
『パリジェンヌの秋』、明日です
コンサート前日となりました。
いつもより少しだけ口数が少なくなり、料理人が包丁を研ぐような気分で、身を正して、来るべき時を待つという心境に入り始めています。
緊張しますが、実は醍醐味満点の時間なのかもしれません。
「ファム&ウーボ20周年記念
松峰綾音訳詞コンサート『パリジェンヌの秋 ~femmes d’automne~』」
長いタイトルのコンサート、4月の『をみなごに花びらながれ』からしばらくぶりの本番に、何だか心が浮き立ちます。
セレクトショップ「ファム」の主催、コーディネートとあって、いつもとまた一味違ったテンポで、今日までの準備が進んできました。
全体にお洒落で、ファッションのお店ならではコンサートにしたいというこだわりが細部からも伝わってきて、私にはとても新鮮で、新たな発見も色々あったのです。
会場受付、ステージの装飾、衣装の雰囲気など、全てをトータルで考える雰囲気作り、視覚的にも楽しんで頂けることを狙っているのだと思われます。
詳細な打ち合わせをしてきたのですが、私も教えて頂けない「当日のお楽しみ!」がいくつかあるようで、いつも全てを自分で準備してきた私にとっては、包みを開ける時を待つような楽しい感覚です。
今回のコンサート、夏の終わりから秋への季節を背景として、曲の中にそれぞれの女性達の物語を描いて行こうというコンセプトですので、選曲にも色々工夫してみました。
パリジェンヌ、パリマダムのお洒落で飛び切りエスプリの効いた世界を表出できたら素敵だと。
そんなつもりで準備をしていると、すっかり自分がパリの街に居るような気がしてきて、一人芝居に没入していくような、うっとりと幸せな時間を過ごしています。
中秋の名月
一昨日の月はご覧になりましたか。
私は京都の自宅のベランダから、かなり長い時間吸い込まれるように眺めていました。煌々として美しい名月でしたね。

ヨーロッパなどではこんなに冴えた月の夜は、不吉で、何か悪いことが起こると恐れられてきたと聞きます。
名月を愛でて、思いを馳せ、そこに悠久の命を感じ取るなどという感覚は、独特な日本的な感性であるのでしょう。
評論家小林秀雄氏の『考えるヒント』の中に、『お月見』という小編があったのを思い出しました。
こんな書き出しです。
京都の嵯峨で月見の宴をしていた。もっとも月見の宴というような大袈裟なものではなく、集まって一杯やったのが、たまたま十五夜の夕であったというような事だったらしい。平素、月見などには全く無関心な若い会社員たちが多く、そういう若い人らしく賑やかに酒盛りが始まったが、話の合い間に、誰かが山の方に目を向けると、これに釣られて誰かの目も山の方に向く。月を待つ想いの誰の心にもあるのが、いわず語らずのうちに通じ合っている。やがて、山の端に月が上ると、一座は、期せずしてお月見の気分に支配された。暫くの間、誰の目も月に吸寄せられ、誰も月の事しかいわない。
この中に、スイス人が何人か混じっていたのですが、彼らはこの状況を異様に感じて、一変したと思える一座の雰囲気(お月見の気分)が、どうしても理解出来ず、「今夜の月には何か異変があるのか」と、怪訝な顔付きで質問したというのです。
ここから、文章は日本的感性に言及されていきます。
お月見の晩に、伝統的な月の感じ方が、何処からともなく、ひょいと顔を出す。取るに足らぬ事ではない、私たちが確実に身体でつかんでいる文化とはそういうものだ。文化という生き物が、生き育って行く深い理由のうちには、計画的な飛躍や変異には、決して堪えられない何かが在るに違いない。
そして、
「意識的なものの考え方が変わっても、意識出来ぬものの感じ方は容易に変わらない」
「自分たちの感受性の質を変える自由のないのは、皮膚の色を変える自由がないのとよく似たところがある」
という所感へと続いていきます。
話が飛躍しますが、フランスの詩を音楽の力を借りながらも、日本語で表現しようとするシャンソンに関わる日々の作業は、こういう感性を包含しつつも、私のこれに向かうささやかな挑戦なのかもしれないと、ふと思いました。
音楽の持つ普遍性や、日本語=言語の持つ究極の力を信じて、明日のコンサートもベストを尽くすつもりです。
おまけのお話 お月見のダンゴ
一昨日届いた「ファム」のオーナーからのほっこりとするメールです。
兎が居る日本の月は独特で、中秋の名月。
私も早く色々と準備に取り掛かりたいのに、今日は月を愛でる日。こどもにせがまれお団子を作り、ススキを飾って呑気に外で食べておりました。
さぁ、今から頑張るとします。
私はお月見はしても、お月見ダンゴを作ったことありませんでした。
仕事に向かう時のきりっとした眼差しが印象的な彼女の、この感覚が、とても素敵だと思います。
明日、一緒にコンサート本番です。
