
名残の桜・・・
散り際の桜の風情にもまた、何とも言えない思いを掻き立てられますね。はかなげというよりはむしろ、妖艶な凄さを感じてしまいます。
謡曲の『桜川』は、生き別れになった我が子、桜子を探し、桜川のもとまで彷徨ってきた母親が、ついには悲しみのあまり気がふれてしまい、水に流れる桜の花びらをすくい取りながら物狂いの舞を踊るという哀れな物語です。
また、夜の桜の下を通ると気が狂うというタブーや、その禁を犯した者は不思議な魔力にかかって身を滅ぼすというような、如何にもという怪談めいた恐ろしげなお話もどこかで聞いたことがあります。
「ぱっと咲いてぱっと散る」とよく言いますが、散る桜の中に狂気を見るという感覚は、日本人特異な感じ方みたいで、私にも何となく頷ける気がします。
咲くも散るも、他の花とは違った不思議な特別なエネルギーを感じるのでしょうか?
ちょっと脱線。
そういえば、シャンソンにも色々な花が登場しますが(春ならリラが一番人気でしょうか)、いずれも、恋心と重ね合わせたりしながら美しく咲く花を歌っているものが圧倒的で、散る花に狂気を・・・のような奇妙な感性とは無縁なのではと思います。
それでも無理やり思い出すなら、プレヴェール作詞の『枯葉』・・・・これは確かに、舞い落ちる枯葉にこと寄せて歌っていて、日本でも最もシャンソンらしいシャンソンとして人気NO.1の代表曲ですね。
でも理屈を言うなら。
・・・・二人が恋人同士だった日々から今は遠く、思い出と悲しみだけが枯葉と共に吹き寄せられて、それも北風が忘却の夜へと運び去ってゆく、という儚い枯葉に自分を映した歌であり、主体は勿論、枯葉ではなく人にあるといえるでしょう。
(よく歌われている岩谷時子さんの訳詞は「はかなくただ散りゆく 色褪せた落ち葉」という歌詞で閉じられていて、原詩よりかなりはっきりと枯れ落ちてゆく木の葉のセンチメンタルなイメージを打ち出していると思われます。)
これと比べて、先の桜の話からも、・・・短絡的かもしれませんが、・・・自然万物には魂が宿り、それは人を越えた圧倒的力を持っていて、その不思議な力に包まれて人は生きているという、日本人にはそんなアニミズム的感覚があるように思われてしまいます。
偉そうに言うなら,<自然と人間との対峙の仕方の,西洋と東洋の在り方の違い>でしょうか?大げさですけれど。
桜の狂気というお話に戻って。
坂口安吾の小説に『桜の森の満開の下』という作品があります。
山賊の頭領が主人公なのですが、彼は、自らが略奪した美女にすっかり心を奪われ、彼女の言いなりになってしまいます。この女性は実はとんでもなく我儘で残虐な性格で、次第に無理難題を男に要求するようになります。
或る時、命じられる儘に、女を背負って満開の桜の下にさしかかるのですが、その時、女は恐ろしい鬼に変身して、男を絞め殺そうと襲いかかるのです。
エンディングの、全ては消え去り、花びらだけが降りしきる描写が何ともリアルでかなり背筋が寒くなります。これを読むとしばらくは桜が恐い花に思えてきますので、何事も経験、機会があったら覚悟して読んでみて下さいね!
