
お陰様で4月16日の『綜合藝術茶房 喫茶茶会記』での公演も無事終了致しました。
4月8日の京都コンサートでは桜満開でしたが、16日の東京は、花吹雪乱舞、歩道に積もった花びらが春風にクルクルと巻かれる風情が格別の趣を添えていました。
抜けるような青空に映える名残の桜が、『をみなごに花びらながれ』のイメージにしっくりと溶け合って、一層風情を増していたように思われます。
桜花の恵みの中で、両コンサートとも無事終えることが出来ましたことを、皆様から頂きました沢山のお力添えと共に、改めて感謝申し上げます。
今回もカメラマンの沢木瑠璃さんが撮影して下さった写真を何枚かご紹介しながら、コンサートを振り返ってみたいと思います。
会場『綜合藝術茶房 喫茶茶会記』
四谷三丁目駅から徒歩2~3分、こんな普通の路地の片隅に、小さな看板がありました。
『喫茶 茶会記』のボードにフライヤーが貼られています。

お客様は迷わずいらして下さるでしょうか、・・・この道を進みます。
皐月の植え込みを右手に見ながら、真っ直ぐ突き当りまで。

突き当りに再び看板が。
普通の家のような何気ない佇まいに、おずおずとドアを開けると、玄関のたたき、その横がカウンター、靴を脱ぐと、温かく瀟洒なカフェが広がります。
その奥の扉を開けるとライヴスペース、今日のコンサート会場となります。
カウンターに置かれたプログラム。
今回もこだわりのお手製で、朗読内容・曲目紹介など記してみました。

文学青年、あるいは演劇で活躍されていた方かしら、そんな香りを漂わせる優しくダンディーなマスターが入れて下さる珈琲は飛び切り美味しいのです。

どこか懐かしい穏やかな空気に包み込まれます。
子供の頃の隠れ家のような・・・学校の図書室が大好きだった私には、カウンターにさりげなく並べられてある文学書の匂いがふわっと時間を戻してくれる気がしました。


私の蔵書と同じ『小林秀雄全集』が並び、そして何冊ものジャズの本、マスターのこだわりが、一つ一つの調度品にもくっきりと反映されていて、居心地の良さを増していました。

本番前、楽屋での寛ぎタイム、坂下さんと私です。
お客様から頂戴した10本の深紅の薔薇の花束がピアノの隣に華やかに飾られ、開演を待っていました。
第一部 『もの狂いの美学』
ご予約下さったすべてのお客様が既にお席に着いて下さり、満席でコンサートはスタートしました。
巴里野郎と同様のプログラム、第一部のテーマは「もの狂いの美学」。

坂口安吾の小説『桜の森の満開の下』の朗読から始めました。
小説の世界を堪能して頂くためには、勿論、全編をそのまま朗読することが好ましいのですが、そうすると、一時間以上必要になってしまいます。
「新しいシャンソンと朗読の夕べ」、曲と融合させてこそ、ですので、抄編として、所々筋立てをまとめて構成してみました。
原作の持ち味を損なわずに、ここぞという原文を残して・・・原詩を訳詞に作っていく作業に酷似していると感じながら。
朗読も歌も全く同様で、声が聴き手の心に届くまでの微妙な間=余韻のようなものが不可欠であると痛感します。
しかも、そういう間というものは、ピアニストとの呼吸、お客様や会場の雰囲気などの様々な条件と相まった、その時一回きりの時間の中で作られてゆくのではないでしょうか。
そして、この小説は、鬼が登場するおどろおどろしい昔話のようでありながら、実は、寂寥感漂う心模様や美的世界の不条理など、張り詰めた中で複雑に紡がれてゆく小説ですので、読んでいる自分自身が、まず、心を吸い取られていくような感覚をいつも強く感じるのです。
この日の本番も、そんな幻惑されるような感情の流れにいつの間にか巻き込まれていた気がします。
朗読の後に続いて、もの狂いをイメージしたシャンソンを4曲歌いました。

歌い終わって、皆様にご挨拶。
ようやく我に返った笑顔、私と坂下さんです。
第二部 『桜前線』
第二部は桜色のドレスで。

詩人、大岡信の随想「言葉の力(抄)」と、三好達治の詩「甃のうへ」の朗読からスタートしました。
『桜前線』という第二部のテーマは、桜前線が日本中を包み込んで、やがて瑞々しい桜色に染め尽くすように、「をみなご(乙女たち)」の初々しく弾けるような若さを朗読とシャンソンで綴ってゆこうという試みです。

