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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

「もう一つのアヴェ・マリア」

夕暮れのセーヌ川 開会式、素敵でしたね。
 聖火台への点火も圧巻でした。
 参加各国・各地域の名が刻まれているという204本の棒の先に点火された火が、中央へと立ちあがり大きな一つの炎となって集められていく演出には驚き、心を奪われました。
 火というものは、美しく荘厳で、不思議な象徴性を持つものですね。
 ポール・マッカートニーの歌うヘイ・ジュードもとても良かった。
 ここで、この歌か・・・ウ~~ン!!してやられた感じです。
 皆に親しまれていて、共に口ずさめて、懐かしさの中で温かい気持ちになれて、・・・歌の持つ底力を感じました。
 そして、既にサッカーも快挙、これからしばらくはオリンピック三昧になりそうです。

 4年前、8年前、12年前、・・・・観戦してきた私たちにとっても色々な歴史があり、様々な選手たちや競技の中での印象的な場面と共に、その時間・時代を過ごしていた自分の姿も改めて蘇ってくる気がします。
 これから4年後、8年後、・・・今というこの時はどのように思い出されるのでしょうか。どんな自分となって記憶を辿っているのでしょう。

 さて。
 盛り上がっているこの時期の話題としては、甚だ似つかわしくなくて、恐縮なのですが、前回の記事で、『次は 「祈り」という事に触れながら、アヴェ・マリアを歌った曲をご紹介したいです』とお話ししていましたね。
 「祈り」と言っても、宗教的に深い見識を持ったお話はできそうになく、ただ、これまで訳詞した曲の中から、 「祈り」、「アヴェ・マリア」が歌われているものを、ご紹介するだけになってしまうかもしれないのですが、 「訳詞への思い<10>」・・・いかにもシャンソン的な情念のこもった<un ave Maria>という曲を、今日はご一緒にいかがでしょうか?

   「もう一つのアヴェ・マリア」
             訳詞への思い<10> 


 この曲は、以前の記事、『愛を失くす時』でご紹介した歌手、ララ・ファビアンが歌っている曲である。
LARA FABIAN 「9」
 2005年に発表された彼女のCDアルバム「9」の中に採られた曲で,原題は<un Ave Maria >。
 当時、私は、ファビアンにとても嵌まっていて、このアルバムも発売のニュースを知ると同時に、勇んでフランスにネット注文して手に入れた、宝物のようなアルバムだった。
 アルバムジャケットはファビアンの大胆な裸体の写真で飾られており、これまでのイメージからは意表を突いていて、かなり驚いたが、更なる飛躍を目指した彼女の野心作であったのかもしれない。
 このアルバムに収められた全9曲は、いずれもなかなか良いのだが、中でも、私はこの<un Ave Maria >が特に気に入って、『もう一つのアヴェ・マリア』というタイトルで早速訳詞を作ってみた。


   タイトルについて
 <un Ave Maria >は、直訳すれば「一つのアヴェ・マリア」という意味になる。
 シューベルト、グノー、カッチーニ・・・・クラッシックには< Ave Maria >というタイトルの曲が数多くあるが、この曲の場合には「一つ」という冠詞の<un>が付いていることが曲者で、良く考えると、なかなか意味深長だ。

 unは男性形不定冠詞なので,「一人の」マリアではあり得ない。
 やはり、「一つの」なのだが、何を指しているのだろう?
 彫像としての「マリア像一体」か、或いは「祈祷文一つ」と解釈することも可能かと思われる。
 「一つのアヴェ・マリア」は「アヴェ・マリアという祈り」を指していると考えてみたらどうだろう?

 「めでたし聖籠(せいちょう)満ち充てるマリア・・・」で始まる『天使祝詞』という祈りがある。
 処女マリアに父なる神から,神の子の懐妊が告げられたとき,天使が降臨して彼女に祝辞を述べるその祈りである。神の子を育むマリアの栄光を称え,罪深い我らをも温かく見守り導きたまえと無心に祈る祈りである。

 その昔、中学高校の頃(カトリック校だったので)、毎朝の朝礼時に至極当然にこの祈りを唱えていたのを懐かしく思い出す。
 この祈りを当時、私達生徒は、「めでたしの祈り」「マリア様の祈り」と言っていた。
 <un Ave Maria >は『アヴェ・マリアという祈り』『アヴェ・マリアへの祈り』あるいは、『或る天使祝詞』と考えても良いかもしれない。
 
