
いよいよ、訳詞コンサート『ゲンズブール・イノセント』の準備が佳境に入ってきました。
これからしばらくは、流行作家みたいに締切りに追われる日々が待っているのではと、・・・・と言っても、編集者が原稿取りにくるわけでなく、勝手に想定したタイムスケジュールが、押しているというだけのお話なのですが。
私のコンサートは、「無から有を」の精神で、手作りで行っています。
まずは、曲の発掘・訳詞作り・譜面起こし、という風に歌う曲自体の創造(エラそうですねえ)から始まり、次に、・・・三浦先生にご相談しながら、企画・構成・演出・ステージングを練り、そしてその他・・・共演者やスタッフとの打ち合わせ、フライヤー・プログラム原稿の作成、チケットの案内発送作業、会場関係、会計、外部との折衝など、とにかく、コンサートをゼロからスタートするにあたって、必要なことをただひたすら時間とにらめっこしながらこなしてゆく日々なのです。
勿論これは、いつも気持ちよく助けてくれる、良き友人、そして信頼できるスタッフという力強い仲間がいてくれるからできることなのですが。
・・・で、もうご存知かと思いますが、何にでも変に凝り性で、のめり込んでしまう質(たち)ですので、一つずつの事柄に、あり得ないほどエネルギーがかかったりするのです。でも・・・そういうプロセスこそが私は結構好きで、本当はとても楽しんでいるみたいです。
合言葉は、「少年よ大志を抱け」(この場合、実年齢を問う必要はありません)
やがて、「精神一到、何事か成らざらん」「実行あるのみ」
追い詰められると、「心頭滅却すれば火もまた涼し」
そのうちヤケになり、「燕雀(えんじゃく)安(いずく)んぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」(「ツバメや雀なんぞには、所詮、鷹や鷲の深遠な志はわかるわけはない」みたいな、考えようによってはかなり上から目線的な問題な故事成語です)
最後はもう、「明日は明日の風が吹く」「果報は寝て待て」の悟りというより半分諦めの境地へと辿りつきます。
今は、「心頭滅却すれば」あたりの第三段階に入った頃でしょうか?
それで、目下、コンサートで配布するプログラム冊子の執筆中です。
プログラム作成
前回の『恋するバルバラ』コンサートのプログラムはこちらです。
コンサートの主旨、特集したバルバラの紹介、コンサートで歌う曲の訳詞解説を丁寧に説明してあります。
<こんな魅力的な歌手や作曲者作詞者がいる、素敵な音楽や詩がある>、それを発見し、その素晴らしさを多くの方と分かち合いたいという思いが、私の活動の源ですので、探し当てたとびきりのものをどうすればよりよく味わっていただけるか、訳詞コンサートの創意工夫はそこに尽きます。
プログラムに解説を記すことが、その出会いへの一助となればと願っているのですが。
そんなわけで、今取りかかったところです。
わかっていたはずでも意外にうろ覚えだったりしますので、制作年や、名前の綴りに至るまで、一つずつの確かめも含め、完成までにはまだ少し時間がかかりそうです。
原語か訳詞か
私は、すべての曲を自分の日本語詩で歌っているのですが、一般には、フランスの歌はフランス語で、原語で歌わなければ本当には伝わらないのではという考えも、根強くあるようです。
その際、フランス語の押韻などを例にとって、フランス語は音の響きが命で、日本語ではその良さが伝わらず、つまらない歌になってしまう。また、独特のフランス語のニュアンスや感性は日本語に直すのは不可能だから、シャンソンの場合、日本語で歌うべきでないという極論も聞いたことがあります。
けれど、素晴らしい押韻の文化は日本語にもありますから、これだけをもって、フランス語の方が優れた言語だと短絡的に断ずるのは早計と思われます。
そのような特徴も含め、より適切に、原語の感性が伝わる日本語で表現する方法を探り、訳詞に携わってゆきたいです。
勿論、どれだけ忠実に日本語に置き換えたとしても、国民性の違い、生活習慣や文化的差異がある以上、フランス語と全く同様のニュアンスを伝えることは難しいでしょう。これを突き詰めて行くと、「だから全ては原語以外意味がないのだ」という理屈に繋がってゆくことにもなります。
