
桜若葉もいつの間にか緑濃く、初夏の彩りに包まれています。
GWは如何お過ごしでしたか。
私は、今年は久しぶりに京都でゆっくりとしていました。
ゆっくりと、というのは遠征せずに・・という意味で・・・。
片づけの魔法
何日か休みがあると、ついいつもの片づけの虫が、もそもそとうごめき。

花粉も終息を迎え、ようやく大きく窓を開けることができ、しかも梅雨を迎える前の薫風、<今を逃して何時だというのか!>と、意気揚々と、大好きな趣味=「整理整頓・大掃除」に挑んだのでした。
以前にも何回かブログで、片付けのノウハウや我流哲学など、色々なことを折に触れお話ししてきたかと思うのですが。
「趣味・特技」と自負するくらいですので、さすがに人様には家の中や身の回り、書類に至るまでいつもすっきり片付いていると褒めて頂けるのですが、それでもいつの間にか、過ごしてきた時間の集積のように、モノは膨らんで行くものですね。
最近の私の「片づけ衝動」には、大きく分けて二つあるようです。
何かしなければならない課題を目前にした時、まず身を清めてから臨むというような一種の通過儀礼。
子供が試験の前に突然机の中を整理し始める・・・、目の前に迫ってくる敵からの、ある種の逃避行動にも似ています。
からめ手に回ってみたものの、ついにはもう為すこともなくなって、<いよいよ向かうしかない>。
自分を追い込むような、そういう境地を受け入れるためのプロセスでもあり、向かうべき本命は、片付けではなく、別のところに在るわけです。
そしてもう一つは、何かが一段落して、その余韻が去ってゆく時に、それを改めてじっと思い返して、それと決別するような感覚。 まさに、何処か然るべきところに<片をつけたい>という衝動といえるかもしれません。・・・何だか恋人との別れみたいですけれど。
例えばコンサートが終わって、一通りぐたっとした後、ぼちぼちと意識が正常に戻ってくる時などに突如湧き起ってきます。
終えてきた事柄を一つずつ確認していると、大切に残してゆきたいものと、捨ててゆくものとの領域が見えてきます。
そのどちらにも意味があり、それを見つめながら、心の中のそれぞれの場所に落ち着かせ、次への出発、跳躍への弾みを探している気がしています。
今回の片づけ衝動はどちらだったのか、「をみなごに花びらながれ」を反芻して、次を模索しようとする中で、両方の気持ちが混ざり合っていたかもしれません。
片付けの究極は「断捨離」、「捨てることに在り」と言われますね。
整理整頓することで、本当に必要なものを見出して、モノや事柄を、より効率的に、魅力的に活用してゆくことが好ましいのでしょうから、エイヤア!というきっぱりとした思い切りをどこで持つかが肝心ということになるのかもしれません。
けれど、それはなかなか難しいですよね。
<たかがモノ、されどモノ>
過去や未来と繋がるモノの存在は、それぞれに、切り捨てられない意味を持つことも事実でしょう。
むしろ、重荷や余分と思われるものであっても、敢えてそれを背負ってこそが、人生の本当の面白さだということも、また言えるかもしれません。
基本的には
「人やモノに拘泥せずに、いつも軽やかにすっきりと!」
「必要なものを慈しみ生かしつつ、心豊かに共存していたい」
というのが信条ではあるのですが、一方では、生きることは、無形、有形を問わず、いつの間にか堆積されてゆくあらゆるものを引き受け、付き合うことであるという気さえしてきます。
「整理整頓の極意」私論
一番厄介なのは、想い出に関わるモノたち。
捨てたくても捨てられないものを苦笑いしながら抱えてゆくのも人間らしくて自然なのかなとも思いつつ。
それでも、これまで、とても大事に感じていたものが、ある時ふっとふっ切れたり、また自分の気持ちを敢えて変えたくなったりして、一掃しようと思うことがあります。
そんな時が「捨てどき」、「手放しどき」なのでしょうね。
無理しないで、そんな時を待てばよいのではと思っています。
そして、これはモノだけではなくて、心の傷とか、執着している問題など、心の持ち方にも当てはまる気もしてくるのです。
片付けをしながら、そんなことにふと思いを巡らせたこの数日でした。
全ては、奥深くしまい込み過ぎると、根を生やして身動きがつかなくなりますので、時々埃を払い、陽の光を当てて、自分にとっての今の意味を確認してみる・・・・私の「片付けタイム」はそんな時間でもあります。
最後に、数年前に大きな話題になったこんな本、『人生がときめく片付けの魔法』(近藤麻理恵著)をご紹介してみます。

