
『クリスマスの贈り物』、明後日に迫ってきました
ご報告が遅くなりましたが、11月25日の堀内環さんとのジョイントライヴ、お陰様で無事終わりました。
いつもの『松峰綾音訳詞コンサート』は、ソロライヴですので、常に20曲前後を一人で歌い続けることになります。
初めから終わりまでの集中力やテンション、声量、スタミナの配分など、ゴールまで完走することを見据えて、上手にコントロールすることが要求されるのですが、ジョイントの場合は、共演者に自分の世界を受け渡しながら、全体として一つのステージを作り上げてゆく妙があることを今回改めて感じました。
言うならば、チームプレイの持つ面白さでしょうか。
大ベテランの堀内環さんの、歌はもちろんですが、ソフトで明るい話術や、間合いの取り方、パフォーマンスなど、同じステージに立ち、肌で感じ、学ぶところが多く、とても意義深く楽しいライヴでした。
そして、あっという間に二週間が経ち、明後日12月10日は、いよいよ『新しいシャンソンと朗読の夕べ』Vol.1『クリスマスの贈り物』の本番です。
ちょっと風邪を引きそうな嫌な気配を、気のせいだと振り払いつつ、日々、忙しく飛び回って準備を進めてきました。
今回は、いつもと一味違った新たな試みもたくさん取り入れてみましたので、どうぞご期待なさって下さいね。
お席のほうは、まだ少しならご用意できますので、早めにご連絡頂ければと思います。
『夕鶴』雑感
『クリスマスの贈り物』では、朗読にも挑戦しますので、夏前から、色々な朗読会・独り芝居など、参考のために積極的に聴きに行っています。
様々な公演に通ってみましたが、共通した決まった形があるわけではなく、それぞれの演者が独自なやり方で工夫を凝らし、朗読の方法も読む対象も、千差万別なのです。
文章を読む場合には、その理解度は、読者自身の言葉に対するセンスや感性、知性などに全て委ねられるわけですが、朗読を聴く場合には、朗読者自身の色合いに左右されてくるということでしょうか。
朗読者の肉声と、言葉を感受する素質、更には、その人の人柄や生き様までもが、媒体となって伝わってくるのでしょう。

数日前に、『巴里野郎』で朗読会がありました。
長くアナウンサーをしていらした丸尾ともよさんの4回目、そしてファイナルの朗読会でした。
私が聴かせて頂いたのは、この日の3回目のステージで、演目の後半に『夕鶴』を取り上げていらっしゃいました。
「つう」が丸尾さん、「よひょう」がもう一人の演者の湯口和明さん、という二人読みに挑戦なさり、更にソプラノ歌手の方も加わって、ところどころにオペラ『夕鶴』を挟みながらの、聴きごたえのある素敵なステージでした。
『夕鶴』は元々、戯曲として書かれた文学作品ですので、舞台で名優たちが演じてきた、そのような演劇的な力も要求され、なかなかハードルの高い演目だったのではと思います。
淡々と抑制して読んでゆく手法、劇的に演じるように読む手法、素材によって読み方も全て変わってゆくわけで、朗読の奥深さや難しさを改めて思いました。
でも、この日、朗読を聴きながら、一番印象的だったのは、『夕鶴』という作品の私自身の捉え方が、以前読んだ時と大きく異なっていると気づいたことでした。
端的に言うと、昔は「つう」に感情移入し、共感していたのが、今回は「よひょう」の側により強く感じるものがあったことです。

