
今年の桜は遅いのでは、とのもっぱらの予想を裏切り、先週辺りから突然の開花、東京はもう満開で、春爛漫ですね。
京都は東京より気温が低いので・・・と友人に触れ回っていたら、こちらも数日前から一斉に開き始め、お花見にゆく間もなく、過ぎてしまいそうです。
昨日、出かけたときの高瀬川沿いの薄暮の中の桜です。
『巴里野郎』の近くのちょっと粋な散歩道、ライトアップ始めていますね。
今日は花冷えですので、もうしばらく持ち堪えて、4月1日のライヴの頃に満開になってくれるかもしれません。
さて、前回の『ノートルダム・ド・パリ』1 ミュージカルまで に続いて、今日は、ミュージカル『ノートルダム・ド・パリ』のご紹介をしてみたいと思います。
スペクタクル・ミュージカル
2月のコンサート、『ゲンズブール・イノセント』を頑張って終えた自分への・・・自分たちへのご褒美に、・・・・ずっと前からチケットを手配し、この日を楽しみにして、共演者の石川さんと渋谷の東急シアターオーブにいそいそと観にゆきました。
前から7列目の真ん中。圧倒的な臨場感。
「私のために演じてくれている!」「私のことを見つめて歌っている!」と本気で信じたくなるような、演者の息づかいや表情、体温まで感じられてくる特等席でした。
チラシには、魅力的なキャッチフレーズがぎっしりと詰まっていて、読んでいるとこれは観ないわけにはゆかぬ!という気分にさせられます。
たとえばこのようです。
フランスより初来日 引っ越し公演 ミュージカル・スペクタキュラー
レ・ミゼラブルのヴィクトル・ユーゴーが描いたもう一つの愛の物語
世界で800万人が涙した 心を揺さぶる、狂おしいほどの愛の物語
壁面や空中で展開するアクロバティックな演技は圧巻!
フランスで音楽チャート17週連続NO,1を記録した伝説のメロディー
さて、まず、<ミュージカル・スペクタキュラー>とは?ということですが。
「ミュージカル」と言えば、セリフと歌とダンスによって成り立っていて、舞台の役者は、場面に応じて、踊ったり、歌ったり、セリフを語ったり、演技をしたりする、それらが融合したもの・・・というイメージが一般的ですね。
その草分けであり、頂点にあるのはブロードウェイミュージカルなのでしょう。
けれど、音楽、特にミュージカルに関しては、アメリカとフランスは水と油、お互い反目し合っているところがあるようで、「フランスミュージカルは、ブロードウェイとはひと味違うぞ」「質を異にするのだぞ」という決然たる意思表明が、この<スペクタキュラー(スぺクタクル)>という言葉に込められている気がひしひしとしてきます。
では、『ノートルダム・ド・パリ』が<ブロードウェイ・ミュージカル>と大きく異なる点はどこかというと、分業化しているということでしょうか。
この『ノートルダム・ド・パリ』は、全52曲という膨大な曲数が二時間強の公演の中で歌われているのですが、役者=歌手全員に、一言のセリフもなく、また、多少の動きはあるものの、本格的な踊りもなく、ただひたすら歌い続けるだけ。歌だけで物語を紡いでゆくのです。
一方、踊る人=ダンサーは踊ることだけに徹して、物語の中の、押し寄せてくるジプシーの一群の様でありつつ、ある時は、踊りが物語に先行し、ある時はそれぞれの歌の象徴となって、激しく狂おしく踊り続けています。
小窓がくり抜かれた、ノートルダム聖堂の石壁を模した壁面が、舞台の背景に据えられていて、それを命綱をつけて縦横無尽にクライミング・ウォールのように踊り回り(踊りと言うよりパフォーマンスと言ったほうが的確かもしれませんが)ます。
鐘楼の場面では、高い舞台の天井から吊り降ろされたいくつもの大きな鐘にぶら下がって、空中ブランコのように自在に揺り動かすその様は、さながら、「シルク・ド・ソレイユ」・・・と、どこかにも書いてありましたが、確かにアクロバティックな動きで、聖域が崩壊されてゆく激しいエネルギーや、愛憎の炎に支配されて進行する物語を象徴するかのようで、踊りそのものにも、心を奪われます。
このミュージカル『ノートルダム・ド・パリ』は、全体として、『音楽劇』というよりは、歌と踊りが分化し、それぞれが妥協のない緊迫感の中で融合し、ギリギリの均衡を保っている『歌舞劇』であるという印象を、私は強く持ちました。
そして、こういうフランスのミュージカルのあり方は、バレエの国、オペラの国であるフランスならではの、イマジネーションが先行する芸術に繋がる気がしています。
つまり、バレエなら、セリフを使わず肉体表現だけで世界を表出させてゆくわけですし、オペラであれば、歌で語ることによって、よりリアルな現実と、心象世界までも想像させてゆくのでしょう。
勿論、一人の演者が、歌い、踊り、語ったほうが、本来は整合性があるわけで、自然なリアリズムが生れるはずですから、ある意味、『ノートルダム・ド・パリ』のやり方は、リスクを冒していることになるのでしょうけれど、ここには、歌と踊りが、それぞれに最大限に力を発揮し、そこから生み出されるイメージが倍加される面白さ、可能性があるようにも思いました。
・・・話はどこまでも暴走して止まらなくなりそうです。・・・・何だか分かりにくくなってしまいそうですので、ここで一度、止めることにします。
続きは既に書きましたので、明日すぐにアップしたいと思います。
どうぞ明日もお読みになって下さいね。
京都は東京より気温が低いので・・・と友人に触れ回っていたら、こちらも数日前から一斉に開き始め、お花見にゆく間もなく、過ぎてしまいそうです。
昨日、出かけたときの高瀬川沿いの薄暮の中の桜です。


