
先日、京都を訪れた友人が、「ふと曲がる通りなどの至る所に、歴史の教科書に載っていた有名な寺社仏閣、地名などが、次々と出てきて、やはり、京都の歴史と伝統は生半可なものではないと思い知らされた」としみじみと漏らしていました。
私も京都に暮らして10年になりますが、同じ感慨を日々感じています。
そう思うにつけ、折角なのだから、もっと学んで見識を深めねばと反省するのですが、でも住んでいるといつでもチャンスがある気がして、京都歴史探訪も先延ばしになってしまいます。
そんな、京都にあって未だ京都を充分知らない私ですが、先日、まさに古都ならではの雅やかな体験をしてきましたので、今日はそのご報告をしてみたいと思います。
高瀬川 下木屋町界隈
高瀬川のほとりに町屋を改造して作られた「高瀬川・四季AIR」というギャラリー(フリーアートスペース)があります。今年三月にオープンしたのですが、絵画・工芸などの美術作品の個展や、多様なジャンルのミニライヴなどの音楽スペースとしても様々に活用されています。
高瀬川のせせらぎを聴きながら、そして時折、川面に降り立つ美しい白鷺や鴨などの風情を楽しみながら、実にはんなりとした雰囲気に包まれた空間なのですが、この主催者の方が企画なさった、『京都島原・菊川太夫と京料理の宴』という催しのご案内を頂き、先日、参加してきました。
「木屋町通り松原上がる」にある「割烹旅館 田鶴」が会場でした。
ここで、少しだけ、京都の街の道案内をしてみますね。
京都の中心は、碁盤の目のように整然と区切られていることはご存じの通りですが、縦横のそれぞれの通りには、そこでしかない独特な空気があり、その辻々が独自のすみわけの中で、固有の文化を積み上げてきたのを肌で感じます。
今度の私のコンサートは『街の素描』というタイトルで、パリのそれぞれの通りで繰り広げられる物語をデッサンしてゆくという趣向で進めて行きますが、京都の通りを題材に取ったとしても、まさに、通りの素描がくっきりと描けそうな気がします。
さて、高島屋のある四条河原町の交差点辺りが一番の繁華街で、銀座で言えば、四丁目交差点でしょうか。その四条通りをまっすぐ東に行くと河原町通りと並行して木屋町通り、そして先斗町(ぽんとちょう)、鴨川が流れ、川を越えると祇園のいくつかの粋な通りが続き、やがて八坂神社のある東大路通りへと突き当たります。

高瀬川に沿った木屋町通りを南に下がってゆく(時々コンサートを開催するシャンソニエ『巴里野郎』もこの道沿いです)下木屋町に、料亭「田鶴」はあります。春は桜並木にぼんぼりがともり、美しい通りです。
この会の初めに、お世話役の方からも、高瀬川、及びこの界隈の歴史について興味深いご説明があったのですが、高瀬川は、角倉了以によって江戸時代に開削された、京都と伏見を結ぶ全長11キロにわたる運河です。
大阪から淀川で運ばれてきた様々な物資が伏見で高瀬川に積み替えられて京都まで、輸送の大動脈の役割を果たしていました。
今年はその開削400年にあたり、様々な記念事業が計画されているようです。
この物資の集積地として栄えたのが木屋町で、今でもその頃の名残りの、豪奢で粋な老舗の料亭や旅館が立ち並んでいます。

当時、運搬に使われたのが高瀬舟。
高瀬舟は物資だけではなく、京都と大阪を結ぶ人の往来にも重宝され、幕末の頃は、高瀬舟で大阪から上洛する土佐、長州の藩士たちの波乱万丈な幕末史を彩っています。
高瀬舟というと、私は、鴎外の小説『高瀬舟』をまず思い浮かべます。
弟を安楽死させた罪人喜助を搬送する高瀬舟の中で、喜助の無欲で曇りのない幸せそうな様子を不審に思い、その身の上話を聞く護送の役人の心情と、彼が見上げた朧月夜の不思議な哀愁とが、高瀬川辺りを散策する時、いつも重なり合って思われます。
高瀬川のせせらぎに街の灯がほんのり映える夕刻ともなれば、玄関の打ち水も清々しく、店々には暖簾が下げられて、しっとりと落ち着いた佇まいの木屋町界隈は、俄かにあでやかな表情を見せはじめます。
と、木屋町を紹介するパンフレットにありましたが、落ち着いた京都を味わえるお薦めスポットです。
京都島原・菊川太夫との宴
本物の太夫さんをお座敷に招いて、舞と音曲を堪能するなどということは 生粋の京都人でも滅多に出来ませんので、是非この機会にと思い、仲良しのMさんと一緒に参加することにしました。40名の定員はすぐに締め切られ、満席での当日。