   祈りについて 
 この曲のサビの部分を、かなり意訳なのだが、イメージを尊重しながら次のように訳詞してみた。

   アヴェ・マリア
   私たちに届けられた あなたの手紙
   祈ることを忘れた心に 言葉よ 響け
   救い給え アヴェ・マリア


 この歌は全体を通して、<聖母よ 罪人なる我らを救いたまえ>と言っていて、その意味では,既に歌詞自体が「めでたし」の祈りそのものであるともいえるかもしれない。しかし,マリアに祈り続ける曲中の「私」からは,<暢気な女学生>とは違う特殊な事情,何か深い影というか傷を感じてしまう。
 
 更に訳詞は次のように続く。


   アヴェ・マリア
   淫らな歌しか 歌えない者のために
   不毛の愛を 彷徨うだけの 私のために
   救い給え アヴェ・マリア


 ここまでくると、曲中の「私」に、切羽詰まった懊悩が垣間見えてくる。
 成就しえない<不毛の愛>を抱えた女が、マリアに何をどう祈るのか、というところから、シャンソンとしてのドラマと凄みが生まれて来るのを感じる。

 「私」は、<人は理性を超えた肉体と愛情との果てしない抱擁の中から生まれてくる>のに,<一旦生を受けたときから,様々な愛憎の苦悩に翻弄される>ことになると感じている。そして、信仰心がなく,祈ることを知らず,人の心に届く言葉を発することもなく,美しい音楽を奏でることもない,<淫らな人々>を救い給えとマリアに一心に祈っている。
 
 けれど、いかんともし難い煩悩にうめき,闇をさまよっているのは「人々」ではなく実は「私」自身であり、この祈りは,他者のための祈りではなく,「私」自身の救済を求める祈りなのでもあるのだろう。

 重く切迫したメロディーと、陰を含んだ言葉とが、<不毛な>ものの匂いを更に強く醸し出してゆく気がする。

 誰かの幸せのためではなく,自分だけにとらわれ自分を離れられない祈りとは,極言すれば,我欲=我への執着に繋がってゆくことにもなるだろう。
 渇望が渇望を生み続けるだけで,本当に救われることは難しく,そのような二律背反の匂いを,どうしてもここからは感じてしまう。

 この曲の主人公の「私」は行き場のない愛の闇を彷徨い続け,それはもはやマリアによって救われる闇ではなく,それを知りつつ,マリアの悲しい眼差しを感じつつ,やはり救い給えと念じ続けざるを得ない。
そんな行き所のない女性の姿が、歌の中から浮かんでくる気がした。
 
   黒衣聖母
 飛躍するが、芥川龍之介の作品に『黒衣聖母』という短編小説がある。
 麻利耶観音(マリヤかんのん)と呼ばれる、切支丹禁制時代に作られた聖母像を前にして、そのミステリアスな伝説が語られてゆくという筋立てなのだが、物語の聞き手は、この麻利耶観音にどこか独特の悪意に満ちた嘲笑の表情があると感じている。
 物語は、このマリア像を所有していた江戸時代末のある素封家の老婦人の話へと遡る。幼い孫が、重い病にかかって明日をもしれない状態となり、これを嘆く彼女は、このマリア像に一心に願をかけるというところから始まってゆく。
 如何にも芥川らしい、鋭くシニカルな味付けと気味の悪い結末が用意されていて、紹介したいのはやまやまなのだが、こういうミステリーに種明かしはご法度かもしれないので、興味のある方は直接読んで頂くこととし・・・・最後の謎解きに、マリア像の台座に「汝の祈祷 神々の定め給う所を動かすべしと望む勿れ」という銘が刻まれていたと記され締めくくられる。
 「神が定めたことを人は動かそうと願ってはならない」というわけだ。

 芥川ならこの曲<un Ave Maria >の女主人公の祈りをどう断ずるのだろうかと少し興味深い。


 今回のこの曲の訳詞については、原詩からの自分のイメージを敢えて優先することにしたのだが、この曲を通して「私」が呻くように唱え続けるもう一つの天使祝詞・・・「もう一つのアヴェ・マリア」を伝えてみたいと思った。

 これも,やはり切なく悲しい、祈りの形なのではないかと思われてならない。

                          Fin

 (注 訳詞、解説について、無断転載転用を禁止します。
  取り上げたいご希望、訳詞を歌われたいご希望がある場合は、事前のご相談をお願い致します。)


(最後に、ファビアンの歌っている<un Ave Maria >のyoutubeを参考に載せておきます。よろしかったら下記をクリックしてお聴きください。)
   http://www.youtube.com/watch?v=UMafgiNsRTw




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