
さて、前回、前々回に引き続きまして、<京の冬の旅 非公開文化財特別公開 観光バスの旅>、今回で最終回、今日は「東福寺 即宗院」を詳しくガイドしてみることにします。束の間の京都歴史探訪をお楽しみください。
その前に、まだお読みになっていらっしゃらない方は、「京の冬の旅」その一 序章、「京の冬の旅」 その二 幕末の足跡を先にご覧下さい。
「東福寺 即宗院」
<続く道>
2015年9月、もう2年半前となりましたが、「東福寺即宗院」主催の「採薪亭演奏会」に出演させて頂く機会を得ました。
(その折掲載したブログ記事1、ブログ記事2、はこちらです)
「採薪亭(さいしんてい)」とは、東福寺の塔頭(たっちゅう)、即宗院(そくしゅういん)の境内にあった茶亭(焼失して現存しない)で、西郷隆盛が新撰組や幕府の追っ手を逃れて参謀の隠れ家とした場所、月照上人と幕府転覆の密議を交わした庵でもあります。
これに因み、即宗院では、年に一度「採薪亭演奏会」という音楽会を開催なさっています。
私はこれまでに東福寺を何度か訪れているのですが、ただ、コンサート絡みの打ち合わせでしたので、この度、即宗院でも非公開文化財の特別公開があることを知り、改めてその史跡を味わってみたいと思ったのです。

「即宗院」に向かいます。
ガイドさんの旗の後を離れず歩き続けることに、いつの間にかすっかり慣れてきました。
三門に向かう足取りをふと止めて目を上げると、遠くに通天橋。
苔が青々と白塀に映え美しく続き、やがて東福寺境内へ。

広大な境内の北東側に「偃月橋(えんげつきょう)」が現れ、この橋を渡ると「即宗院」の山門です。

<即宗院 庭園・宝物>
室町時代に薩摩の大名・島津氏久の菩提を弔うために創建されたという東福寺の塔頭寺院「臥雲山(がうんざん) 即宗院」。
島津藩の菩提寺として、とりわけ幕末・維新の歴史に深い関わりを持ってきた寺院で、その史跡が今も多く残されています。

更に小門を進むと、端正な美しい庭園が開けます。
近衛家が御所の東御堂として建立し、その子である藤原兼実が、この地を山荘「月輪殿(つきのわどの)」と名づけた。
現在の即宗院の庭園は、その跡地であり、寝殿造系庭園の原型を留めた自然の景観のある庭園が昭和52年に、往時のまま復元された。
やはりここでもボランティアガイドの若い方たちが甲斐甲斐しくガイドを務めていましたが、いつもはお忙しくてなかなかお話を伺うことが出来ないという、前ご住職がこの日はお出ましになり、軽妙でわかりやすい語り口の中に、寺院の歴史、幕末の群像との関わり合いを詳しく説明して下さいました。
その中に、さりげなく織り込まれ、語られる法話が、しみじみと心に沁み入り、心地よい余韻が残りました。
自然を生かしながらも端正に設えられた庭園にどこか懐かしい温かみを感じましたが、4000坪もあるというこのお庭の手入れは庭師を入れず、殆どをご自身でなさっていらっしゃるとのこと。

『若い頃、師匠である先代の住職に修行の極意を尋ねたところ、「何も考えず、ただ庭の手入れだけをしていればよい」と言われた。何のことだか充分に理解しないままに何十年間その教えを守ってきて、今ようやく「自然の中にある」意味が分かってきたところなのです』と静かに語られていたのが印象的でした。
お話を伺いながら、<晴耕雨読、花鳥風月に心を寄せる生活の如何に芳醇であるか>が思われました。
本堂では島津家ゆかりの品々、篤姫が将軍家輿入れの際に立ち寄り使用した火鉢等々、また、勝海舟が譲り受けたという西郷直筆の掛け軸や、西郷の座右の銘『敬天愛人』と記された書、慶喜自筆の掛け軸など、貴重な宝物が特別展示されていました。
西郷の憂国の思い、同朋への愛、海舟との通じ合う絆、篤姫の心情、慶喜が置かれた立場と生き方・・・・和尚様が語られる一つ一つの品の由緒は、幕末の群像それぞれの生き方や思いを映し出す生き証人のようであり、この日一日、訪れた寺社の映像と重ね合わさって、この時代の息使いが聴こえてくるような気がしました。
<東征戦亡の碑>
慶応4年の鳥羽伏見の戦いでは、西郷はここを薩摩軍の屯所とし、裏山に砲列を敷いて、幕府軍に砲撃を加えたという。
更に、明治維新で戦死した霊を供養するため、明治2年には、「薩摩藩士東征戦亡の碑」を建立した。
塔頭を出て、裏山の山頂に向かいます。
砲撃は京都を攻撃するためではなく、洛中に大砲の音を響かせて脅すための示威行為だったといわれています。