鴨川のほとり、東山を眺望する料亭「田鶴」の大広間での箱膳に美味しい懐石が運ばれてきて、華やかに宴が始まりました。
元高砂太夫さんが介添えに同行され、初めに島原の歴史や太夫について色々説明して下さいました。巧みな話術ですっかり座は盛り上がり、やがて、お待ちかねの菊川太夫の登場です。

まずはお琴を一曲。

ほっそりとした指先で、優雅な調べが奏でられ、ここで既に幽玄の世界に誘われます。
私の席は最前席で、手を伸ばせば届く距離、写真はズームで撮ったのではなく、正真正銘この距離感なので、写真の頭が切れています。
そして、あでやかな舞い姿。

白塗りで、口紅は下唇のみに塗り、お歯黒を付けています。帯の形も変わっていますが、前で5角形に結ぶ「心」の字を模したものだそうです。
舞台の袖に高下駄が置かれてあります。これを履いて道中をするのでしょうが、重い衣装、大きな簪を着けて、この履物は余程の修行が必要でしょうね。

お座敷で舞う時には、下駄は勿論ですが足袋も履かず、素足のままだということも特等席の特権でしっかり確認しました。
「太夫」という呼び名は関東のもので、関西では「こったい」さんと呼ぶのが通例なのだと教えていただきました。
京都島原の太夫は、いわゆる遊女とは異なり、御所の公家や皇族、大大名だけにお目通りをしていたため、太夫自身の身分も高く、そのため、それに応え得るだけの、歌舞音曲のみならず、茶道、華道、詩歌をはじめ、あらゆる教養に長けていなければならず、そのお稽古は現在も、大変厳しいものだということです。
現存の太夫は京都に4名で、菊川太夫は、大学を卒業してから高砂太夫の元に弟子入りをし、修行を積んだのだそうです。
お客様の間を回って、一人一人に楽しげに話しかけ、記念撮影も。
私達も一緒に撮って頂きました。左は友人のMさん。右が私です。

島原の太夫は、現在もお座敷を中心に、京都の数々の行事やイベントに参加しているということで、菊川太夫も伝統の若き継承者として志を持って頑張っているのだと、舞が終わった後のお話しタイムの中で静かに語って下さいました。
主催者の方は、閉会のご挨拶で、高瀬川の景観の事、島原の文化の継承の事、などに再度触れた上で、古都の歴史や伝統を知り、自分たちの財産として愛おしみ、大切に守ってゆこうという強い思いを述べられました。
高瀬川のせせらぎを聴きながらの帰路に感じた、京都の魂にふわっと包まれているような感覚が、今もまだ残っています。
私も京都に暮らして10年になりますが、同じ感慨を日々感じています。
そう思うにつけ、折角なのだから、もっと学んで見識を深めねばと反省するのですが、でも住んでいるといつでもチャンスがある気がして、京都歴史探訪も先延ばしになってしまいます。
そんな、京都にあって未だ京都を充分知らない私ですが、先日、まさに古都ならではの雅やかな体験をしてきましたので、今日はそのご報告をしてみたいと思います。
高瀬川 下木屋町界隈
高瀬川のほとりに町屋を改造して作られた「高瀬川・四季AIR」というギャラリー(フリーアートスペース)があります。今年三月にオープンしたのですが、絵画・工芸などの美術作品の個展や、多様なジャンルのミニライヴなどの音楽スペースとしても様々に活用されています。
高瀬川のせせらぎを聴きながら、そして時折、川面に降り立つ美しい白鷺や鴨などの風情を楽しみながら、実にはんなりとした雰囲気に包まれた空間なのですが、この主催者の方が企画なさった、『京都島原・菊川太夫と京料理の宴』という催しのご案内を頂き、先日、参加してきました。
「木屋町通り松原上がる」にある「割烹旅館 田鶴」が会場でした。
ここで、少しだけ、京都の街の道案内をしてみますね。
京都の中心は、碁盤の目のように整然と区切られていることはご存じの通りですが、縦横のそれぞれの通りには、そこでしかない独特な空気があり、その辻々が独自のすみわけの中で、固有の文化を積み上げてきたのを肌で感じます。
今度の私のコンサートは『街の素描』というタイトルで、パリのそれぞれの通りで繰り広げられる物語をデッサンしてゆくという趣向で進めて行きますが、京都の通りを題材に取ったとしても、まさに、通りの素描がくっきりと描けそうな気がします。
さて、高島屋のある四条河原町の交差点辺りが一番の繁華街で、銀座で言えば、四丁目交差点でしょうか。その四条通りをまっすぐ東に行くと河原町通りと並行して木屋町通り、そして先斗町(ぽんとちょう)、鴨川が流れ、川を越えると祇園のいくつかの粋な通りが続き、やがて八坂神社のある東大路通りへと突き当たります。

