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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

『バンビーナ』

訳詞への思い 下記のような記事を書いて更新しようと思っていた矢先、熊本地震が発生しました。
 人知の及ばない自然の猛威と、その前にあって如何ともし難いことへの無念さとを痛感させられています。
 犠牲になられた方々に謹んで哀悼の意を捧げると共に、甚大な被害の中で今も大変な思いをされていらっしゃる皆様に心からのお見舞いを申し上げます。
 大きな余震もまだまだ続いていて、予断を許さず本当に心配ですが、どうかお心を強く乗り切っていらっしゃいますように。
 一日も早い終息をお祈り致します。

  ・・・・・・・・・・・・・・


   桜の美学
 絢爛たる桜も、今、いつの間にか柔らかい緑の葉影にその名残を残すばかりとなって、次の季節へと時が移ってゆくのを感じます。
 道端に降り積もる花びらが風に渦巻く様(さま)、時折煽られて宙を舞う様、そして街を流れる白川や高瀬川を薄桃色に埋め尽くして流れてゆく様は、まさに桜花が見せる散華の美といえるのでしょう。
     散華の美2      散華の美1 
 「世の中に絶えて桜のなかりせば・・・」ではありませんが、一時に咲き誇り、それが一時にはらはらと舞い落ちる、尋常ではない桜の花の華やかさと儚さはやはり心に触れてきます。

 大学時代、能に頗る詳しい友人に誘われて、能楽堂に足繁く通った時期がありました。
 彼女の熱のこもった講釈に影響され、私も謡曲や能楽論など読みふけったりもしたのですが、能には桜の花に関連している演目が殊の外多いのです。
 『熊野(ゆや)』、『桜川』、『西行桜』等々・・・。

 故郷の老母の危篤の知らせに心痛めながら遊女「熊野」が桜の花びらの散る中で舞い踊る歌・・「都の桜も惜しけれど 慣れし東(あずま)の花や散るらん」
 熊野がひるがえす扇の上に、散りゆく花びらがまさに鮮やかに見えてくるようで、幽玄の世界が繰り広げられます。

 『桜川』・・・子供を失った悲しみの中で狂女となった母親が桜川のほとりで、川に流れる花びらを夢中で掬いながら舞い狂う・・・。

 先日、花吹雪の高瀬川沿いを歩いていたら、なぜだか、この 『桜川』の、子を失った母のやるせなさがふと浮かんで、唐突ですが、『バンビーナ』という曲を思い出しました。

 今日は、「訳詞への思い」、ララ・ファビアンの『バンビーナ』をご紹介してみようかと思います。


          『バンビーナ』
                         訳詞への思い<23>
  
   『バンビーナ』
 Lara Fabian(ララ・ファビアン)2001年の曲。
(ララ・ファビアンについては以前の記事「『 je t’aime 』その一 ララ・ファビアン
で既に紹介しているので、ご参考にしていただければと思う)
 nueジャケット
 CDアルバム『nue』に修められているが、押さえ気味の美しい声で切々と歌われていて、最初聴いた時から印象的で心に残るものがあった。

 日本では、2008年に倉本聰が『北の国から』、『優しい時間』に続く「富良野三部作」として書き下ろした連続ドラマ『風のガーデン』の中で使われ、注目されたことがあったかと思う。
平原綾香ジャケット
 平原綾香がホテルのラウンジで弾き語るピアニストの役で出ていたのだが、劇中でこの歌を彼女が歌い出したのにはとても驚いた。
・・・偶然にも私はその時、『バンビーナ』の訳詞を終えた直後だったので。
 原語のまま歌っていたが、放送終了後、「あの曲は何という曲?」という問い合わせが多かったと聞いたことがある。
 (写真は平原綾香のシングルアルバム「ノクターン/カンパニュラの恋」のジャケットで、この中にspecial trackとして「BAMBINA」は収められている)