現在もベストセラーを更新していて、2015年には、著者の近藤さんは米国TIMEが選ぶ「世界で最も影響力のある100人」に選ばれています。
前に、この本を一度ブログでご紹介したことがありましたので、その時の文章をもう一度記してみますね。
「まずは、収納しないで「捨てる」という作業を一気に短期に完璧に片付けること、これをすれば絶対に元の散らかった状態には戻らない」と筆者は述べています。
では何を、どう捨てるかが問題になるわけですが、「理想の暮らしを考えながら、目の前にあるモノに今、ときめきを感じるか否かで判断する事」が大切であり、モノを貯め込んでしまうのは、「過去にたいする執着」か「未来に対する不安」があるからであり、それをふっ切ることが「モノがなくても何とかなる」という自分に対する自信の獲得につながるのだと、なかなか哲学的に展開して行きます。
完璧な片付けを一度でも体験すると、人生がときめくような感覚を覚え、そしてその後に、自分が本当に求めていたモノや目標までもが見えてくる・・・人生が魔法にかかったかのようにドラマチックに変化してゆくのを実感する・・それを筆者は「片付けの魔法」と称しています。
興味深いですね。
でも、実際には、一つ一つのモノを前にして、「ときめく」か「ときめかない」か、瞬時に判断し、「捨てる」という行動につなげてゆくことは、敏感な感性と毅然とした決断力を必要とすることで、それなりの修練も必要かもしれません。
今回の最大の収穫はMDの整理に着手できたことでした。
これまでMDに収録してきた音楽資料が膨大なのですが、これをセレクトしながらデータ化するという作業を始めました。
いつの間にか、MDというものはすべて、市場から駆逐されてしまいましたので、手持ちの機械が健在なうちに何としてもデータ化する急務があるのです。
さすがにこれは1~2日でできるものではないので、これから、日々粛々と頑張ってみようと思っています。
けれど、棚上げしていたこの課題に着手したおかげで、既に、これはという曲をかなり発掘することができました。
新たな訳詞作りが楽しみです。
かくして、片づけと入念な大掃除を終え、束の間、爽快感を味わっているのですが、GWはそれだけに関わっていたわけでもなく、千客万来の日々でもあり、忘備録はまだ続きます。
今日はここで一段落。次回は早々にUPしますので、どうぞお楽しみに!
GWは如何お過ごしでしたか。
私は、今年は久しぶりに京都でゆっくりとしていました。
ゆっくりと、というのは遠征せずに・・という意味で・・・。
片づけの魔法
何日か休みがあると、ついいつもの片づけの虫が、もそもそとうごめき。

花粉も終息を迎え、ようやく大きく窓を開けることができ、しかも梅雨を迎える前の薫風、<今を逃して何時だというのか!>と、意気揚々と、大好きな趣味=「整理整頓・大掃除」に挑んだのでした。
以前にも何回かブログで、片付けのノウハウや我流哲学など、色々なことを折に触れお話ししてきたかと思うのですが。
「趣味・特技」と自負するくらいですので、さすがに人様には家の中や身の回り、書類に至るまでいつもすっきり片付いていると褒めて頂けるのですが、それでもいつの間にか、過ごしてきた時間の集積のように、モノは膨らんで行くものですね。
最近の私の「片づけ衝動」には、大きく分けて二つあるようです。
何かしなければならない課題を目前にした時、まず身を清めてから臨むというような一種の通過儀礼。
子供が試験の前に突然机の中を整理し始める・・・、目の前に迫ってくる敵からの、ある種の逃避行動にも似ています。
からめ手に回ってみたものの、ついにはもう為すこともなくなって、<いよいよ向かうしかない>。
自分を追い込むような、そういう境地を受け入れるためのプロセスでもあり、向かうべき本命は、片付けではなく、別のところに在るわけです。
そしてもう一つは、何かが一段落して、その余韻が去ってゆく時に、それを改めてじっと思い返して、それと決別するような感覚。 まさに、何処か然るべきところに<片をつけたい>という衝動といえるかもしれません。・・・何だか恋人との別れみたいですけれど。
例えばコンサートが終わって、一通りぐたっとした後、ぼちぼちと意識が正常に戻ってくる時などに突如湧き起ってきます。
終えてきた事柄を一つずつ確認していると、大切に残してゆきたいものと、捨ててゆくものとの領域が見えてきます。
そのどちらにも意味があり、それを見つめながら、心の中のそれぞれの場所に落ち着かせ、次への出発、跳躍への弾みを探している気がしています。
今回の片づけ衝動はどちらだったのか、「をみなごに花びらながれ」を反芻して、次を模索しようとする中で、両方の気持ちが混ざり合っていたかもしれません。
