
爽やかな季節の到来・・・色々なことが少しでも落ち着いて、幸せに過ごせる5月であってほしいです。
さて、このブログは前回からの続きですね。
美味探訪~朝はGOPANの香り~序章、及び 本編 に続いて、今日は終章です。
メーカーの宣伝文句によると、GOPANはお米の味なので、ご飯に合うものは皆、トッピングとして基本的に合うのだということです。
これを受けて、たとえば、江戸むらさきとか、ひじきとか、なめこの佃煮とか、納豆とか・・・・モニターの方たちが色々試した体験記がHPにも載っていました。
「確かに合う!」と書いてあります。
我が家は昔から朝はパン食、そしてその朝食を殊の外重視していますので、今やGOPANも朝の重要必須アイテムとなっています。
そして、私としては、お米がパンに変身した面白さを追求したいと思うので、あくまでも、コーヒーにサラダとオムレツ、時によって果物やヨーグルトなどもあり、そしてパンにはジャムとバター・・・という洋風王道を突き進んでおります。
けれど、前回の記事にも記しましたが、GOPANの一番の特徴は、パンなのに、どこか懐かしい、お釜で炊いた、お焦げが混ざったご飯の香りがそこはかとなくするところなのです。
一昔も二昔も前の日本的な朝の食卓といえば、小津安二郎監督の映画にでも出てきそうな情景が目に浮かんできますし、それは、まず、お味噌汁、お漬物、湯気の立っているご飯に少しのおかず・・・でしょう。
当たり前だけれど平穏な、幸せな日常のイメージが、暖かいご飯にはありますよね。
GOPANはそういうほっとする幸せも同時に感じさせてくれる気がして、私の目下のお気に入りです。
三回に渡ったこの話題ですが、最後は少しシャンソンのブログらしく、詩を一編ご紹介しようかと思います。
ジャック・プレヴェールの作品に <déjeuner du matin>「朝の食事」という詩があります。(写真は往年のジャック・プレヴェール。「ことばたち」高畑 勲著より掲載)
この「朝の食事」という詩は、別離を前にした二人の、最後の悲しい朝の一場面を、まるで無声映画を見るように淡々と綴っていくのですが、さすがプレヴェールで、なかなか素敵な名詩なのです。簡単に要約してみますと、
別れる二人のその朝の、そのいつもの食事。
彼はいつものカフェオレを飲みほし、
いつものようにタバコに火をつけ
そして何も言わず家を出て行った。
私から出て行った。
というような内容の詩で、朝、何気なくコーヒーを飲んでいる時など、なぜかふと浮かんでくる事があるんです。
詩の中で、二人の食卓には今、カフェオレだけがある・・・。
最後の・・・。
パンもちゃんと食べたのだろうか・・・。
でもそんな余計なこと書いたら、詩の雰囲気は違ってしまうだろうな・・・・
・・・まして、GOPANだったりしたら完全に・・・・
などと、とてもお馬鹿さんなことを考えてしまいました。
この詩、「朝の食事」は、1946年に出版された詩集「Paroles」(ことばたち)の中に収められた詩の一編で、今やシャンソンの不朽の名曲となった「枯葉」など、数多くのプレヴェールの詩に曲を付けたジョセフ・コスマによって作曲されています。
確か、マレーネ・ディートリッヒも歌っていたかと思います。
何人もの詩人や翻訳家の方々が、この詩の微妙なニュアンスを伝えようと、細やかに言葉を選びながら対訳を付けておられるのですが、ここでは、詩人の大岡信氏が訳した、対訳をご紹介してみようかと思います。
フランスっぽいエスプリが効いて、洒落ている、でもそれが却って悲しい、別れの雰囲気を味わってみて下さいね。
最終行に唯一使われているプワン(句点)もなかなかなものと思うのですが、この対訳の中でもきちんとそれが生かされていますね。
朝の食事
あの人 コーヒーをついだ
茶椀のなかに
あの人 ミルクをいれた
コーヒー茶碗に
あの人 砂糖をおとした
ミルク・コーヒーに
小さなスプーンで
かきまわした
あの人 ミルク・コーヒーを飲んだ
それから茶碗を置いた
あたしにひとこともいわず
煙草に
火をつけた
煙草の煙を
輪にしてふかした
灰皿に
灰をおとした
あたしにひとこともいわず
あたしを一度も見ずに
あの人 たちあがった
あの人
帽子を頭にかぶった
あの人
レイン・コートを着た
雨が降っていたから