梶井基次郎もエッセイ風の短編小説『桜の樹の下には』の中で、桜があんなに美しいのは、「桜の樹の下には屍体が埋まっている」からだ、などと物騒なことを記しています。
こういうものを読んでからは、私はそれまで好きだった夜桜に、結構もぞもぞと血が騒ぐようになりました(これもちょっと衝撃的な内容ですから、万人にお薦めと言うわけではありません。やはり覚悟して・・・)。
桜の真ん中に立って、降りしきる花吹雪に巻かれていると、二人の作家が夢想したように、魂までもが遠くに運ばれてゆくような一瞬の恍惚感を私も感じてしまいます。
この季節になると、こんなところにも桜が・・・と思う程、至る所にあることに気づきますね。
<花は桜木 人は武士>のように、散り際の潔さが、滅びの美学のようにさえ捉(とら)えられた、桜は、少し悲しい花でもあります。
前回、前々回の記事で見ていただいた哲学の道筋の桜の木々、もう一度だけお見せしたくて撮ってきました。
いつの間にかもう葉桜になり始めています。
そして花びらが一面に川を埋めて流れ続けていました。
結構速い流れです。
季節の中で、留まることのない時を刻むように。
そして、流れゆく花びらは、来年また美しく咲く新たな花を繫いでゆきます。
必ず 必ず 新たな美しい季節が巡ってきます。
* * * *
先日のブログでご紹介した土浦のYさんからお手紙をいただきました。
胸に残る言葉、私だけで読むのは申し訳ない気がして、一部ですが、やはり今日もご紹介させていただこうと思います。
あの瞬間は、これで世の中が終わってしまうのではないかと思ったものでしたが、その後もこの世は終わることなく続いており、地面に割れ目の入った公園の桜も、開花の準備を進めています。
たくさんの勇気や優しさを持った人達のおかげで、復興へ向けた準備が進んでいく一方で、未だ続く余震と、放射能漏れのニュースに不安と心配でいっぱいの毎日です。
映画やドラマはどんなに恐ろしいシーンを見ても、どこかでそれがフィクションだとわかっており、エンドマークが出ればその世界から脱出出来ます。終わりがあるからホッとするということでしょうか・・・。
しかし生き続けている限り そうはいきません。どんなに過酷な現実でもそれを受け入れていかなければならない。“一瞬先は闇”とはよく言ったものですね。 最も闇を知らされないでいるから幸せでいられるのも事実ですが・・・。
* * * *
この数日また大きな余震が頻繁に起こっていますね。
二次被害も発生しやすくなっているでしょうし、エンドレスであるかのように続く不安な状況に、ストレスが募ってどんなにか心も疲れ切っていらっしゃることでしょう。
自然は、何事もなかったかのように、芽を付け、花を咲かせ、時を刻んでゆきます。
自然から慈愛のようなものを感じ取れる私たちに、回復の力が与えられることを願いたいと思います。
辛抱強く乗り越えてゆく私たちに、必ず再生への道と力がもたらされることを信じたいと思います。
しみじみと祈るように見入った今年の桜、こんな小さな何枚かの写真ですが、Yさん、そして皆様に、喜んでいただけたら嬉しいです。
散り際の桜の風情にもまた、何とも言えない思いを掻き立てられますね。はかなげというよりはむしろ、妖艶な凄さを感じてしまいます。

謡曲の『桜川』は、生き別れになった我が子、桜子を探し、桜川のもとまで彷徨ってきた母親が、ついには悲しみのあまり気がふれてしまい、水に流れる桜の花びらをすくい取りながら物狂いの舞を踊るという哀れな物語です。
また、夜の桜の下を通ると気が狂うというタブーや、その禁を犯した者は不思議な魔力にかかって身を滅ぼすというような、如何にもという怪談めいた恐ろしげなお話もどこかで聞いたことがあります。
「ぱっと咲いてぱっと散る」とよく言いますが、散る桜の中に狂気を見るという感覚は、日本人特異な感じ方みたいで、私にも何となく頷ける気がします。
咲くも散るも、他の花とは違った不思議な特別なエネルギーを感じるのでしょうか?
ちょっと脱線。
そういえば、シャンソンにも色々な花が登場しますが(春ならリラが一番人気でしょうか)、いずれも、恋心と重ね合わせたりしながら美しく咲く花を歌っているものが圧倒的で、散る花に狂気を・・・のような奇妙な感性とは無縁なのではと思います。
それでも無理やり思い出すなら、プレヴェール作詞の『枯葉』・・・・これは確かに、舞い落ちる枯葉にこと寄せて歌っていて、日本でも最もシャンソンらしいシャンソンとして人気NO.1の代表曲ですね。
でも理屈を言うなら。
・・・・二人が恋人同士だった日々から今は遠く、思い出と悲しみだけが枯葉と共に吹き寄せられて、それも北風が忘却の夜へと運び去ってゆく、という儚い枯葉に自分を映した歌であり、主体は勿論、枯葉ではなく人にあるといえるでしょう。
(よく歌われている岩谷時子さんの訳詞は「はかなくただ散りゆく 色褪せた落ち葉」という歌詞で閉じられていて、原詩よりかなりはっきりと枯れ落ちてゆく木の葉のセンチメンタルなイメージを打ち出していると思われます。)
これと比べて、先の桜の話からも、・・・短絡的かもしれませんが、・・・自然万物には魂が宿り、それは人を越えた圧倒的力を持っていて、その不思議な力に包まれて人は生きているという、日本人にはそんなアニミズム的感覚があるように思われてしまいます。
偉そうに言うなら,<自然と人間との対峙の仕方の,西洋と東洋の在り方の違い>でしょうか?大げさですけれど。
桜の狂気というお話に戻って。
坂口安吾の小説に『桜の森の満開の下』という作品があります。
山賊の頭領が主人公なのですが、彼は、自らが略奪した美女にすっかり心を奪われ、彼女の言いなりになってしまいます。この女性は実はとんでもなく我儘で残虐な性格で、次第に無理難題を男に要求するようになります。
或る時、命じられる儘に、女を背負って満開の桜の下にさしかかるのですが、その時、女は恐ろしい鬼に変身して、男を絞め殺そうと襲いかかるのです。
エンディングの、全ては消え去り、花びらだけが降りしきる描写が何ともリアルでかなり背筋が寒くなります。これを読むとしばらくは桜が恐い花に思えてきますので、何事も経験、機会があったら覚悟して読んでみて下さいね!