学生の頃は、「つう」の無欲で穢れない純粋さが踏みにじられてゆく、その悲しさや不条理に憤りを覚えていました。
「よひょう」が、なぜ、質素でも穏やかな自然の中の生活に満足せず、都の華やかさに憧れるのか、際限のない金銭欲に飲み込まれてしまったのか、「機織り部屋を覗かないでほしい」というただ一つの願いも守れなかったのか、「よひょう」に喜んでもらうことだけを願って、自分の身を削った「つう」の愛情がことごとく裏切られてゆく悲しさに寄り添う気持ちでした。
でも、今回は、むしろ、次々と膨らんでいく欲望を抑えられない「よひょう」の弱さや、そのために愛する人を傷つけ、それにも気づけないでいることの愚かさ、果ては、止められない好奇心が、取り返しのつかない過ちを誘発すること、・・・・人として持つ悲しい宿命のようなものに、どうしようもない切なさを感じてしまいました。
今の私にとって、この物語の主人公は、「つう」というよりも「よひょう」であるようです。
「つう」は、人の心を確かめに来た遠い世界の人で、『蜘蛛の糸』のお釈迦様の寂しい眼を、去ってゆく鶴の、最後の描写に感じました。
同じ文章でも、やはりそれに触れる時の年齢や状況、心境によって、大いに違ってくるものですね。
歌もまた同様なのかもしれません。
明後日、どんな心境で、どんな風に歌うことになるのか、その場になってみないと本当にはわからず、そういうことって緊張もしますが、でも、とても楽しみでもあるのです。
ご報告が遅くなりましたが、11月25日の堀内環さんとのジョイントライヴ、お陰様で無事終わりました。
いつもの『松峰綾音訳詞コンサート』は、ソロライヴですので、常に20曲前後を一人で歌い続けることになります。
初めから終わりまでの集中力やテンション、声量、スタミナの配分など、ゴールまで完走することを見据えて、上手にコントロールすることが要求されるのですが、ジョイントの場合は、共演者に自分の世界を受け渡しながら、全体として一つのステージを作り上げてゆく妙があることを今回改めて感じました。
言うならば、チームプレイの持つ面白さでしょうか。
大ベテランの堀内環さんの、歌はもちろんですが、ソフトで明るい話術や、間合いの取り方、パフォーマンスなど、同じステージに立ち、肌で感じ、学ぶところが多く、とても意義深く楽しいライヴでした。
そして、あっという間に二週間が経ち、明後日12月10日は、いよいよ『新しいシャンソンと朗読の夕べ』Vol.1『クリスマスの贈り物』の本番です。
ちょっと風邪を引きそうな嫌な気配を、気のせいだと振り払いつつ、日々、忙しく飛び回って準備を進めてきました。
今回は、いつもと一味違った新たな試みもたくさん取り入れてみましたので、どうぞご期待なさって下さいね。
お席のほうは、まだ少しならご用意できますので、早めにご連絡頂ければと思います。
『夕鶴』雑感
『クリスマスの贈り物』では、朗読にも挑戦しますので、夏前から、色々な朗読会・独り芝居など、参考のために積極的に聴きに行っています。
様々な公演に通ってみましたが、共通した決まった形があるわけではなく、それぞれの演者が独自なやり方で工夫を凝らし、朗読の方法も読む対象も、千差万別なのです。
文章を読む場合には、その理解度は、読者自身の言葉に対するセンスや感性、知性などに全て委ねられるわけですが、朗読を聴く場合には、朗読者自身の色合いに左右されてくるということでしょうか。
朗読者の肉声と、言葉を感受する素質、更には、その人の人柄や生き様までもが、媒体となって伝わってくるのでしょう。

数日前に、『巴里野郎』で朗読会がありました。
長くアナウンサーをしていらした丸尾ともよさんの4回目、そしてファイナルの朗読会でした。
私が聴かせて頂いたのは、この日の3回目のステージで、演目の後半に『夕鶴』を取り上げていらっしゃいました。
「つう」が丸尾さん、「よひょう」がもう一人の演者の湯口和明さん、という二人読みに挑戦なさり、更にソプラノ歌手の方も加わって、ところどころにオペラ『夕鶴』を挟みながらの、聴きごたえのある素敵なステージでした。
『夕鶴』は元々、戯曲として書かれた文学作品ですので、舞台で名優たちが演じてきた、そのような演劇的な力も要求され、なかなかハードルの高い演目だったのではと思います。
淡々と抑制して読んでゆく手法、劇的に演じるように読む手法、素材によって読み方も全て変わってゆくわけで、朗読の奥深さや難しさを改めて思いました。
でも、この日、朗読を聴きながら、一番印象的だったのは、『夕鶴』という作品の私自身の捉え方が、以前読んだ時と大きく異なっていると気づいたことでした。
端的に言うと、昔は「つう」に感情移入し、共感していたのが、今回は「よひょう」の側により強く感じるものがあったことです。

学生の頃は、「つう」の無欲で穢れない純粋さが踏みにじられてゆく、その悲しさや不条理に憤りを覚えていました。
「よひょう」が、なぜ、質素でも穏やかな自然の中の生活に満足せず、都の華やかさに憧れるのか、際限のない金銭欲に飲み込まれてしまったのか、「機織り部屋を覗かないでほしい」というただ一つの願いも守れなかったのか、「よひょう」に喜んでもらうことだけを願って、自分の身を削った「つう」の愛情がことごとく裏切られてゆく悲しさに寄り添う気持ちでした。
でも、今回は、むしろ、次々と膨らんでいく欲望を抑えられない「よひょう」の弱さや、そのために愛する人を傷つけ、それにも気づけないでいることの愚かさ、果ては、止められない好奇心が、取り返しのつかない過ちを誘発すること、・・・・人として持つ悲しい宿命のようなものに、どうしようもない切なさを感じてしまいました。
今の私にとって、この物語の主人公は、「つう」というよりも「よひょう」であるようです。
「つう」は、人の心を確かめに来た遠い世界の人で、『蜘蛛の糸』のお釈迦様の寂しい眼を、去ってゆく鶴の、最後の描写に感じました。
同じ文章でも、やはりそれに触れる時の年齢や状況、心境によって、大いに違ってくるものですね。
歌もまた同様なのかもしれません。
明後日、どんな心境で、どんな風に歌うことになるのか、その場になってみないと本当にはわからず、そういうことって緊張もしますが、でも、とても楽しみでもあるのです。