あっという間に時間が過ぎて、フィナーレの「たびだち」です。
今回もお客様とご一緒に歌わせて頂き、客席とのハーモニーが心地よく響いて幸せなコンサートの幕でした。
・・・と言いたいところだったのですが、「アンコールにお応えし、ではもう一曲!」という瞬間にマイクにアクシデントが発生!
急遽マイクを代えて頂き、再びアンコールを歌いました。
「<安吾>と<桜>の魔力が、マイクに悪戯をしたに違いない」と、私は確信しているのです。
桜幻想ですね。
これは、今回のコンサートへの洒脱な贈り物だったに違いありません。
客席から~「桜の森の満開の下」に寄せて~
両会場のお客様から、色々なご感想やご意見などを頂き、今、その一つ一つを嬉しく受け止めています。
特に、朗読で取り上げた文学作品自体への思い・解釈を、皆様それぞれに膨らませて下さったようです。
一番反響が多かったのは坂口安吾の『桜の森の満開の下』だったのですが、そんな中から、こんな素敵なお便り(抜粋)をご紹介してみたいと思います。
少し前にNHKの名著を紹介する番組で坂口安吾を取り上げておりまして、番組は観ていないのですが本だけは気になって、買っておりました。
そこに、偶然にも朗読の題材に取り上げられるのを知って、興味深く「桜の森の満開の下」を読み、これは映像をとDVDを借りて鑑賞致しました。
人間の心理の変化はとても面白いですし、歌を表現する上でいつも問題視しますので、興味深いです。
今回の物狂いも人間的なものとして、気味の悪さを通り越して楽しんでおりました。
暗黒の推理や恐怖では決してなく、心の深いところの愛だと感じました。
誰にでもあるかも知れない心の中の鬼、孤独を理解した人は純愛に気付くのかも、本の中の人も歌の中の人も愛おしいと思う。
誰にも知られない恋、自分にも解らない狂気、純愛と言いましょうか?
<朗読が持つ潜在的な力>を今回、改めて実感しました。
作品について分析するのではなく、ただ、描かれた世界を、自分の感性に従って読み続けてゆく、自分の息や声を、聴く側の心に届けることだけに集中していたのですが、この場合ですと、安吾の世界の持つ、鬼の意味、孤独だからこそ見えてくるピュアなもの、誰しもが持っている狂気と正気とのはざまにある不安、そんなすべてを柔らかく捉えて下さるこのようなご感想を頂いて、本当に嬉しく思いました。
「をみなごに花びらながれ」を終えた今、今年の桜は、格別の味わいを持って心に刻まれています。
4月8日の京都コンサートでは桜満開でしたが、16日の東京は、花吹雪乱舞、歩道に積もった花びらが春風にクルクルと巻かれる風情が格別の趣を添えていました。
抜けるような青空に映える名残の桜が、『をみなごに花びらながれ』のイメージにしっくりと溶け合って、一層風情を増していたように思われます。
桜花の恵みの中で、両コンサートとも無事終えることが出来ましたことを、皆様から頂きました沢山のお力添えと共に、改めて感謝申し上げます。
今回もカメラマンの沢木瑠璃さんが撮影して下さった写真を何枚かご紹介しながら、コンサートを振り返ってみたいと思います。
会場『綜合藝術茶房 喫茶茶会記』
四谷三丁目駅から徒歩2~3分、こんな普通の路地の片隅に、小さな看板がありました。
『喫茶 茶会記』のボードにフライヤーが貼られています。



お客様は迷わずいらして下さるでしょうか、・・・この道を進みます。
皐月の植え込みを右手に見ながら、真っ直ぐ突き当りまで。

突き当りに再び看板が。
普通の家のような何気ない佇まいに、おずおずとドアを開けると、玄関のたたき、その横がカウンター、靴を脱ぐと、温かく瀟洒なカフェが広がります。
その奥の扉を開けるとライヴスペース、今日のコンサート会場となります。
カウンターに置かれたプログラム。
今回もこだわりのお手製で、朗読内容・曲目紹介など記してみました。


文学青年、あるいは演劇で活躍されていた方かしら、そんな香りを漂わせる優しくダンディーなマスターが入れて下さる珈琲は飛び切り美味しいのです。

どこか懐かしい穏やかな空気に包み込まれます。
子供の頃の隠れ家のような・・・学校の図書室が大好きだった私には、カウンターにさりげなく並べられてある文学書の匂いがふわっと時間を戻してくれる気がしました。


私の蔵書と同じ『小林秀雄全集』が並び、そして何冊ものジャズの本、マスターのこだわりが、一つ一つの調度品にもくっきりと反映されていて、居心地の良さを増していました。

