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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

10月の所感 ~コンサートを前にして

   「月」二題
 私は昔からの習慣で、いつもかなり早起きなのです。
 夜明け前は、すべてが静寂で心地よいですし、身の回りを整えた後、まずは手紙やメールを書いてから一日をスタートさせます。
 それから、気が向くと散歩。

 同じように早起きの友人がいるのですが、先日、
三日月
 「朝5時のお月さま」

 という言葉に添えて、こんな素敵な写真がパソコンに届きました。

 透き通るように儚い、くっきりとした爪のような月。
 朔太郎の詩に出てきそうな、少し神経質な美しい月。

 思わず窓を見上げたら、本当に細い月の輪郭が暗い空に描かれていて。

早起き同志の返礼、カメラに収め、私も
「5時30分の京都の月」
と、添えて送ってみたのですが、刻々と光が変わるのでしょうね。写った写真はもはや爪のフォルムではなく、ゼリービーンズみたいに太っていました。

 優しい温もりを感じた小さな出来事です。

        ・・・・・・・

 既にご紹介しているので、詳細は省きますが、一週間前、京都正伝寺でのお月見の会に参加してきました。
(以前の記事ですが、よろしかったらお読みください。「正伝寺月見の宴(2014/10/9)」 「観月の宴~正伝寺の十三夜(2012/10/28)」

 いつもは30名近くが集うのですが、今年は14名の穏やかなお月見の宴でした。
 小堀遠州の枯山水の庭を、比叡山の稜線が遠く囲み、夜に浮かんでいます。

 リクエストに応え、マイクもピアノの伴奏もない山寺の夜気の中で、月を背にして、アカペラで一曲歌いました。
 ほんの少しでも慣れや見栄のようなものが入り混じると、歌が精彩を失うことを肌で感じる、自然に包まれた静謐なこの舞台は、私には一年に一度の少し怖い、武者修行の場でもあります。
       正伝寺の十二夜の月2     正伝寺の十二夜の月
 この夜は十二夜の月、縁先を照らす行燈の灯りにも負けない煌々として強い月が、ずっと宴席を照らしていました。


   コンサートは二週間後です
 シャミオールでのコンサートが近づいてきました。
 いつものこだわりのプログラムも最終稿が仕上がり、今印刷に回っているところです。
 今回は新曲揃いですので、これまで以上に、作詞者、作曲者、原詩の解釈、自作の訳詞のイメージ、曲の背景、書いていると時間が経つのを忘れる程でした。
プログラム表紙
 表紙だけ、ちょっとお見せしてみますね。

 充実した内容のプログラムになりましたので、当日を楽しみになさってください。

・・・・・・

 コンサートまで二週間、時間を見つけては、近くのスタジオに、自主練習に通っています。

 今の課題は、新曲をどこまで熟成させてゆけるかということでしょうか。

 お酒なら、歳月をかけてじっくり寝かせて時を待つことになるのでしょうし、歌も本来は同様で、何年か越しで歌い続ける歌程、味が出てくるのに違いないのですが、私の活動の性質上、どの曲も鮮度抜群である反面、ボジョレヌーボー状態になるのが悩みの種でもあります。

   ・・・・・・・

 話が飛びますが、昔。
 もう10年近く前になるでしょうか。
坂東三津五郎
 今年2月に逝去された故坂東三津五郎さんが『新作歌舞伎の魅力』というようなテーマで講演をなさったのをお聴きしたことがありました。

示唆に富んだ、とても興味深い内容だったのですが、こんなお話から始まったと思います。

 いわゆる当たり狂言だけを演目にしないで、埋もれてきた歌舞伎作品を掘り起こして再演したり、または新作歌舞伎を上演したりすると、芸に深みがない、作品としての味わいや風格が浅薄だというような批判を受けるのが常である。

 だからやはり「歌舞伎は古典でなければ」とか、「代々引き継がれてきた演目にこそ見応えと芸術的価値がある」と評価されがちなのだが、でも考えてみれば、それは当然のことかもしれず、江戸時代から綿々と語り継がれ、芸を伝承され今日に至っている「古典的な歌舞伎」=「当たり狂言」に対し、昨日や今日出来上がったばかりの新作が、そのような意味において太刀打ちできるわけはないではないか。

 芸の成熟度においても、繰り返し見続けてきた観客の観賞眼の深化においても、スタートラインからして違うのだから。

 けれど、ただそういう尺度だけで、歌舞伎の価値や意義の全てを図ろうとすること自体、本当に正しいのだろうか。

 反対に、伝統のみを良しと考え、安心して観賞することのできる既存の演目しか受け入れないのであれば、結局、閉ざされた特殊な世界の中で、歌舞伎の存在自体を古びたものにしてしまう危険が生れてくる。

 そもそも歌舞伎というものの出自は、本来もっと自由で冒険的で、時代に風穴を開ける新鮮な試みから始まっているのだから。


 お話はここから、伝統と革新のあり方や、本物への挑戦という、更に高い命題へと多岐に渡って展開していくのですが。

 歌舞伎役者としてその卓越した才能を若い頃から認められてきた三津五郎さんですが、それでも、演じる時、また演目の選択について、「歌舞伎の行く末や、あるべき理想をどう考えるのか、様々な矛盾とぶつかり、岐路に立つことが多くある」という、非常に率直なお話を伺い、そのひたむきで真摯な人柄と共に、深い感銘を受けたことを今思い出します。

 この時の講演を、折に触れては反芻して、私自身の今後のシャンソン、そして、訳詞への対峙の仕方と重ねて考えています。

 ともあれ、三津五郎さんの示唆に富んだ言葉に力を頂きながら、私のほうは、ボジョレの良さを味わって下さるお客様に助けられて、二週間後、11月14日をゴールドマンのお披露目日としたいと思います。


 ちなみに、今年のワイン、ボジョレヌーボー(Beaujolais nouveau)の解禁日は11月19日だそうです。シャンソン界もこれと併せて、色々なイベントが催されることでしょうね。




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