本物をそのまま生で味わうということの意味は充分わかるのですが、それにしても、シャンソンは特に言葉・・・・その意味や味わいの持つ比重が大きいですし、受け手がその言語を理解できず、ただ音として言葉を聞いた時、それでも原語で歌うことだけが、本当にその歌をより良く伝えていくことになるのでしょうか。
そんな中で、「訳詞」を考えてみるとき、今度は、対訳をそのまま当てはめた訳詞にしてゆくか、作詞の色合いを加えて行くかが問題になってくるのだと思います。
「言葉への深い理解と、詩への鮮明なイメージを持つこと」が今のところの私の解決策です。
そんな思いを抱きながら、日々奮闘しております。
(これからもこの話題は取り上げたく思っています。)
ところで、『空白の10日間』というタイトルで、訳詞の作業現場について以前触れたことがありました。(よろしかったらクリックしてみてください。)
この中で、夕鶴の主人公、「つう」が機織り部屋に籠(こも)って、自らの羽を抜いて反物に織り上げるという話をしましたが、いよいよ私もこんな心境です。
しばらく籠ってプログラムを完成させたいと思いますので、しばしお待ちください。織り上がりましたらすぐご報告致します。
いつものお籠りグッズを一部公開してみます。
歌舞伎座土産の愛用の手ぬぐい。自分で焼いた清水焼のお茶碗。効いているかよくわからない漢方の健康茶。お菓子の詰まった缶。 いつも側にある仏和辞典・辞書四冊です。
おまけのお話
東京から遊びに来ていた友人から昨晩電話があり、「明日朝付き合って~」とのこと。
お馴染みのイノダコーヒで観光客に大人気の『京の朝食』を食べに行きたいからとのことでした。近いですし、出陣前の気分転換に、今朝は友人との会話と美味しいコーヒーで朝食を。注文の時に断らないとミルク・お砂糖入りのコーヒーが出てくるのでご注意を。でもこの割合が究極の組み合わせだそうで、また美味しいのです。
さあ、これから頑張りたいと思います。
これからしばらくは、流行作家みたいに締切りに追われる日々が待っているのではと、・・・・と言っても、編集者が原稿取りにくるわけでなく、勝手に想定したタイムスケジュールが、押しているというだけのお話なのですが。
私のコンサートは、「無から有を」の精神で、手作りで行っています。
まずは、曲の発掘・訳詞作り・譜面起こし、という風に歌う曲自体の創造(エラそうですねえ)から始まり、次に、・・・三浦先生にご相談しながら、企画・構成・演出・ステージングを練り、そしてその他・・・共演者やスタッフとの打ち合わせ、フライヤー・プログラム原稿の作成、チケットの案内発送作業、会場関係、会計、外部との折衝など、とにかく、コンサートをゼロからスタートするにあたって、必要なことをただひたすら時間とにらめっこしながらこなしてゆく日々なのです。
勿論これは、いつも気持ちよく助けてくれる、良き友人、そして信頼できるスタッフという力強い仲間がいてくれるからできることなのですが。
・・・で、もうご存知かと思いますが、何にでも変に凝り性で、のめり込んでしまう質(たち)ですので、一つずつの事柄に、あり得ないほどエネルギーがかかったりするのです。でも・・・そういうプロセスこそが私は結構好きで、本当はとても楽しんでいるみたいです。
合言葉は、「少年よ大志を抱け」(この場合、実年齢を問う必要はありません)
やがて、「精神一到、何事か成らざらん」「実行あるのみ」
追い詰められると、「心頭滅却すれば火もまた涼し」
そのうちヤケになり、「燕雀(えんじゃく)安(いずく)んぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」(「ツバメや雀なんぞには、所詮、鷹や鷲の深遠な志はわかるわけはない」みたいな、考えようによってはかなり上から目線的な問題な故事成語です)
最後はもう、「明日は明日の風が吹く」「果報は寝て待て」の悟りというより半分諦めの境地へと辿りつきます。
今は、「心頭滅却すれば」あたりの第三段階に入った頃でしょうか?