嘗て、茶亭「採薪亭」があったのは裏山に向かうこの辺り。
今でも狸 猿、猪が出没すると聞きましたので、当時はどんなにか寂しい場所だったか、でも、隠れ家には最適だったことが頷けます。

急な石段をひたすら登り、「東征戦亡の碑」に辿り着きました。
鳥羽伏見の戦いや戊辰の戦闘で戦死した524名の薩摩藩士の霊を供養するため、西郷は半年ほど斎戒沐浴を行い、戦死者の名前を揮毫し、自筆の「東征戦亡の碑」を建立した。
西郷の弟の吉二郎や西郷の縁者の名もある。正面の碑は西郷の自筆で、薩摩から出て大政奉還までの足跡が書かれている。

苗字のない下級の兵隊の名前まで一人一人漏らすことなく、西郷自身の手で名を刻んだのだそうです。
全部で5機設置されており、全てが故郷の鹿児島に向いて、西向きに置かれてあります。

「西郷隆盛謹書」と読み取れますね。
・・・・・・
こうして、この日の観光バスツアーは終わりを告げたのでした。
西郷隆盛を中心とした幕末追体験の小旅行、三回に渡る長い記事になってしまいましたが、楽しんで頂けたでしょうか。
実は西郷隆盛と京都との縁はこれに留まらず、彼が奄美大島に遠島になった時、結ばれた妻との間に設けた息子、菊次郎が、長じて父とともに西南戦争に従軍し、父亡きあと、1904年、第2代の京都市長に就いているのです。
第二琵琶湖疏水の建設、上水道の建設、道路拡築、市電敷設という大事業に取り組み、京都の近代化に貢献した立志伝中の人物で、京都の近代化のリーダーとなったのです。
・・・・・・・
生活しているとつい見逃しがちになってしまいますが、京都は歴史の宝庫、折に触れ、これからもっと興味を広げて様々な散策をしてみたいと思います。
心の風景もきっと広がってゆきますよね。
そして、今年9月23日には、2015年に続いて再び「採薪亭演奏会」に出演致します。
最善を尽くしますので、あと半年後、どうぞ皆様お越しくださいますように。
その前に、まだお読みになっていらっしゃらない方は、「京の冬の旅」その一 序章、「京の冬の旅」 その二 幕末の足跡を先にご覧下さい。
「東福寺 即宗院」
<続く道>
2015年9月、もう2年半前となりましたが、「東福寺即宗院」主催の「採薪亭演奏会」に出演させて頂く機会を得ました。
(その折掲載したブログ記事1、ブログ記事2、はこちらです)
「採薪亭(さいしんてい)」とは、東福寺の塔頭(たっちゅう)、即宗院(そくしゅういん)の境内にあった茶亭(焼失して現存しない)で、西郷隆盛が新撰組や幕府の追っ手を逃れて参謀の隠れ家とした場所、月照上人と幕府転覆の密議を交わした庵でもあります。
これに因み、即宗院では、年に一度「採薪亭演奏会」という音楽会を開催なさっています。
私はこれまでに東福寺を何度か訪れているのですが、ただ、コンサート絡みの打ち合わせでしたので、この度、即宗院でも非公開文化財の特別公開があることを知り、改めてその史跡を味わってみたいと思ったのです。

「即宗院」に向かいます。
ガイドさんの旗の後を離れず歩き続けることに、いつの間にかすっかり慣れてきました。
三門に向かう足取りをふと止めて目を上げると、遠くに通天橋。
苔が青々と白塀に映え美しく続き、やがて東福寺境内へ。


広大な境内の北東側に「偃月橋(えんげつきょう)」が現れ、この橋を渡ると「即宗院」の山門です。


<即宗院 庭園・宝物>
室町時代に薩摩の大名・島津氏久の菩提を弔うために創建されたという東福寺の塔頭寺院「臥雲山(がうんざん) 即宗院」。
島津藩の菩提寺として、とりわけ幕末・維新の歴史に深い関わりを持ってきた寺院で、その史跡が今も多く残されています。

