

今日は6月30日、一年の前半が済んだところで、この半年間の身の穢れや災いを祓い、残りの半年を更に大過なく過ごそうという願いが込められた行事が、京都でも沢山の神社で執り行われています。
「茅の輪(ちのわ)くぐり」っていうのですが、ご存知ですか?
北野天満宮の茅の輪が京都では最大の大きさだと聞きましたが、上賀茂神社や車折神社等の茅の輪くぐりも人気スポットですので、今日はさぞ賑わっているのではないでしょうか?


・・・他人事のように言って、猛暑の中、今日は涼しい顔で家に籠っております。
実は、数日前、近くまで出掛けた折、平安神宮の側の岡崎神社で、しっかりと、
「水無月の夏越の祓する人は千歳の命延というなり(みなづきの なごしのはらへするひとは ちとせのいのち のぶといふなり)」
と唱えながら、古式に乗っ取り三回、茅で作った輪をくぐってきました。日にちが早かったので、境内はとても空いていましたし、禊(みそぎ)も済ませ、これで諸事災難を免れて、今年も後半年元気一杯で過ごせる筈です!!
後は、6月30日必須の和菓子<水無月>を買ってきて食べればパーフェクトです。
さて、今日も「紋次郎物語」・・・その八になりましたね。続きをお届けしたいと思います。
~その八 紋次郎との日々~
前回に続いて紋次郎のエピソードをご紹介してゆくことに致します。
思いつくまま、筆の進むままで、随分散漫な文章なのですが、ご容赦下さいね。
猫と言葉
以前の記事でご紹介しましたが、小説家阿部昭氏は、エッセイ『猫に名前をつけすぎると』の中で、「色々な名前で適当に呼ぶと、猫は自分の名前が何だか分からなくなって混乱してしまい、最後には呼んでも反応しなくなるから、一つの名前だけで呼んだほうが良い」と書いておられるのですが、その意味で言うと我が家の猫達は、実に可哀そうだったのではと思うのです。
紋次郎はというと、<もんじろう君><もんじろう><もんちゃん><もんち><じろうちゃん><もんちっち>・・・あとは覚えていませんが、みんなで、その時の気分に任せ、言いたい放題に呼びまくっていました。
けれど、どうやら、この全てが自分のことを指す言葉だと、紋次郎は明確に理解していたようです。
「目は口ほどに物を言い」と言いますが、<紋次郎>の場合は、目の表情と共に、耳と尻尾が、敏感に感情を表現していて、こちらの言葉を察知した時は、まず耳が瞬時に立ち、それと同時に尻尾がピクピクと動くので、彼が意識しているかどうかがすぐ伝わるのです。

「声に反応しているだけなのでは?」とか、「呼びかける音のイントネーションやアクセントの調子で判断できるのでは?」とか推測が飛び交いましたので、ではまたまた実験を・・・というわけで、弟と二人、紋次郎に背を向けたまま、普通の世間話の中に、極々淡々と、「じろう」とか「もんち」とかいう言葉をさりげなく差しはさんでみたり、色々なバリエーションで暇人ぽい実験を試みたのですが、敵もさるもの、やはりこちらにお尻を向けているくせに、自分の名前が出てくる瞬間、尻尾をピピッと動かして、ニャアと一声、ほとんどパーフェクトに反応するのでした。
更に高度な実験へと移り、・・・・彼は「紋次郎は本当におりこうさんだ」と言われるのが至上の喜びらしくて、このように褒められると、決まって後ろをプイと向いて聴こえないふりをするのに、尻尾がグルグル留まることなく廻って、「嬉しいよお。もっと言って~~!」と叫んでいるのが明々白々なので、ではとばかり、<「紋次郎は本当におりこうさんだ」と「紋次郎はお馬鹿で困ったものだ」とを聞き分けられているのか実験>も同じようなパターンで行ってみたことがありました。結果は、皆様、信じ難いでしょうけれど、本人の目を見てしっかり思いを込めて言った時とほぼ同じ位の抜群の的中率でした。
「お馬鹿・・・」の方は、可哀そうなくらいしょんぼりとうなだれて、遊びでこういうことをしてはいけないと、こちらが思い知らされたものでした。
動物も人と一緒に暮らしていると、いつの間にか人間の言葉を理解するようになるものなのかなと思います。
動物にも個性と能力には個体差がありますし、人の感情に敏感な性格なのかどうかにもよるようですが、<紋次郎>の場合は、割と初めからそういう傾向があり、それが月日が経つにつれ研ぎ澄まされてきたみたいです。(また後日、違うエピソードの中でこのお話をしてみますが)
交遊録
<猫の集会>ってご存知でしょうか。
猫は犬のように群れを作らない、孤高の動物ですが、それでもテリトリーははっきりしているらしく、縄張りの中での力関係や、それに伴う約束事も存在するようなのです。
<紋次郎>は飼い猫になったとは言っても、自由に外を駆け巡るノラの世界にも逞しく生きていましたので、夜になるとたぶん・・・集会に出掛けてゆきました。
負けん気の強い性格と、敏捷且つ頑強な体とで、段々とボス猫になっていったのではと思われます。・・・勿論詳しくはわかりませんけれど、・・・色々な猫と一緒にいて偉そうな顔をしている<紋次郎>と外で鉢合わせしたことが何回かあったのですが、そんな時の<紋次郎>は、完全に私を無視した素知らぬ顔で、思春期の男の子の照れ隠しのようで何だか面白かったです。家に戻ってくると、急に猫なで声で甘えてみたりして、彼の魂胆は見え見え、本当になんというか、人間臭い憎めない猫でした。
どこからか見慣れない猫が<紋次郎>を訪ねてくることも頻繁でした。相手の猫はおどおどして、親分への挨拶回りにきたような様子をしていました。
その中には牝猫も時々いるようで、<紋次郎>の気を引こうとしているのがよくわかり、それが色々な彼女に変わり、随分彼はもてていたみたいです。
こういう自然の儘の生活は、きっと、猫としては幸せだったのではないでしょうか。
やんちゃ者の日々
*食いしん坊で、好奇心旺盛な性格なので、きっと外で変なものをつまみ食いしていたのかもしれません。お腹をこわすことがとても多くて、そのつど、げっそりと見る影もなくやつれて、心配をかけるのですが、回復すると喉元過ぎればで、本当に懲りない困った子でした。
<猫吉>は全くそんなことはなかったので、同じ親から生まれたのにと、とても不思議な気がします。
*食事の時だけ戻ってきて、すぐ矢のように飛び出してゆき、血を流して傷だらけになって帰ってくることも、一年に数回ありました。
猫の恋の時・・・かな?・・・他の雄猫と恋の鞘当てをしていたようです。
何回治療をしてやったことか、そんな時はぼおっと脱力したまま、大人しく身を任せていて、本当に困った子でしたが、まさに<紋次郎>で、どこか可愛くもありました。
*お隣の家のガレージに入り込んだまま、閉じ込められて4日も飲まず食わずで、危うく死にかけたことなどもありましたし、・・・<紋次郎>のこの手の思い出は山のように浮かんできます。でも、色々な出来事をすり抜けながら、共に月日を過ごしていったのは、やはりそういう縁があったのかなと今、懐かしく思っています。
さて、この連載ももうすぐ終わりになりますが、まだあと少しだけ続きを書きますので、どうぞ最後までご一緒に見届けてくださいね。


