
4月7日(土)、『綾音・達人夜話』第一夜、お陰様で無事終了致しました。
ゲストとの対談の中で生れるものもとても刺激的で、私自身学ばせて頂くことが多くあったひと時でした。
町家の風情
高瀬川沿いにあるアートギャラリー四季AIR、「ご自由にお入りください」の文字の横に貼られた「綾音・達人夜話」のポスターです。

この日は「見立て展」という別の企画が催されていて、この開館時間が17時まで、その後を引き継ぐように、私の講演は18時からのスタートでした。
少し早めに到着して二階に上がってみました。

「見立て展」の作品が、まだそのまま窓際に飾られてあり、窓の外には柔らかい緑の葉に代わろうとしている桜の木々が美しく映っています。
穏やかな時間、眼下に高瀬川のせせらぎがかすかに聴こえて、静かな町家に、春が流れます。

一階に下りるとお顔馴染みのお客様が既にいらしていました。
神戸からいち早く駆けつけて下さったのですね。
いつものコンサートと違う今日の企画を楽しんでいただけるでしょうか。
窓の外、皆様が注目しているのはつがいの鴨、人慣れしているようで、すぐ傍の縁先に平気で近づいてきました。

ライトアップのための照明器具に桜の一枝が掛かっていました。
これも行く春の風情ですね。

連日の花粉症のダメージと、このところ重なったデスクワークとで、少し目が腫れていますね。気持ちは充実してとても張り切っていましたのに、「お疲れですか」と声を掛けられてしまい、こんなことではいけないと猛省。
作品用のライトの下にいるのに、作品としては今一つだった私です。
第一夜 「日本語で紡ぐ」
『綾音・達人夜話』のシリーズを通してのメインタイトルは「ことばを超えるもの・・・シャンソン・哲学・文学・芸術」
初めは、「シャンソンって何?」というテーマで、フランスのシャンソンの草創期、そして和製シャンソンの誕生の歴史など、シャンソンの基本的な理解からお話を始めました。
その上で、ゲストであるデカルト研究者の山田弘明先生に、フランス音楽、特にシャンソンとの出会いや、フランス的感性をどうご覧になるかなどを伺った後、この日の中心テーマである「翻訳すること」の話題に入りました。
先生は、 「愛の賛歌」などに見る、フランス人の感情の流露の率直さなどに触れられた上で、
「翻訳は解釈に過ぎない。およそ翻訳などは正確にはできない。ましてや詩の翻訳はニュアンスが異なるので翻訳は不可能なことである。」
という敢然とした切り口で第一声。
そして更に
「これは言葉の翻訳のみならず、人と人とのコミュニケーションというレベルで考えても、厳密な意味で言葉が通じ合うということはあり得ない」
という問題を提起されました。
ハードルの高いスタートラインが敷かれ、その中で「ではそれでも何故敢えて、翻訳するのか」という命題を解きほぐしていくことになったのですが、とてもチャレンジングで楽しい時間でした。
私としては「詩と哲学の翻訳の差異」「解釈するのでなく感覚を再現すること」等々、色々な側面から言及してゆくこととなり・・・そういう起爆剤をセッティングして下さったことこそ、対談の醍醐味でもあり、さすがだと敬服した次第です。
ただ、90分という限られた時間の中で、まだお話足りなかったことも多く、夜更くるまでという気分でもありました。
でもそうやって終えることができたのは、ある意味では成功だったのかもしれませんね。
結論を導き出すことではなく、これをきっかけとして「ことばを超えるもの」「日本語で紡ぐ」ことを、何か問いかけられたなら嬉しいです。
皆様も同じように感じて下さったようで、最後の質疑応答でも、また打ち上げのワインパーティーにも殆ど全員残られて、質問や感想など、熱くそして和気藹々と、各自の翻訳論など繰り広げられました。
『お茶の時間』、『街』の二曲を、「翻訳の方法」の具体例として、全曲通して歌ってみました。
ノーマイクで、簡便なCD機器でピアノ伴奏の録音を流すという方法でしたが、でも小さな画廊の中に歌が沁み通り、またいつもとは違ったしみじみとした余韻があったような気がします。
このような良い機会を頂けましたことを幸せに思っていますし、お越し下さいました皆様に心から感謝申し上げます。
この後三回続く「綾音・達人夜話」。
次回は、7月21日(土)、「 シャンソンと演劇・・・ミュージカル・オペラ・バレエ 」というテーマで。
そして三回目は11月4日(土)「 シャンソンに見るフランスとアメリカ そして日本 」と続きます。
今回の経験を生かして、より楽しく充実したものにして行きたいと思いますので、どうぞ皆様是非お運びになって下さいね。
今からお申込み受付を開始します。
ゲストとの対談の中で生れるものもとても刺激的で、私自身学ばせて頂くことが多くあったひと時でした。
町家の風情
高瀬川沿いにあるアートギャラリー四季AIR、「ご自由にお入りください」の文字の横に貼られた「綾音・達人夜話」のポスターです。