更に小門を進むと、端正な美しい庭園が開けます。
近衛家が御所の東御堂として建立し、その子である藤原兼実が、この地を山荘「月輪殿(つきのわどの)」と名づけた。
現在の即宗院の庭園は、その跡地であり、寝殿造系庭園の原型を留めた自然の景観のある庭園が昭和52年に、往時のまま復元された。
やはりここでもボランティアガイドの若い方たちが甲斐甲斐しくガイドを務めていましたが、いつもはお忙しくてなかなかお話を伺うことが出来ないという、前ご住職がこの日はお出ましになり、軽妙でわかりやすい語り口の中に、寺院の歴史、幕末の群像との関わり合いを詳しく説明して下さいました。
その中に、さりげなく織り込まれ、語られる法話が、しみじみと心に沁み入り、心地よい余韻が残りました。
自然を生かしながらも端正に設えられた庭園にどこか懐かしい温かみを感じましたが、4000坪もあるというこのお庭の手入れは庭師を入れず、殆どをご自身でなさっていらっしゃるとのこと。

『若い頃、師匠である先代の住職に修行の極意を尋ねたところ、「何も考えず、ただ庭の手入れだけをしていればよい」と言われた。何のことだか充分に理解しないままに何十年間その教えを守ってきて、今ようやく「自然の中にある」意味が分かってきたところなのです』と静かに語られていたのが印象的でした。
お話を伺いながら、<晴耕雨読、花鳥風月に心を寄せる生活の如何に芳醇であるか>が思われました。
本堂では島津家ゆかりの品々、篤姫が将軍家輿入れの際に立ち寄り使用した火鉢等々、また、勝海舟が譲り受けたという西郷直筆の掛け軸や、西郷の座右の銘『敬天愛人』と記された書、慶喜自筆の掛け軸など、貴重な宝物が特別展示されていました。
西郷の憂国の思い、同朋への愛、海舟との通じ合う絆、篤姫の心情、慶喜が置かれた立場と生き方・・・・和尚様が語られる一つ一つの品の由緒は、幕末の群像それぞれの生き方や思いを映し出す生き証人のようであり、この日一日、訪れた寺社の映像と重ね合わさって、この時代の息使いが聴こえてくるような気がしました。
<東征戦亡の碑>
慶応4年の鳥羽伏見の戦いでは、西郷はここを薩摩軍の屯所とし、裏山に砲列を敷いて、幕府軍に砲撃を加えたという。
更に、明治維新で戦死した霊を供養するため、明治2年には、「薩摩藩士東征戦亡の碑」を建立した。
塔頭を出て、裏山の山頂に向かいます。
砲撃は京都を攻撃するためではなく、洛中に大砲の音を響かせて脅すための示威行為だったといわれています。

嘗て、茶亭「採薪亭」があったのは裏山に向かうこの辺り。
今でも狸 猿、猪が出没すると聞きましたので、当時はどんなにか寂しい場所だったか、でも、隠れ家には最適だったことが頷けます。

急な石段をひたすら登り、「東征戦亡の碑」に辿り着きました。
鳥羽伏見の戦いや戊辰の戦闘で戦死した524名の薩摩藩士の霊を供養するため、西郷は半年ほど斎戒沐浴を行い、戦死者の名前を揮毫し、自筆の「東征戦亡の碑」を建立した。
西郷の弟の吉二郎や西郷の縁者の名もある。正面の碑は西郷の自筆で、薩摩から出て大政奉還までの足跡が書かれている。

苗字のない下級の兵隊の名前まで一人一人漏らすことなく、西郷自身の手で名を刻んだのだそうです。
全部で5機設置されており、全てが故郷の鹿児島に向いて、西向きに置かれてあります。

「西郷隆盛謹書」と読み取れますね。
・・・・・・
こうして、この日の観光バスツアーは終わりを告げたのでした。
西郷隆盛を中心とした幕末追体験の小旅行、三回に渡る長い記事になってしまいましたが、楽しんで頂けたでしょうか。
実は西郷隆盛と京都との縁はこれに留まらず、彼が奄美大島に遠島になった時、結ばれた妻との間に設けた息子、菊次郎が、長じて父とともに西南戦争に従軍し、父亡きあと、1904年、第2代の京都市長に就いているのです。
第二琵琶湖疏水の建設、上水道の建設、道路拡築、市電敷設という大事業に取り組み、京都の近代化に貢献した立志伝中の人物で、京都の近代化のリーダーとなったのです。
・・・・・・・
生活しているとつい見逃しがちになってしまいますが、京都は歴史の宝庫、折に触れ、これからもっと興味を広げて様々な散策をしてみたいと思います。
心の風景もきっと広がってゆきますよね。
そして、今年9月23日には、2015年に続いて再び「採薪亭演奏会」に出演致します。
最善を尽くしますので、あと半年後、どうぞ皆様お越しくださいますように。