梶井基次郎もエッセイ風の短編小説『桜の樹の下には』の中で、桜があんなに美しいのは、「桜の樹の下には屍体が埋まっている」からだ、などと物騒なことを記しています。
こういうものを読んでからは、私はそれまで好きだった夜桜に、結構もぞもぞと血が騒ぐようになりました(これもちょっと衝撃的な内容ですから、万人にお薦めと言うわけではありません。やはり覚悟して・・・)。
桜の真ん中に立って、降りしきる花吹雪に巻かれていると、二人の作家が夢想したように、魂までもが遠くに運ばれてゆくような一瞬の恍惚感を私も感じてしまいます。
この季節になると、こんなところにも桜が・・・と思う程、至る所にあることに気づきますね。
<花は桜木 人は武士>のように、散り際の潔さが、滅びの美学のようにさえ捉(とら)えられた、桜は、少し悲しい花でもあります。
前回、前々回の記事で見ていただいた哲学の道筋の桜の木々、もう一度だけお見せしたくて撮ってきました。
いつの間にかもう葉桜になり始めています。

そして花びらが一面に川を埋めて流れ続けていました。
結構速い流れです。


季節の中で、留まることのない時を刻むように。
そして、流れゆく花びらは、来年また美しく咲く新たな花を繫いでゆきます。
必ず 必ず 新たな美しい季節が巡ってきます。
* * * *
先日のブログでご紹介した土浦のYさんからお手紙をいただきました。
胸に残る言葉、私だけで読むのは申し訳ない気がして、一部ですが、やはり今日もご紹介させていただこうと思います。
あの瞬間は、これで世の中が終わってしまうのではないかと思ったものでしたが、その後もこの世は終わることなく続いており、地面に割れ目の入った公園の桜も、開花の準備を進めています。
たくさんの勇気や優しさを持った人達のおかげで、復興へ向けた準備が進んでいく一方で、未だ続く余震と、放射能漏れのニュースに不安と心配でいっぱいの毎日です。
映画やドラマはどんなに恐ろしいシーンを見ても、どこかでそれがフィクションだとわかっており、エンドマークが出ればその世界から脱出出来ます。終わりがあるからホッとするということでしょうか・・・。
しかし生き続けている限り そうはいきません。どんなに過酷な現実でもそれを受け入れていかなければならない。“一瞬先は闇”とはよく言ったものですね。 最も闇を知らされないでいるから幸せでいられるのも事実ですが・・・。
* * * *
この数日また大きな余震が頻繁に起こっていますね。
二次被害も発生しやすくなっているでしょうし、エンドレスであるかのように続く不安な状況に、ストレスが募ってどんなにか心も疲れ切っていらっしゃることでしょう。
自然は、何事もなかったかのように、芽を付け、花を咲かせ、時を刻んでゆきます。
自然から慈愛のようなものを感じ取れる私たちに、回復の力が与えられることを願いたいと思います。
辛抱強く乗り越えてゆく私たちに、必ず再生への道と力がもたらされることを信じたいと思います。
しみじみと祈るように見入った今年の桜、こんな小さな何枚かの写真ですが、Yさん、そして皆様に、喜んでいただけたら嬉しいです。