この日は「見立て展」という別の企画が催されていて、この開館時間が17時まで、その後を引き継ぐように、私の講演は18時からのスタートでした。
少し早めに到着して二階に上がってみました。

「見立て展」の作品が、まだそのまま窓際に飾られてあり、窓の外には柔らかい緑の葉に代わろうとしている桜の木々が美しく映っています。
穏やかな時間、眼下に高瀬川のせせらぎがかすかに聴こえて、静かな町家に、春が流れます。

一階に下りるとお顔馴染みのお客様が既にいらしていました。
神戸からいち早く駆けつけて下さったのですね。
いつものコンサートと違う今日の企画を楽しんでいただけるでしょうか。
窓の外、皆様が注目しているのはつがいの鴨、人慣れしているようで、すぐ傍の縁先に平気で近づいてきました。


ライトアップのための照明器具に桜の一枝が掛かっていました。
これも行く春の風情ですね。

連日の花粉症のダメージと、このところ重なったデスクワークとで、少し目が腫れていますね。気持ちは充実してとても張り切っていましたのに、「お疲れですか」と声を掛けられてしまい、こんなことではいけないと猛省。
作品用のライトの下にいるのに、作品としては今一つだった私です。
第一夜 「日本語で紡ぐ」
『綾音・達人夜話』のシリーズを通してのメインタイトルは「ことばを超えるもの・・・シャンソン・哲学・文学・芸術」
初めは、「シャンソンって何?」というテーマで、フランスのシャンソンの草創期、そして和製シャンソンの誕生の歴史など、シャンソンの基本的な理解からお話を始めました。
その上で、ゲストであるデカルト研究者の山田弘明先生に、フランス音楽、特にシャンソンとの出会いや、フランス的感性をどうご覧になるかなどを伺った後、この日の中心テーマである「翻訳すること」の話題に入りました。
先生は、 「愛の賛歌」などに見る、フランス人の感情の流露の率直さなどに触れられた上で、
「翻訳は解釈に過ぎない。およそ翻訳などは正確にはできない。ましてや詩の翻訳はニュアンスが異なるので翻訳は不可能なことである。」
という敢然とした切り口で第一声。
そして更に
「これは言葉の翻訳のみならず、人と人とのコミュニケーションというレベルで考えても、厳密な意味で言葉が通じ合うということはあり得ない」
という問題を提起されました。
ハードルの高いスタートラインが敷かれ、その中で「ではそれでも何故敢えて、翻訳するのか」という命題を解きほぐしていくことになったのですが、とてもチャレンジングで楽しい時間でした。
私としては「詩と哲学の翻訳の差異」「解釈するのでなく感覚を再現すること」等々、色々な側面から言及してゆくこととなり・・・そういう起爆剤をセッティングして下さったことこそ、対談の醍醐味でもあり、さすがだと敬服した次第です。
ただ、90分という限られた時間の中で、まだお話足りなかったことも多く、夜更くるまでという気分でもありました。
でもそうやって終えることができたのは、ある意味では成功だったのかもしれませんね。
結論を導き出すことではなく、これをきっかけとして「ことばを超えるもの」「日本語で紡ぐ」ことを、何か問いかけられたなら嬉しいです。
皆様も同じように感じて下さったようで、最後の質疑応答でも、また打ち上げのワインパーティーにも殆ど全員残られて、質問や感想など、熱くそして和気藹々と、各自の翻訳論など繰り広げられました。
『お茶の時間』、『街』の二曲を、「翻訳の方法」の具体例として、全曲通して歌ってみました。
ノーマイクで、簡便なCD機器でピアノ伴奏の録音を流すという方法でしたが、でも小さな画廊の中に歌が沁み通り、またいつもとは違ったしみじみとした余韻があったような気がします。
このような良い機会を頂けましたことを幸せに思っていますし、お越し下さいました皆様に心から感謝申し上げます。
この後三回続く「綾音・達人夜話」。
次回は、7月21日(土)、「 シャンソンと演劇・・・ミュージカル・オペラ・バレエ 」というテーマで。
そして三回目は11月4日(土)「 シャンソンに見るフランスとアメリカ そして日本 」と続きます。
今回の経験を生かして、より楽しく充実したものにして行きたいと思いますので、どうぞ皆様是非お運びになって下さいね。
今からお申込み受付を開始します。