コンサート前日となりました。
いつもより少しだけ口数が少なくなり、料理人が包丁を研ぐような気分で、身を正して、来るべき時を待つという心境に入り始めています。
緊張しますが、実は醍醐味満点の時間なのかもしれません。
「ファム&ウーボ20周年記念
松峰綾音訳詞コンサート『パリジェンヌの秋 ~femmes d’automne~』」
長いタイトルのコンサート、4月の『をみなごに花びらながれ』からしばらくぶりの本番に、何だか心が浮き立ちます。
セレクトショップ「ファム」の主催、コーディネートとあって、いつもとまた一味違ったテンポで、今日までの準備が進んできました。
全体にお洒落で、ファッションのお店ならではコンサートにしたいというこだわりが細部からも伝わってきて、私にはとても新鮮で、新たな発見も色々あったのです。
会場受付、ステージの装飾、衣装の雰囲気など、全てをトータルで考える雰囲気作り、視覚的にも楽しんで頂けることを狙っているのだと思われます。
詳細な打ち合わせをしてきたのですが、私も教えて頂けない「当日のお楽しみ!」がいくつかあるようで、いつも全てを自分で準備してきた私にとっては、包みを開ける時を待つような楽しい感覚です。
今回のコンサート、夏の終わりから秋への季節を背景として、曲の中にそれぞれの女性達の物語を描いて行こうというコンセプトですので、選曲にも色々工夫してみました。
パリジェンヌ、パリマダムのお洒落で飛び切りエスプリの効いた世界を表出できたら素敵だと。
そんなつもりで準備をしていると、すっかり自分がパリの街に居るような気がしてきて、一人芝居に没入していくような、うっとりと幸せな時間を過ごしています。
中秋の名月
一昨日の月はご覧になりましたか。
私は京都の自宅のベランダから、かなり長い時間吸い込まれるように眺めていました。煌々として美しい名月でしたね。

ヨーロッパなどではこんなに冴えた月の夜は、不吉で、何か悪いことが起こると恐れられてきたと聞きます。
名月を愛でて、思いを馳せ、そこに悠久の命を感じ取るなどという感覚は、独特な日本的な感性であるのでしょう。
評論家小林秀雄氏の『考えるヒント』の中に、『お月見』という小編があったのを思い出しました。
こんな書き出しです。
京都の嵯峨で月見の宴をしていた。もっとも月見の宴というような大袈裟なものではなく、集まって一杯やったのが、たまたま十五夜の夕であったというような事だったらしい。平素、月見などには全く無関心な若い会社員たちが多く、そういう若い人らしく賑やかに酒盛りが始まったが、話の合い間に、誰かが山の方に目を向けると、これに釣られて誰かの目も山の方に向く。月を待つ想いの誰の心にもあるのが、いわず語らずのうちに通じ合っている。やがて、山の端に月が上ると、一座は、期せずしてお月見の気分に支配された。暫くの間、誰の目も月に吸寄せられ、誰も月の事しかいわない。
この中に、スイス人が何人か混じっていたのですが、彼らはこの状況を異様に感じて、一変したと思える一座の雰囲気(お月見の気分)が、どうしても理解出来ず、「今夜の月には何か異変があるのか」と、怪訝な顔付きで質問したというのです。
ここから、文章は日本的感性に言及されていきます。
お月見の晩に、伝統的な月の感じ方が、何処からともなく、ひょいと顔を出す。取るに足らぬ事ではない、私たちが確実に身体でつかんでいる文化とはそういうものだ。文化という生き物が、生き育って行く深い理由のうちには、計画的な飛躍や変異には、決して堪えられない何かが在るに違いない。
そして、
「意識的なものの考え方が変わっても、意識出来ぬものの感じ方は容易に変わらない」
「自分たちの感受性の質を変える自由のないのは、皮膚の色を変える自由がないのとよく似たところがある」
という所感へと続いていきます。
話が飛躍しますが、フランスの詩を音楽の力を借りながらも、日本語で表現しようとするシャンソンに関わる日々の作業は、こういう感性を包含しつつも、私のこれに向かうささやかな挑戦なのかもしれないと、ふと思いました。
音楽の持つ普遍性や、日本語=言語の持つ究極の力を信じて、明日のコンサートもベストを尽くすつもりです。
おまけのお話 お月見のダンゴ
一昨日届いた「ファム」のオーナーからのほっこりとするメールです。
兎が居る日本の月は独特で、中秋の名月。
私も早く色々と準備に取り掛かりたいのに、今日は月を愛でる日。こどもにせがまれお団子を作り、ススキを飾って呑気に外で食べておりました。
さぁ、今から頑張るとします。
私はお月見はしても、お月見ダンゴを作ったことありませんでした。
仕事に向かう時のきりっとした眼差しが印象的な彼女の、この感覚が、とても素敵だと思います。
明日、一緒にコンサート本番です。