それで、目下、コンサートで配布するプログラム冊子の執筆中です。
プログラム作成

コンサートの主旨、特集したバルバラの紹介、コンサートで歌う曲の訳詞解説を丁寧に説明してあります。
<こんな魅力的な歌手や作曲者作詞者がいる、素敵な音楽や詩がある>、それを発見し、その素晴らしさを多くの方と分かち合いたいという思いが、私の活動の源ですので、探し当てたとびきりのものをどうすればよりよく味わっていただけるか、訳詞コンサートの創意工夫はそこに尽きます。
プログラムに解説を記すことが、その出会いへの一助となればと願っているのですが。
そんなわけで、今取りかかったところです。
わかっていたはずでも意外にうろ覚えだったりしますので、制作年や、名前の綴りに至るまで、一つずつの確かめも含め、完成までにはまだ少し時間がかかりそうです。
原語か訳詞か
私は、すべての曲を自分の日本語詩で歌っているのですが、一般には、フランスの歌はフランス語で、原語で歌わなければ本当には伝わらないのではという考えも、根強くあるようです。
その際、フランス語の押韻などを例にとって、フランス語は音の響きが命で、日本語ではその良さが伝わらず、つまらない歌になってしまう。また、独特のフランス語のニュアンスや感性は日本語に直すのは不可能だから、シャンソンの場合、日本語で歌うべきでないという極論も聞いたことがあります。
けれど、素晴らしい押韻の文化は日本語にもありますから、これだけをもって、フランス語の方が優れた言語だと短絡的に断ずるのは早計と思われます。
そのような特徴も含め、より適切に、原語の感性が伝わる日本語で表現する方法を探り、訳詞に携わってゆきたいです。
勿論、どれだけ忠実に日本語に置き換えたとしても、国民性の違い、生活習慣や文化的差異がある以上、フランス語と全く同様のニュアンスを伝えることは難しいでしょう。これを突き詰めて行くと、「だから全ては原語以外意味がないのだ」という理屈に繋がってゆくことにもなります。
本物をそのまま生で味わうということの意味は充分わかるのですが、それにしても、シャンソンは特に言葉・・・・その意味や味わいの持つ比重が大きいですし、受け手がその言語を理解できず、ただ音として言葉を聞いた時、それでも原語で歌うことだけが、本当にその歌をより良く伝えていくことになるのでしょうか。
そんな中で、「訳詞」を考えてみるとき、今度は、対訳をそのまま当てはめた訳詞にしてゆくか、作詞の色合いを加えて行くかが問題になってくるのだと思います。
「言葉への深い理解と、詩への鮮明なイメージを持つこと」が今のところの私の解決策です。
そんな思いを抱きながら、日々奮闘しております。
(これからもこの話題は取り上げたく思っています。)
ところで、『空白の10日間』というタイトルで、訳詞の作業現場について以前触れたことがありました。(よろしかったらクリックしてみてください。)
この中で、夕鶴の主人公、「つう」が機織り部屋に籠(こも)って、自らの羽を抜いて反物に織り上げるという話をしましたが、いよいよ私もこんな心境です。
しばらく籠ってプログラムを完成させたいと思いますので、しばしお待ちください。織り上がりましたらすぐご報告致します。

いつものお籠りグッズを一部公開してみます。
歌舞伎座土産の愛用の手ぬぐい。自分で焼いた清水焼のお茶碗。効いているかよくわからない漢方の健康茶。お菓子の詰まった缶。 いつも側にある仏和辞典・辞書四冊です。
おまけのお話
東京から遊びに来ていた友人から昨晩電話があり、「明日朝付き合って~」とのこと。


お馴染みのイノダコーヒで観光客に大人気の『京の朝食』を食べに行きたいからとのことでした。近いですし、出陣前の気分転換に、今朝は友人との会話と美味しいコーヒーで朝食を。注文の時に断らないとミルク・お砂糖入りのコーヒーが出てくるのでご注意を。でもこの割合が究極の組み合わせだそうで、また美味しいのです。
さあ、これから頑張りたいと思います。