『巴里野郎』の近くのちょっと粋な散歩道、ライトアップ始めていますね。
今日は花冷えですので、もうしばらく持ち堪えて、4月1日のライヴの頃に満開になってくれるかもしれません。
さて、前回の『ノートルダム・ド・パリ』1 ミュージカルまで に続いて、今日は、ミュージカル『ノートルダム・ド・パリ』のご紹介をしてみたいと思います。
スペクタクル・ミュージカル
2月のコンサート、『ゲンズブール・イノセント』を頑張って終えた自分への・・・自分たちへのご褒美に、・・・・ずっと前からチケットを手配し、この日を楽しみにして、共演者の石川さんと渋谷の東急シアターオーブにいそいそと観にゆきました。
前から7列目の真ん中。圧倒的な臨場感。
「私のために演じてくれている!」「私のことを見つめて歌っている!」と本気で信じたくなるような、演者の息づかいや表情、体温まで感じられてくる特等席でした。

たとえばこのようです。
フランスより初来日 引っ越し公演 ミュージカル・スペクタキュラー
レ・ミゼラブルのヴィクトル・ユーゴーが描いたもう一つの愛の物語
世界で800万人が涙した 心を揺さぶる、狂おしいほどの愛の物語
壁面や空中で展開するアクロバティックな演技は圧巻!
フランスで音楽チャート17週連続NO,1を記録した伝説のメロディー
さて、まず、<ミュージカル・スペクタキュラー>とは?ということですが。
「ミュージカル」と言えば、セリフと歌とダンスによって成り立っていて、舞台の役者は、場面に応じて、踊ったり、歌ったり、セリフを語ったり、演技をしたりする、それらが融合したもの・・・というイメージが一般的ですね。
その草分けであり、頂点にあるのはブロードウェイミュージカルなのでしょう。
けれど、音楽、特にミュージカルに関しては、アメリカとフランスは水と油、お互い反目し合っているところがあるようで、「フランスミュージカルは、ブロードウェイとはひと味違うぞ」「質を異にするのだぞ」という決然たる意思表明が、この<スペクタキュラー(スぺクタクル)>という言葉に込められている気がひしひしとしてきます。
では、『ノートルダム・ド・パリ』が<ブロードウェイ・ミュージカル>と大きく異なる点はどこかというと、分業化しているということでしょうか。
この『ノートルダム・ド・パリ』は、全52曲という膨大な曲数が二時間強の公演の中で歌われているのですが、役者=歌手全員に、一言のセリフもなく、また、多少の動きはあるものの、本格的な踊りもなく、ただひたすら歌い続けるだけ。歌だけで物語を紡いでゆくのです。
一方、踊る人=ダンサーは踊ることだけに徹して、物語の中の、押し寄せてくるジプシーの一群の様でありつつ、ある時は、踊りが物語に先行し、ある時はそれぞれの歌の象徴となって、激しく狂おしく踊り続けています。

小窓がくり抜かれた、ノートルダム聖堂の石壁を模した壁面が、舞台の背景に据えられていて、それを命綱をつけて縦横無尽にクライミング・ウォールのように踊り回り(踊りと言うよりパフォーマンスと言ったほうが的確かもしれませんが)ます。

鐘楼の場面では、高い舞台の天井から吊り降ろされたいくつもの大きな鐘にぶら下がって、空中ブランコのように自在に揺り動かすその様は、さながら、「シルク・ド・ソレイユ」・・・と、どこかにも書いてありましたが、確かにアクロバティックな動きで、聖域が崩壊されてゆく激しいエネルギーや、愛憎の炎に支配されて進行する物語を象徴するかのようで、踊りそのものにも、心を奪われます。
このミュージカル『ノートルダム・ド・パリ』は、全体として、『音楽劇』というよりは、歌と踊りが分化し、それぞれが妥協のない緊迫感の中で融合し、ギリギリの均衡を保っている『歌舞劇』であるという印象を、私は強く持ちました。

そして、こういうフランスのミュージカルのあり方は、バレエの国、オペラの国であるフランスならではの、イマジネーションが先行する芸術に繋がる気がしています。
つまり、バレエなら、セリフを使わず肉体表現だけで世界を表出させてゆくわけですし、オペラであれば、歌で語ることによって、よりリアルな現実と、心象世界までも想像させてゆくのでしょう。
勿論、一人の演者が、歌い、踊り、語ったほうが、本来は整合性があるわけで、自然なリアリズムが生れるはずですから、ある意味、『ノートルダム・ド・パリ』のやり方は、リスクを冒していることになるのでしょうけれど、ここには、歌と踊りが、それぞれに最大限に力を発揮し、そこから生み出されるイメージが倍加される面白さ、可能性があるようにも思いました。
・・・話はどこまでも暴走して止まらなくなりそうです。・・・・何だか分かりにくくなってしまいそうですので、ここで一度、止めることにします。
続きは既に書きましたので、明日すぐにアップしたいと思います。
どうぞ明日もお読みになって下さいね。