本番前、楽屋での寛ぎタイム、坂下さんと私です。
お客様から頂戴した10本の深紅の薔薇の花束がピアノの隣に華やかに飾られ、開演を待っていました。
第一部 『もの狂いの美学』
ご予約下さったすべてのお客様が既にお席に着いて下さり、満席でコンサートはスタートしました。
巴里野郎と同様のプログラム、第一部のテーマは「もの狂いの美学」。

坂口安吾の小説『桜の森の満開の下』の朗読から始めました。
小説の世界を堪能して頂くためには、勿論、全編をそのまま朗読することが好ましいのですが、そうすると、一時間以上必要になってしまいます。
「新しいシャンソンと朗読の夕べ」、曲と融合させてこそ、ですので、抄編として、所々筋立てをまとめて構成してみました。
原作の持ち味を損なわずに、ここぞという原文を残して・・・原詩を訳詞に作っていく作業に酷似していると感じながら。
朗読も歌も全く同様で、声が聴き手の心に届くまでの微妙な間=余韻のようなものが不可欠であると痛感します。
しかも、そういう間というものは、ピアニストとの呼吸、お客様や会場の雰囲気などの様々な条件と相まった、その時一回きりの時間の中で作られてゆくのではないでしょうか。
そして、この小説は、鬼が登場するおどろおどろしい昔話のようでありながら、実は、寂寥感漂う心模様や美的世界の不条理など、張り詰めた中で複雑に紡がれてゆく小説ですので、読んでいる自分自身が、まず、心を吸い取られていくような感覚をいつも強く感じるのです。
この日の本番も、そんな幻惑されるような感情の流れにいつの間にか巻き込まれていた気がします。
朗読の後に続いて、もの狂いをイメージしたシャンソンを4曲歌いました。


歌い終わって、皆様にご挨拶。
ようやく我に返った笑顔、私と坂下さんです。
第二部 『桜前線』
第二部は桜色のドレスで。

詩人、大岡信の随想「言葉の力(抄)」と、三好達治の詩「甃のうへ」の朗読からスタートしました。
『桜前線』という第二部のテーマは、桜前線が日本中を包み込んで、やがて瑞々しい桜色に染め尽くすように、「をみなご(乙女たち)」の初々しく弾けるような若さを朗読とシャンソンで綴ってゆこうという試みです。

あっという間に時間が過ぎて、フィナーレの「たびだち」です。
今回もお客様とご一緒に歌わせて頂き、客席とのハーモニーが心地よく響いて幸せなコンサートの幕でした。
・・・と言いたいところだったのですが、「アンコールにお応えし、ではもう一曲!」という瞬間にマイクにアクシデントが発生!
急遽マイクを代えて頂き、再びアンコールを歌いました。
「<安吾>と<桜>の魔力が、マイクに悪戯をしたに違いない」と、私は確信しているのです。
桜幻想ですね。
これは、今回のコンサートへの洒脱な贈り物だったに違いありません。
客席から~「桜の森の満開の下」に寄せて~
両会場のお客様から、色々なご感想やご意見などを頂き、今、その一つ一つを嬉しく受け止めています。
特に、朗読で取り上げた文学作品自体への思い・解釈を、皆様それぞれに膨らませて下さったようです。
一番反響が多かったのは坂口安吾の『桜の森の満開の下』だったのですが、そんな中から、こんな素敵なお便り(抜粋)をご紹介してみたいと思います。
少し前にNHKの名著を紹介する番組で坂口安吾を取り上げておりまして、番組は観ていないのですが本だけは気になって、買っておりました。
そこに、偶然にも朗読の題材に取り上げられるのを知って、興味深く「桜の森の満開の下」を読み、これは映像をとDVDを借りて鑑賞致しました。
人間の心理の変化はとても面白いですし、歌を表現する上でいつも問題視しますので、興味深いです。
今回の物狂いも人間的なものとして、気味の悪さを通り越して楽しんでおりました。
暗黒の推理や恐怖では決してなく、心の深いところの愛だと感じました。
誰にでもあるかも知れない心の中の鬼、孤独を理解した人は純愛に気付くのかも、本の中の人も歌の中の人も愛おしいと思う。
誰にも知られない恋、自分にも解らない狂気、純愛と言いましょうか?
<朗読が持つ潜在的な力>を今回、改めて実感しました。
作品について分析するのではなく、ただ、描かれた世界を、自分の感性に従って読み続けてゆく、自分の息や声を、聴く側の心に届けることだけに集中していたのですが、この場合ですと、安吾の世界の持つ、鬼の意味、孤独だからこそ見えてくるピュアなもの、誰しもが持っている狂気と正気とのはざまにある不安、そんなすべてを柔らかく捉えて下さるこのようなご感想を頂いて、本当に嬉しく思いました。
「をみなごに花びらながれ」を終えた今、今年の桜は、格別の味わいを持って心に刻まれています。