高瀬川に沿った木屋町通りを南に下がってゆく(時々コンサートを開催するシャンソニエ『巴里野郎』もこの道沿いです)下木屋町に、料亭「田鶴」はあります。春は桜並木にぼんぼりがともり、美しい通りです。
この会の初めに、お世話役の方からも、高瀬川、及びこの界隈の歴史について興味深いご説明があったのですが、高瀬川は、角倉了以によって江戸時代に開削された、京都と伏見を結ぶ全長11キロにわたる運河です。
大阪から淀川で運ばれてきた様々な物資が伏見で高瀬川に積み替えられて京都まで、輸送の大動脈の役割を果たしていました。
今年はその開削400年にあたり、様々な記念事業が計画されているようです。
この物資の集積地として栄えたのが木屋町で、今でもその頃の名残りの、豪奢で粋な老舗の料亭や旅館が立ち並んでいます。

当時、運搬に使われたのが高瀬舟。
高瀬舟は物資だけではなく、京都と大阪を結ぶ人の往来にも重宝され、幕末の頃は、高瀬舟で大阪から上洛する土佐、長州の藩士たちの波乱万丈な幕末史を彩っています。
高瀬舟というと、私は、鴎外の小説『高瀬舟』をまず思い浮かべます。
弟を安楽死させた罪人喜助を搬送する高瀬舟の中で、喜助の無欲で曇りのない幸せそうな様子を不審に思い、その身の上話を聞く護送の役人の心情と、彼が見上げた朧月夜の不思議な哀愁とが、高瀬川辺りを散策する時、いつも重なり合って思われます。
高瀬川のせせらぎに街の灯がほんのり映える夕刻ともなれば、玄関の打ち水も清々しく、店々には暖簾が下げられて、しっとりと落ち着いた佇まいの木屋町界隈は、俄かにあでやかな表情を見せはじめます。
と、木屋町を紹介するパンフレットにありましたが、落ち着いた京都を味わえるお薦めスポットです。
京都島原・菊川太夫との宴
本物の太夫さんをお座敷に招いて、舞と音曲を堪能するなどということは 生粋の京都人でも滅多に出来ませんので、是非この機会にと思い、仲良しのMさんと一緒に参加することにしました。40名の定員はすぐに締め切られ、満席での当日。

鴨川のほとり、東山を眺望する料亭「田鶴」の大広間での箱膳に美味しい懐石が運ばれてきて、華やかに宴が始まりました。
元高砂太夫さんが介添えに同行され、初めに島原の歴史や太夫について色々説明して下さいました。巧みな話術ですっかり座は盛り上がり、やがて、お待ちかねの菊川太夫の登場です。


まずはお琴を一曲。

ほっそりとした指先で、優雅な調べが奏でられ、ここで既に幽玄の世界に誘われます。
私の席は最前席で、手を伸ばせば届く距離、写真はズームで撮ったのではなく、正真正銘この距離感なので、写真の頭が切れています。
そして、あでやかな舞い姿。

白塗りで、口紅は下唇のみに塗り、お歯黒を付けています。帯の形も変わっていますが、前で5角形に結ぶ「心」の字を模したものだそうです。
舞台の袖に高下駄が置かれてあります。これを履いて道中をするのでしょうが、重い衣装、大きな簪を着けて、この履物は余程の修行が必要でしょうね。

お座敷で舞う時には、下駄は勿論ですが足袋も履かず、素足のままだということも特等席の特権でしっかり確認しました。
「太夫」という呼び名は関東のもので、関西では「こったい」さんと呼ぶのが通例なのだと教えていただきました。
京都島原の太夫は、いわゆる遊女とは異なり、御所の公家や皇族、大大名だけにお目通りをしていたため、太夫自身の身分も高く、そのため、それに応え得るだけの、歌舞音曲のみならず、茶道、華道、詩歌をはじめ、あらゆる教養に長けていなければならず、そのお稽古は現在も、大変厳しいものだということです。
現存の太夫は京都に4名で、菊川太夫は、大学を卒業してから高砂太夫の元に弟子入りをし、修行を積んだのだそうです。
お客様の間を回って、一人一人に楽しげに話しかけ、記念撮影も。
私達も一緒に撮って頂きました。左は友人のMさん。右が私です。


島原の太夫は、現在もお座敷を中心に、京都の数々の行事やイベントに参加しているということで、菊川太夫も伝統の若き継承者として志を持って頑張っているのだと、舞が終わった後のお話しタイムの中で静かに語って下さいました。
主催者の方は、閉会のご挨拶で、高瀬川の景観の事、島原の文化の継承の事、などに再度触れた上で、古都の歴史や伝統を知り、自分たちの財産として愛おしみ、大切に守ってゆこうという強い思いを述べられました。
高瀬川のせせらぎを聴きながらの帰路に感じた、京都の魂にふわっと包まれているような感覚が、今もまだ残っています。