あの人 出て行った
雨の中へ
ひとことも話さず
あたしを一度も見ずに
そしてあたしは
頭を抱えた
それから 泣いた。
Fin
さて、このブログは前回からの続きですね。
美味探訪~朝はGOPANの香り~序章、及び 本編 に続いて、今日は終章です。
メーカーの宣伝文句によると、GOPANはお米の味なので、ご飯に合うものは皆、トッピングとして基本的に合うのだということです。
これを受けて、たとえば、江戸むらさきとか、ひじきとか、なめこの佃煮とか、納豆とか・・・・モニターの方たちが色々試した体験記がHPにも載っていました。
「確かに合う!」と書いてあります。
我が家は昔から朝はパン食、そしてその朝食を殊の外重視していますので、今やGOPANも朝の重要必須アイテムとなっています。
そして、私としては、お米がパンに変身した面白さを追求したいと思うので、あくまでも、コーヒーにサラダとオムレツ、時によって果物やヨーグルトなどもあり、そしてパンにはジャムとバター・・・という洋風王道を突き進んでおります。
けれど、前回の記事にも記しましたが、GOPANの一番の特徴は、パンなのに、どこか懐かしい、お釜で炊いた、お焦げが混ざったご飯の香りがそこはかとなくするところなのです。
一昔も二昔も前の日本的な朝の食卓といえば、小津安二郎監督の映画にでも出てきそうな情景が目に浮かんできますし、それは、まず、お味噌汁、お漬物、湯気の立っているご飯に少しのおかず・・・でしょう。
当たり前だけれど平穏な、幸せな日常のイメージが、暖かいご飯にはありますよね。
GOPANはそういうほっとする幸せも同時に感じさせてくれる気がして、私の目下のお気に入りです。
三回に渡ったこの話題ですが、最後は少しシャンソンのブログらしく、詩を一編ご紹介しようかと思います。

この「朝の食事」という詩は、別離を前にした二人の、最後の悲しい朝の一場面を、まるで無声映画を見るように淡々と綴っていくのですが、さすがプレヴェールで、なかなか素敵な名詩なのです。簡単に要約してみますと、
別れる二人のその朝の、そのいつもの食事。
彼はいつものカフェオレを飲みほし、
いつものようにタバコに火をつけ
そして何も言わず家を出て行った。
私から出て行った。
というような内容の詩で、朝、何気なくコーヒーを飲んでいる時など、なぜかふと浮かんでくる事があるんです。
詩の中で、二人の食卓には今、カフェオレだけがある・・・。
最後の・・・。
パンもちゃんと食べたのだろうか・・・。
でもそんな余計なこと書いたら、詩の雰囲気は違ってしまうだろうな・・・・
・・・まして、GOPANだったりしたら完全に・・・・
などと、とてもお馬鹿さんなことを考えてしまいました。
この詩、「朝の食事」は、1946年に出版された詩集「Paroles」(ことばたち)の中に収められた詩の一編で、今やシャンソンの不朽の名曲となった「枯葉」など、数多くのプレヴェールの詩に曲を付けたジョセフ・コスマによって作曲されています。
確か、マレーネ・ディートリッヒも歌っていたかと思います。
何人もの詩人や翻訳家の方々が、この詩の微妙なニュアンスを伝えようと、細やかに言葉を選びながら対訳を付けておられるのですが、ここでは、詩人の大岡信氏が訳した、対訳をご紹介してみようかと思います。
フランスっぽいエスプリが効いて、洒落ている、でもそれが却って悲しい、別れの雰囲気を味わってみて下さいね。
最終行に唯一使われているプワン(句点)もなかなかなものと思うのですが、この対訳の中でもきちんとそれが生かされていますね。
朝の食事
あの人 コーヒーをついだ
茶椀のなかに
あの人 ミルクをいれた
コーヒー茶碗に
あの人 砂糖をおとした
ミルク・コーヒーに
小さなスプーンで
かきまわした
あの人 ミルク・コーヒーを飲んだ
それから茶碗を置いた
あたしにひとこともいわず
煙草に
火をつけた
煙草の煙を
輪にしてふかした
灰皿に
灰をおとした
あたしにひとこともいわず
あたしを一度も見ずに
あの人 たちあがった
あの人
帽子を頭にかぶった
あの人
レイン・コートを着た
雨が降っていたから
あの人 出て行った
雨の中へ
ひとことも話さず
あたしを一度も見ずに
そしてあたしは
頭を抱えた
それから 泣いた。
Fin


