い上げてゆくこの歌は、やはりカンツォーネ、イタリア語ならではという気もする。
マッシモ・ラニエリの歌からは、恋に破れたイタリア人男性の失意が伝わってくるが、私の訳詞の主人公は女性、女性側からの歌として作ってみた。
<Perdre l’amour>(愛を失う)・・・・・タイトルは「 愛を失くす時 」とした。
今まさに愛を失うその瞬間だと直感する時の、時間がそこで凍り付いてしまったような感覚。
ドラマの一シーンではないけれど、音も動きも静止して、ぐるぐる周りが回りだすようななんともいえない喪失感、意識が遠のいていくような虚脱感と敗北感。
言葉で言えば陳腐だけれど、自分の身に降りかかってくれば、これは奥底にぐさりと刻まれる消えない傷だ。
貴方の空に 私は居ない
あの愛も 貴方も何も見えない
夜が降りる 闇が深くなる
今 愛が消えてゆく 胸が張り裂ける
夢を失くして 愛を失くして
翼を 失くして 羽ばたけない
貴方を こんなにも
近くに感じているのに どうしてなの
主人公の女性は、その瞬間に立っている。
断崖に立ちすくんでいる。空と淵との間をみつめて。
voler(飛ぶ)、ciel(空)、aile(翼)、・・・
Ia nuit tombe(夜が落ちる)、その失意の暗闇で、彼女の中に耐えがたいほどの眩しく美しい空が広がっていく。
「貴方の空」を見続けている・・・それを何より詩の中で浮き上がらせてみたかった。
国木田独歩の小説に、『春の鳥』という短編がある。
六蔵という名の、精神に障害を持つ男の子が主人公なのだが、彼は鳥が大好きで、よく城跡に鳥を追いかけて遊んでいた。
ある日、主人公は城壁を落下した亡骸として発見されることになるのだが、その子の姿をいつも見続けてきた青年(語り手)は、彼はきっと鳥になって空を飛翔しようとしたのだと考える。そんなお話だ。
この曲の中の彼女は今、六蔵のようには空を飛べない。
愛は、いろいろな喜びや力を人にもたらす。ある時は空をも飛んでしまうのだろう。共にあるからこそ飛翔できる。
愛がまさに失われていくとき、心の中にこれまでの様々なものが崩れ落ちていくだろう。翼が折れていく音と痛みを感じるのだろう。もはや飛ぶ術を失って、しかし空はなお高く広がっていく。
「貴方を 今も 愛している」
・・・彼女は最後にそう叫ぶ。
『 愛を失くす時 』はそういう歌である。
Fin
(注 訳詞、解説について、無断転載転用を禁止します。
取り上げたいご希望、訳詞を歌われたいご希望等がある場合は、事前のご相談をお願いします。)


