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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

『見果てぬ世界』

訳詞への思い   コンサートを前に

 「松峰綾音訳詞コンサートvol.9『吟遊詩人の系譜』」、今週末土曜日の本番までいよいよカウントダウンとなりました。
 昼の部は、ほぼ一杯になりましたが、夜の部はあと少しお席がありますので、お申込みはどうぞお急ぎ下さいますように。

 ところで、本番数日前の最終調整期間、どのように過ごすのが賢明なのか、といつも考えてしまいます。

 「本番に向けて、自分を追い込みながら練習の加速度をあげて最高潮に持ってゆくべき」なのか、「間際は何にもしないで、ひたすら休息を取り、力が存分に発揮できるよう、エネルギーを温存しておくべき」なのか。

 それぞれの性格や体力、その時のコンディション、準備の進み具合、などによっても異なるでしょうから、勿論、一概には言えないわけですが、いずれにしても、体調管理やイメージトレーニングは重要で、コンサート前ってスポーツ選手の試合前とも似ているところがあるのかもしれません。

 コンサートの日を、お客様にも自分自身にも、飛び切りの一日にできるようベストを尽くしたいと思います。

 「訳詞への思い」、今日は、コンサートで取り上げる曲、ゴールドマンの『見果てぬ世界』をご紹介致します。


       『見果てぬ世界』
                     訳詞への思い<19>

 
『là-bas』 
 この曲が発表されたのはJ.J.ゴールドマン36歳(1987年)の時だが、デビュー当時(28歳)から現在(64歳)に至るまで、彼には、そして彼の曲には、色褪せない<青春>のイメージがあるように感じている。
ジャケット
 内省的で、理不尽なものに妥協せず、世間の常識や圧力に縛り付けられることを拒絶して、いつも自分らしく自由に羽ばたこうとするような、1980年代という時代が持っていた青春の香りが、彼の世界の中心にあり続けている気がするのだ。

 この曲の原題は『là-bas』で、「あそこ・向こう・彼方」というような意味である。
 今居るここではない、どこか別の<向こう側の世界>を指しているのだろう。

 原詩の冒頭は次のように始まる。(松峰対訳)

   あそこでは 
   全てが新しく全てが野生的だ
   鉄格子のない自由な大陸だ
   ここでは 僕達の夢は窮屈になる 
   だから僕はあそこに行きたいのだ

   あそこでは
   意志と勇気が必要だ
   けれど すべては僕の年齢で可能だ
   もし力と信念を持ってさえいれば
   金は手の届くところにある
   だから僕はあそこに行くんだ


 私の訳詞『見果てぬ世界』の冒頭は次のようである。

    là-bas
   そこには きっとある  何もかも 変えられる
   だから 僕は出てゆく   
   自由に生きる là-bas

   là-bas
   君さえも 褪せてゆく  何もかも 死んでゆく
   だから 僕は出てゆく 
   賭けてみたい 夢に  
   必ずある  là-bas


   『木綿のハンカチーフ』
 『見果てぬ世界』には、もう一人、主人公の恋人が登場する。
 彼の思いを危ういものに感じ、それが二人の愛の終焉に繋がることを予感して、必死で引き留めようとしている。

 彼女の言葉を次のように訳詞してみた。

   là-bas
   私の傍にいて    どこにも行かないで
   見知らぬ世界の   渦の中で
   貴方の心は 壊れてしまうから
   気付いて欲しい 愛はここにある


 だから、どんなことがあっても出て行ってはならないのだと、強くどこまでも引き留め続ける。

 1975年の日本のヒット曲、太田裕美が歌った『木綿のハンカチーフ』という曲がなぜか重なって思い出された。

 1  恋人よ ぼくは旅立つ 東へと向かう列車で
   はなやいだ街で 君への贈りもの  探す 探すつもりだ
   いいえ あなた 私は  欲しいものはないのよ
   ただ都会の絵の具に
   染まらないで帰って 染まらないで帰って
   
       <略>

 4  恋人よ 君を忘れて   変わってく ぼくを許して
   毎日愉快に 過ごす街角 ぼくは ぼくは帰れない
   あなた 最後のわがまま 贈りものをねだるわ
   ねえ 涙拭く木綿の
   ハンカチーフください ハンカチーフください


 彼女が最後に望んだのは、木綿のハンカチーフだったという切ない幕切れだ。

 彼はただ都会に流された軽佻浮薄な輩だったわけであり、それでもそんな彼のために流す涙を拭く「ハンカチーフを下さい」という、どこまでも彼を受け入れ、許し続ける女性は、まず絶対的にフランス人の女性には存在しないのではと思われる。
 『見果てぬ世界』の中には、愛を獲得するために相手を引き留め続けようとする強い女性像が垣間見え、似て非なる、日本とフランスの文化の差異が興味深い。

   『たびだち』
 話を戻すと。
 『見果てぬ世界』の中のこの恋が間違っていたわけでもなく、彼か彼女、どちらかが悪かったわけでもなく、ただ青春の彷徨・旅立ちというものは時としてそういう残酷な側面を抱えているのだということなのだろう。
 常に自分らしく生き、プライドを持ち続けようとする青年の、ヒリヒリとした青春の痛みが伝わってくるように思える。

 以前、「訳詞への思い」の「たびだちその一」「たびだち その二」に記した「puisque tu pars(『たびだち』松峰邦題)」は、この『見果てぬ世界』と同年の1987年に発表された曲で、閉塞された現状を打破すべく今居る場所を飛び出して、新しい世界に羽ばたいてゆく若者を見送る側の視点で書かれたアンサーソングのような作品になっている。  
 人生には、いつも、幾つもの旅立つ者、見送る者のドラマが繰り返されるのだろう。
 そんな様々な感慨を含みつつ、数日後のコンサートではこの二つの曲の世界を心を込めて歌ってみたいと思っている。
                         Fin

  (注 訳詞、解説について、無断転載転用を禁止します。
  取り上げたいご希望、訳詞を歌われたいご希望がある場合は、事前のご相談をお願い致します。)

 
 では、ゴールドマンの原曲をこちらのyoutubeでお楽しみください。https://www.youtube.com/watch?v=zFwaRmpzvjo




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