 「BAMBINA」(バンビーナ)はイタリア語で、「可愛い小さな娘」の意味。
 これが男の子だとバンビーノとなるが、「おちびさん」とか「そこの若いの」のような感覚の言葉で、指す年齢は、幼児からティーンエイジャーまで幅がありそうだ。
 バンビーナのほうも同様に、「お嬢ちゃん」「可愛い子ちゃん」のような愛称で年齢制限はないのだろうが、2~3歳の愛くるしい幼児が一番バンビーナのイメージに相応しいのではないかと思われる。
 
 さて、この『BAMBINA』、ファビアンの作詞だが、彼女の詩はいつも、今ひとつわかりにくくて、歌の設定や状況がすっきりと浮かんでこない。

 バンビーナに向けて歌っていることは確かで、詩全体の雰囲気や言葉の使い方などからして、歌っている側は男性ではなく、女性と考えるべきなのではと思う。

 では、<誰>が、<バンビーナへのどのような思い>を、歌っているのか。

 自分の中のもう一人の自分、幼い少女の頃の自分に向けて「あなた」「バンビーナ」と呼びかけている自問自答の歌と取れないこともないけれど、それよりはもっと具体的な対象に宛てての曲と取った方が・・・私には、この曲は母が幼い娘に歌っているという設定で考えるのが一番自然なのではと思えた。
 
 「バンビーナ」は、母である自分のもとに今はいない。
 亡くしてしまった幼子を愛おしむ母の哀惜の思いが感じられ、そのような解釈のもとで改めて原詩を味わってみた。
 
 原詩の冒頭部分は次のようである。

    Rien qu'un petit espace
    Une toute, toute petite trace
    Une toute, toute petite trace
    Un petit mal qui reste en moi
     (対訳)
    ただ小さな片隅だけにある
    唯一の とても小さな足跡 とてもとても小さな足跡
    私の中に残っている小さな傷

 そして、「バンビーナ あなたがいなくて寂しい 心に刻みつけた何枚かの写真には、もう二度と共に行くことのない街の匂いがする」と続いてゆく。

 この曲の日本語詞作りは、原詩が訴えかけてくる情感を、どのような情景の中で再現するのが最も忠実に伝えることになるのかの模索から始まった。 
 一見、原詩から離れてゆくようであっても、実はトータルで原詩の味わいに迫れるなら、時にそういう自在なやり方もあるのではと、今、私は思っている。

 そして、私の日本語詞の冒頭は次のようになった。

    幼いあなたと つなぐ手の温もり
    甘える声も 消えないのに
    あの時のまま 動かない時間を
    ただいつまでも なぞってる


 我が子を突然奪われてしまう母親の悲しみは察して余りあるものがある。
 幼な子にとって、母の存在は世界そのものであろうし、母にとっても同様だろう。
 全ての時間、世界はそこで止まり凍り付いてしまうだろう。
 立ちすくんでいる自分の周りで、時間は、容赦なく流れていく。
 そういう母の思いをこの曲に乗せてみたかった。

 原詩の中ほどに、
   「Je t’attends en bus dans la rue où l’autobus ne passe plus」
 とあって、これは「もうバスが通らない通りでバスを待つ」という意味だが、
    「来ることもないバスを待ち」
    「古びたバス停に立ち尽くして いつも 私は 待っている」

 と言葉をつけてみた。

 一緒にどこかの街に遊びに行き、そこで写真も撮ったのだろう。でももう共に乗るバスは決してやってくることはない。・・・そんなバス停に呆然と佇む心象風景がメロディーから浮かんできた。
 
 立ち尽くす母。
 バンビーナの母は子を失った喪失感の中で、時間を逆行させながら我が子への思いを繰り返し反芻するしかない。
 桜の花びらを掬い取る他すべのない「桜川」の母の物狂いも・・・どちらの悲しみが・・・と比べるべくもなく、どうしようもなく切ない。
                  
                                                     Fin
 
 (注 訳詞、解説について、無断転載転用を禁止します。
  取り上げたいご希望、訳詞を歌われたいご希望がある場合は、事前のご相談をお願い致します。)

 
  では、ララ・ファビアンの歌う原曲をこちらのyoutubeでお楽しみ下さい。
             ↓
 https://www.youtube.com/watch?v=VSEBeeqdFXM

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