片付けの究極は「断捨離」、「捨てることに在り」と言われますね。
整理整頓することで、本当に必要なものを見出して、モノや事柄を、より効率的に、魅力的に活用してゆくことが好ましいのでしょうから、エイヤア!というきっぱりとした思い切りをどこで持つかが肝心ということになるのかもしれません。
けれど、それはなかなか難しいですよね。
<たかがモノ、されどモノ>
過去や未来と繋がるモノの存在は、それぞれに、切り捨てられない意味を持つことも事実でしょう。
むしろ、重荷や余分と思われるものであっても、敢えてそれを背負ってこそが、人生の本当の面白さだということも、また言えるかもしれません。
基本的には
「人やモノに拘泥せずに、いつも軽やかにすっきりと!」
「必要なものを慈しみ生かしつつ、心豊かに共存していたい」
というのが信条ではあるのですが、一方では、生きることは、無形、有形を問わず、いつの間にか堆積されてゆくあらゆるものを引き受け、付き合うことであるという気さえしてきます。
「整理整頓の極意」私論
一番厄介なのは、想い出に関わるモノたち。
捨てたくても捨てられないものを苦笑いしながら抱えてゆくのも人間らしくて自然なのかなとも思いつつ。
それでも、これまで、とても大事に感じていたものが、ある時ふっとふっ切れたり、また自分の気持ちを敢えて変えたくなったりして、一掃しようと思うことがあります。
そんな時が「捨てどき」、「手放しどき」なのでしょうね。
無理しないで、そんな時を待てばよいのではと思っています。
そして、これはモノだけではなくて、心の傷とか、執着している問題など、心の持ち方にも当てはまる気もしてくるのです。
片付けをしながら、そんなことにふと思いを巡らせたこの数日でした。
全ては、奥深くしまい込み過ぎると、根を生やして身動きがつかなくなりますので、時々埃を払い、陽の光を当てて、自分にとっての今の意味を確認してみる・・・・私の「片付けタイム」はそんな時間でもあります。
最後に、数年前に大きな話題になったこんな本、『人生がときめく片付けの魔法』(近藤麻理恵著)をご紹介してみます。

現在もベストセラーを更新していて、2015年には、著者の近藤さんは米国TIMEが選ぶ「世界で最も影響力のある100人」に選ばれています。
前に、この本を一度ブログでご紹介したことがありましたので、その時の文章をもう一度記してみますね。
「まずは、収納しないで「捨てる」という作業を一気に短期に完璧に片付けること、これをすれば絶対に元の散らかった状態には戻らない」と筆者は述べています。
では何を、どう捨てるかが問題になるわけですが、「理想の暮らしを考えながら、目の前にあるモノに今、ときめきを感じるか否かで判断する事」が大切であり、モノを貯め込んでしまうのは、「過去にたいする執着」か「未来に対する不安」があるからであり、それをふっ切ることが「モノがなくても何とかなる」という自分に対する自信の獲得につながるのだと、なかなか哲学的に展開して行きます。
完璧な片付けを一度でも体験すると、人生がときめくような感覚を覚え、そしてその後に、自分が本当に求めていたモノや目標までもが見えてくる・・・人生が魔法にかかったかのようにドラマチックに変化してゆくのを実感する・・それを筆者は「片付けの魔法」と称しています。
興味深いですね。
でも、実際には、一つ一つのモノを前にして、「ときめく」か「ときめかない」か、瞬時に判断し、「捨てる」という行動につなげてゆくことは、敏感な感性と毅然とした決断力を必要とすることで、それなりの修練も必要かもしれません。
今回の最大の収穫はMDの整理に着手できたことでした。
これまでMDに収録してきた音楽資料が膨大なのですが、これをセレクトしながらデータ化するという作業を始めました。
いつの間にか、MDというものはすべて、市場から駆逐されてしまいましたので、手持ちの機械が健在なうちに何としてもデータ化する急務があるのです。
さすがにこれは1~2日でできるものではないので、これから、日々粛々と頑張ってみようと思っています。
けれど、棚上げしていたこの課題に着手したおかげで、既に、これはという曲をかなり発掘することができました。
新たな訳詞作りが楽しみです。
かくして、片づけと入念な大掃除を終え、束の間、爽快感を味わっているのですが、GWはそれだけに関わっていたわけでもなく、千客万来の日々でもあり、忘備録はまだ続きます。
今日はここで一段落。次回は早々にUPしますので、どうぞお楽しみに!


