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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

見えないもの

   見えぬけれどもあるんだよ
 
    青いお空の底ふかく、
    海の小石のそのように、
    夜がくるまで沈んでる、
    昼のお星はめに見えぬ。
    見えぬけれどもあるんだよ、
    見えぬものでもあるんだよ。

 金子みすゞの詩『星とたんぽぽ』の一節です。
金子 みすず
 見えないものの奥に、実はとても大切なもの、美しいものが埋まっているのだけれど、日常に追われて走っている時にはそれを見出すことはできない、じっと立ち止まって対象を慈しむような深い眼差しで眺めるとき、見えないはずのものが見えてくる、・・・見えないものを見、聞こえない声を聴き、掴めないものを掴む、・・・それこそが人としての豊かさ、満たされた人生を生きることなのでしょうか。

 ジャンルを問わず名人と言われる人たちは、皆そういう深い眼差しをしているように思われますし、そうでない市井の人であっても、素朴で揺るぎない人生哲学を持っている人は、日常の表層的なものに心奪われることなく、当たり前のように自然に本質を見据える賢者である気がします。

 
 先日、『訳詞の魅力』という演題でレクチャーコンサートを行う機会を頂きました。
 皆様、とても熱心に耳を傾けて下さったのですが、その折、私が掲げている「新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて」の意義、そして、「美しく生き生きとした日本語に再生する」ということについてのご質問を幾つか頂きました。
レクチャーコンサート
 「新しいシャンソン」とは、制作年代が最近のものだけを指しているわけではなく、「新しい言葉」もただ単に「新奇」であることを意味してはいません。
 一言でいうなら、新旧に関わらず、素敵な曲を「新たなもの」として再発見したいということでしょうか。

 温故知新、常にシャンソンの源流に立ち戻り、時代を超えて今も愛され続ける名曲のスピリットを感じることは大切なのですが、それでも、ある場合には長い時間の中で、いつの間にか形骸化し古びてしまった言葉の錆を取り払うことや、固定化された評価の奥にある生き生きとした新たな魅力を掘り起こすというような、そんな気概を込めてこの言葉を掲げ、日々取り組んでいることなどを、この日、皆様にお話しました。

 これまで、時代の中に埋もれていて紹介されずにきた美しい曲や詩、或いは今まさに産声を上げたばかりの可能性に満ちた曲や詩。
 自分の訳詞の一つ一つの言葉が、そんな見えない世界に光を当てて美しく躍動させることができるようにと、いつも切望してきたのだと・・・・。
 そしてそれに一番心地よく当てはまる言葉が、苦吟するのではなく当たり前のように自然にもたらされるようにと・・・。
 ご質問にお答えしながら、改めて、<見えぬけれどもある>ものへの強い思いを新たにしたのでした。


   『夢十夜』~仁王を掘り起こすということ
 そんな中で、突然思い出した物語があります。

 漱石の掌編『夢十夜』、語り手の「自分」が見た10の奇妙な夢が語られてゆく短編小説なのですが、その中の第6話をご紹介します。
夢十夜
 運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた。
 
 という冒頭から物語は始まります。

 夢の中の時代は鎌倉時代なのですが、集まった群衆はすべて奇妙なことに「自分」も含め現代(明治)の人間なのです。
運慶は見物人には全く頓着せずただひたすら鑿(のみ)と槌(つち)を動かしていきます。
 「自分」はどうして今の時代に運慶が生きているのかと不思議に思いながらも見物し続けます。
  運慶の手さばきの見事さに感嘆して、「よくああ無造作に、思うような眉や鼻ができるものだな」と思わず独言を言うのですが、その言葉を聞いた傍に居た若い男は、「あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力でただ掘り出しているだけなんだ。」「土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはないのだ。」と告げるのです。
 「自分」はこの時、初めて、彫刻とはそういうものなのかと思い、それだったら自分にも仁王が彫れるかもしれないと、片っ端から試みるのですが、どの木を削っても、仁王を掘り当てる事ができないのでした。

 ついに明治の木にはとうてい仁王は埋っていないものだと悟った。
 それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った。


 という謎めいた言葉でこの掌編は閉じられます。

 文明開化が進んで一気に欧風化されていく目まぐるしい時代への、漱石の痛烈な批判が強く読み取れますが、それにしても仁王を堀るのではなく、そこに埋まっているものをただ掘り起こすのだという言葉が、とても興味深いです。
 芸術を感得するというのはそういうこと。
 人の感性を媒体として自然に降りてくるものに身を委ねる、心を澄ます、という漱石の芸術観が凝縮されていることを感じます。


   木の声を聴く 
 こんなことを考え始めると、次々と思いは広がるので、もう一つだけ。
 
 「法隆寺のオニ」と謳われた天才的な宮大工、西岡常一さんのことが浮かんできました。
 法隆寺の解体修理、法輪寺三重塔や、薬師寺金堂、西塔などの再建等、後世に数多くの文化遺産を引き継ぐ偉業をその職人技で成し遂げています。
西岡常一の本
 嘗てNHKの『プロジェクトX』などでも取り上げられていましたし、『法隆寺を支えた木』、『木に学べ 法隆寺・薬師寺の美』、『宮大工棟梁・西岡常一「口伝」の重み』、『木のいのち木のこころ』等々、西岡さんのことを記した書籍も沢山出ていてとても感銘を受けるので、ご興味がおありでしたら是非お読みになってみて下さい。

 先ほどの運慶の話も共通するところがあるのではと思うのですが、西岡さんは、木と共に生きて、木の声を聴くことの出来る方だったのではと思うのです。

 不可能と言われた、古代からの木組みを再現し修復してゆくことは、西岡さんにとっては、それぞれの木の癖を知り、寄り添い、木が喜ぶ適材適所に置くことだったようで、「自分は木の心に従っているだけだ」という言葉に大きな感銘を受けます。対象への畏敬の念が、美しいものを生み出す力になっていることを感じます。

 「自然を『征服する』と言いますが、それは西洋の考え方です。日本ではそうやない。日本は自然の中にわれわれが生かされている、と、こう思わなくちゃいけませんねえ。」
 「木というやつはえらいですがな、泰然として台風が来るなら来い、雷落ちるなら落ちよ。自然の猛威を受けて二千年のいのちがありますねん。そういうこと考えると神様ですがな。」


   おまけのお話
 昨日、髪を10㎝ほど切りました。
 日頃からロングヘアですので、見た目はほとんど変わらないのですが、それでも自分としてはかなりさっぱりして夏を迎える気分上々です。

 実は、私が10年来お世話になっている美容師さんのS氏もかなりユニークな方なのです。
 まず髪をちらっと見て、「ああ、今日は疲れているね。」とか、「目を使いすぎていない?」とか、びっくりするほど図星の指摘。
 「何故わかるの?」と問い返すと、「漁師が海を見れば、今日はどこにどんな魚が居るかわかるのと同じことだよ。」と、禅問答のようなお返事が返ってきます。
 「髪がどうして欲しいか教えてくれるから自分はその声に従うだけなんだ。」彼もまた、名人の域に生きる方なのかもしれません。



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